いのちの養分

植物たちや動物たちをはじめ、すべての生き物たちは養分をいただいて成長していきます。その養分は地球でいえば自然の恩恵をいただいていのちを分け与えて活かされています。しかしこの自然の養分と別にもう一つ大切な養分があると思うのです。

それは愛のことです。

人間は、愛という養分をいただくことでいのちをいただくことができます。その愛は、慈悲ともいいますが思いやることによって育っていくのです。

例えば、誰かが育つとき、厳しいかとか甘いかとか、環境がいいかどうかとか色々と議論されますが実際はもっとその手前にある大前提に「愛」があるかないかの方が重要になります。

愛がしっかりと入っているのであれば、厳しくても甘くても育ちます。また環境のせいではなく、思いやりがあるかどうかの方がよほど人間が育つには大切なことです。

いのちの子育てというものを思うとき、すべての生き物たちは「愛」を与えます。愛が不足すれば、いのちの育ちが悪くなるのは明白です。人は何かを食べなければ生きていけないように、人は愛がなければ生きてはいけません。そしてこの愛とは「いのちの養分」なのです。

愛のある環境こそが、本来の育つ環境であり、愛がなければどんなに仕組みがあったとしても生き物たちは育ちません。愛情をかけるというのは、熱量もそしてストレスも、忍耐も、信じることも必要ですがそれがすべていのちの養分になって周りの成長を助けてくれるのです。

もしも相手が自分だったらと相手の苦労を親身になるのも愛です。

もしも相手が初心を忘れて間違っていると思って厳しく諫言するのも愛です。

もしも相手が孤独でつらそうなとき心寄り添って味方になることも愛です。

もしも相手が信じられなくなりそうなときに最期まで信じきることも愛です。

いのちはこの愛の養分を得て、成長して自立していきます。私たちが取り組む会社の実践や保育は、この愛や思いやりを「つなぐ」ところこそ本業ともいえます。何をする会社なのか、自分の何を使って誰かのお役に立つのか、これは大切な自問自答です。

引き続き、子どもたちの仕合せが未来永劫に循環するように愛がめぐるような生き方を譲り遺していきたいと思います。

自分を遣り切る意味

日々の自分の直観やご縁を信じて歩み、その意味を深めていくことはルーツを辿ることです。その理由は、真理として人間は因果律の中で様々な体験をしていくものだからです。因果の法則に従って、自分が何かをすればその原因が必ず結果を生む、そしてその結果がまた次の原因になるというように永遠に因果は巡ります。

このご縁の鎖は途切れることはなく、今まですべてつながり合ったままに存在しています。自分が生きているということは、先祖の血が流れているということでありそれまでどのように先祖が生きてきたか、つまりは原因を創ってきた結果を受けて生きているのです。

その結果とは、自分の体験することのことです。この体験の意味を深めていくほど、なぜこんなことが起きるのだろうか、この体験は何だったのだろうかと直観すると先祖の中でこういうことがあったのではないか、もしかしたらあの原因がこの結果になっているのではないか、そして私が創る結果が未来への新たな原因になっているのではないかと思いを馳せるのです。

私たちはつい自分に起きたことは自分の人生の範囲だけのことだと思い込んでしまいますが、実際に自分に起きることはその原因はもっと過去につながっていることであり、そしてこれから起きることも実際は今がつながって発生してくるのです。

例えば、何かをしようとするときには様々な出会いがあります。ある人は支援をしてまたある人は邪魔をする、しかしそれは過去のつながりから発生して出会うこともあるのです。また今出会っている人への行いで未来が変わっていくこともあるのです。徳を積んでいればその徳や恩によって周りがその人を手伝おうとしますし、それを使い切ってしまうようなことをすれば同様に仇になることもあります。恩も仇もご縁ですが結ばれていく内容が変化していくのです。

また先祖の遺徳を辿る生き方をする素直な人は、その遺徳が輝き先祖がもっとも託したい志や願いを叶えるために今世で使われていきます。私たちの先祖は死んでいますが、魂は死ぬことなく血の中で今の自分の方向性やご縁を導いていくようにも感じるのです。

選ばないというのは、先祖への恩徳感謝を忘れずにご縁を大切にして一期一会に生きていくということです。そしてルーツを辿り、先祖の生き方を学び今の時代にその生き方を活かしていくことです。

親祖が臨んだ生き方が連綿と連鎖し、全体として一つの芸術のように歴史を創造します。その歴史の一部として私たちは存在しながら親祖の物語をつなげていくのです。親祖が原因であり、私たち子孫はその結果なのです。

親祖の初心が何だったのか、それを知るのが今の私たちが生きている人生の体験です。人生の体験を通して私たちは親祖の初心を思い出し、それを実現するために生きるのでしょう。

引き続き子どもたちのために、ルーツを辿る選ばない生き方を貫き子孫たちが純度の高い物語を受け継いでいけるように自分を遣り切っていきたいと思います。

謙虚の入り口

人は御蔭様に感謝して足るを知れば、自分に与えられているものに気づくものです。そして自分を認めることができてはじめて謙虚の入り口に立つことができるように思います。

自分というものを受け容れるとき、謙虚に近づきます。しかし実際は、自分のことを認めずそのことから自信がなくなり謙虚とは程遠い高慢な態度をとってしまうものです。そうなるとプライド合戦がはじまり人間関係に支障をきたしていきます。自分のないところやできないところばかりを見ては、自分に対してマイナスな頑張りを続ければ続けるほど傲慢さが増していくのです。

自分自身のありのままを認めないという考え方は、自分の思っていた理想ではないことへの苛立ちや周りの期待に応えられないことへの不満もあるのかもしれません。しかし、自分のないものねだりをするばかりに自信を失いかえって周りの人たちの自信を奪い、さらには人間関係そのものを壊すような人になってしまっては本末転倒です。

本来は自分というものは天から与えられた欠けることが一つもない完全な存在であると認めることが自信の本質です。自分のままでいい、あるがままでいいというのは天から与えられた個性や才能を認めるということです。ここで認めることがなければ、周りも「あなたはいったい何様なのか?!」と思うでしょうし、その人の高慢で傲慢なプライドが増長し復讐心にまで高まると同時により一層自分自身ことを嫌悪して負の悪循環に陥るのです。

人間は生まれてすぐの純粋な子どもたちのように差別なく自他のあるがままを認めることができるとき、人は自他をゆるすことができます。このゆるしとは、誰も責めることがなく感謝で思いやることができているということです。一緒に生きていく人たちが、他人のことをどうこうするまえに自分自身をそれぞれで認める努力をし、その延長線上に周囲と認め合えばお互いに仕合せになれるように思います。

それに何かあるごとに当たり前の存在である水はダメだとか太陽はダメだとか、空気がダメだとか地球がダメだとか言ってそのものの存在を認めない人はいないと思います。この世にあるすべてのどれも必要な存在だと差別せずに受け容れることですべてを認めることができます。

私たちの日本の先祖はそれを八百万の神々として大切に尊重し合って暮らしてきました。それが和を尊ぶという意味です。

人間関係も同じく、お互いにこの世に必要な存在であることを自覚するのならその人のままがいいと思えるのではないかと思います。

謙虚の「謙」の字は、自然のままという意味です。善悪正否もそこにはなく、自然の姿、あるがままを認める人だけが宇宙万物一体全とつながる一つの存在になれるように私は思います。それが私が目指す自然体の姿そのものです。

簡単にはいきませんが、何か事あるごとに「これだではダメだ」という意識ではなく、「天がそうしてくださったのだからきっとこれでいい」と丸ごと信じることでゆるされた存在であれるように思います。

引き続き、足るを知り、御蔭様や感謝の気持ちを忘れずに人を自分の定規で裁かず、きっと何かその人にしかできない大切な使命があるのだろうと聴福人の実践と福徳を積み重ねていきたいと思います。

自分が変われないとトラウマを抱え心を痛め苦しんでいる人たちのためにも、自分自身が誰よりも丹精を籠めて素直な心を磨いていきたいと思います。

安心運転、安心社會

何かの問題がトラブルが発生するとき、人はその問題やトラブルを何かのせいにしようとするものです。それが例えば環境のせいであったり、誰かのせいであったり、会社のせいや家庭のせいなど、何かのせいにしてしまいます。

実際にそのことを深く見つめて、何のメッセージだろうかと受け取ってみるとそれはほとんど自分の内面の問題であることが分かるものです。自分の内面の心やものごとの観方を転じない限り、それはいつも誰かのせいや何かのせいになってしまいます。

確かに環境を変えたり仕組みを変えることは大切ですが、その大前提に自分のものの見方を変えていないと環境のせいや仕組みのせいになってしまうかもしれないのです。

自分の価値観で自分が観ている世界が自分の置かれた世界であり、その世界の問題は自分が問題にしてしまうことで問題となります。人は観方によってそれを問題と観たり、チャンスと観たり、それはその人の心の状態に由って変わってきます。

心は車の運転と同じようにその人の癖が出てきます。ある人はスピードを出し過ぎたり、ある人は周りを見ずに暴走したり、またある人は自分で運転しようとしなかったり、またある人はクラクションばかり鳴らしたり、またある人は自信なさそうにノロノロ走ったり、その運転には癖があります。

この車の運転はまるで心の運転と同じようにその人の生き方の癖があるのだからそれを気を付けて練習を繰り返して心の運転を上手になっていくしかないのです。スピードを気を付けて安全運転をしたり、周りをよく見て確認したり、自分で苦手な縦列駐車を何度も練習してみたり、クラクションを鳴らさず譲ったり見守ったり、自信をつけたり、運転を通して生き方を磨く必要があります。

問題やトラブルは、自分の心の運転から発生することですから自分の心の状態を見つめ、生き方を省みて捉え方や観方を転じて行動していくことで問題やトラブルが意味があることになり本質的に自分を素直に成長していくことができるのです。

いつまでも誰かのせいや何かのせいにしていたら、停滞が続くだけで自分の観方の方だとは気づかなくなります。相手が変わるわけではなく、自分の心が変わったから相手が変わるのであり相手は変わることはありません。

相手を変えたいのなら自分を変える、世界を変えたいのなら自分が変わる、会社を変えたいのなら自分が変わると、変わることを楽しんでいく方が誰かや何かのせいにして煩悶するよりも心が穏やかになっていくものです。

心のコントロールをするためには、自分に矢印を向けてこれは観方を変えるチャンスであり、自分がもう一つ場を移す岐路だと肯定的に感じて、素直に自分の方を変えてみようと取り組むことで安心運転ができるように思います。

誰かのせいや何かのせいは、自分は変わらないから周りに変われと無言で強要していく行為です。世界は自分が主体的に創造していることを自覚し、自分が世界をよりよくしようと自分の観方を変えて世界をより楽しく美しくしていけば社會は調和して一人ひとりみんなが輝く世界になると思います。

理念や初心のせいにするような貧しい心ではなく、理念や初心の御蔭で自分の方を変えることができたという豊かな心をもって子どもたちに見守り合う安心社會を切り拓いていきたいと思います。

伝統美の面白さ

昨日は新潟県十日町で古民家再生に取り組んでいるカールベンクス氏とお会いするご縁がありました。25年前にこの土地に移住してから現在までに50棟ほどの古民家を再生しており、カールベンクス氏が住む村には今ではたくさんの若い方々が同様に移住してきて奇跡の村と呼ばれています。

「日本の木造建築は世界一である」と語られこのような文化が失われていくのは何よりも残念であるといい、職人さんにとっても子どもたちにとっても絶やしてはいけないと仰られておられました。

本来は日本人の子孫である私たちが語るはずであろう言葉を、ドイツ人の方から直に聴くと目が覚める気持ちになります。

例えば、「日本人がドイツにいけばその土地に古い町並みや懐かしい風景を感じにいくのになぜ日本人は自分の国のそういうところに興味がないのか」という言葉であったり、「ドイツには昔から古い建物は壊してはいけないという法律がある、その法律によって子どもの頃から古民家は貴重なものであるという認識をみんな持っている」ということなどまさに何が本当の価値なのかを気づかせてもらう言葉ばかりです。

現代建築の日本の住宅はプレカット方式といって機械によって加工しやすいため外材を用い木材を人間の手を使わずにカットしていきます。大工さんは昔ながらの手仕事はほとんど必要なく、まるでプラモデルを組み立てるようにトタンや合板で効率よく作業していきます。このような仕事をしているうちに日本の大工さんの技術も心も伝統も失われていくことを嘆いておられました。世界一の木造建築を建てる心と技術と伝統を自分たちから捨てていき、古いものを壊して便利な新しいものばかりを建てようとするのは設計士たちの欲がやることであるとし「本来、家は財宝なのだからいつまでも大切にしなければならない」という言葉に徳の人柄と思いやりを感じました。

カールベンクス氏の設計された建物を具体的に見学すると、ドイツ人の感性で自由に古い日本の材料を用いて古民家を再生しておられました。現代人が住みやすいように断熱を工夫し、断熱に必要な窓や暖炉などはドイツから輸入しておられました。新築を建てるよりも古いものを用いた方が本来は費用がかからないといい、創意工夫をして扉を本棚にしたり、そこにもともとあった古材料や道具を別のものに見立てて家の改修やデザインに活用されていました。

家全体が昔からある日本の古い懐かしいものを活かしながらデザイン全体を楽しんでいるようにも観え、まるで「ドイツの伝統が日本に馴染んでいるような感覚」に新鮮さを感じました。一言でいえばそこは「ドイツ人の美意識が創造する日本の風土を取り入れた古民家」でした。

お互いの善いところを引き出し、持ち味を活かし新しい美意識を創造するというのは芸術そのものです。今まで設計やデザインというものを知りませんでしたが、カールベンクス氏の生き方を拝見することによって「伝統美の面白さ」を学び直した気がします。

未来の子どもたちの心に、大切な日本の心が遺せるように自由に伝統美の表現を楽しみ遺っている文化を上手に活かし和合させ復古起新していきたいと思います。

ありがとうございました。

 

心を磨く人

先日、久しぶりに那覇にある沖縄教育出版社を訪問するご縁がありました。社内はとても落ち着いていて居心地の善い空気が流れていました。「一人ひとりが輝く経営」を理念に掲げ、それぞれが心を寄せながら個性を発揮して働く姿に平和を感じます。

沖縄に行くと特に「平和」への祈りを感じますが、会社を経営しながら自分たちの生き方を磨き平和に貢献するために様々な実践に取り組む社風には学ばせていただくことばかりです。

特に印象に残ったのは、社内で最も高齢(75歳)で今も最前線でご活躍の方の御話しをお聴きしたことでした。その方は、以前会社で発刊されている新聞で紹介されており知っていたのですがお話を聴いて徳の高さを実感しました。

人は学ぶ意欲があることは素直さの顕れでもあります。素直であるからこそ学びたいと思うのであり、一生涯学びたいという心をもっている人は働く仕合せを感じている人だと感じます。

人間は周りからどう思われるかや評価されるかを基準にして選択肢ばかりを求めていたら今に生きることができません。今に生きることこそ素直な姿であり、今与えられていることに一所懸命に学んでいれば自ずから自分に与えられた使命を感じて仕合せを得られるからです。

心の健康というものは、生き方を直すことであり生き方を正すことです。正直ともいいますが、自他に正直に心を開いて素直に学んでいる人は謙虚であり成長を已めません。それは年齢の問題ではなく、生き方の問題だということの証明なのです。

私たちの沖縄に来た理由とそのお仕事の内容の話をすると、「沖縄を創りに来てくださったのですね、ありがとうございます」と御礼を仰られました。その視点や観点にも徳を感じますが、それよりも真摯に日々の実践に取り組んでおられる姿勢そのものを拝見し私自身まだまだ精進しなければと恥ずかしい思いになりました。

何かをやったからや何かをやるからいいのではなく、誰が見ていようが見ていまいが自分の本分に正直取り組んでいく、心を磨いていくその生き方そのものが美しいと思うからです。

沖縄教育出版社には心を磨く風土文化が育っており、存在自体に有難さを感じました。私たちの会社は魂を磨く風土文化ですが、心と魂を切磋琢磨させていただけるご縁に感謝し、私たちも迷わずに子ども第一義の理念を省みて子どもたちの未来のために仲間と一緒に一期一会の作品を育てていきたいと思います。

ありがとうございました。

縄の智慧

むかしから歴史を紐解けば社會というものはみんなで創るものであるという感覚がありました。自分だけで生きることはできないのだから、自分の居場所はみんなで創っていくという具合に社會をみんなで育てていきました。

現代は、社會だけではなく小さな組織でさえ自分さえよければいいと自分のことを主張してはかえって社會を崩して希薄している風潮もあります。自分が所属するこの社會を善くしていきたい、もっとみんなが居心地が善い環境になるように自分を活かしていきたいと思う、人間として当たり前の仕合せが忙しさと共に消失してきています。

人類は太古のむかしより社會を形成してみんなでお互いを見守り合いながらお互いの一生を充実させていきました。そして人類は助け合い思いやることで自然環境の中で今まで生き延びてきて、一緒に協働することで考えられないような大きな力を発揮してきました。それができたのは、みんなの居場所を用意し居心地が善い場をみんなで育ててそれが永続するように見守る「結び」の智慧を使ってきたからです。

現代はその結びつきが次第に解かれて、それぞれがバラバラになってきているように思います。歪んだ個人主義は人々を孤立させ、孤独にします。その穴を埋めるのをお金で行うことでより断裂は進んでいきます。

例えば「縄」を観てすぐにわかると思いますが、小さな糸も多くの糸と結びつき絡まり合いそして強く大きくしなやかな切れることのない縄になっていきます。出雲大社にあるしめ縄のように私たちは古来からその縄を結び続けて大切にしてきた民族です。

この「縄」は、「社會」のことを示すように私は思います。

縄をどのように結んでいくか、その結びつきや結び方にこそ民族の生き方がありお互いに見守り合い、心を寄せ合い、愛を与え合い、一緒に協働作業をしていくことによってその「縄=社會」を創造していくのです。

お米を育てるように子どもを育てること、しめ縄を結び神様に奉げ奉るように暮らしていくこと、古来から続いていく縄が切れてしまわないようにその時代時代の人々が子どもを見守っていく社會を育ててきたのです。

そういう意味では今の時代はかつてないほどに、人々の結びつきが失われてきている厳しい時代です。だからこそ私たちが取り組む「見守る」ということは、その結び直しをする大切な実践になるのです。

「縄」こそ、人類の智慧であるとし引き続き子どもの社會を見守る大人が増やしていけるように実践を積み重ねていきたいと思います。

種と土の邂逅~つなぐチカラ~

私たちが今感じたり味わったりする文化や伝統は古来からずっと存在しているものです。その存在しているものを引き出し繋ぐことができれば、現代にもその初心を多くの人々と分かち合いみんなで引き継いでいくことができるように思います。

時と自然淘汰のめぐりによってその本体は次第に風化しその姿カタチは必ず失われてまた甦生を繰り返すのは循環のめぐりであり宇宙普遍の摂理です。目には観えなくなっていても確かに存在したものは人々の心に魂の記憶として伝承されており、その魂を思い出す人たちによって常に失われずに甦生していくのが人類の叡智と伝統文化の本質でもあります。

伝統には「古くて新しい」という言葉があります。

これは文化と文明の間の甦生を意味し、本来あった本質を今の時代につなぎ顕現されるといってもいいかもしれません。古代と現代をつなぐ、人と人の心をつなぐ、目に見えるものと目に観えないものをつなぐ、それはこの「言葉」(言霊)のチカラのように和合したものをはっきりと一つに融和し伝えることもまたつなぐチカラの役割です。

そのつなぐ方法や智慧は、代々その土地の風土や文化によって異なってきます。太古のむかしから私たちの国は「言葉の霊力が幸福をもたらす国」であると語られ、いのりの言葉によって永遠の今に言霊を奉げ祀ってきた民族であるともいえます。

それが発展し音楽や芸能とむすびつき、時には神楽になり、時には歌になり絵になり、それが心を顕し神を奉る工夫が発展してきたのです。

しかし時は無常ですから、その本質も広くなればなるほどに薄まっていき、増えれば増えるほどに擦れていき、その本質がたくさんの言葉によって隠れていくのです。

今の時代は情報化社会ですからより一層、スピードが増し、情報が氾濫する中で、私たちは大切な本質を敢えて選ばなければならなくなっているとも言えます。本来の姿、古代からある方向を見失わずに確かな足取りで前進していく必要があるのです。

そのために「つなぐ」ことは、とても大切な使命を帯びた志事です。

一人でも多くの人が、初心に目覚めそれぞれの方法で温故知新し、伝承をしていくことが未来の子どもたちのために確かな種を蒔いて遺していくことのように思います。自然は種があればまた根を張り成長していきます。一粒万倍とあるように、種さえ遺してそれを蒔いてまた育ててくれる人がいるのならその種は未来を自然に明るくしていくのです。

そのためにも「土」をつなぐことが大切です。土の上であれば種は根を張り太古の養分を受け取り成長していきます。しかし人間が身勝手な道路を舗装し、アスファルトで土の上を塗り固めていくことで土が隠れてしまっていますがそのアスファルトが取り払われれば元の土が出てきて地球は甦生します。種がちゃんと根を張れるようにしていく必要があるのです。自然のチカラを使って自然に回帰する、それが私が教育や保育の志事に私がいのちを懸けるのもその一点に集中しているかであり、子どもたちの未来のためにもその初心をつなぎたいのです。

今回の一期一会の沖縄での出会いに深く感謝しています、このご縁によって魂が揺さぶられ多くのインスピレーションをいただきました。引き続き種と土をつないでいきたいと思います。

恩送りの生き方~いのちを愛おしむ~

先日、福岡に桧山タミさんという92歳になる料理家がいることを知りました。昭和25年、タミさんは26歳で結婚。しかし、そのわずか6年後に夫を病気で亡くし2人の子どもを育てるため、料理教室で生計を立ててきたそうです。桧山さんは食べる人のことを考える「思いやり」の心をとても大切にしていて電子レンジなどは使用したこともなく、お米は炊飯器などは使用せず、最も善いのは「炭による火力」だということを仰っています。

また料理を作る際に何より大切なことは食べる相手のことを思いやることで、季節の野菜などを食材を使うことも推奨しておられます。そして著書にある「いのち愛おしむ 人生キッチン」(文春e-book)にはこうあります。

「竈で煮炊きした大正の生家でも、子育てと仕事に奮闘した昭和の町屋でも、ひとり暮らしの平成のこのマンションでも、台所がいつも生活の中心にあります」

暮らしの中心は時代が変わっても台所であるという信念で昨年行われた私塾の公開講演のテーマでも「がんばらない台所」とし、その目次を観ると(①自然とのつながりについて②学校では教えない旬の野菜③自然に反しない調味料④道具のちから⑤料理の基本、おいしいご飯を炊けること⑥便利が不便をうむ⑦子どもの頃、何を食べたかで決まる⑧みなさんに伝えておきたいこと)となっておられました。

また料理することは「毎日の一食一食が家族と自分の命をつなぐ営みだから」といい、台所をいのちの拠所にしてご自身の生き方を今でも磨いておられるように思いました。生き方から出てくるその言葉は優しく、心に響いてくるものがあります。

「時代が変わっていってる。それには反対できない。自分で(実践して)いけるものを見つけないといけない。手は抜いてもいいけど、心っていうのは思いやり。その人に対する思いやりを抜いたらだめ。いまごろのお母さんは忙しいから、なかなかできないけど。忙しいってことは、“心を亡ぼす”という字。言葉じゃないけど、思いやり。」

「この人は疲れているか、疲れていないか。疲れているなら、お茶でもコーヒーでも、例えば紅茶を甘めにしてあげる。その程度。“疲れとう”と言ったら、“背中さすってあげよう”と言うと、それだけで、ほっとする。だからお金とか、物じゃない。気持ち。」

ここからもわかるのは料理は形式などではなく真心や思いやりを優先、まさに生き方を語られます。

私も日々の暮らしの実践や聴福庵での炭を使った料理を磨いていますが、まさにこの生き方と実践こそ私の目指す竈主としての生き方ではないかと感動したのです。今後の聴福庵の「澄料理」の根本理念の参考にさせていただきたいと思っています。

最後に桧山タミさんの著書の「あとがきにかえて」より、

「女性はもともと強く、男性はもともとやさしいのです。だから、強さを学ぶために男性は生まれたのです。女性は強いからこそ、やさしさを学ぶために生まれてきたのです。やさしくなるというのは、ただ他人任せに甘えることではありません。人にやさしくするためには自分の心身の強さを持って、そばにいる大事な人たちを温かく応援できるということ。目に見えない思いを日々「料理」にこめることは、命を愛おしむこと。あなたのキッチンが、楽しく豊かで、いつもおいしい匂いのする、家中で一番幸せな場所になりますように。」

やさしさと恩はずっと子々孫々まで巡っていきます。真心を籠める生き方を私も貫いていきたいと思います。

夢を磨き志を貫徹する

人間の夢には、自然体で理想を追い求めていく本来の夢と世間から理想だと評価され認められるという迎合する夢があるように思います。自分の夢を追いかけていたはずが気がつけば周りからの評価が気になるばかり諦めて周りに合わせてしまえば本来の夢がすげ換ってしまうことも多いように思います。

人間は誰しも世間の評価を気にするものです。特に自信が持てないでいるといつまでも周りがどうかを基準に自分を創り上げてしまいます。しかし本来の自分らしさとは周りの評価ではなく自分がどう生きたいかという自分の目指す生き方への純粋な動機を実践し続けていくということです。

自分らしく自分のままでいいと思うためには、自信と誇りが必要です。世間や周りがどのようにあなたのことを評価したとしても気にしない、自分の目的は自分がもっともよく知っているのだと自分の真心を盡していけば自分を信頼できるようになり誇りと自信を持つのです。

自分らしく生きるというのは、自分への信頼と自信と誇りを必要とします。何のためにやるのかと自問自答を続けて、自分の我と折り合いをつけながらも己に打ち克ち純粋な理想の方に舵を切る勇気と身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれとあるように成長を続けていけば必ずその志は為るのです。

志をもっとも揺さぶるのは成功です。世間の成功を求めるあまり、本来自分が何をやりたかったかを忘れてしまうのです。「初心を忘れるべからず」という世阿弥の格言もありますが、初心こそが夢を間違えさせない大切なお守りなのです。

初心を挿げ替えることなどはできず、挿げ替えるのは自分の願望のために自分が先に諦めてしまうことです。初心さえ失わなければ人は希望を失うことがありません。しかし先に成功を手に入れてしまえば人は希望を失うことがあるのかもしれません。そう考えると成功するかどうかというときこそもっとも志にとっては試練かもしれません。

高杉晋作に「人は艱難はともにできるが、富貴はともにできぬ。」があります。これは人間は理想や志への挑戦に対し大勢が一緒になって苦労することはできるが富や名誉を求めるために大勢が一緒に行動することはできないと詠まれます。成長は共にできても成功は共にはできないとも言えます。

諺に「艱難汝を玉にす」、「逆境は人を賢くする」という言葉もありますが、困難な状況こそ純粋さは保たれ苦労があるからこそその魂は磨かれ純粋に澄み切っていくのです。

成功こそ幸福だと思い込むことは、自分らしさを手放すことかもしれません。本当の仕合せは自分自身になることであり、独立不羈、独立自尊、唯我独尊のたった一人の自分になることだともしも定義するのなら魂の成長こそが幸福だと気づきます。そして魂の成長は常に艱難や苦労によってのみ行われます。

生まれてきた意味やその目的を知ることは、心魂の歓びです。それを貫くためには、研ぎ澄ませていくほどに磨き続けていく必要があるのです。

引き続き、初心を忘れずに日々の実践を高めていきたいと思います。