暮らしの醍醐味

昨日は聴福庵の甦生で大変お世話になっている大工棟梁とそのご家族に来ていただき、聴福庵での暮らしとおもてなしを体験していただきました。もう一年半以上も一緒に古民家の修理や修繕を行ってきましたが、いつも作業やお仕事ばかりではじめて一緒にゆったりとこれまでのプロセスを振り返る時間を取ることができました。

和ろうそくの灯りの中、二人で盃を交わしながら深夜までお酒を吞みましたが棟梁からは改めて「このような家を手懸けることができ大工冥利に尽きる」と仕合せな言葉もいただきました。まだまだ完成したわけではなく、修理や修繕は暮らしと共に継続しますからこのように家を中心に素晴らしい出会いやご縁があったことに感謝しきれないほどです。

人生はいつ誰と出会うか、それによって運命が変わっていきます。年齢も人生も離れていた人が何かの機縁によって出会い助け合う。そしてそのご縁によって豊かで仕合せな記憶を紡ぐことができる。志を共にする仲間が出会えるということが奇跡そのものであり、その数奇な組み合わせにより新しい物語が生まれます。

聴福庵の道具たちはすべて時代的に古いものを甦生して新しく活かしているものばかりですがその道具たちには職人さんたちの魂が宿っています。みんな人は何かを創りカタチを遺すとき、そこに自分の魂を削りそして籠めます。それは時代を超えていつまでも生き続けているものであり、その物語は終わったわけではありません。

その物語の続きを創るものがいる、魂を受け継ぐものがいる。そうやって今でもこの世に存在し続けて私たちと一緒に記憶の一遍を豊かに広げていくのです。またその魂は、同様に同じ志や思いをもっているものたちと引き合い弾き合わせてご縁を奏で波長を響かせていきます。その空間にはいつまでも楽しく豊かな記憶が、志を通じて甦るのです。それが暮らしの醍醐味なのです。

子どもたちに譲り遺していきたい暮らしとは、このように昔から続いている魂を大切に受け継いでいく勿体無い存在に対する尊敬の念です。ご先祖様たちの重ねてきた人生の延長線上に今の私たちがあるということ。それを決して忘れないでほしいと願うのです。

そのためには、それを実感できる場や存在、生き方や生き様などを与えてくれる大人たちの背中が必要なのです。今、私がここで感じている仕合せをどのように今の時代の子どもたちに伝承していくか、まだまだ未熟で途上ですがここで満足せずさらに一歩前に踏み出していきたいと思います。

 

階層型組織から協働体組織へ

現在、キャリアパスなどを義務付けされ研修に参加することを法的に施工させるという現象が教育業界でも起こっています。そもそもこのキャリパスというのは経営学用語の一つであり、企業においての社員が、ある職位に就くまでに辿ることとなる経験や順序のことをいいます。職員や社員の視点では、将来自分が目指す職業を踏まえた上でどのような形で経験を積んでいくかという順序・計画を指し、キャリアプランなどを設定してはそれに沿って研修を受けて成長していくという仕組みです。

階層型組織、いわゆるピラミッド型組織で目標設定型で取り組んでいくような経営組織においては有効かもしれませんが今の時代のように多様化する変化に柔軟に対応していくような場合の組織ではこの階層型やピラミッド型の組織という戦略は私ならまずは選択しない方法論です。時代遅れというか、官僚型の仕組みをいまのような変化が大きな時にやろうとしてもニーズとの不一致は広がるばかりです。補助金を出すからキャリアパスをやれというのは、そもそもがおかしな話でこのような官僚型の発想で上から押し付けられたキャリアパスはやればやるほどに後の修正が非常に困難になるだろうと私は予測しています。

今の時代に必要な能力として欠かせないものは協働するリーダーシップです。それは社員一人ひとりにも必要となる協力する能力のことです。これをチームワークともいいますが、世界ではすでに戦略的に階層型組織をやめ協働体組織への変化にシフトしています。この協働体組織とは共異体組織のことであり、それぞれの徳性を伸ばし持ち味を活かし、皆で一緒にいることの相乗効果を最大限に発揮した組織のことです。

そのモチベーションの動機は決して個人の成長が優先されるのではなく、みんなの仕合せが優先されます。自分だけが良くなればいいではなく、如何にみんなが善くなるか、部分最適ではなく全体最適が行われることを最善とします。みんなが必要とし合い持ち味を活かし家族のような結束で豊かな社會を人間は本能で望んでいます。これは名君がいて平和に国が豊かに治まったような状態、それを実現した組織とも言えます。

古来より日本には、全体善という思想がありました。これは利己ではなく利他の精神であり、みんなが利他で思いやり助け合うことで豊かで幸福な社會を実現していくという考え方のことです。モチベーションを高めるために、馬の鼻先にニンジンをぶらさげるような場当たり的なキャリプランを設置しそんなものを与えてもやる気が永久に持続するわけはありません。もちろん短期的にはそれが合った人もいるでしょうが、視野を広げればそれで合ったはずはなく長持ちもせず組織も協働体になることはまずありえないでしょう。これで余計に個々のつながりが断たれバラバラになる仕組みが活発化し、その終息に数年から十数年かかるかもしれません。

自分でやったこともないことを絵に描いた餅のように施工するのではなく、実際にそのような協働体や共異体を実践して実現している組織の人物たちと一緒にどのように世の中を変えていこうかと話し合うことができるくらいに質を議論できるようになる必要性を私は感じます。いつも思いますが片方が一歩的に何かをやったりやらせたりするのではなく、正しく対話を行い一緒に考える中で磨き上げていくのが本質的な取り組みです。

日本では昨日ブログで書いた産学官連携においても、連携が既存の既得権益や悪しき風習によって学主導や産主導、もしくは官主導になっているだけの壁や枠が取り払われなければ本質的な協働などはまだ先の話のように感じてしまいます。ここの協働がまず成り立っていないところに問題があるように私は思います。

しかし批判してもはじまりませんから私たちは理念を同じくする仲間やパートナー、お客様と共に協働や協力を対話によって一歩ずつ実現する仕組みを地道に広げていこうと思います。

子どもたちのためにも、今の時代に合致した戦略、今のニーズに対応した対話の在り方を発明しつつ丁寧に実践を取り組んでいきたいと思います。

 

運命の模様替え

世の中には不平不満ばかりを述べては言い訳ばかりして何もしない人もいます。そうかといえば、言い訳をせずにどんなことも勇んで遣りきっている人もいます。自分から進んで取り組むことは勇気がいることですが、他人が嫌がることや大変なことを自ら引き受けて取り組んでいる人は運命が明るく伸びているように思います。

そういう人は徳が積まれ、その徳によって運命が好転していくように思います。

常岡一郎さんにこのような言葉があります。

「徳と毒はよく似ている。徳は毒のにごりを取ったものだ。毒になることでも、そのにごりを取れば徳になるのである。どんないやなことでも、心のにごりを捨てて勇んで引き受ける心が徳の心だ。いやなことでも、辛いとかいやとか思わないでやる、喜んで勇みきって引き受ける、働きつとめぬく、それが徳のできてゆく土台だ。ばからしいとか、いやだなあというにごった心をすっかり取って、感謝と歓喜で引き受けるなら辛いことほど徳になる」

常岡一郎さんは、自分のことは後回しにしてでも誰かのために自分を絞りきる実践をなさっていた方だったといいます。朝顔を洗おうと思いながらも、みんなのために朝起きてすぐに自分を盡していたら結局は夕方になって顔を洗うことになっていたといいます。しかしそうやって、みんなのためにと生きるからこそ勇心や勇気がでていたともいいます。自分のことを先にすれば毒になり、自分のことを後回しにすれば徳になる。毒と徳は紙一重の生き方の差にあるように感じます。

また常岡一郎さんは「運命の模様替え」という言い方をします。

「常に勇んで生きる人に天の心が動く。天の心が変わって後に、天命も天の恵みも変えられるのである。粗末な汚れた今日の運命の着物を着せられていても、燃えるような勇んだ心の持主には明日の美しい着物と模様替えされる。人の運命の着物は親なる神にまかせねばならぬ。泣いても、わめいても自分の運命は自分で頂かねばならない。逃れる道はない、明るいお礼心で迎え勇ましく働いて、模様替えの始まるまでつとめきるより他はない。」

どんな運命であってもいくらでも人は必ずそれを好転させていくことができる。それには燃えるような勇んだ心、つまり「勇気」だといいます。私も人生を省みると、痛くても前に踏み出す勇気、怖くても一歩を踏み込む勇気、その勇気があるから運命を受け容れることができその運命に従い自分を成長させてこれたように思います。

この勇気は決して、ただ闇雲に無鉄砲に突っ込めというような野蛮なものではありません。自分を後回しにしてでも、勇気を出して信念に従ったり、今まで頑固に執着している自分のことを手放して新しいことに挑戦したりするときの勇気だと思います。

私も先日から足を痛め、ずっと右足が前にでず階段が怖くて登れませんでした。あまりの激痛と、階段を踏み外したことへの心理的ショックが大きすぎて足が前に出ないのです。しかし、お客様の理念研修を実施するにおいて私が勇気を出さなくてはと前に足を踏み込んだとき勇気が出てすべてのことが打破されていきました。

人が変わるということは、勇気を出して行動するということです。

運命は勇気を出して足を前に出すからこそそこから景色が動き始めます。自分の保身や心配ばかりをしていて怖がっていても人生は好転せず、誰かのためにと自分を後回しにしてでも取り組もうとする勇気の時にだけ、福に転じていきます。

「思い切ったことをやる。すばらしい困難と取り組む。そこに自らの未熟さがわかる。力の不足がわかる。不徳がわかる。しみじみと自分の本体がさらけ出される。そこで反省も出来る。鍛錬に力がはいる。修養が真剣さをもって来る。何もしないで考えているのは人生のむだ遣いである。」

・・何もしないで考えているのは人生のむだ遣いである・・

生き方の指南として、「自分をふり絞れ=勇気を振り絞れ」という意味、「運命の模様替え」はいつも大事な局面で背中を押してくれるかもしれません。勇気を出していのちを遣りきるという今を生き切る姿勢を保ち続けるためにも、好奇心と創造力を信じて挑戦していきたいと思います。

 

 

日本の文化

私たちは目には見えないけれど確かに文化というものを持っています。その文化は表層にはあまり現れていなくても、深層には確かに存在していて何かがあると顕現してくるものです。

例えば先日、都内で大雪が降ったとき多くの人たちがみんなで協力し助け合い雪かきをしたり道を誘導したり、声掛けをし合ったりといった光景を観ることができました。他にも大震災のときなど、みんなが自粛して行動したりみんなのために分け合ったりしながら助け合い思いやりの光景が観られます。

世界は報道などで、日本人のこれらの助け合い譲り合いの精神を垣間見ると大きな尊敬の念を抱いてくれます。その時、外国の人たちが観ているのはその国にその国民に流れる文化を観ているのであり、その文化の素晴らしさに感動されているのです。

この文化というものは、一朝一夕にできたものではなく長い時間をかけて繰り返し繰り返し、自分たちが大切にしてきていることを忘れないで生きてきた集積によって定着していきます。

言い換えるのなら生き方とも言えますが、先祖が何を大切にして生きてきたか、そして子孫へは何を大切にして生きてほしいか、さらには自分は何を大切に生きていくかということを自覚して人生を伝承していく中で伝統となってつながっていくからです。

私たちが災害時や有事のときに自然に体が動くのはなぜか、自分の中から優しい心や思いやりの精神が湧いて出てくるのはなぜか、それはひとえに先祖がそういう生き方をなさってこられたからです。それが文化として脈々と自分の中に備わって受け継がれていることに気づいたのです。

初心に気づくというものもまた同様に、自分がどのような生き方をしていくかはその伝統とのつながりの上に折り重なっていきます。人間の性が本来、惻隠の情や真心があるのもまた親祖の初心が自分に備わっているということなのです。

日本の文化を大切にするのは、自分自身の初心を大切にしていくことで守り続けることができます。決して伝統工芸や食文化だけが日本の文化ではなく自分自身が日本人である生き方を思い出し、それを伝承していくことが日本文化を守ることになります。

引き続き、子どもたちに日本人の生き方を伝承しながら誇りをもって日本の文化を伝道できるように精進していきたいと思います。

水の味

井戸水を炭で沸かして点てるお茶はいつも格別な味がします。このお茶の味の中には、井戸水の深い味わいが混じっています。この水の味というものは、今では水道水の普及と共にあまり日常的に意識して感じなくなったかもしれませんがこの水には不思議な個性の味があります。

例えば、販売してあるようなペットボトルのミネラルウォーターの水や自然からそのまま湧き出る水は同じ水ではありません。成分の違いもありますが、どの場所の水を汲んだか、さらには水を取り出した時機など、その水には様々なものが映っています。

水の不思議な力のひとつは、混ざり合う力です。どんなものとでも混ざり合い融け合わせる力を使ってどんなものも浄化していきます。ミネラルが豊富に入るのは、水の中に自然物が融けているからでもあります。

最近問題なっている酸性雨は、空気中の汚染物と融け合った水が空から降ってきているし、また水道水に入る有害物質もまた河川の汚染の影響で融け合った水が配管から流れてきているともいえます。

水は万物を循環しながら、混ざり合い全体調和によって万物全ての生き物のために融け合わせていく働きを已めません。

人間の体では、60%以上が水でできておりすべての臓器や骨格に水が含有しそれが流れ続けています。一日に約2リットルの水を摂取し排出しながら体の中にあるものと混ざり合い融け合い浄化を続けます。腎臓は、その8倍の水を常にフィルターで人間の体に適合するように再生され続けます。

井戸水がなぜいいのか、それはこの土地の木々や植物や野菜などこの地の水を取得して成長しているからです。その風土に適した水は、その風土に調和した水とも言えます。外から運んできた水は、外からもってきた水ですからその土地のものではありません。

その土地の空気や水、光や風は、見事にその土地の持つ不思議な風土と合致します。その合致した状態が調和であり、私たち人間も自然に調和を美味しいと感じます。この井戸水が美味しいと思う感覚はそこから来るのです。

お茶もまた炭を熾し、井戸水を入れ、時間をかけてゆっくりと融けだしていく万物の調和に美味しさを感じ水の不思議な感覚を覚えます。万物の根源に触れる機会があるというのは、調和を甦生する機会に出会うということでもあります。

水の不思議な力を味わいながら、思索にふける時間はとても豊かで味わい深いものです。引き続き、復古甦生を味わいながら学び直していきたいと思います。

日本の心と自己錬磨

私が尊敬する方の一人に日本の将棋棋士で永世七冠の羽生善治氏がいます。いくつかの著書を拝見していますが、そのどれも自己との対話や感情との折り合い、調和への心の姿勢などどれもとても参考になります。実戦により鍛錬されたその思想や感情、どのように向き合って自己錬磨されているか、それは事物に挑むときの指針になります。例えば、自己との勝敗を決める岐路について磨かれている言葉には下記のようなものがあります。

「自分から踏み込むことは勝負を決める大きな要素である。」

「基本的に人間というのは怠け者です。何も意識しないでいると、つい楽な方向や平均点をとる方向にいってしまいます。だから相当意志を強く持って、志を高く揚げ核となっている大きな支えを持たないと、一生懸命にやっているつもりでも、無意識のうちに楽な方へ楽な方へと流されていくことがあると思います。自分自身の目標に向かって、ちょっと無理するくらいの気持ちで踏みとどまらないといけません。」

「どんな場面でも、今の自分をさらけ出すことが大事なのだ。」

「「自分の得意な形に逃げない」ということを心がけている。」

「勝負に一番影響するのは「怒」の感情だ。」

「平常心をどれだけ維持できるかで、勝負は決まる。」

自分との戦いを続け、如何に自分を磨いていくか、荘子(達生篇)に収められている故事に由来する言葉に木彫りの鶏のように全く動じない闘鶏における最強の状態をさす「木鶏」という言葉がありますがまさに羽生善治氏はその木鶏そのもののモデルように私は感じています。この境地を体得するために、私たちは自己錬磨を続けていくように思います。

「ビジネスや会社経営でも同じでしょうが、一回でも実践してみると、
頭の中だけで考えていたことの何倍もの「学び」がある。」

「人間には二通りあると思っている。不利な状況を喜べる人間と、喜べない人間だ。」

「私は、対局が終わったら、その日のうちに勝因、敗因の結論を出す。」

「私は才能は一瞬のひらめきだと思っていた。しかし今は、10年とか20年、30年を同じ姿勢で、同じ情熱を傾けられることが才能だと思っている。」

「ひらめきやセンスも大切ですが、苦しまないで努力を続けられるということが、何より大事な才能だと思います。」

「何かに挑戦したら確実に報われるのであれば、誰でも必ず挑戦するだろう。報われないかもしれないところで、同じ情熱、気力、モチベーションをもって継続しているのは非常に大変なことであり、私は、それこそが才能だと思っている。」

自己錬磨の価値を教えてくれる存在が、同じ時代に生きていてその姿勢を見せてくれることがどれだけ有難いことか。日本の伝統文化である将棋には、日本の心があります。その日本の精神性や心を体現している存在があって、私たちは勝敗とは何を学ぶものか、そして自己錬磨とは何かということを先祖の生き方を学び直します。

尊敬し憧れるのは、単に強いからではなく日本人として磨かれた精神を将棋に感じ、その自己錬磨の生き方に感動するからかもしれません。

最後にいま、特に心に響く言葉です。

「山ほどある情報から自分に必要な情報を得るには、「選ぶ」より「いかに捨てるか」の方が、重要なことだと思います。」

「 今の情報化社会では知識や計算は簡単に手に入る、出来る物。だからもうあまりそれらに意味はない。これからの時代の人間にとって大事なのは決断する事だと思います。」

どのような決断をするか、そして何を捨てるか、常に自己との対局を楽しんでいくことで自己錬磨の面白さも味わいも豊かになります。引き続き、日本の心と自己錬磨を学び直していきたいと思います。

 

職商人

「職商人」(しょくあきんど)という言葉があります。これは職人と商人が合わさった言葉で、言い換えるのならいい職人こそいい商人であり、職人と商人の一致とも言えます。私はこの言葉に出会い、感動し、自分が目指しているところを知り、また同時に日本人の持つ伝統的経済観念を再確認することができました

かつて江戸時代は、修理や修繕といった繕いの文化がありました。今のように新しいものをつくっては捨てていく時代は、分業制も進みものを作る人と売る人も分かれてしまっています。

以前、ある鋸職人のところにいい鎌や鍬の鍛造を相談しに行った際に、職人さんたちが使い手の相談に乗りながら新しい商品を開発しそれが商売になっているという話をお聴きしたことがありました。アイデアを常に、お客様と一緒一体になって作ってこそ単なる物売りではなく単なりものづくりではなく、職商人であるともいえます。

自分で作ったものを長く手入れできるということは職人にとってもどの部分が改善が必要でどの部分が弱かったのか、また使い手の癖や職業上の理由など物事が深く理解できます。さらには、作ったものを如何に長持ちさせて甦生させるかを極めていくことは捨てない社會、いわば循環型の持続可能な社會を実現するために大きな役割を担っていることになります。

作ったものを修理修繕し、改善する文化があれば大量生産しなくても少量生産であっても長く永続的に使えればゴミになることはありません。今の時代は、作っては捨てて、古くなってはすぐにゴミのように廃棄されますが、それは職商人がいなくなっているからです。

職商人は、自分で体験したものの気づきをまた新たな智慧にして世の中に還元して人々と共に成長して成熟し、ものづくりだけではなく人づくりにまで貢献していくものです。まさに自他自物一体の境地の生き方です。

世の中がもので溢れていたとしても、長く使い古されて貢献してきた物は思い出や思いやりなどがそのものに籠っています。それを如何に活かし、長持ちさせていくかが、その人物の人格に左右されます。物を磨くのは修繕するところからはじまり、精神を磨くのはそれを研ぎ澄ますことで得られます。

引き続き、古来からあるものを大切にしながら子どもたちに勿体ないの初心の本質を伝承できるように日本の伝統文化を担う職商人としての誇りを持ち、一つひとつを丁寧に実践していきたいと思います。

実践の意味

経済や経営を考えるとき、二宮尊徳にとても有名な言葉があります。それは「道徳なき経済は罪悪であり 経済なき道徳は寝言である」というものです。これはホンダの創業者本田宗一郎が、「理念なき行動は凶器であり、 行動なき理念は無価値である」ということにも通じます。

つまりは道徳とは、人が生きる上での目的そのものでありそれがない経済だとすれば個人の欲望そのものであるから社會にとっては罪悪であり、理念がないのにいいことばかりいって経済にしないことや、いいことをやっているように後から帳尻を合わせてもそれは単なる寝言ほどの取るに足らない戯言であるといいました。本田宗一郎は、個人の欲望の経営は凶器になっているともいいます。そして実践することがないのなら理念などあっても無価値で無意味であるといいます。

これは理念経営を行う上で大切に指標になります。リーダーは何をもって甘えているかといえば、それは単にサボるとか怠けるとかの話ではありません。目的に対して真摯に実践を怠らないのであればそれは甘えていないのであり、もしも会社が利益がでていくら繁盛していても理念と実践がないのならそれは甘えているともいいます。

甘えを断つというのは、目的に生きるということであり、理念を優先し自分の生き方を変えるということです。人生は自分個人や私心、私利私欲のためにあるのではなく、それよりも大切なもののために自分を優先できてこそ社會の中で本物の自分を自立していくことができます。

みんな人々は目的を持つことで心を定め一生を歩んでいきますから、つまらないことにいつまでも囚われないためにも理念と実践はよりよい人生を充実するために欠かせない両輪であろうと思います。

二宮尊徳は人生の指標として下記のような遺訓を弟子たちに語ります。

翁曰く

人、生まれて学ばざれば、生まれざると同じ
学んで道を知らざれば、学ばざると同じ
知って行うこと能はざれば、知らざると同じ
故に、人たるもの、必ず学ばざるべからず
学をなすもの、必ず道を知らざるべからず
道をしるもの、必ず行はざるべからず

何が生まれていないか、何が学んでいないか、何が知らないことか、本当の人生を歩みなさいと語り掛けます。

道は実践によって顕れ、学は道の実践で顕れ、生は学の実践で顕れる。つまりは人生は実践することではじめて為るということをいいます。

この「実践」というものの価値にどれだけの人が気づいているのだろうかとも思います。実践とは、目的をもって行動するということですがどれだけ日々その初心を忘れずに行動できているかと内省することで自分の人生を生きることを思い出すものです。

心の荒蕪は、今では心の渇きとして人々の中に苦しみが宿ります。その苦しみを少しでも和らげ、心田を開発できるように一円観、一円対話を世の中に弘めていきたいと願い実践を継続していきたいと思います。

2018年のテーマ

昨年は、右足の怪我で歩けなくなりメンターとの振り返りができない年末年始を過ごしましたがようやく昨日その振り返りを行うことができました。もう10年以上、同じことを続けていますがこの時間がとても有意義で私の生き甲斐の一つになっています。

生き方に憧れた方と道を同行し一緒に学び歩みたいと願う童心がこの機会とご縁を創造していくれています。有難いことに、こんな自分を指導してくださる方がいる、見守って育ててくださる方がある安心感は決してなにものにも代えがたいものです。

そう考えてみると、当たり前と思っている中にどれだけ本当の仕合せが潜んでいるか。上の人が下に教えるのは当たり前ではないし、誰かが自分のために真心でアドバイスをいただくことも当たり前ではない、さらに見守ってくれることなどは本当に有難く当たり前ではないことに気づきます。

人は結局は、どれだけ当たり前と思っている実は偉大な事実に気づけるかでその人の成長が決まるのではないかと私は思います。当たり前が感謝に転換できている人は、その生涯においていつも至高の仕合せを享受されていくからです。なんでも当たり前だとは思わない人生をこれからも歩みたいと思います。

今年のメンターとのテーマは、「時季時機にやることを大事にし、積み重ねてこそ晩成する」となりました。

これはその時々に起きていることはすべて必然であり必要なこと、その一つ一つを決して疎かにせず今を大切に積み重ねていくことで成熟し充実させていくということです。

世の中には原因と結果の法則があります。結果がそうならないのは、その原因に問題があるからです。結果ばかり焦っては、現在やらねばならない一つ一つを疎かにしてすっ飛ばして成功しようなどと思えばそれ相応の結果が現れてしまいます。

ちゃんと現在、大切に積み重ねていかなければらない来たものに真心を籠めて真摯に取り組んでいけば必ず四季を経て実をつけ種になりまた成長成熟を繰り返していくということです。

焦ったり、急いだりすることで時季時機のことを無駄にすることほど意味のないことはありません。心を定めて、今、遣るべき努力を怠らない一年にしていきたいと思います。

今年もよろしくお願いします。

ぬくもりのある暮らし

今年は、年始から会社のみんなと一緒に炭を中心にした暮らしを実践し豊かな時間を過ごすことができました。聴福庵では、炭は欠かせない暮らしの道具であり炭がある御蔭でぬくもりを身近に感じることができています。

例えば、朝起きてすぐに火鉢の炭に火を入れお茶を沸かします。また朝餉もその炭を用いそのまま料理します。炬燵には炭団を入れれば一日中暖かいままです。また就寝前には、その炬燵に残っている炭を豆炭あんかに入れれば布団の中も朝まで暖かいままです。他にも、お風呂の井戸水のお湯も炭で沸かし、その風呂には炭をつくるときに出てくる木酢液を入れると湯上りもずっとぽかぽかします。また花瓶には炭を入れると花が枯れにくくなり、飲み水やお米を炊くときも炭を入れてミネラルが増え浄化されます。部屋の隅々にも炭が置かれ、床や壁にも飾られ癒しの空間が演出されます。灰になったものは、掃除用の洗剤にしたり植物の周辺にまけば土の潜在力を高め菌たちには栄養になります。燻された古民家は、抗菌効果も高くなり虫が家屋に入ってきにくくなります。「ぬくぬくやぽかぽか」などの「ぬくもりのある暮らし」はこの炭の暮らしがあってはじめて成り立つのではないかと私は思います。

冬はとても冷え込みますが、寒くても寒くはないという感じが炭のある暮らしにはあります。みんなが火鉢を囲んでお茶やコーヒーを飲みながら語り合い寛ぐだけで、炭が周りの人たちの心も融かしていくかのようです。

暖炉やストーブや空調は、部屋全体を暖めますが火鉢や囲炉裏は手元や周辺を暖めます。体だけを暖める道具ではなく、心まで温める道具がこの炭であることを私はぬくもりのある暮らしから体験しました。

聴福庵は、炭御殿のようになっていますがまだまだ炭の甦生は途上にあります。いろいろな「ぬくもり」のカタチを炭と一緒に発見していきたいと思っています。

今の時代、暮らしが失われ心が渇いて冷え切り、お金があっても権力や地位があっても、心が寒くて凍えて震えている人たちがいます。特に子どもたちが家が寒くなることで、家庭のぬくもりを感じないままに育っている子どももいます。私も幼少期に両親が共働きで家には誰もいませんでしたからその家の寒さを体験してきました。

家が寒いのが当たり前ではなく、家は暖かいことが当たり前です。そしてそこには心のぬくもりがあります。冷えてしまったものを暖めるのは自然物である炭の力を借りることが一番です。

私はこれからも炭の力を借りて冷えた心の傷を炭火のぬくもりで絆に換えて人々の心を暖めていきたいと祈ります。子どもたちが寒くて震えているのなら、私がその寒さをぬくもりで融かす炭火となりたいと願います。

引き続き、初心を忘れず家が喜び炭が喜ぶぬくもりのある暮らしの実践を高めていきたいと思います。