四時ノ循環

吉田松陰に「留魂録」というものがあります。これは処刑直前に江戸・小伝馬町牢屋敷の中で書き上げられた弟子たちや同志へ向けての遺書とも言えます。

その中の第八節に四時ノ循環というものがあります。原文を紹介すると、

「 一、今日死ヲ決スルノ安心ハ四時ノ順環ニ於テ得ル所アリ
蓋シ彼禾稼ヲ見ルニ春種シ夏苗シ秋苅冬蔵ス秋冬ニ至レハ
人皆其歳功ノ成ルヲ悦ヒ酒ヲ造リ醴ヲ為リ村野歓声アリ
未タ曾テ西成ニ臨テ歳功ノ終ルヲ哀シムモノヲ聞カズ
吾行年三十一
事成ルコトナクシテ死シテ禾稼ノ未タ秀テス実ラサルニ似タルハ惜シムヘキニ似タリ
然トモ義卿ノ身ヲ以テ云ヘハ是亦秀実ノ時ナリ何ソ必シモ哀マン
何トナレハ人事ハ定リナシ禾稼ノ必ス四時ヲ経ル如キニ非ス
十歳ニシテ死スル者ハ十歳中自ラ四時アリ
二十ハ自ラ二十ノ四時アリ
三十ハ自ラ三十ノ四時アリ
五十 百ハ自ラ五十 百ノ四時アリ
十歳ヲ以テ短トスルハ惠蛄ヲシテ霊椿タラシメント欲スルナリ
百歳ヲ以テ長シトスルハ霊椿ヲシテ惠蛄タラシメント欲スルナリ
斉シク命ニ達セストス義卿三十四時已備亦秀亦実其秕タルト其粟タルト吾カ知ル所ニ非ス若シ同志ノ士其微衷ヲ憐ミ継紹ノ人アラハ
乃チ後来ノ種子未タ絶エス自ラ禾稼ノ有年ニ恥サルナリ
同志其是ヲ考思セヨ」

「今日死を決するの安心は四時の順環にい於いて得る所あり。
蓋し彼の禾稼(かか)を見るに、春種し、夏苗し、秋刈り、 冬蔵す。
秋冬に至れば人皆其の歳功の成るを悦び、酒を造り、 醴を為り、村野歓謦あり。
未だ曾て西成に臨んで歳功の終るを哀しむものを聞かず。
吾れ行年三十、一事成ることなくして死して禾稼の未だ秀でず實らざるに 似たれば惜しむべきに似たり。
然れども義卿の身を以て云えば、是れ亦秀実の時 なり、何ぞ必ずしも哀しまん。
何となれば人寿は定まりなし。
禾稼の必ず四時を経る如きに非ず。
十歳にして死する者は十歳中自ら四時あり。
二十は自ら二十の四時あり。
三十は自ら三十の四時あり。
五十、百は自ら五十、百の四時あり。
十歳を以て短しとするは蟪古をして霊椿たらしめん と欲するなり。
百歳を以て長しとするは霊椿をして蟪古たらしめんと欲する なり。
斉しく命に達せずとす。
義卿三十、四時巳に備はる、亦秀 で亦実る、その秕(しいな)たるとその粟たると吾が知る所に非ず。
もし同志の士その微衷を憐み継紹の人あらば、 乃ち後来の種子未だ絶えず、自ら禾稼の有年に恥ぢざるなり。
同志其れ是れを考思せよ。」

自然界と等しく、いのちは永遠に循環しているものです。いつがはじまりでいつが終わりか、そんなものは本当はないに等しいものかもしれません。そう考えてみると、すべてのいのちが循環を已まないようにあらゆるいのちはその使命を全うしているともいえます。

そしてそれは傍から見れば、早死にした人であっても、結果がうまくいっていないように思われたとしても、その人にはその人の大切な役割があり、それを果たしているとも言えます。

同志や仲間たちに死を恐れさせず、自分の天命を全うせよと自分のいのちの最期に語り掛けて至誠であり続けよと教えます。塾生たちと一緒に、そして同志たちと一緒に、自分のすべての生命を受け容れ全うしようとする純粋な魂には感動するものがあります。

思想や志は、たとえ体躯が朽ちても永遠に遺るものであるのは循環が証明しています。如何に好循環を産み出すかは、その人の生き方と生き様次第です。

循環を忘れないようにいのちのままに魂を磨いていきたいと思います。

理念=経営

企業をはじめすべての組織には、その組織を創るための目的というものがあります。何のためにそれを創り、そして何処を目指していくのかといったものですが目的と方針、方向性こそがその組織の運命を決めていきます。

またその組織で働く人たちは何かの判断をみんなで決めて協力していくとき、拠り所にしていくものがあります。それは原点でもあり、物事のはじまりに決めた初心だともいえます。

こういうものを理念と呼びますが、その理念を持ったままにみんなで力を合わせて協力して働くことを経営と呼びます。

つまりは本質として「理念=経営」であり、「経営=理念」です。これを勘違いして理念と経営を分けている人がいます。それは分けたのは経営者であり、経営者は「自分=理念」だと思い込んでいるからです。

経営者も組織の中の一人であって目的に向かって一緒に働く全体の一部です。組織の目的と方向性をその組織のだれよりも鮮明に明確に観えており、みんなが判断に迷ったときにそれを示唆したり、導いたり、思い出させたりするのが経営者の役割です。

理念があって働ける仕合せは、日々の経営の生き甲斐とも言えます。生き方と働き方とは、言い換えるのなら理念と経営のことです。それを一致させていくというのは、言っていることと遣っていることが一致しているということです。まさに理念経営とは言行一致のことであり、偉大な目的に向かってみんなで協力してその目指したところまでを言語化し明文化して、一人ひとりがはっきりと自分自身で観えるようになるまで浸透していることで実現します。

これを誰か任せにしたり、自分は知らなくてもいいとしていたらいつまでもその目的が達成されることもなく、またバラバラになって組織は次第に崩壊していきます。さらには言行不一致になれば不平や不満、正直者が馬鹿をみる組織になり次第にみんな諦めてその組織は腐っていきます。

生き方と働き方が分かれているということは、生き甲斐と遣り甲斐が分かれているということです。そんなものは本来なく、生き甲斐と遣り甲斐が一致するからこそその両方は成立するものです。

だからこそ大事なのは、理念経営を実践することだと思います。

それを邪魔するものは、マンネリ化であったり、歪んだ個人主義であったり、経営者の独善であったり、伝えられなかったり、振り返りがなかったり、そんな時間すらも設けていなかったりと色々と理由がありますが、本来、その組織の本質に立ち返ることが理念経営にしていくということです。

経営という字の本来の意味は、続いていく営みです。つまり永遠の営みとも言えます。理念経営とは、理念が永続していく仕組みのことです。組織はその時々で変化してひょっとすると滅んでいくことがあるかもしれません、それは国家においても然りです。

しかし滅んでも滅ばないで続いていくものこそが理念であり、それを実践することが理念経営の本質です。大義や信念、そして道を子孫へとつなげていくのが今を生きる私たちの使命ですから自分の代の私腹を肥やすための理念経営などはありません。

引き続き、子どもたちのためにも目的に向かって生き方と働き方、生き甲斐と遣り甲斐の組織を世の中の広め社會をさらに豊かにしていく手助けに邁進していきたいと思います。

 

湿式工法の瓦葺き3

昨日は再び屋根にのぼりみんなで土葺きでの瓦葺きを体験しました。職人さんが軽々とやっているのを見るのと自分たちでやるのでは勝手が異なり、瓦一枚を葺くのに大変な時間がかかりました。

しかしみんなで協力して葺いた瓦には愛着が湧き、そこに綺麗に波打ついぶし瓦の様子にぬくもりを感じます。日本の伝統的なものを伝統的なやり方で実践する、まさに心と技術が調和することで和の家が実現することを再確認する有難い機会になりました。

この後は数週間の間、土を乾かし仕上げにのし瓦や鬼瓦をのせて完成です。時間をかけて土を乾かす間もまた、味わい深い大切な時間です。のし瓦は屋根の棟に来る雨水を表側と裏側に流すために積まれる瓦の事を言います。そして鬼瓦は屋根の棟の端に置く大きな瓦のことでこれは厄除けと装飾を目的として設置されています。

少し鬼瓦を深めますが、この鬼瓦のルーツはパルミラにて入口の上にメデューサを厄除けとして設置していた文化がシルクロード経由で中国に伝来し、日本では奈良時代に唐文化を積極的に取り入れだした頃、急速に全国に普及したとウィキペディアにはあります。

この鬼瓦を眺めていると、家を守る存在が屋根であることをより実感します。中国での鬼は、厄災をもたらすものとして忌み嫌われますが日本のオニは厄災を転じて福にするオニです。

例えば、大みそかに山から降りてくる神さまを祀るのに神が鬼の姿に転じた行事が日本各地に残っています。人々は鬼を恐れながら囃(はや)し、もてなします。また仏教では敵対していた悪が仏法に帰依し仏法を守護するものとして鬼があります。日本では牛若丸と弁慶のように、純粋な魂や義を守る守護神としてオニのような強さを持つ存在を守り神として大切に接してきました。

この屋根のオニは、日本の精神を顕すものでありオニの存在が屋根を守り、私たちはいつも守られながら暮らしているということを忘れないということに気づかせてくれます。

家を思うとき、私は守られている存在である自分に気づきます。家が喜ぶかということは、守られているということに感謝してその家に住まうことをゆるされている自分たちがあると実感して楽しく豊かに暮らしていくことだと思います。

今回の瓦葺きから、日本建築が如何に「守る」精神に包まれているかを学び直しました。引き続き、聴福庵の離れの完成までのプロセスを味わい子どもたちに初心を伝承していきたいと思います。

幸福の道

生きていく中で私たちが学ぶ大切なことに「感謝」というものがあります。この感謝は、自然に生まれてから備わっているものですがそれを磨いていく中で人格が高まり人生がよりよく仕合せに実現していきます。

しかしこの感謝は、性格の歪みによって別のものにすげ換ってしまうことがあります。それは「素直」かどうかがカギを握ります。性格が素直な人は、感謝しかない状態でその心境のままであるから無理をしたり頑張ることがありません。

文字通り素直に自分の心と言葉が一致しており、無理して頑張って感謝したりされなくても自然に感謝の状態を維持することができています。その素直さが謙虚さであり、感謝しかなく有難いと全てのことを感じているからこそその人物は自然体で人を信頼し、また周囲から信頼され、楽しく豊かな日々をみんなと一緒一体になって生きていくことができます。それこそが、真実の幸福であり自由であり自立した成熟した人間の姿です。

ただ幼少期から、自分以外の誰かの評価を気にしてはその評価がよくなるように頑張って評価される経験を積み重ねていくと自分の仕合せが歪んでいきます。無理して誰かのためにやることで自分が仕合せになると信じ込めば、感謝もまた評価の一つにすげ換ります。

本来、感謝は自分が仕合せを感じているのが先です。例えば、こんなに恵まれて有難いや、自分の好きなことをやってみんなが喜んでくれてとか、自分の遣り甲斐が誰かの役に立っていて幸せとか、まずは自分自身が自分自身であることに感謝していることが先であることが本来の感謝ということです。

しかし実際は性格が歪み素直でなくなれば、感謝のために頑張ろうとして感謝を忘れるという本末転倒することをしてしまうのです。

禅語に「足るを知る」がありますが、これは自分がまずその恩恵をいただいていることに感謝することです。不足を思うのは感謝ではなくなっているからであり、知足を感じるのは感謝の状態になっているからです。そこには無理な努力や頑張りは必要なく、いただいている感謝を活かしてもっとみんなの歓びになりたいと自然体になっていきます。

自分自身が仕合せかどうか、それを立ち止まって考えることは感謝を忘れない実践です。感謝を忘れていないのならば素直のままであるということです。素直だから事物は明察され鏡の如く真実がそのままに映りますからどのような判断もあるがままです。

人間は誰かのことをとやかく言う前に、自分自身はどうなっているのか、自分に矢印を向けて謙虚かどうか素直かどうか、また感謝のままでいるかどうか、「人間としての自然体」を常に自己反省して人格を磨き高めていくことが幸福の道につながります。

子どもたちを見習い、素直で謙虚で感謝しかない生き方を目指していきたいと思います。

真の国際人

世界にはそれぞれの風土に適した文化というものがあります。それはその風土で仕上がった環境が個性として生き物に顕現されてきたものとも言えます。その個性が風土そのものであるとき、私たちはそこに多様性を見出し、さらには世界に唯一の個性を実感するように思います。

現在、大量生産大量消費の経済優先の世界において画一化されていき風土の個性もまた消失して文化も失われていきますが本来はこの唯一の個性を発揮するからこそ国際的に必要になるわけでそれがなければ世界の中でユニークな自分を発揮していくことはできません。

白洲正子にこんな言葉があります。

「本当に国際的というのは、自分の国を、あるいは自分自身を知ることであり、外国語が巧くなることでも、外人の真似をすることでもない。」

自分自身を知るということは、言い換えるのならば風土を知るということです。その風土を知り、風土人であるからこそ世界でその風土の進化の過程が発展の原動力になっていきます。あらゆる生き物や道具は、文化を具備していますからそのものの値打ちや価値が分かってこそはじめて世界の同様に進化してきたものと渡り合うことができるのでしょう。

日本の文化というものは、私たちが今までどのような環境の中で育まれてここまで来たかというご縁の変遷のことです。そしてそれは景色や風景というようなものと一体になってどのように自然の姿そのままに暮らしを実現してきたかということです。

今は、渡来した文化に影響を受けかつての日本人としての個性や風土の文化を捨てて別の国の人のようにその国に存在していますが自分たちが何者であるのかを分からなくなった人たちが増えたように思います。自分が何者なのかを知るということは、国際人たる人物の入り口でありさらにはそこを掘り下げていくことが真の国際人になる道です。

最後に白洲正子の言葉です。

「日本の自然ほど多くのものが含まれているものはない。その中には、宗教も、美術も、歴史も、文学も、潜在している。」

もっとも日本の風土に長けた人物こそが、これからの時代で日本を代表して世界で活躍していくでしょう。引き続き、子どもたちに根がつながる暮らしを通して本物の日本人を伝承していくために命を懸けて文化事業に取り組んでいきたいと思います。

今ここ、すぐやる

物事をやるときにすぐやる人と先延ばしにする人がいます。少し前の流行語に「いつやるか、今でしょ!」がありましたが、今やる人は常に主体的であり後でという人は受け身になっていることがほとんどです。

この理由は簡単で、期限が迫ればその期限の圧力や惰性の力で物事をなんとかしようとするのは「しなければならない」という外圧を用います。例えば宿題などもそうですが、期限があるからやらなければならないからやっているのでありそれを何度も何度も繰り返していく中でそうやってやることが癖になってしまっているからです。

本来、宿題などではなく自分から進んで学びたいと思っている人は期限がありません。いろいろなことを深めていきながら、その事物に没頭していきます。この没頭するというのが今のことで、今没頭しているのだから後にするという発想はありません。もしも後にしたとしても、それは先延ばしではなく没頭しながら後にするので「今」から離れたわけではありません。

これはどんな仕事もそうですが如何に意義を持たせて面白くやっていくか、面白くないことでも如何に面白く取り組むかが、「創意と工夫」です。創意と工夫をする理由は、好奇心をもって主体的に自分が取り組めるようにするためでそれを維持することでマンネリ化を防止しているのです。

そもそもどんなこともそれをやる理由は何かと思うとき、それは単にやること自体が目的ではなかったはずです。そう考えてみると、ただ真面目に頑張ればいいのではなくもっと楽しく面白く豊かにやる工夫は自分自身ができるはずです。余裕がないからそうなったのではなく、余裕を創造していないからそうなっていくのです。

忙しさというのは、創意工夫で忙しくなくなるものです。それは自分が初心を忘れずに心を籠めていくことを大事にしたり、せっかくだからと一石二鳥のようにこちらで学んだことをあちらで活かし、自分が起きたことを誰かの役に立てたりと発想を転換していくことで忙しさは感謝に換ります。

一見つながっていないように観えますが、この感謝があるかどうかが「やっているのとさせていただいている」との大きな違いになります。させていただいていると思っている人は無駄なことは一つもないことを知っており、その機会に感謝し、天からの声やお客様からの声、周囲からの声を真摯に聴き、それを楽観的に福に転じていきます。いわば素直で謙虚な人です。聴いて福にする人というのは、常に素直に謙虚に物事の声を聴き自分に矢印を向けて反省を欠かさない実践を積んでいます。

思考の癖もまた刷り込みですからそれに気づいてそれを転換するためにもっと創意工夫や余裕を創造していくといいのかもしれません。またあれこれと考えて先延ばしするのではなく、今来ているものだけを丹精を籠めて取り組んでいくことで今に没頭していけるように思います。今、此処すぐに自分を使っていくことの繰り返しが真の余裕を持たせるように思います。引き続き、今できることに人事を盡していきたいと思います。

文化とは何か

「文化」という言葉は明治時代に翻訳された言葉の一つです。英語、ラテン語ではこれをcultureと書き、意味は耕すや洗練、また私の意訳では素養や教養、たしなみや心得ともいいます。企業文化などで語られる文化は、その組織の価値観のことであり一つの目的や理念に対して洗練されて創造されたその企業らしさを企業文化と語られるのかもしれません。

そう考えてみると、この文化というものはそのものが磨かれ洗練され創造された一つのカタチであるともいえます。これは企業に限らず、個人でさえ文化を持っていることになります。よく美術や芸術、もしくは造形のすべてにいたるまで私たちが鑑賞しているものはそのものの「文化」のことであり、その人物が思想や精神、その全生命を真摯に注入して具現化させたものを文化として認識しているということでしょう。

文化というものを考えるとき、それを創っている担い手は何かということになります。結果が大事なのではなく、その洗練される過程こそが文化育成そのものであり、如何に磨き洗練させていくか、その洗練する過程の中で人々はその文化に共感し、その文化が明確に外に顕れ現実の世界の人々に伝えることができるに至るのです。

例えば、人間には素養というものがあります。その人らしい天真を、如何に掘り下げていくか、如何に耕していくか、人間を磨き上げて人格を高めていくか、そういうものが文化です。

その人物がどのような文化をもっているか、言い換えるのならその人物の理念がどのようなものであるか、その理念をみんなで磨きあげていく中ではじめてその理念は顕現して周囲を感化するに至るのです。

人格を養いそして修めると書いて「修養」とも言いますがまさに文化とはこの「修養」のことであり、その人物たちがどのように修養したかが文化の証明であると私は定義しています。

これから文化事業を始めるにあたり私はこの意味をもう一度、展開していくなかでご縁ある人々と語り合い磨き合いたいと思うのです。

歴史を省みるとどのような時代もその時代に全生命あらゆるものを懸けて生きた人々の修養の洗練があったからこそ文化が今でも光り輝き歴史遺産として遺っています。その文化を観照するとき、私はその時代の人々がそうであったように、今の時代であってもそう生きたいと願い祈るのです。

かつての先祖のようなものが今の時代では同じようできなくても、今の時代にしかできない洗練されたものが創造できるはずです。それを自らの内面に見出し、かつての先祖の生き方に恥じないように文化を耕し、自分自身を掘り下げ、無二の初心を子孫へと伝承していきたいと思います。

真実の花

世阿弥に「命には終あり。能には果あるべからず。」があります。これは人間の命には終わりがあっても、能を極めるのは果てがないということを言います。人間も同じく、人間の命には終わりがあっても人間を極めることには果てがありません。

そのことを示す漢字に「修身」があります。この修めるというのは、果てがないものを極め続けるということです。人間はすぐにわかった気になってわかることが悟ことのように思い違いしますが、それは知識の上で知っただけでそれが極めたことではないことは明白です。

極めるというのは、極め続けているという状態のことをいい、それはわからないものをわからないままに深め続けて改善を繰り返しているということです。

マンネリ化というものは、少し慣れたものをわかった気になりきっとこうだろうと思い込み磨くことをやめ、改善することを怠るときに発生するものです。分かることやできることなどの結果に重きを置くのではなく、そのものを極めていこうとするところに人間精進の鍵があるように思います。

世阿弥の遺した「風姿花伝」には、自分の花を咲かせることを極めると示されます。これを森信三氏は「一個の天真を宿している」といいます。それぞれに天から与えられている花を咲かそうとすれば、極め続けてその時々の花を咲かせて人生を全うしていかなければなりません。人生の命には終わりがあっても、まさに生き方や道には終わりがないということです。

世阿弥は、その時々の花を咲かせることをわかりやすく整理しています。これは自分の人生を省みて感じた一つの指標であったのかもしれません。そしていつか極め続けて真実の花を咲かすように説きます。そしてそれが「初心を忘るるべからず」に続きます。

この真実の花は、果てがありませんから常に分かった気にならずに学び直し続けて一生涯を懸命に傾け続けていく覚悟が要ります。分かることよりも、修めようとすること、極めようとすること、そこには初心を持ち続けて命果てるまで道を歩んでいこうとする根があります。

根から養分を吸い上げてまた土に帰るまで、人はその時々で真実の花を咲かせ続けていくために一所懸命になるのが人間そのものの至高の姿ではないかと感じます。引き続き、子どもたちにその時々の真実の花のままで接することができるように常に真心と脚下の実践に精進していきたいと思います。

ダイバーシティ&インクルージョン

現在、ダイバーシティ&インクルージョンといって世界では多様性の確保とそれを受け入れ活かすといった包摂を行うことでどの政府や企業でも取り組まれています。これは急激な変化に対応していくためには、画一的な人材ばかりを持つのではなく多様な能力を持つ人たちが自分の持ち味を活かして協力し様々な変化に対して柔軟に対応していくために必要であると実感しているからでもあります。

特に価値観が入れ替わるような世界の大きな変遷時期において、イノベーションはどの組織においても最大の課題です。日本は老舗企業が世界でもっとも多く、常に時代の変わり目にはそれぞれに変化を続けて数百年の歴史を築き上げてきました。そこには当然先ほどのダイバーシティ&インクルージョンは存在していたはずです。なぜなら多様性や包摂というものは、かつての和魂漢才や和魂洋才のように和魂を醸成し渡来するのよき文化を自分たちの文化に吸収していくということを行っていく過程で磨かれるプロセスの一つであるからです。

しかし私は現在で取り入れているこのダイバーシティ&インクルージョンには疑問を感じることが多々あります。それはいろいろな価値観を受け容れて多様な人々を活かすといいますが、そこに伝統とか理念というものがなければ結果的には烏合の衆のように渡り鳥が自分のことだけを考えて移動するようになってしまうからです。

伝統や理念というものは目的そのものです。本来、老舗にはそれがあってはじめて多様性も包摂も活かされてきたのであり、そこが弱くなっていればただ混沌とするだけの組織で変化に強いようにみえて柔軟性は失われていきます。多様でなければならない、包摂していないと文句を言っていたらかえって組織も硬直してしまうからです。自由の問題と同じく、伝統が失われていくから自由や不自由かが目立ってくるのであり改めて自分たちの理念が何かということを定め、それを歳月を磨きあげてきた伝統の極みまで掘りさげて常に理念を甦生させ続けているからこそこのダイバーシティ&インクルージョンは実現するのです。

私が伝統にこだわるのは甦生のためであり、初心伝承のためです。

引き続き、子どもたちが安心して自分らしく生きられる世の中にするために知行合一、様々な実践をしつつ本質に近づいていきたいと思います。

 

 

自由という教材

自由というものを深めていると創造や独創という言葉を直観するものです。つまりは一人ひとりは天才であり、その天才が自分自身を発掘するプロセスにおいて自分なりの方法で自分らしい答えを創出していくということです。

とことんまで天命を追求していけば、自分にしかできないことに人間は出会えるものです。そのうえで、自分の実体験から考えたことはすべて独創的で創造的なものですからそのプロセスを重んじることで人生は唯一無二の自分自身に近づいていくように思います。

自由という言葉は、そもそも誰とも比較しないという前提があります。似ている言葉では私の解釈ですが、独立不羈なども同義であろうと思います。これは辞書をひけば「他からの束縛を全く受けないこと。 他から制御されることなく、みずからの考えで事を行うこと。」とあります。その本質は「自らものを考え、それを行動に移し、移した行動については自ら責任を持つ。それが、独立不羈の精神」です。

本来の自由の意味をどれだけ深く理解しているか、そのためには常に自分自身と向き合い自分自身の人生のプロセスを味わえる芯の強さが必要になります。

そこに本物の自己自立があります。

徳と才を兼ね備えるには、自分のかけがえのない人生を自分自身が主人公として磨いていかなければなりません。世間の常識に縛られたり、誰かの制約を受けたり、そういうものを乗り越えて自分自身であり続ける精進があって自由を満喫することができます。

誰かから与えられた自由や不自由にばかり囚われ、自分自身であることを忘れてしまえば本当の自由は遠ざかるばかりです。

如何に世界でたった一人の自分を仕上げていくかは、その人の生き方次第です。自由という教材は、それだけその人を磨くには都合の善い価値のあるテーマです。本来の自由にどれだけの子どもたちが気づき、それを自分なりに咀嚼して世の中に唯一無二の個性を発揮していくことができるのか。

私自身の人生のプロセスを省みながら、その文化や存在価値をどのように次世代へと継承していくのか、新しい時代の教育と学校というものの復古創新を同志たちと共に進めていきたいと思います。