無ではない

昨日は、福岡にある自然農の畑で無事に今年の分の妙見高菜が収穫することができました。大きく葉をつけて成長して、イキイキとした高菜の姿を観ていたら感謝の心で満たされました。

種を蒔いてからいつものように新芽が食べられもうダメかと思うほどに枯らされそうでしたがそこから追加で種を蒔き、さらには枯草を丁寧にかけ、何度も足を運び応援の声をかけ、青虫を手で一つ一つ取り除いてきたことを思い出します。また生き残った高菜を別の場所に移植するのは仲間たちにも支援してもらいました。みんなで育つといいねと最善を盡して祈ったことに応えてくれたようにも思います。

こうやって妙見高菜とのめぐりをじっくりと振り返っていると様々な苦労が報われる瞬間が訪れます。苦労こそ仕合せの種であり、苦労こそが感謝の源泉であることを感じます。手で触り無事に成長している姿を観ては育ってくれたこと、よくぞ自然の中でしっかりと逞しく成長したことを誇りに思うのです。この気持ち、ミマモルということは信じることを優先するということです。信じるというのは、自然を丸ごと信じ、どんな結果になっても最善を盡しては受け容れてそこから学び仕合せに転じ続けていくということです。

活きた学問は常に人の仕合せの道なのです。

また年々歳月繰り替えして実践してきた畑が、しっかりとその育つ環境を醸成してくれているのを感じます。他の野菜や生き物たちもみんな活き活きと育ち、無肥料無農薬で数十年経った今も、他の野菜に見劣りなくとても元気に大きく成長してくれます。見た目の大きさだけではなく、内容もびっしりと詰まったものは一朝一夕にはできません。このように人間もまた、会社もまた同様に、自然を信じ続けていくことでその人も育ち、環境も醸成されていきます。

私が会社経営をはじめて17年目に入りますが、それぞれが自分の居場所を見つけて育ってくれているのを観ると安心します。そして会社という畑を耕し続けて環境が整ってきているのを実感し、その畑で豊かに楽しく農や暮らしを実践できる歓びを味わっています。

「何のためにこれをやるのか」というのがはっきりしている人は、ブレることがありません。世間の常識や、世間の風潮、流行などはあまり影響もなく、初心を貫くことだけに真摯に誠実に生き切っていきます。その中で、様々なご縁があり一期一会の今があり、来たものを選ばずにすべて天の声であると受け取って無為自然に感応する好奇心を頼りに生きていきます。

しかしその自分は無ではない。

今までの長い歴史の中で活かされている自分、自然の中にあって活かされる自分、様々なご縁によって導かれている自分と同居しているのです。

禅語で私が好きな言葉に「無一物中無尽蔵」という言葉があります。私の解釈ですが同様の意味に「身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ」という言葉もありますが、自分に執着をせず初心に生きていくことが自分の魂の声に従うということでしょう。

初心に生きることができにくいこの時代、しかし生き方は自分で決めることができる。子どもたちにもそのお手本を一つでも譲っていけるように引き続き、信念に従い実地実行にニコニコ顔で命懸けで取り組んでいきたいと思います。

 

近未来の準備

暮らしの甦生に取り組むことで、次第に先人の智慧に触れる機会が増えています。先人たちの生み出した道具やその仕組みはどれもまさに「智慧」と呼べるものばかりで、教えなくても学べ、語られなくても語るかのように触れているだけで自動的に習得していくものばかりです。

言い換えるのなら、暮らしの古道具たちはすべて私たち子どもの「先生」であるといっても過言ではありません。古道具には知恵があり、暮らしには仕組みがある。これが日本民族の永続する鍵であることは伝統を学べば誰でも知りえるところではないかと私は思います。

私たちは言葉を用いて様々なことを学びますが、まだ言葉をあまり知らない幼児期は感覚によってそれを習得していくものです。感覚とは、五感のことで触る、聴く、見る、嗅ぐ、味わうなどの人間の持っている感性によって得て学ぶものです。

この時の学びは理屈で学ぶのではなく、そのもののあるがままの全体を直観的に掴んでいきます。厚い、重い、渋い、温いなど、その感覚によってそのものの「いのち」や、そのものの本来の姿の雰囲気、自然のカタチなどを受観していきます。

子どもたちは今の私たちが自然から学ぶように、「暮らしの知恵」から生き方や考え方、大切なメッセージを受け取っていくのです。先祖たちはそういう直観的に学ぶ智慧の重要性を自覚していたからこそ先人からの暮らしを途絶えさせずに維持していたのではないかと私は思います。

もしも子どもの頃にその智慧や仕組みに触れたなら、先人の初心が伝承されるはずです。そうやって連綿と続いてきた精神や文化を繋ぎつづけることが今を生きる大人たちの大切な使命です。

引き続き、風土を深めつつカグヤがこれから取り組むであろう近未来の新しい道徳経済一致のビジネスに向けての準備を着々と進めていきたいと思います。

自然か不自然か

物事の道理を判断していく上で、自然か不自然かという判断基準があります。何が自然で何が不自然かと見極めていけば、不自然なことをやめていくのなら自浄作用や治癒が働き自然に回帰していきます。

しかしこの自然が分からなければ、いつまでも不自然なことを続けてはより自然から遠ざかっていき元の状態すら忘れるほどにおかしな判断ばかりをしてしまうものです。

私たちは本来自然物の一つですから、自然から離れすぎれば自然ではない状態に次第に疲れてしまいます。私たちが現代の社会や都市の中で疲れるのもまた、不自然な環境で不自然を続けているからに他なりません。不自然な中でも自然を保てる人と、そうではない人の間では心身に大きな影響が出るだけではなく道理から外れる分、真実の生活からも遠ざかっていくかもしれません。

自然を知るということや自然を学ぶということは、道理を学ぶことであり天理や法理を知るということでもあります。自然を観察して自然と一体になって暮らしていくことで、道理に沿った生き方を学び、真理に近づき離れない判断基準を醸成していくことができます。

自然は決して知識で学ぶものではなく、自然から学ぶものです。それは物質的には火や水、光や闇からはじまり、文化や風土に至ります。そして心や精神を学び、恩や徳などに至ります。そうやって自然とは一体何かということを、深めていく中で人は自然から乖離しながらも自然を内包し続ける矛盾を受け容れることができるように思います。

自然を学ぶということは、真理や本質を学ぶということです。自然から学び直すのは自分自身から学び直すことであり、学問の基本姿勢を身に着けるということです。自分の心の声が素直に聴ける人は自然を学んでいるとも言えます。そのうえでエゴを従えつつ心を優先できる真心の人は自然体の人だとも言えます。

自然体になるということが人間本来の大目標の一つであることは、改めて歴史や世界を見渡すと自明の理です。

引き続き、子どもたちに自然あるがままの生き方を伝承できるように自然から心の本来を学びつつ深め続けていきたいと思います。

ゆるし

今年は「ゆるし」をテーマに、様々なことを深めていますがとても奥深く発見することばかりです。よく考えてみればみるほど、私たちはゆるされている存在として今があることに気づきます。周囲に助けてもらわなければ生きてはいけない存在だからこそ自分がゆるされていることを感じるからです。

例えば、私たちは重力という恩恵を受けています。重力がなければ立ったり座ったり、運動することができません。そして空気という恩恵もあります。空気がなければ呼吸できませんから生きていくこともできません。そして太陽に水の恩恵、あらゆる恩恵を受けて私たちはゆるされてこの世に存在することができているのです。

このゆるされて存在するというのは、一人では生きていけないということでもあります。ここでのゆるすは、相対的に許す許さないで使われるときのゆるすではありません。本来のゆるすは、「恕す」ですから思いやりによって活かされているという意味です。

思いやりの中で存在しているのだから、少し損をして生きるのは当たり前のことだとも言えます。それを実践していくことを古語には陰徳とも言います。陰徳は、活かされていることを実感し活かされていることへの感謝に生きることを言うのかもしれません。

私たちはどうしても自分勝手にするあまり、自分がゆるされてもいいと周囲に押し付けようとするものです。しかし謙虚に自分がゆるされていることを感じていれば、自ずから与えてもらっている偉大な恩恵を実感し感謝の気持ちでゆるされていることに気づけるようにも思います。

当たり前に与えていただいている恩恵こそが「ゆるし」そのものの存在であり、謙虚にその恩恵に感謝するとき自分がいつも見守られ非常に多くのものに活かされ助けられていることを思うとき「ゆるされている」と感じるのです。

私の好きな言葉に「信じて聴く、ゆるされて聴く」という言葉があります。これは親鸞上人がノートのメモに書き残したものを偶然見つけたところの文章です。私はこの文章がとても好きで、聴福人の根底の理念にはいつもこの言葉が座右として存在しています。

引き続きゆるしを深めながら、子どもたちの今と向き合っていきたいと思います。

日本の精神文化

日本人には脈々と受け継がれてきた日本の精神文化というものがあります。私たちは当たり前になってしまい思い出しもせずに使っていますが、それは日ごろの様々な暮らしの中で見直していくことができます。

今のような情報化が急速に発達する時代において、如何に情報を取捨選択していくかはこの世代に生きる者たちの責任であり使命であると私は思います。

私が日本文化や日本の精神にこだわるのもまた、今のように情報過多の時代で言葉が氾濫しているからこそ私たちは何を守るのかということからはじめなければならないと思っているからです。

例えば日本語というものには精神文化が色濃く反映されています。「ありがとう」「おかげさま」「おたがいさま」「もったいない」「ごめんなさい」なども日ごろから使っていますがそのどれもが日本の精神文化と深くつながっているものです。

昨年、手掘りで井戸掘りをしたとき6メートルを超えたところで地下水脈に出会いました。そこには膨大な地下水が常に流れています。その水に触れたとき、懐かしさといのちと感じました。また日本に流れ続ける風土の文化を直に感じた瞬間でもあったように思います。

まるで井戸掘りと同様に、伝統や親祖から連綿と続いている歴史の深奥、その地下にはまさに精神文化という水脈がいつまでも流れています。表層は何もないように見えても、掘り下げていけば必ず地下水脈に中ります。それを如何に掘り出していくか、情報の氾濫する川の流れの中でそんな川に翻弄されるのではなくじっくりと悠久を流れる地下水脈に身を委ねられるか、それは今の私たちの生き方にこそ懸かっているともいえるのです。

現代は視野狭窄になり、近々のことだけや自分たちの世代のことしか考えない人たちが増えています。もっと古いものや懐かしいものに触れて、本来の日本人であること、日本の精神を自分たちが受け継いで子どもたちに伝承していくことなど本来の使命に立ち返る必要があると私は思います。

特に子どもの仕事をしていれば、日本の文化伝承は欠かせない一大事であることは少し掘り下げて考えてみれば誰でもわかります。

連綿と流れ続けているものを掘り起こすことは道を拓くことであり、子どもたちに歴史を繋ぐことは未来への希望の懸け橋になります。いのちを懸けられる仕事に出会ったことを仕合せに思います。

引き続き、子ども第一義の理念で生き方を観照していきたいと思います。

待つ文化~自然調和~

私たちの精神文化の根元には「待つ」という考え方があるように思います。なぜなら古いもの懐かしいものに触れていると、自然淘汰というやさしさを感じるからです。この自然淘汰はどこか悪いことのように認識されていますが、本来はそうではなく自然が調和させるという意味で元の姿になるといってもいいかもしれません。

この自然淘汰の意味は辞書では「自然界で、生態的条件や環境などによりよく適合するものは生存を続け、そうでない劣勢のものは自然に滅びていくこと。転じて、長い間には劣悪なものは滅び、優良なものだけが自然に生き残ること」(goo辞書)と記されています。

滅ぶことが自然淘汰という意味になれば印象も悪くなりますが、そうではなく自然調和されるとなると意味も異なります。淘汰の語源は、 「淘」は水洗いして選り分けることを意味し、「汰」は勢いよく水を流してすすぐことを意味する。水で洗って選り分けるという意味です。

自然に循環するものは、水によって浄化されていくものです。私たちの呼吸する空気の中にも大量の水分があり、水分が洗うことで元の水の状態に戻るために不純物を取り払っていきます。長い時間をかけて水が通ることで私たちは自然調和を取り戻します。

水があるからこそ私たちは生きていくことができ、水があるからこそ私たちは滅びていきます。水が万物生命の根源であることは揺るぎない真実です。日本の国土は、美しく瑞々しい水に包まれています。新鮮な生き物たちが多く、そこには水と共に暮らして順応した生き物ばかりです。私たちは水から学び、水を通して文化を形成してきた生き物です。稲作などは水の文化の代表的なものです。

水は循環してきますから、次にどのようになるかを観察して私たちは水を上手に活かしてどれくらい長持ちさせられるかを考えます。水は扱い方次第でいくらでも調和の技術を活かせます。その最も根幹にあるものは「待つ」ことです。言い換えるのなら「調和を待つ」といってもいいかもしれません。

長い時間をかけて待つことができるのは、水の循環を直観しているからです。水が循環するのを学ぶ人は、地球が「待つ」ことで調和するのを知っています。如何にその「待つ」速度に合わせて調和の中にいるか、先祖はそれを見極めて暮らしを充実していたのでしょう。

天から降る雨をただの水とは思っておらず、地下に流れる水もまたただの水ではない、さらには地球を循環する気化水のこともただの水とは思っていない。私たちのいのちの原点としての水を観ることが日本の文化を学び直す近道になるように私は思います。

引き続き、待つ文化を学び直しながら水を深めていきたいと思います。

愚直の徳

先日、「愚直」について考える機会がありました。この愚直とはバカ正直すぎて臨機応変ができないことなど辞書に書かれます。しかしこの時の愚直さの「愚かさ」は決して嫌な意味での愚かさではなく「尊い愚かさ」の方を言うように私は思います。

この愚かさの反対は要領がいいことを言うように思います。損か得かで物事を見れば得ばかり求めている人は要領がよくなっていくものです。特に仕事では残業がなく上手く仕事ができる人や休日出勤しなくていいや、段取りよくスムーズに仕事をしてプライベートの時間を楽しめるなどが要領が良い人などと言われます。

愚直な人は損をしているイメージがありますが、愚直な人は徳を積んでいる人だと私は思います。仕事と生き方を分ける人は、仕事は損か得で考え、生き方は徳だということを自覚しています。しかし実際の日常生活の中でそこを分けて生きる人は仕事は本当は徳を積める善いものであるにも関わらず損したとか得したとか、その意識で働こうとします。

働き方と生き方が分かれればわかれるほど、せっかくやったこともすべて損得勘定で不平不満ばかりを述べてはせっかく積んだ徳も流れてしまいます。今の時代は、損か得かの得の方ばかりを見ては苦労を避けたり、艱難辛苦から逃げようとして楽ばかりを求める風潮もあります。楽を選べば得はしても徳は積むことはありません。

この愚直さには徳があり、正直に素直に生き方と働き方を一致させ真摯に一生懸命に人生を盡す人には道理に叶い幸せになるのが分かります。愚直さとは自然の摂理であり道理そのものですから、自分の生き様や生き方に照らして日々をどう生きるかはその人がどれだけ正直に盡せるかに懸かっているのでしょう。

愚直こそ徳の顕現した姿ですから、愚かなほどに正直である人こそこの世でもっとも尊い人だということだと私は思います。子どもたちにはどちらの自分でありたいか、どちらの自分を見せたいかは明白です。

最後に、松下幸之助さんが大切にされた「愚直の尊さ」を松下政経塾の塾生レポートのHPに紹介されていたので転載します。

「愚直の人

 あまりにも正直すぎて、おろかなほどにまでひたすらで、だから機転もきかないし融通もきかない。世俗の人から見れば、どうにももてあますような人。

そんな人はいつの時代にもいるもので、これも人間性の一面であるのかもしれない。

しかし、正直すぎるのはいけないことなのか。ひたすらなのはいけないことなのか。機転がきかなくて融通がきかないのはいけないことなのか。

よく考えてみれば、どれ一つとして非難すべきことはない。むしろ、りくつばかりまくし立てて、いわゆる賢い人ばかりが多くなったきょうこのごろ、こんな愚直な人は珠玉のような人であるとも言えよう。

古来、祖師と言われるような人は、ほんとうは愚直の人であったのかも知れない。だから、世俗には恵まれなかったとしても、そのひたすらな真実は、今日に至るもなお多くの人の胸を打つのであろう。

愚直もまたよし。この波らんの時にこそ、自分に真実な道を、正直にひたすらに、そして素直に歩んでみたい。

(「続・道を開く」松下幸之助 P84-85 PHP研究所 1978年)

 

道を歩む

人生の中には、選べない道があるように思います。いくら自分が避け続けていてもその道は必ず自分の前に現れてくるものです。一度ならずも二度も三度もその道が現れるのならば運命だと思ってその道を進むことで人は救われることがあるように思います。

実際には、その道があることがわからずその道すら現れない人もいます。前に進むのをやめてしまえば、道は現れずいつまでも停滞を続けていくのです。自分が否定した道や避けてしまった道は、目の前にあっても気づくことがありません。他の道ばかり探していると、結局はその場所をぐるぐるとまわっているだけで通過することができないのです。

人生というのは面白いもので、自分に与えられた道があります。道の良し悪しを選びたくなる気持ちもよくわかりますが、問題は道そのものではなく道をどのように歩いたかの方が本質的に生きることになるのです。

その道を歩まないという選択は、その道を味わうことがないということです。自分の人生の目的地に行くためにはその道は避けては通れないとしたらどうするか。怖くても辛くても苦手でもその道を通る必要が出てきます。

その時、その似たような道を通った人からの助言をもらったり、自分と同じ道を歩む人と一緒に歩いてもらったり、無我夢中になっているうちに勇気が出て歩んでいたり、歩み方はいろいろとありますが歩む必要は誰にしろあるように思います。

人生の旅路は、みんな大変でも目的地に向かってその道を歩んでいきます。その歩む道すがらに仲間がいたり、同志がいたり、パートナーが顕れます。その人たちは自分の代わりに歩いてくれるわけでもなければ、自分が歩かないのでと頼んだりすることができません。

その仲間たちはみんなそれぞれに苦しくても辛くてもその道を歩んでいくなかで、共に励まし合い、声掛けをし、時にはその背中を見せて勇気をくれたりする存在であって自分の代わりにその嫌な道を歩いてもらうことはできないのです。自分から先にその道が嫌だからと歩くのやめれば、道は閉ざされてしまいます。

道を歩むというのは、現実のことであり空想や妄想で誤魔化すことができません。だからこそ、その道を避けるのではなくその道を歩んでみようと敢えて足を踏み入れる勇気を出して前進していくことが人生の仕合せの王道のようにも思います。

その時、見守ってくださる存在があることの有難さはかけがえないものです。

私たちの会社は、道しるべになることを目指していますが道すがらに見守るお地蔵様のように道を歩む子どもたちを見守りたいと思うのです。自分の道を歩む人が次は他人の道を見守れるようになる。

子どもたちのためにも道を守り続けて歩み続けて味わい続けていきたいと思います。

時の流れ

昨日は時の感覚について個人差があることを書きましたが時には同時に遠近によって待つ長さも変わってくるものです。遠大な目的や目標がある人は、時はゆっくりと時間をかけて動いていくものです。それは例えば自然界のように徐々にゆるやかに変化を続けていきます。

地球誕生の45億年といいますが、宇宙などは私たちが想像を超える年数を経て今でも変化を続けています。その時の流れはあまりにもゆるやかで私たち人間からみるとまるで何も変化がないように見えるものです。

しかし実際は、ゆるやかで大きい流れはとても偉大な変化であり目に見えることとは異なり目に見えないところでは想像を超えた変化を続けていることになります。私たちは目に見える変化をみては一喜一憂して迷い悩み、判断ばかりを焦ってしまいますが実際にはこの偉大な変化の方に心の目を向けて観れば流れに任せるしかないという境地に至るのです。

偉大な変化の中で自分に与えられる役割というものは自分の目からはわからないものです。それは自分を超越したものに身を委ねるときに大任を預けられていることを直観するときに天の目というか偉大な変化に任せようという心持ちになります。

どうにもならないことに身を任せながら与えられた今に最善を盡していくという生き方は、まるで変化そのものと一体になった姿です。そうなることで絶対安心を感じられ、安心立命の心を持つこともできるように思います。

しかしそうならないことが多いのは、迷いがあるからです。その迷いは、目先のことに囚われ視野が近くなり遠大でゆるやかな変化を感じることがなくなってくるからです。自我の欲望を捨てることや、執着を忘れることや、自利をゆるすことは迷いを取り払うためには必要です。迷うことで人は心を亡くし、迷いから覚めて素直に反省し心が甦るようにも思います。

素直さというものは丸ごと信じきることで、言い換えれば自分には運があるという物の観方、また時に任せて委ねて信じて歩む生き方ができるということです。時はそういう人の味方になり、時がすべてを解決してくれるようになります。

時の流れというものは、誰にも平等ですからまた時がすべてを司りすべてのご縁を結んでくれるように思います。時を信じきる、時を信じ抜くという実践こそが、見守られていきるという私たち人間の目指す生き方かもしれません。

伝統と伝承を守りながら新たな道を切り拓いていきたいと思います。

時を待つ実践

人生には良い時もあれば悪い時もあります。この良し悪しは自分で決めていますから、それは心の持ち方や転じ方で工夫していきますがどうにもならない時というものもあります。

そもそも「時」というのは、人それぞれに速度も質も中身も異なりますから同じ時を一緒に過ごしてもその感じ方は十人十色です。生き死にを体験したような人は時の質量も異なりますし、マイペースでゆったりな人の時もまた異なります。人間にはそれぞれ与えられた時間と、また自分が求めている時間がありますから時は人によって平等だとも言えます。

その時というものに対する姿勢において「時を待つ」という心境があります。これはどんな人にも言えることで自分が蒔いた種が育ってくるのですからそれが育つのを静かに待つということです。

今起きている、良し悪しは以前自分が蒔いた種が芽がでて実になったともいえます。人生にも四季がありますから春蒔きと秋蒔きの種を蒔けば旬を逃さなければそれが実になります。実を収穫したいと思うのならば、その種を蒔き続けなければなりません。

人生には因果応報といって、必ずその原因と結果が結び付いているという道理があります。人生には必ず理由が存在し、いくら理不尽だと思ってもその原因は時間が経てば次第に解明していくからです。

その「時」との付き合い方や接し方が生き方であり、どのように時と上手く付き合っていくかが自分との向き合い方にもつながっているように思います。

松下幸之助氏はこうもいいます。「悪い時が過ぎれば、よい時は必ず来る。おしなべて、事を成す人は必ず時の来るのを待つ。あせらずあわてず、静かに時の来るのを待つ。」

また私がよく振り返りに用いる本田静六氏に「決して散る花を追うべからず、出づる月をただ心静かに待つべし。」があります。

心静かに待つためには、習慣というものを身に着ける必要があります。それを実践ともいいますが、良し悪しの時でも平常心で実践し続けて心を静かにしておくということです。

心がざわつくたびに実践をやったらやらなかったりするのは心を亡くしているからです。どんな状況下であっても心さえ手放さなければ心はいつも付き従ってくれて心を穏やかにしてくれます。この「静か」というのは、時を待つ心境のことを言うのでしょう。

「時を実践しながら静かに待つ」ためには、習慣というものを身に着けなければなりません。習慣とは努力のことであり、継続こそが忍耐力や平常心を育みます。子どもたちにその努力の意味や幼いころからの習慣が人生を好運に近づけることを背中を通して伝承していきたいと思います。