日本の心と自己錬磨

私が尊敬する方の一人に日本の将棋棋士で永世七冠の羽生善治氏がいます。いくつかの著書を拝見していますが、そのどれも自己との対話や感情との折り合い、調和への心の姿勢などどれもとても参考になります。実戦により鍛錬されたその思想や感情、どのように向き合って自己錬磨されているか、それは事物に挑むときの指針になります。例えば、自己との勝敗を決める岐路について磨かれている言葉には下記のようなものがあります。

「自分から踏み込むことは勝負を決める大きな要素である。」

「基本的に人間というのは怠け者です。何も意識しないでいると、つい楽な方向や平均点をとる方向にいってしまいます。だから相当意志を強く持って、志を高く揚げ核となっている大きな支えを持たないと、一生懸命にやっているつもりでも、無意識のうちに楽な方へ楽な方へと流されていくことがあると思います。自分自身の目標に向かって、ちょっと無理するくらいの気持ちで踏みとどまらないといけません。」

「どんな場面でも、今の自分をさらけ出すことが大事なのだ。」

「「自分の得意な形に逃げない」ということを心がけている。」

「勝負に一番影響するのは「怒」の感情だ。」

「平常心をどれだけ維持できるかで、勝負は決まる。」

自分との戦いを続け、如何に自分を磨いていくか、荘子(達生篇)に収められている故事に由来する言葉に木彫りの鶏のように全く動じない闘鶏における最強の状態をさす「木鶏」という言葉がありますがまさに羽生善治氏はその木鶏そのもののモデルように私は感じています。この境地を体得するために、私たちは自己錬磨を続けていくように思います。

「ビジネスや会社経営でも同じでしょうが、一回でも実践してみると、
頭の中だけで考えていたことの何倍もの「学び」がある。」

「人間には二通りあると思っている。不利な状況を喜べる人間と、喜べない人間だ。」

「私は、対局が終わったら、その日のうちに勝因、敗因の結論を出す。」

「私は才能は一瞬のひらめきだと思っていた。しかし今は、10年とか20年、30年を同じ姿勢で、同じ情熱を傾けられることが才能だと思っている。」

「ひらめきやセンスも大切ですが、苦しまないで努力を続けられるということが、何より大事な才能だと思います。」

「何かに挑戦したら確実に報われるのであれば、誰でも必ず挑戦するだろう。報われないかもしれないところで、同じ情熱、気力、モチベーションをもって継続しているのは非常に大変なことであり、私は、それこそが才能だと思っている。」

自己錬磨の価値を教えてくれる存在が、同じ時代に生きていてその姿勢を見せてくれることがどれだけ有難いことか。日本の伝統文化である将棋には、日本の心があります。その日本の精神性や心を体現している存在があって、私たちは勝敗とは何を学ぶものか、そして自己錬磨とは何かということを先祖の生き方を学び直します。

尊敬し憧れるのは、単に強いからではなく日本人として磨かれた精神を将棋に感じ、その自己錬磨の生き方に感動するからかもしれません。

最後にいま、特に心に響く言葉です。

「山ほどある情報から自分に必要な情報を得るには、「選ぶ」より「いかに捨てるか」の方が、重要なことだと思います。」

「 今の情報化社会では知識や計算は簡単に手に入る、出来る物。だからもうあまりそれらに意味はない。これからの時代の人間にとって大事なのは決断する事だと思います。」

どのような決断をするか、そして何を捨てるか、常に自己との対局を楽しんでいくことで自己錬磨の面白さも味わいも豊かになります。引き続き、日本の心と自己錬磨を学び直していきたいと思います。

 

職商人

「職商人」(しょくあきんど)という言葉があります。これは職人と商人が合わさった言葉で、言い換えるのならいい職人こそいい商人であり、職人と商人の一致とも言えます。私はこの言葉に出会い、感動し、自分が目指しているところを知り、また同時に日本人の持つ伝統的経済観念を再確認することができました

かつて江戸時代は、修理や修繕といった繕いの文化がありました。今のように新しいものをつくっては捨てていく時代は、分業制も進みものを作る人と売る人も分かれてしまっています。

以前、ある鋸職人のところにいい鎌や鍬の鍛造を相談しに行った際に、職人さんたちが使い手の相談に乗りながら新しい商品を開発しそれが商売になっているという話をお聴きしたことがありました。アイデアを常に、お客様と一緒一体になって作ってこそ単なる物売りではなく単なりものづくりではなく、職商人であるともいえます。

自分で作ったものを長く手入れできるということは職人にとってもどの部分が改善が必要でどの部分が弱かったのか、また使い手の癖や職業上の理由など物事が深く理解できます。さらには、作ったものを如何に長持ちさせて甦生させるかを極めていくことは捨てない社會、いわば循環型の持続可能な社會を実現するために大きな役割を担っていることになります。

作ったものを修理修繕し、改善する文化があれば大量生産しなくても少量生産であっても長く永続的に使えればゴミになることはありません。今の時代は、作っては捨てて、古くなってはすぐにゴミのように廃棄されますが、それは職商人がいなくなっているからです。

職商人は、自分で体験したものの気づきをまた新たな智慧にして世の中に還元して人々と共に成長して成熟し、ものづくりだけではなく人づくりにまで貢献していくものです。まさに自他自物一体の境地の生き方です。

世の中がもので溢れていたとしても、長く使い古されて貢献してきた物は思い出や思いやりなどがそのものに籠っています。それを如何に活かし、長持ちさせていくかが、その人物の人格に左右されます。物を磨くのは修繕するところからはじまり、精神を磨くのはそれを研ぎ澄ますことで得られます。

引き続き、古来からあるものを大切にしながら子どもたちに勿体ないの初心の本質を伝承できるように日本の伝統文化を担う職商人としての誇りを持ち、一つひとつを丁寧に実践していきたいと思います。

実践の意味

経済や経営を考えるとき、二宮尊徳にとても有名な言葉があります。それは「道徳なき経済は罪悪であり 経済なき道徳は寝言である」というものです。これはホンダの創業者本田宗一郎が、「理念なき行動は凶器であり、 行動なき理念は無価値である」ということにも通じます。

つまりは道徳とは、人が生きる上での目的そのものでありそれがない経済だとすれば個人の欲望そのものであるから社會にとっては罪悪であり、理念がないのにいいことばかりいって経済にしないことや、いいことをやっているように後から帳尻を合わせてもそれは単なる寝言ほどの取るに足らない戯言であるといいました。本田宗一郎は、個人の欲望の経営は凶器になっているともいいます。そして実践することがないのなら理念などあっても無価値で無意味であるといいます。

これは理念経営を行う上で大切に指標になります。リーダーは何をもって甘えているかといえば、それは単にサボるとか怠けるとかの話ではありません。目的に対して真摯に実践を怠らないのであればそれは甘えていないのであり、もしも会社が利益がでていくら繁盛していても理念と実践がないのならそれは甘えているともいいます。

甘えを断つというのは、目的に生きるということであり、理念を優先し自分の生き方を変えるということです。人生は自分個人や私心、私利私欲のためにあるのではなく、それよりも大切なもののために自分を優先できてこそ社會の中で本物の自分を自立していくことができます。

みんな人々は目的を持つことで心を定め一生を歩んでいきますから、つまらないことにいつまでも囚われないためにも理念と実践はよりよい人生を充実するために欠かせない両輪であろうと思います。

二宮尊徳は人生の指標として下記のような遺訓を弟子たちに語ります。

翁曰く

人、生まれて学ばざれば、生まれざると同じ
学んで道を知らざれば、学ばざると同じ
知って行うこと能はざれば、知らざると同じ
故に、人たるもの、必ず学ばざるべからず
学をなすもの、必ず道を知らざるべからず
道をしるもの、必ず行はざるべからず

何が生まれていないか、何が学んでいないか、何が知らないことか、本当の人生を歩みなさいと語り掛けます。

道は実践によって顕れ、学は道の実践で顕れ、生は学の実践で顕れる。つまりは人生は実践することではじめて為るということをいいます。

この「実践」というものの価値にどれだけの人が気づいているのだろうかとも思います。実践とは、目的をもって行動するということですがどれだけ日々その初心を忘れずに行動できているかと内省することで自分の人生を生きることを思い出すものです。

心の荒蕪は、今では心の渇きとして人々の中に苦しみが宿ります。その苦しみを少しでも和らげ、心田を開発できるように一円観、一円対話を世の中に弘めていきたいと願い実践を継続していきたいと思います。

2018年のテーマ

昨年は、右足の怪我で歩けなくなりメンターとの振り返りができない年末年始を過ごしましたがようやく昨日その振り返りを行うことができました。もう10年以上、同じことを続けていますがこの時間がとても有意義で私の生き甲斐の一つになっています。

生き方に憧れた方と道を同行し一緒に学び歩みたいと願う童心がこの機会とご縁を創造していくれています。有難いことに、こんな自分を指導してくださる方がいる、見守って育ててくださる方がある安心感は決してなにものにも代えがたいものです。

そう考えてみると、当たり前と思っている中にどれだけ本当の仕合せが潜んでいるか。上の人が下に教えるのは当たり前ではないし、誰かが自分のために真心でアドバイスをいただくことも当たり前ではない、さらに見守ってくれることなどは本当に有難く当たり前ではないことに気づきます。

人は結局は、どれだけ当たり前と思っている実は偉大な事実に気づけるかでその人の成長が決まるのではないかと私は思います。当たり前が感謝に転換できている人は、その生涯においていつも至高の仕合せを享受されていくからです。なんでも当たり前だとは思わない人生をこれからも歩みたいと思います。

今年のメンターとのテーマは、「時季時機にやることを大事にし、積み重ねてこそ晩成する」となりました。

これはその時々に起きていることはすべて必然であり必要なこと、その一つ一つを決して疎かにせず今を大切に積み重ねていくことで成熟し充実させていくということです。

世の中には原因と結果の法則があります。結果がそうならないのは、その原因に問題があるからです。結果ばかり焦っては、現在やらねばならない一つ一つを疎かにしてすっ飛ばして成功しようなどと思えばそれ相応の結果が現れてしまいます。

ちゃんと現在、大切に積み重ねていかなければらない来たものに真心を籠めて真摯に取り組んでいけば必ず四季を経て実をつけ種になりまた成長成熟を繰り返していくということです。

焦ったり、急いだりすることで時季時機のことを無駄にすることほど意味のないことはありません。心を定めて、今、遣るべき努力を怠らない一年にしていきたいと思います。

今年もよろしくお願いします。

ぬくもりのある暮らし

今年は、年始から会社のみんなと一緒に炭を中心にした暮らしを実践し豊かな時間を過ごすことができました。聴福庵では、炭は欠かせない暮らしの道具であり炭がある御蔭でぬくもりを身近に感じることができています。

例えば、朝起きてすぐに火鉢の炭に火を入れお茶を沸かします。また朝餉もその炭を用いそのまま料理します。炬燵には炭団を入れれば一日中暖かいままです。また就寝前には、その炬燵に残っている炭を豆炭あんかに入れれば布団の中も朝まで暖かいままです。他にも、お風呂の井戸水のお湯も炭で沸かし、その風呂には炭をつくるときに出てくる木酢液を入れると湯上りもずっとぽかぽかします。また花瓶には炭を入れると花が枯れにくくなり、飲み水やお米を炊くときも炭を入れてミネラルが増え浄化されます。部屋の隅々にも炭が置かれ、床や壁にも飾られ癒しの空間が演出されます。灰になったものは、掃除用の洗剤にしたり植物の周辺にまけば土の潜在力を高め菌たちには栄養になります。燻された古民家は、抗菌効果も高くなり虫が家屋に入ってきにくくなります。「ぬくぬくやぽかぽか」などの「ぬくもりのある暮らし」はこの炭の暮らしがあってはじめて成り立つのではないかと私は思います。

冬はとても冷え込みますが、寒くても寒くはないという感じが炭のある暮らしにはあります。みんなが火鉢を囲んでお茶やコーヒーを飲みながら語り合い寛ぐだけで、炭が周りの人たちの心も融かしていくかのようです。

暖炉やストーブや空調は、部屋全体を暖めますが火鉢や囲炉裏は手元や周辺を暖めます。体だけを暖める道具ではなく、心まで温める道具がこの炭であることを私はぬくもりのある暮らしから体験しました。

聴福庵は、炭御殿のようになっていますがまだまだ炭の甦生は途上にあります。いろいろな「ぬくもり」のカタチを炭と一緒に発見していきたいと思っています。

今の時代、暮らしが失われ心が渇いて冷え切り、お金があっても権力や地位があっても、心が寒くて凍えて震えている人たちがいます。特に子どもたちが家が寒くなることで、家庭のぬくもりを感じないままに育っている子どももいます。私も幼少期に両親が共働きで家には誰もいませんでしたからその家の寒さを体験してきました。

家が寒いのが当たり前ではなく、家は暖かいことが当たり前です。そしてそこには心のぬくもりがあります。冷えてしまったものを暖めるのは自然物である炭の力を借りることが一番です。

私はこれからも炭の力を借りて冷えた心の傷を炭火のぬくもりで絆に換えて人々の心を暖めていきたいと祈ります。子どもたちが寒くて震えているのなら、私がその寒さをぬくもりで融かす炭火となりたいと願います。

引き続き、初心を忘れず家が喜び炭が喜ぶぬくもりのある暮らしの実践を高めていきたいと思います。

物から学ぶ智慧

一昨年より、樽や桶を扱うことが増えましたがそこには箍(たが)がかかっています。この箍とは、樽や桶の周りにはめる、竹や金属で作った輪のことでその輪を締めたり緩めたりすることで中のものが出てこないように調整しているものです。

よく箍が外れるという言葉もありますが、あれは緊張がゆるみすぎて羽目を外し過ぎたときにも使われます。この羽目とは、馬を制するために口に噛ませる「馬銜(はみ)」が転じたものとして使われ抑えがきかず調子にのることをいいます。

この適度に締めるという技術は、まさに人の生きていく上での大切な教えでもあり樽や桶を使っているとその器として何を大切にしていけばいいのかを実感するものばかりです。

人間は緊張しすぎてしまうと自他に厳しくなりすぎます、しかし緩みすぎると箍が外れて周囲に多大な迷惑をかけてしまいます。ちょうどいい具合になっているとそのものを長く保つことができます。ここにも智慧があります。

樽や桶については、湿気と乾燥を繰り返し箍が緩んできます。湿気の時は水気によって引き締まっていても木が乾燥すると箍が緩んでしまいます。外れてしまうとバラバラになるので常に湿気を保てる状態にしながら保存します。

以前、桶職人にアドバイスしていただいたのは湿気過ぎず乾燥し過ぎないところで桶を保存することだといわれました。太陽に晒されると壊れ、水気が多すぎると腐敗するからです。また風を適度に通してあげられるところで、あまり風が強すぎるところは乾燥し過ぎるからよくないともいわれました。

現在、聴福庵の離れには縦の風が流れるように土からの水分が屋根を抜けていくようにつくられてます。適度な湿度と風が常に流れ続け桶や樽には最適な環境とも言えます。昔の人は道具を大切にすることで、自分の生き方の何が間違っていたのかを教わらずに気づいていたように思います。便利にならなくてもむしろこのままでいいと、先祖が智慧を子孫へと遺してくださったようにも思います。

締めすぎず緩みすぎないというのは、入れ物や器を大切に修繕し続けていくということでもあります。物の扱いに長けた人は、自他の扱いにも長けていきます。人が物をつくりますから、昔のものが価値があるのはその人格を持った人たちによって物がつくられてきたからです。

物から学び直し、視野の広い全体最適な心の余裕や余白を持て思いやりを優先できる自分を磨いていきたいと思います。

共に学ぶ~道中の安心基地~

今年も無事に萩にある松陰神社に参拝し、松下村塾を深めにいくことができました。もうかれこれ24年間、毎年通っていますが毎回新しい発見があり、吉田松陰の創造した学問や学校のカタチが如何に普遍的であったかを感じ入るばかりです。

あの当時、共に学んだ志士たちの生き方はわずか松下村塾での学びが1年であったにもかかわらず心に響きその後の若い人たちや子孫へと影響を残しています。

私の憧れた学校、憧れた学問、憧れた組織を先に実現していたこの松下村塾と吉田松陰は一つのロールモデルとして私が初心伝承の経営をする上でもっとも参考にしています。

自分が実践してみて一年たち、またここに来る。それを繰り返しながら、近づいていく努力をさせていただけるのは本当に有難いと思っています。その吉田松陰の生き方だけではなく、ここで創造した場を如何に甦生するかは私の人生の課題の一つだと信じています。

昨日は何度も見学した施設があったのですが、改めて目に入ったものがありました。それは松下村塾の教育方針と書かれたものです。これは今、私が仕事で「共に学ぶ」というある学校のコンサルティングを受けていますがとても参考になります。そこにはこう書かれます。

『松下村塾には「三尺離れて師の影を踏まず」というような儒教的風潮は全くなかった」師弟ともに同行し、共に学ぶというのがその基本的方針であった。松陰はその考えを、安政五年「諸生に示す」に書いている。「村塾が礼儀作法を簡略にして規則もやかましくいわないのは、そのような形式的なものより、もっと誠朴忠実な人間関係をつくり出したかったからである。新塾がはじめて設けられて以来、諸君はこの方針に従って相交り、病気のものがいれば互いに助け合い、力仕事の必要の場合はみんなが力をあわせた。塾の増改築の時に大工も頼まず完成させたのも、そのあらわれである」とした。』

現代においてもっとも先端をいく学校が学問のカタチは「共に学ぶ」ことだと知られていますが、単に知識だけを教え合ったのではなく一緒に真剣に生きて学び合った形跡が松下村塾には残っています。

生き方を通して学び合う関係というのは尊いもので、深く相手のことを尊重しているからこそはじめて共に学び合うことができるように思います。それはご縁を大切にや、一期一会などの言葉もありますがもっと偉大な生きていく姿勢そのものが純粋であったからこそここまで共に学ぶ形が顕れたようにも思います。

そしてその思いが純粋であったjからこそ常識に囚われず師弟共に学び合い、自分自身を確立させていきました。なぜそこまでこの村塾に魅力があったのか、吉田松陰のこの言葉からもうかがえます。

『教えるの語源は「愛しむ」。誰にも得手不手がある、絶対に人を見捨てるようなことをしてはいけない。』

お互いの持ち味を活かし、不得手もまた愛し、得てもまた愛し、それぞれがそこで活かし合えるように互いに見守り仲間として受け容れてくれていたように思います。この村塾は、塾生たちにとっては魂のふるさとであり、自分が天命を生きることを見出すための道中の安心基地だったのでしょう。

「世の中には体は生きているが、心が死んでいる者がいる。反対に、体が滅んでも魂が残っている者もいる。心が死んでしまえば生きていても、仕方がない。魂が残っていれば、たとえ体が滅んでも意味がある。」

魂が大事だというのは、人生の意味そのものだからです。

最後に、こう塾生たちに言い遺します。

「人間が生まれつき持っているところの良心の命令、道理上かくせねばならぬという当為当然の道、それはすべて実行するのである。」

誰がどういおうが、常識から外れていると罵られようが、道理上やらねばならぬというものは必ず行えというのが生き方です。

引き続き、今年も心魂を定めて社業に専念していきたいと思います。

 

 

自然の篩

私たちは無意識に様々な出来事の中から選択してきたことで今につながっています。それは諺にもある「篩にかける」ということを行っているように思います。この篩というものは粉・砂などの細かいものを網目を通して落とし、より分ける道具のことです。

この篩(ふるい)というものは、古いと同じ韻ですが「ふる」は「経る」からきているものです。経年していくなかで、朽ちず残るものが篩にかけられたものともいえます。そしてこの篩は民具の中でもとくに重宝され、長く人間に用いられてきたことが分かります。

篩にかけるというとき、本当に遺るものだけを選別するという意味になりますが篩にかけられるとなると、本当に遺るもの以外は選別されるということになります。

自然や時間というものは、自然に適っていないもの、真理や道理、法理に合わないものは自然淘汰していくものです。この自然淘汰とは、篩にかけられることであり理に適っていないものは消えていくということになります。

その篩は、人生においては死して名を残すものであったり、徳であったり義であったりと、それまでの体躯はたとえ寿命で失われても篩にかけられて遺ったものがカタチとなって顕れるのです。

長い目で物事を観るとき、現代まで古から遺ったものは自然淘汰の篩にかけられても消えなかったものです。それは人間も同様に絶滅していないのだから篩にかけられて遺った存在だともいえます。

しかし短期的に物事を観るのなら現代にあるものは自然淘汰されるものばかりであり、遺らないとわかっていてもそこにしがみ付いてしまうのはこの篩にかけることをしなくなっていくからではないかと私は思います。

身のまわりをよく見つめ、何百年も続くものは何があるのか、そしてすぐに消えてなくなっていくものは何なのかと、自然淘汰の理をみつめていけば自ずから自分が篩にかけられないように自らの篩を身に着けていく必要があると私は思います。

私が取り組んでいる自然農の古民家甦生も初心伝承も、私にとっては自然の篩です。

引き続き、信念をもって時代のなかで篩に残るようなものを子どもたちに譲り遺していきたいと思います。

 

努力の楽しさ~道楽の仕合せ~

聴福庵の離れのお風呂がほぼ完成し、一緒に井戸を掘った仲間たちにも体験してもらいました。苦労が報われる瞬間というか、努力してきたことが実る仕合せを感じながら皆と味わい深い時間を過ごすことができました。

振り返ってみると、長い時間をかけて手間暇をかけて一つ一つを丁寧に丹誠を籠めて取り組んできたことは努力だったように思います。その努力は、決して報われようとして取り組んでいた打算的な努力ではなく、本心から家が喜び、子どもたちが日本の伝統文化に触れる仕合せのためになるようにと祈りながら取り組んできた努力です。

寝ても覚めても、ああしたらいいのではないか、こうしたらいいのではないかと工夫して失敗しても上手くいってもいかなくてもそうか、次はこうしたらいいのかと葛藤しながらも楽しかったように思います。

この時の楽しいは、決して感情が楽しいというものではありませんでした。どちらかというと没頭していくというか、そのことだけに集中して苦労を厭わないというかんじでしょうか。

つまりは苦労の中にある楽しみとは、単なる嬉しい楽しいなどいう日ごろに感じているものとは異なり奥深いものです。つまりは苦しみそのものの中にいる仕合せというか、試行錯誤しながら寝ても覚めても取り組んでいる努力のことをいうのではないかと感じるのです。

努力といえば、王貞治さんのことを思い浮かべます。一本足打法の猛練習の努力のことは有名ですがこういう言葉を残しています。

「努力しても報われないことがあるだろうか。たとえ結果に結びつかなくても、努力したということが必ずや生きてくるのではないだろうか。それでも報われないとしたら、それはまだ、努力とはいえないのではないだろうか」

というものがあります。後半の「それはまだ、努力とはいえないのではないか」という言葉は、努力の本質を語っていることが分かります。

努力とは血がにじむようなものであり、また自分自身を削り取るようなものであることがわかります。しかしそれを頭で理解すると、ただ苦しく辛いだけのように感じますが実際はその苦しみの中にこそ真の楽があり、それが「努力の楽しさ」というものです。

つまり努力が楽しいと思えてこそ、本当の努力になっているということ。

努力そのものや努力することが楽しいとなっているのなら、先ほどのように寝ても覚めてもになるのです。この寝ても覚めてもこそが、楽しいのであり感情的には葛藤や苦しみがあったとしてもまた寝ては朝起きたらあの手があるやこの手があるなど、考えるのを已めずにまた挑戦しているということです。

人生は、この努力の価値を知る者だけが本当の成功を知るのかもしれません。成功者になりたいのではなく、努力することの仕合せを知ることが努力の跡に顕れる奇跡に出会う方法かもしれません。

苦労が報われるのは、それによって努力できた価値を再確認するからです。努力を振り返ることは仕合せを感じ直すこと。真苦楽こそが道楽のことです。引き続き、子どもたちのその努力の価値を伝道していきたいと思います。

徳の甦生

今年の一年もまた、温故知新や復古創新に取り組んだ一年になりました。一般的に古くなったものを新しくしていくのは当たり前のことですが新しいものをわざわざ古くしていくというのは当たり前ではありません。

時代的には、技術は進歩していきますからどんどん新しい素材や仕組みが席巻していきます。そうなると古い素材や仕組みが対応できませんから、新しいものに換えざるを得ません。

例えば、昔使っていたポケベルやPHSに戻そうなどといってももう環境がなくなっているのだから使うことができません。それに今更昔の技術に回帰してもメリットもなくなっています。

特にIT技術の革新は早く、ほんのちょっと前まで主流だった技術があっという間に古くなっていきますからこちらの柔軟性や順応力が重要になります。人工知能になればさらに発展の速度は加速するはずです。

これらは古いものを壊して新しくすることです。

しかし先ほどの新しいものを壊してわざわざ古くするとはどういうことか、それは見直しや見立て直しをすることで本来の智慧を甦生することです。そしてそこには職人の技術が必要になります。

つまりは先ほどのIT技術とは異なり、新しいものを改善し見直すにはそれ相応の智慧を持つ人たちの技術が求められるのです。

これは仕事でも同じく、新しいプロジェクトを創るのは簡単ですが過去のプロジェクトを新しくするためには経験や智慧や改善できる技術が必要になります。それは敢えて新しくしない技術といってもいいかもしれません。

昔の智慧を現代に復活し甦生させていくにはどう見直すか、どう見立てるかといった改善の目利きが必要です。そこには思想や哲学、さらには自然観や歴史観、死生観など様々な生き方や生き様、もっと言えば文化に精通していなければできないからです。古民家甦生でいえば、数々の伝統の職人さんたちと意見を合わせながら最適な技術をそこに施していくことで新しいものが古くなっていくのです。そこには職人技術いった伝統の智慧が凝縮されます。

技術といっても、この職人の技術は英語でひとくくりに語られるただのテクノロジーではなく心技体の合一した人格が備わっている叡智の伝統技術です。つまり新しいものを古くするには、人格に伴った伝統技術が必要になるからです。

そしてその伝統技術もっと別の言い方にすればそれを「徳」ともいうのかもしれません。

「徳」が備わってこそ本物の技術を持ち新しいものを古くすることができると私は思います。それは様々なものをモッタイナイと感じる心、ご縁を繋ぎムスブ心、子孫のことをミマモル心、清らかに澄まされたマゴコロ、など、日本の文化を体現する徳が智慧として技術に還元されるということです。

今回の聴福庵の離れの復古創新は、新しいものを古くした一つのロールモデルです。引き続き、子どもたちのためになるような徳の甦生を実践していきたいと思います。