最高の宝、天性の持ち味~自分を見つめてみよう~

人は本当の自分になることで真実が観えて現実が変わります。その価値観の殻を毀すのは自分自身ですがそれは自分を自分で創り上げていくという人生の使命です。その自分を自分で知るには、自分の体験や経験を通して学んでいくしかありません。その学んだことを通して自分が何を感じて何が変わったか、その変わっていく過程を知ることが人生の本の一ページをめくることのように思います。

私の恩師がよくリジリエンシーの話をします。これは立ち直る力とも言われ、素直に起き上がるために何が必要かという力のことです。私の解釈ですがそこには三つ大切な要素があるといいます。

一つ目は、無条件で愛し愛されること。二つ目は、楽観的であること、ポジティブであること。言い換えれば禍を福に転じたり、ピンチをチャンスにしたり、短所を長所に転換できるということ。三つめは、自分が好きなことです。この自分が好きなことは自己肯定感とも言われ、自分の弱さも含め丸ごとそれが自分であると受け容れて自分自身を信じてあげることだと私は思います。

自分と向き合うためには、自分を見つめられるようにならなければなりません。その時に、自己嫌悪して自己否定ばかりしてきた自分を見つめたくない思いから人はなかなか自分と向き合うことができません。自分と向き合うには、自分のいいところを探したり、自分の信じているところや、自分自身のことをもっと深く掘り下げて本当の自分の良さを自分で見つけることが大事になります。

自分と向き合い、自分を見つめてみれば外側の世界が問題なのではなく自分自身の問題で外側の世界や現実が歪められていることに気づきます。感情もまた向き合いたくない、見つめたくないから自分を防御するために出てくるのです。感情に呑まれるのも向き合いたくないから、見つめたくないからでもあります。

その現実を受け止めてそれでも自分が変わりたいと素直に思えるのなら、その素直に変わりたいと思う自分を信じて認めてあげることで諦めない自分を好きになれると思います。本心や自分の声を大事にするというのは、現実よりも自分の声を信じてあげることで大切にできるからです。

幼いころから閉塞的で画一的な社会の抑圧の中で自分ではいられない、自分を無理やり周りに合わせたり、自分を否定されたりすれば自分が歪みます。その歪みから自然体でいられなくなり、自分がわからなくなり苦しんでいることもあります。しかしそれも必ず殻を毀し抜けていくことができるのです。

そのためには自分の良いところや周りの良いところ、長所や持ち味を活かして自分自身も周りのことを信じてあげるところからはじめることです。みんないいのはみんなが違うときで、人と違うことはすべてその人にしかない天性の持ち味だからです。

もう一度、自分を見つめてみてください。

きっと天が与えてくれた最高の宝が、天性の持ち味が発見でき世界に一人しかない自分の個性を発掘できる仕合せに出会えると思います。子どもたちの心を信じきれるような大人になっていきたいと思います。

内省こそ本物の人生

内省という言葉があります。内観ともいい、英語ではリフレクションとも呼ばれます。一般的には、自分の考えや行動などを深くかえりみることとだとされていますがこれは人生において何よりも重要で優先するものなのは間違いないことです。

なぜ内省が必要なのかを少し書いてみたいと思います。

内省といえば、論語に「子曰。君子不憂不懼。曰。不憂不懼。斯謂之君子已乎。子曰。内省不疚。夫何憂何懼。 」があります。これは孔子が君子は憂えず恐れることはないといったとき、弟子が憂えず恐れなければ、君子と言えるのでしょうかと尋ねた時、自分自身の心に疾しいところがなければ何を憂え何を恐れるものがあるかと言いました。

この時の内省をする相手は誰か、それは自分自身の本心、本物の自分ということです。しかしもしもこの本物の自分自身が何処にいるのか誰なのかもわからず、そしてどんな人なのかを知ろうともせず、自分勝手にきっとこんな自分だろうと勝手に自分の仮定した都合のよい自分を自分だと思い込んでいたらこの内省は決してできません。

内省がとても難しいのは、本物の自分が観えず自分の初心や本心を自分が知ることができないからなのです。

人間は本来、自分の本心、つまりは何のために生まれてきて何のために自分を使っていきたいかということを知っています。しかしそれが様々な我欲や願望、周囲の環境や刷り込みによって自分というものの本心が隠れて別の自分としてこの世の中で立ち振る舞っているうちに自分というものが分からなくなっていくものです。

松下幸之助さんが素直の百段を目指していたのも、そうした本当の自分自身というものの声を聴くために内省を続け、素直であったかと自分を戒め天命に従い使命を全うされていたように私は思います。

論語には、もう一つ「三省」という有名な言葉があります。ここには「曾子曰。吾日三省吾身。為人謀而不忠乎。與朋友交而不信乎。傳不習乎」とあります。これは私は常日頃から自らのあり方を省みる。人の為に心を動かされて忠ならざる事はなかったであろうか。 志を同じくする友の意に従うばかりで信ならざる事はなかったか。己の身にもなっておらぬ事を妄りに発して、人を惑わせていなかったと。つまりは真心のままであったか、本心のままであったかと常に自分を確かめながら歩んだのです。

本心や真心を初心とも言いますが、この初心のままの自分であるかどうかがもっとも大切なことでありそれは自分の行動や発言、経験したことを常にその場で振り返り初心に照らして本当にそのような自分でいられたかと確かめ続けるということです。

人間は本当の自分になることや、本来の自分自身になることが答えを生きることであり、いつまでも自分を探していても答えがあるわけではないのです。だからこそ内省が何よりも重要であり、内省なくしては本物の人生もまたないのです。

自分自身になることが本来の自立の本質であり、独立不羈、唯我独尊もまたその自分になっていくことです。心をかき乱されないように内省を続け、平常心のままに自分自身を自分自身で生きていく、そういう一生懸命な生き方の中で心を開き心豊かに自分の生を全うしていくことが自然の大道でもあり、人間本来の生きる道を叶うことだと私は思います。

自分に出会える仕合せと、自分でいられる仕合せ、まさに自分との邂逅が内省によって行われるとき人は本当の意味で世界を知り全体を知り、そして自分になります。

引き続き、子どもたちには内省の場の大切さを説きつつ内省の価値を伝承していきたいと思います。

自分に矢印

私たちの会社には「自分に矢印」という言葉があります。これは矢印を相手ではなく自分に向けろという意味ではなく、「誰にも矢印を向けないこと」を「自分に矢印」という言い方で表現しています。

つまりは誰のせいにもしない、誰も責めないときこそが本当の意味で「自分に矢印」になっているということです。

この国にいると、幼いころから責任を常に誰かに押し付けられ、いつもどこか不安で責任から逃れることばかりを考えてしまう空気感があります。一人でできること、自分ですべてできることを最良のように教えこみ、誰の力も借りずにできた人のことを優秀だとさえ評価したりもします。

先日もオリンピックのニュースで日本人はメダルがとれなかったり周りの期待に応えられないとすぐにみんな泣きながら謝罪している人が多いとありましたが、責の重圧の中で押しつぶされてしまっているような人たちも多く見かけます。生前アインシュタインはこうも言っています。「どうして自分を責めるんですか?他人がちゃんと必要な時に責めてくれるんだからいいじゃないですか。」と、すぐに自分を責めて先に謝りますが別に誰もその人を責めてはいないのになぜ自分から先に責めるのか。自分で先に責めれば他人からのアドバイスや助言もすべて責められていることになってしまいます。本来は、それは助言や成長するための知恵であるのにそれを自分への責めにしてしまうことで責任意識ばかりが強くなっていきます。

日本人はマジメな国民と自評もしていますが実はこのマジメは、自分を責める人が多いという意味で使われている気もします。人間はそんなに強くありませんから自分をこれ以上責められないところまで来ると今度は他人のことを責めようとする。この責めるということの負の連鎖は、さらなる不安で孤独な人を生み出しより一層孤立を深めてしまいます。

だからこそ何よりも重要なのは、不安な人が余裕を持てる環境をつくること。そして自分が誰も責めなくてもいい環境にしていくことです。見守りや安心基地というのは、責めない場所でもあるのです。

まずは自分で責めるのをやめること、そして誰かを責めるのをやめること。誰も責めないというのは、「そこから学んで次に活かそう」という前進し成長するあるがままの素直な姿になるということです。

責めることでいつまでも感情の渦の中に引きこもって停滞してしまったらせっかくの機会も無駄にしてしまいます。責められることで自分を他から罰されて楽になったり、責めることで自分を守り楽になることは自他ともに幸せになることはありません。それは単に一時的に責めたり責められることで自分がバリアを張って自分を守っているだけでバリアが強く厚くなっていくだけです。ピンチはチャンスだと、責める前にその機会に食らいつき活かそうとしたり、誰も責めずにそこからどう福に転じるかと一瞬の間を与えずに取り組んでいくことで解放していく方法もあります。

どちらにしても、「マジメじめじめ」ともいいますがすぐに誰かを責めてしまう癖を捨てていくことがこの閉塞感から抜け出せ、好奇心を呼び覚まし挑戦を味わい楽しんでいくための知恵になります。

誰かを追い込むか、自殺をするかしかないような閉塞感があるこの社會を変えていくのは自分が責めるのをやめることからはじめるしかありません。「自分に矢印」の実践を積み重ねていくことこそが、社會を変えていくということです。この刷り込みが根深いからこそ、今の大人たちがそれに気づき解放していく必要性を感じます。

子どもたちに同じような不安で苦しい思いをさせないように、自他を責める生き方をやめ自他をゆるす生き方のお手本を示していきたいと思います。

美しい生き方

「お手入れ」という言葉があります。これは「手入れ」に「お」がついて、より丁寧にしたものですが辞書をひくと「よい状態を保つために、整備・補修などをすること。」(goo辞書)と書かれます。具体的には「手入れが行き届く」「よく手入れされた庭木」など、自らの心配りや心がけで修繕しているときに用いられる言葉です。

このお手入れは、何かを整えたり美しく保つために修理や修繕を続けて長持ちさせていくための智慧の一つとも言えます。掃除や片付け、修理やメンテナンスはそのものへの愛情を注ぎ込むことができ愛着の関係性が醸成されていきます。

大事にされているものは、大事にされている雰囲気が出てきます。これも一つの愛着というか、愛され愛し合う関係の調和が周りにそういう雰囲気を醸し出すのでしょう。お手入れはお互いに大切にし、大切にされた関係の歴史であり記憶です。

今の時代は、お手入れ不要の便利なものが増えてきています。例えば、お花では枯れない花や研ぐ必要のない包丁や、そのほか掃除やメンテナンスをしなくていい機械や便利な道具が溢れています。これらは使い捨てすることが前提ですから、使い切るまで一切のお手入れは不要です。

そもそも本来の言葉の使い切るというのは、「もったなく使う」ことで捨てないことから用いられたことばです。つまり捨てないでどこまで使い切ることができるかという意味でお手入れは絶対に必要です。

しかしこの意識の前提が「捨てることになっているか・捨てないことになっているか」でお手入れをするかどうかを分かつのです。捨てないことになっているからこそ勿体無く感じてお手入れが実践されるのです。

現代はグローバリゼーションのもと消費を優先して大量に生産し、そして捨てていく世の中ですがそのことで失われたのは美しい生き方ではないかと私は思います。この美しさとは心の美しさであり、修繕し勿体無くものを大切にし大切にされて生きていく愛情深い優しい所作、思いやりのある生き様のことです。

引き続き、修繕を楽しみ味わいながら子どもたちに大切な智慧を伝承していきたいと思います。

調和と響き合い~音響~

先日、あるジャズシンガーの方から聴福庵で生演奏をやってみたいというお話がありました。古民家の場を使った音楽というのは、私も以前から興味があり改めて古いものと音との関係を少し深めてみたいと思います。

音というものは空間で響くものですがこれはお互いの関係性によって音楽が奏でられるものです、例えばある物質に別の物質を当てて音を鳴らすときお互いの物質の特性によってその鳴り響く音が変わります。私がよく使っている砂鉄の鉄瓶などは、玉鋼の火箸で軽く触れるとキーンという高音が長く響き渡ります。この時、お互いの音はそれぞれの性質によって顕れてきます。

そして不思議ですが、経年変化している古いものは丸みがある音が出ます。これは古木や柱などを軽く叩くとわかりますが、ずっしりと深みがある音が出ます。時間が経ったものは相応の音を響かせます。科学的には時間が経過した古いものは木に含まれる水分が抜けて音の出るスピードが速くなるからといわれますがそれだけではないことは古民家での暮らしをしてみればわかります。

例えばおくどさんの中で、竈やまな板で料理をしたりかつお節を削る音はその空間に響き独特の調理場の音を奏でます。そこにはもちろん古い道具たちが響き合い、お互いにその音を聴いているかのような空間が生まれうっとりしますが、使い手の人間性や人柄も道具との相性によって変わってきます。同じかつお節を削っている音であっても、技術や人間の個性よって差が出てくるように古い道具たちにそれに合わせて音を奏でます。

道具も古いものが鳴らすのは、均一ではない個性を持っているからです。ホームセンターで買ってきたような安い包丁は、誰でも切れるし扱えますが個性がありません。均一化されて平均化されることで誰でも使える道具にした分、そのものの特徴もなくなりますから音の響きはありません。古い道具は使い手が試されますから、使い手が道具の特徴を見抜き腕を上げて使い調和させていきます。この調和するときの響きこそ音楽であり、その音楽が周りの古い道具たちとの調和を引き出していくように私は思います。

こんなことを非科学的といわれるかもしれませんが、腕の善い老練の職人さんが昔の道具たちを用いて作業する音は、心に深く響き感動します。音の響きというものは、決して現代の科学だけでは解明することはできないように思います。

そして話を戻せば、古いものは周りと調和していきます。調和した響きは環境や空間と響き合います。つまりは新しい建物で聴く音と、古い建物で聴く音は異なります。さらには風土に適った材料で出来上がった場と、風土に適しない材料で出来上がった場所では水分量の関係もあり、音の感覚がズレていきます。私たちはもともとこの風土の中で音楽を聴いて耳を発達発展させてきましたし、そういう微細な音を聴き分ける繊細さが備わっています。

箱庭にある、鳥の声や雨の音、鹿威しの音など、空間を伝わっていく音響を感じ取ります。そして古民家には、その主人が日本的精神を持ち丁寧に暮らしているのならそのどれもが調和するもので整っているはずです。

新しい建物であれば、楽器を鳴らしても単体で響きます。しかし古い建物で調和されているものであれば周囲と響き合って調和する音を奏でます。古民家で音楽をすると感動するのはこの調和音が聴けるからです。

先日、杉並区にある普門館が耐震構造をクリアしていないため取り壊されるという話を聞いてとても心が痛みました。あの空間で響き合った調和は、子どもたちに譲ればどれだけのことが伝承できただろうかと思うばかりです。

引き続き、復古創新を続けながら子どもたちに貴重な文化財を譲り遺していきたいと思います。

 

暮らしの醍醐味

昨日は聴福庵の甦生で大変お世話になっている大工棟梁とそのご家族に来ていただき、聴福庵での暮らしとおもてなしを体験していただきました。もう一年半以上も一緒に古民家の修理や修繕を行ってきましたが、いつも作業やお仕事ばかりではじめて一緒にゆったりとこれまでのプロセスを振り返る時間を取ることができました。

和ろうそくの灯りの中、二人で盃を交わしながら深夜までお酒を吞みましたが棟梁からは改めて「このような家を手懸けることができ大工冥利に尽きる」と仕合せな言葉もいただきました。まだまだ完成したわけではなく、修理や修繕は暮らしと共に継続しますからこのように家を中心に素晴らしい出会いやご縁があったことに感謝しきれないほどです。

人生はいつ誰と出会うか、それによって運命が変わっていきます。年齢も人生も離れていた人が何かの機縁によって出会い助け合う。そしてそのご縁によって豊かで仕合せな記憶を紡ぐことができる。志を共にする仲間が出会えるということが奇跡そのものであり、その数奇な組み合わせにより新しい物語が生まれます。

聴福庵の道具たちはすべて時代的に古いものを甦生して新しく活かしているものばかりですがその道具たちには職人さんたちの魂が宿っています。みんな人は何かを創りカタチを遺すとき、そこに自分の魂を削りそして籠めます。それは時代を超えていつまでも生き続けているものであり、その物語は終わったわけではありません。

その物語の続きを創るものがいる、魂を受け継ぐものがいる。そうやって今でもこの世に存在し続けて私たちと一緒に記憶の一遍を豊かに広げていくのです。またその魂は、同様に同じ志や思いをもっているものたちと引き合い弾き合わせてご縁を奏で波長を響かせていきます。その空間にはいつまでも楽しく豊かな記憶が、志を通じて甦るのです。それが暮らしの醍醐味なのです。

子どもたちに譲り遺していきたい暮らしとは、このように昔から続いている魂を大切に受け継いでいく勿体無い存在に対する尊敬の念です。ご先祖様たちの重ねてきた人生の延長線上に今の私たちがあるということ。それを決して忘れないでほしいと願うのです。

そのためには、それを実感できる場や存在、生き方や生き様などを与えてくれる大人たちの背中が必要なのです。今、私がここで感じている仕合せをどのように今の時代の子どもたちに伝承していくか、まだまだ未熟で途上ですがここで満足せずさらに一歩前に踏み出していきたいと思います。

 

階層型組織から協働体組織へ

現在、キャリアパスなどを義務付けされ研修に参加することを法的に施工させるという現象が教育業界でも起こっています。そもそもこのキャリパスというのは経営学用語の一つであり、企業においての社員が、ある職位に就くまでに辿ることとなる経験や順序のことをいいます。職員や社員の視点では、将来自分が目指す職業を踏まえた上でどのような形で経験を積んでいくかという順序・計画を指し、キャリアプランなどを設定してはそれに沿って研修を受けて成長していくという仕組みです。

階層型組織、いわゆるピラミッド型組織で目標設定型で取り組んでいくような経営組織においては有効かもしれませんが今の時代のように多様化する変化に柔軟に対応していくような場合の組織ではこの階層型やピラミッド型の組織という戦略は私ならまずは選択しない方法論です。時代遅れというか、官僚型の仕組みをいまのような変化が大きな時にやろうとしてもニーズとの不一致は広がるばかりです。補助金を出すからキャリアパスをやれというのは、そもそもがおかしな話でこのような官僚型の発想で上から押し付けられたキャリアパスはやればやるほどに後の修正が非常に困難になるだろうと私は予測しています。

今の時代に必要な能力として欠かせないものは協働するリーダーシップです。それは社員一人ひとりにも必要となる協力する能力のことです。これをチームワークともいいますが、世界ではすでに戦略的に階層型組織をやめ協働体組織への変化にシフトしています。この協働体組織とは共異体組織のことであり、それぞれの徳性を伸ばし持ち味を活かし、皆で一緒にいることの相乗効果を最大限に発揮した組織のことです。

そのモチベーションの動機は決して個人の成長が優先されるのではなく、みんなの仕合せが優先されます。自分だけが良くなればいいではなく、如何にみんなが善くなるか、部分最適ではなく全体最適が行われることを最善とします。みんなが必要とし合い持ち味を活かし家族のような結束で豊かな社會を人間は本能で望んでいます。これは名君がいて平和に国が豊かに治まったような状態、それを実現した組織とも言えます。

古来より日本には、全体善という思想がありました。これは利己ではなく利他の精神であり、みんなが利他で思いやり助け合うことで豊かで幸福な社會を実現していくという考え方のことです。モチベーションを高めるために、馬の鼻先にニンジンをぶらさげるような場当たり的なキャリプランを設置しそんなものを与えてもやる気が永久に持続するわけはありません。もちろん短期的にはそれが合った人もいるでしょうが、視野を広げればそれで合ったはずはなく長持ちもせず組織も協働体になることはまずありえないでしょう。これで余計に個々のつながりが断たれバラバラになる仕組みが活発化し、その終息に数年から十数年かかるかもしれません。

自分でやったこともないことを絵に描いた餅のように施工するのではなく、実際にそのような協働体や共異体を実践して実現している組織の人物たちと一緒にどのように世の中を変えていこうかと話し合うことができるくらいに質を議論できるようになる必要性を私は感じます。いつも思いますが片方が一歩的に何かをやったりやらせたりするのではなく、正しく対話を行い一緒に考える中で磨き上げていくのが本質的な取り組みです。

日本では昨日ブログで書いた産学官連携においても、連携が既存の既得権益や悪しき風習によって学主導や産主導、もしくは官主導になっているだけの壁や枠が取り払われなければ本質的な協働などはまだ先の話のように感じてしまいます。ここの協働がまず成り立っていないところに問題があるように私は思います。

しかし批判してもはじまりませんから私たちは理念を同じくする仲間やパートナー、お客様と共に協働や協力を対話によって一歩ずつ実現する仕組みを地道に広げていこうと思います。

子どもたちのためにも、今の時代に合致した戦略、今のニーズに対応した対話の在り方を発明しつつ丁寧に実践を取り組んでいきたいと思います。

 

運命の模様替え

世の中には不平不満ばかりを述べては言い訳ばかりして何もしない人もいます。そうかといえば、言い訳をせずにどんなことも勇んで遣りきっている人もいます。自分から進んで取り組むことは勇気がいることですが、他人が嫌がることや大変なことを自ら引き受けて取り組んでいる人は運命が明るく伸びているように思います。

そういう人は徳が積まれ、その徳によって運命が好転していくように思います。

常岡一郎さんにこのような言葉があります。

「徳と毒はよく似ている。徳は毒のにごりを取ったものだ。毒になることでも、そのにごりを取れば徳になるのである。どんないやなことでも、心のにごりを捨てて勇んで引き受ける心が徳の心だ。いやなことでも、辛いとかいやとか思わないでやる、喜んで勇みきって引き受ける、働きつとめぬく、それが徳のできてゆく土台だ。ばからしいとか、いやだなあというにごった心をすっかり取って、感謝と歓喜で引き受けるなら辛いことほど徳になる」

常岡一郎さんは、自分のことは後回しにしてでも誰かのために自分を絞りきる実践をなさっていた方だったといいます。朝顔を洗おうと思いながらも、みんなのために朝起きてすぐに自分を盡していたら結局は夕方になって顔を洗うことになっていたといいます。しかしそうやって、みんなのためにと生きるからこそ勇心や勇気がでていたともいいます。自分のことを先にすれば毒になり、自分のことを後回しにすれば徳になる。毒と徳は紙一重の生き方の差にあるように感じます。

また常岡一郎さんは「運命の模様替え」という言い方をします。

「常に勇んで生きる人に天の心が動く。天の心が変わって後に、天命も天の恵みも変えられるのである。粗末な汚れた今日の運命の着物を着せられていても、燃えるような勇んだ心の持主には明日の美しい着物と模様替えされる。人の運命の着物は親なる神にまかせねばならぬ。泣いても、わめいても自分の運命は自分で頂かねばならない。逃れる道はない、明るいお礼心で迎え勇ましく働いて、模様替えの始まるまでつとめきるより他はない。」

どんな運命であってもいくらでも人は必ずそれを好転させていくことができる。それには燃えるような勇んだ心、つまり「勇気」だといいます。私も人生を省みると、痛くても前に踏み出す勇気、怖くても一歩を踏み込む勇気、その勇気があるから運命を受け容れることができその運命に従い自分を成長させてこれたように思います。

この勇気は決して、ただ闇雲に無鉄砲に突っ込めというような野蛮なものではありません。自分を後回しにしてでも、勇気を出して信念に従ったり、今まで頑固に執着している自分のことを手放して新しいことに挑戦したりするときの勇気だと思います。

私も先日から足を痛め、ずっと右足が前にでず階段が怖くて登れませんでした。あまりの激痛と、階段を踏み外したことへの心理的ショックが大きすぎて足が前に出ないのです。しかし、お客様の理念研修を実施するにおいて私が勇気を出さなくてはと前に足を踏み込んだとき勇気が出てすべてのことが打破されていきました。

人が変わるということは、勇気を出して行動するということです。

運命は勇気を出して足を前に出すからこそそこから景色が動き始めます。自分の保身や心配ばかりをしていて怖がっていても人生は好転せず、誰かのためにと自分を後回しにしてでも取り組もうとする勇気の時にだけ、福に転じていきます。

「思い切ったことをやる。すばらしい困難と取り組む。そこに自らの未熟さがわかる。力の不足がわかる。不徳がわかる。しみじみと自分の本体がさらけ出される。そこで反省も出来る。鍛錬に力がはいる。修養が真剣さをもって来る。何もしないで考えているのは人生のむだ遣いである。」

・・何もしないで考えているのは人生のむだ遣いである・・

生き方の指南として、「自分をふり絞れ=勇気を振り絞れ」という意味、「運命の模様替え」はいつも大事な局面で背中を押してくれるかもしれません。勇気を出していのちを遣りきるという今を生き切る姿勢を保ち続けるためにも、好奇心と創造力を信じて挑戦していきたいと思います。

 

 

日本の文化

私たちは目には見えないけれど確かに文化というものを持っています。その文化は表層にはあまり現れていなくても、深層には確かに存在していて何かがあると顕現してくるものです。

例えば先日、都内で大雪が降ったとき多くの人たちがみんなで協力し助け合い雪かきをしたり道を誘導したり、声掛けをし合ったりといった光景を観ることができました。他にも大震災のときなど、みんなが自粛して行動したりみんなのために分け合ったりしながら助け合い思いやりの光景が観られます。

世界は報道などで、日本人のこれらの助け合い譲り合いの精神を垣間見ると大きな尊敬の念を抱いてくれます。その時、外国の人たちが観ているのはその国にその国民に流れる文化を観ているのであり、その文化の素晴らしさに感動されているのです。

この文化というものは、一朝一夕にできたものではなく長い時間をかけて繰り返し繰り返し、自分たちが大切にしてきていることを忘れないで生きてきた集積によって定着していきます。

言い換えるのなら生き方とも言えますが、先祖が何を大切にして生きてきたか、そして子孫へは何を大切にして生きてほしいか、さらには自分は何を大切に生きていくかということを自覚して人生を伝承していく中で伝統となってつながっていくからです。

私たちが災害時や有事のときに自然に体が動くのはなぜか、自分の中から優しい心や思いやりの精神が湧いて出てくるのはなぜか、それはひとえに先祖がそういう生き方をなさってこられたからです。それが文化として脈々と自分の中に備わって受け継がれていることに気づいたのです。

初心に気づくというものもまた同様に、自分がどのような生き方をしていくかはその伝統とのつながりの上に折り重なっていきます。人間の性が本来、惻隠の情や真心があるのもまた親祖の初心が自分に備わっているということなのです。

日本の文化を大切にするのは、自分自身の初心を大切にしていくことで守り続けることができます。決して伝統工芸や食文化だけが日本の文化ではなく自分自身が日本人である生き方を思い出し、それを伝承していくことが日本文化を守ることになります。

引き続き、子どもたちに日本人の生き方を伝承しながら誇りをもって日本の文化を伝道できるように精進していきたいと思います。

水の味

井戸水を炭で沸かして点てるお茶はいつも格別な味がします。このお茶の味の中には、井戸水の深い味わいが混じっています。この水の味というものは、今では水道水の普及と共にあまり日常的に意識して感じなくなったかもしれませんがこの水には不思議な個性の味があります。

例えば、販売してあるようなペットボトルのミネラルウォーターの水や自然からそのまま湧き出る水は同じ水ではありません。成分の違いもありますが、どの場所の水を汲んだか、さらには水を取り出した時機など、その水には様々なものが映っています。

水の不思議な力のひとつは、混ざり合う力です。どんなものとでも混ざり合い融け合わせる力を使ってどんなものも浄化していきます。ミネラルが豊富に入るのは、水の中に自然物が融けているからでもあります。

最近問題なっている酸性雨は、空気中の汚染物と融け合った水が空から降ってきているし、また水道水に入る有害物質もまた河川の汚染の影響で融け合った水が配管から流れてきているともいえます。

水は万物を循環しながら、混ざり合い全体調和によって万物全ての生き物のために融け合わせていく働きを已めません。

人間の体では、60%以上が水でできておりすべての臓器や骨格に水が含有しそれが流れ続けています。一日に約2リットルの水を摂取し排出しながら体の中にあるものと混ざり合い融け合い浄化を続けます。腎臓は、その8倍の水を常にフィルターで人間の体に適合するように再生され続けます。

井戸水がなぜいいのか、それはこの土地の木々や植物や野菜などこの地の水を取得して成長しているからです。その風土に適した水は、その風土に調和した水とも言えます。外から運んできた水は、外からもってきた水ですからその土地のものではありません。

その土地の空気や水、光や風は、見事にその土地の持つ不思議な風土と合致します。その合致した状態が調和であり、私たち人間も自然に調和を美味しいと感じます。この井戸水が美味しいと思う感覚はそこから来るのです。

お茶もまた炭を熾し、井戸水を入れ、時間をかけてゆっくりと融けだしていく万物の調和に美味しさを感じ水の不思議な感覚を覚えます。万物の根源に触れる機会があるというのは、調和を甦生する機会に出会うということでもあります。

水の不思議な力を味わいながら、思索にふける時間はとても豊かで味わい深いものです。引き続き、復古甦生を味わいながら学び直していきたいと思います。