和の甦生

以前、国際人のことを書きましたが今の時代は国際化の中で自分たちがどのように生きるのかを見つめる時代でもあります。私は若いうちからヨーロッパや中国に留学した経験がありますからその国の文化に触れ、どのようにこれから自分が生きていくかを考えたのを覚えています。

日本は島国だからか自国のことばかりになってしまうことが多く、世界のニュースや世界の動向を意識する人が少ないような気がします。今はこれだけITや流通が発展し、それぞれの国に人が行き来する時代になって国境がなくなり国際化したのだからもっと自分の国の文化に対する意識も高まっていなければならないのに自分の国の文化や歴史に興味を持っている人が圧倒的に少ないように思います。

先日、日本の保育についてメンターと話し合う中で「日本をもう一度見直そう」という話がありました。その中で「異なった文化の人たちが如何に協力するか、世界と和していくことが日本をよくすることだ」と仰っていたのが印象的でした。

現在、一つ一つの伝統を紐解き初心伝承を磨き深めていますがその根底には和の精神というものが根付いています。自然と共生し人々と和する・・その和の精神とは何かといえば、それは「平和」のことです。

大震災や大災害があったとき、日本は世界から尊敬されます。それは見事なほどに他者を思いやり、自制し自律し、他を受け容れ、助け合う姿を見せるからです。私はこれは日本独自の文化と歴史の結晶ではないかと感じます。

協力や協調、調和は私たちが実践する一円対話、そしてコンサルティングの本筋に定めているものですが日本の文化の後押しがあるからこそより大きな効果が現場で発揮されているのです。

明治以降、日本文化の価値が見捨てられ零落しその本当の意味や崇高さが伝統的な暮らしと共に衰退していきました。しかしこれからの子どもたちが国際化の中で如何に国際人として羽ばたいていくかと慮るとき、日本独自の文化が忘れ去られていくのは平和を世界に広げていく精神もまた忘れ去られるということであり、今、ここで何とかしなければという義憤に強くかられます。

私たちは親祖の初心が悠久の歳月を経て文化になったことを決して忘れてはなりません。

改めて日本を見つめ日本を見直し、古来からある日本文化を学び直し、それを転じて甦生し世界へ日本の文化を発信していく必要性を感じています。使命をもって、子どもたちのためにも和の甦生に取り組んでいきたいと思います。

心田を耕す

二宮尊徳の教えに「心田を耕す」というものがあります。そもそも人間のあらゆる荒廃はすべて心の荒蕪から起こると説きました。荒蕪とは、草が生い茂って雑草が生えほうだいで土地が手入れされずに荒れていることをいいます。荒廃は家屋などでいえば、荒れ果ててすさみ潤いがなくなっていくことをいいます。

この荒廃は心の荒蕪が問題であり、それを解決するには心田を耕すしかないといいました。私は自然農や古民家甦生を通して感じたものは、暮らしが失われることでこの心田もまた失われ荒廃していくということです。

本来、田であれ家であれ人が手入れを怠ればあっという間に荒んでいきます。なぜ荒むかといえば日々の暮らしを怠り忙しさにかまけて心の手入れをすることを忘れてしまうからです。

都会に住めば、忙しい日々を送る中で暮らしは消失していきます。特になんでも簡単便利に頭で考えたようにできる世の中になってくると、本来は有難かったことも当たり前になり、自分の都合よくいかなければ不平不満などが出てきます。それに拍車をかけてお金でなんでも解決しようとするあまり、さらに心を用いる苦労の方や、心を慮り丹誠を籠めるようなことがなくなっていきます。

古民家を一つ丁寧に建て直し、手入れをし甦生させていくともう十数年も置き去りになって雨漏りがして屋根が崩れ荒れ放題になっている隣家が気になってきます。一つ家を直せば、町並みは美しくなり隣の家が気になってくる。田んぼも一つ美しく手入れすれば荒廃された隣の田も気になってくる。こうやって一つ一つのことを手入れしながら、一つ一つ荒蕪を開墾して耕して手入れしていく以外に人々の心を直す方法はないのです。

二宮尊徳のいた時代は、大飢饉が続き食べ物がなくなり農民たちは重税で苦しんでいました。その中で村々は荒廃し人々の心もすさんでいたといいます。今は時代は変わり食べ物は豊富にありますが、都市一極集中で地方は少子高齢化が進み田畑や古民家は荒廃が進んできています。人々も重税がかかり、格差は広がりますます時代背景が似てきています。

一人一人が覚悟を決めて、暮らしを立て直し心田を耕すことによって荒廃を転じて幸福に目覚めていく必要があると私は感じます。

何をもって心田を耕すのかは、もう一度本物の暮らしとは何かと見つめ直すことからではないかと私は思います。本物の暮らしは、日々の心を耕します。かつての伝統的な日本の暮らしは感謝に包まれ謙虚に自然と一体になって日本人の心と共に慎まやかに継承されてきました。

文明が進んでも、生き方までは変わらず時代の進化は正常に行われてきたものが明治頃からそれまでの道から離れ戦後に様々な影響を受けて今に至ります。今一度、原点回帰し日本人としての生き方、つまり日本的な暮らしを甦生させ、本来の日本人としての心を耕していく文化を再興する必要を感じます。

そのためにも一人一人が目覚め、まず独り荒れた田に入りそれを開墾し、荒んだ家に入りそれを甦生させる、その真心を磨いて人々の心に潤いを与えていけるような実践を積み重ねていくしかないと思っています。

先人の尊さには頭が下がります、二宮尊徳の積小為大を実践をしつつ子どもたちのためにも暮らしを甦生し心田を耕し続けていきたいと思います。

生きる道~生き方と生き様~

一般的には人は職業によってやっていることが異なるものです。職業の違いで立場や役割を分けたりしては、その立場を守りその役割を果たそうとします。しかし現代に入り、ますます多様化した社会と合わせてAIなど人工知能の出現でこれからの職業は大きく変わっていくように思います。

そもそも職業から私たちは先入観でこういう仕事だと思い込みますが、職業がそうだからとそこから生き方まではわからないものです。医者をはじめ教師、もしくはなんらかの職人であってもその人の生き方次第では同じ職業であったとしても全く異なることがあるからです。

私たちが本来、大事にしないといけないのはどのような生き方をするかを決めるのであってどのような職業に就くかというのではないと私は思います。職業に就いたからそうなったのではなく、どのような生き方をするかと覚悟を決めたからこそ人は為るからです。

人物というのは、世界のどの場所にも存在していてそれは職業で分かれているのではなくやはり生き方で存在します。どんな生き方をしているかを観て、そこに自分が共感し、その生き方を尊敬して自分の生き方に反映させていくということ。

これが生きる道であり、どんなにAIや人工知能、また社会が多様化して時代が変化してもこの生きる道は変わることはありません。

生きる道とは生き方のことです。

「あなたはいったいどんな生き方をしますか?」

この問いは、一日の時間の中でどんな生き様をするかということ。自分の決めた生き方が生き様になりますから、どんな生き方をするかがその人の人生そのものになっていきます。

職業の別や方法論に入る前に、自分の生き方に出会うことが自分の生きる道を見出すということです。後ろから歩んでくる子どもたちのためにも誰が何と言おうと勘違いされようと、自分の生き方は自分で決めて自分で貫くような人生を歩んでいきたいと思います。

 

 

好きになること~時間の使い道~

人は時間の使い方を観ればその人の生き方がわかるものです。その人が一日24時間を何に使っているか、また一週間の168時間を何に使っているか、さらには30日、1年とその時間をどう過ごしているかでその人の生き様が観えてきます。

例えば、一日の仕事を好きでやっている人は一日中好きなことに没頭していきます。好きでやっていることだからそれは単に時間を浪費しているのではなく、好きなことをするのに大切な時間を使っていることになります。

私も好きなことややりたいことが山ほどあって寝たくないけれど寝ないといけませんから寝ますが、寝ても覚めても好きなことのことを考えています。もちろんそれは単に趣味に没頭しているというものもありますが、やっていることがすべて一つの目的につながっていると感じることができればすべてのことが好きでやっていることに気づくのです。

やりたくないことや大変なことがあったにせよ、この時間は二度と戻ってこないものです。その時間をどのように大切に使い切るかは、その人の問題意識に由るものです。この体験はきっと誰かや未来に役に立つ、この経験はきっと何か大切な意味を含んでいると深めて内省を続けていれば後になってやっぱりあれはとても大切なことだったと気づきます。

そういうことが連続で起きてくると、好悪で仕事を選ぶのではなくそのすべてを愛せるようになってきます。よく考えてみると、好きになるというのは単に好き嫌いの好きではなく嫌いなところがあっても好きであるということです。つまりいろいろな欠点や問題があったにせよそれでも好きなっているということです。

一日の時間の使い方の中で、どれだけ好きなことに没頭できるかでその人の一生は決まるように思います。それは嫌いなことを排除しようとする努力ではなく、好きになっていく努力、それほどまでに好きになるほどに時間を大切に生き切ったかという自問自答の集積だと私は感じます。

時間をどのように使うか、それはその人次第です。

少しの時間も無駄ではないとその時間そのものを楽しんでいけるようになるには、自分自身の人生を好きになると同様に時間を好きになるということです。与えられたものに文句を言うのではなく、与えられたすべてのご縁を好きになること。

つまりは自分にとってもこの時間はもっとも相応しいものであると受け止め、それを真摯に時間に還元し時間に尽くしていくことのように思います。

この時間は二度とないからこそ、どの時間もかけがえのない大切な人生です。出会いを好きになり、ご縁を好きになり、経験を好きになり、ありとあらゆるものが好きになったとき、人は自分自身のことを本当に好きになるように思います。

自信と誇りは時間の使い方次第です。

引き続き、子ども第一義、すべての時間をその一点に集中して歩みを刻んでいきたいと思います。

宿る

昨日は、熊本から長くお付き合いいただき一緒に理念の実現に向かって取り組んでいるお客様が聴福庵にきてくださりお泊りされました。

すぐに箱庭を気に入っていただき、庭木がとても喜んでいるように見えると仰られありがたい気持ちになりました。ちょうど昨年、鬱蒼とした庭木の剪定を素人ながらに必死に行いすっきりさせ、その庭に年代物の春日燈篭や江戸中期の壺、そのほかにも竹垣や土器、睡蓮鉢にメダカを育て水盤、いろいろな道具も配置していきました。

それに苔も8種類ほどのものを混植し、観音竹や山の清流に流れている石や草草なども移動しました。それから約一年経ち、鑑賞していただけるものになりそれを誉めてくださる方が出てくると、庭に一つの空間が宿ったことを感じます。

そもそもこの「宿る」という言葉は、いのちが宿るや魂が宿る、もしくは宿命といういい方もします。この宿は、単に泊まる場所をいう場合と、宿るといってそこにすまうものがあるという意味もあります。

私たちの体にもいのちと魂が宿ることで存在します。宿っていないものはすぐにわかります。この宿るというのは、目には見えませんが確かにそこには思いや願い、祈りや精神、そういうものがいつまでも留まっているということです。

魂を宿しておくというのは、体がたとえなくなったとしてもその魂自体はその空間やその道具に遷して留めておくということです。それは物に限らず、言葉であったり、建物であったり、遺し方はいろいろとありますが大切なのは宿らせることなのです。

暮らしも同じく、そこの家で取り組んできたものはその空間に宿り続けています。それは継いでくれる人によってさらに高められ、確かに宿ったものに由って甦るのです。

私たちは死んでなくなるという発想を持つのは自分のことや自分の代のことだけばかりを考えるからで、死なない存在がある、つまり宿るのだということに気づけばその生き方やプロセスの方を大切にすると思うのです。

宿っているものを見てくれる人がいることがありがたく、この道をしっかりと踏みしめていきたいと決意と覚悟を新たにしました。

子どもたちのために、何を大切にし譲っていくか、本質を守り続けていきたいと思います。

志結

吉田松陰が死の直前に書いた留魂録というものがあります。これは辞世の句からはじまり、仲間や同志、弟子たちには「身はたとひ 武蔵の野辺に 朽ちぬとも 留め置かまし 大和魂」と記し、家族宛に「親思ふ 心にまさる 親心 けふのおとずれ 何ときくらん」と記しています。

これと同じく、「諸友に語(つ)ぐる書」というものを遺しました。

ここに最後まで忠義に生きた吉田松陰の生き方が観え、深く共感するものがあります。

「諸友蓋(けだ)し吾が志を知らん、為(た)めに我れを哀しむなかれ。我れを哀しむは我れを知るに如(し)かず。我れを知るは吾が志を張りて之れを大にするに如かざるなり」

意訳ですが、「君たちはきっと僕の真心を理解していることと思います。これから先に死んで逝く僕のことを決して悲しまないでください。僕の死んでしまうことを悲しみ同情することは、僕の本心や真心を理解してくれたのではありません。もしも僕の本心や真心を深く理解して同情してくれるのなら、僕の志を受け継ぎ、この志を更に大きく実現してくれることなのです。」と。

ここに最後まで真心に生き切り、自らの志、その忠義に生きた吉田松陰の生き方が観え、深く共感するものがあります。

志は、自分の人生だけで完結するものではありません。何代も先のため、せめて七代先のことも憂い、自分がその使命を果たそうとするのです。志を継ぐというのは、それだけ物事を長いスパンで考えてその志のバトンを受け継いでまたそれを次に渡していこうとする試みなのです。

例えば、孔子や仏陀、キリストをはじめ、神話や伝説などもそれは語り継ぐ人がいたから今の私たちがその言霊と真心を理解することができます。数千年以上前の出来事が今でも生き続けているのは、その志を継いでくれた人たちがいたからです。

その志を継ぐことは、決して頼まれた結果を出せばいいのではなく同じ生き方をしていってほしいという願いと祈りに近いものがあるのです。自分の真心や本心は何か、それは未来の子どもたちや子孫のためにも、先祖のためにもこう生きたいという心そのものです。

その心のままに歩んでほしいと願い、その心が同じであるから共に同志が集うのだから守るべきは自分のことではなく志を守ろうとするのです。守るものがあるから生きられ、守るものがあるから本来の自分の使い道があるとも言えます。

何を守るか、何を信じるか、何のために生きるのか。

これらが志と結ばれ、その志が永劫に受け継がれ生き続けるのです。吉田松陰にこんなに惹かれるのは、志が同じくするからかもしれません。別に外国を追い払おうとしたのではなく、大和魂を守ってほしいというのが志だと私は思います。

引き続き子どもたちに大和魂を譲り遺すためにいのちを懸けていきたいと思います。

修繕理~福の思想~

現在、大量生産大量消費の価値観の中で新しいものを買っては古いものをすぐに捨てていく風習が日常になっていますから修繕や修理ということは失われてきています。

先日も長年使っていたプリンターを修理したいとメーカーにいうと、修理するよりも購入する方が安いことと昔の機種はもう取り扱いもないので廃棄してくださいと言われました。

この修繕というものは、辞書では壊れたり悪くなったりしたところを繕い直すこととあります。そして修理は、壊れたり傷んだりした部分に手を加えて、再び使用できるようにすることとあります。

長い時間をかけて使っている住まいや道具は、時間が経てば自然原理によって傷んでいきます。そのままにしていればすぐに壊れるものも、よく手入れをし修繕を続けていけば本来の寿命も何十倍も長く活かし使うことができます。

また壊れたものであっても修理をすれば、元のように使い続けることができます。そして修理をした後は、よく修繕を繰り返しそのものが長く生き続けられるように手伝っていくのです。

聴福庵では、明治初期の鋳物が入った桶のお風呂があります。もう100年以上経っていますからあちこちが傷み私の手元に来た時には床が抜け、鋳物の周りは腐食して穴が開き、あちこちが虫食いで破れ、ほとんど使えない状態でした。それを桶屋さんにお願いして修理し、届いてからは柿渋と渋炭、またヒバの油で塗装し、桶の内部は竹酢やにがりを用いて木を活かし続けるように利用します。また鋳物は、適宜清掃し、また鋳物を傷めないように備長炭を用いて使います。

こうやって大切に修繕を続けていけば、そのものも大切に扱われている風格が出てきます。昔の大工さんの大工道具や、左官さんの鏝、また手作業手仕事をする人たちの大切な道具と同じようにそのものから熟練の実力が備わった徳の高い姿に変化します。

修理や修繕というものは家屋をはじめ神社仏閣にいたるまで、そのものが長く続いた歴史の中にそれを大事に守り続けてきた人たちの修繕理の歴史があります。そこには大切な思いが宿り、その宿った思いを持ち続けながらそのものは生き続けます。

修理や修繕というのは、決して貧乏くさいことでもなくケチくさいわけでもなくいつまでも大切に使い続けたいというもったいない心、美しい精神なのです。

取り繕いというのが単なるその場しのぎのように使われますが本来の修繕というのは決してそういう意味だけではなくそのものを大切に守り使い続けたいという愛情や真心、寿命を伸ばしていこうとする「福の思想」が入っています。

修理できる人がいなくなっていく寂しさと、修繕しようとする人がいなくなっていく切なさがありますが子どもたちのためにも今とこの世代を磨き上げ復古創新し先祖から大切にしてきた美しい精神やもったいない心を生き方を通して譲り遺していきたいと思います。

和が宿る

古民家甦生を続けていく中で、古いものを磨き直し新しくし、さらに手作業手作りのものに入れ替えていくと落ち着いた空間が発生してきます。その空間に入ると、とても心穏やかになりなんともいえない安心感に包まれます。この空間に入ると落ち着くという感覚、これが日本の伝統的な「和」のことです。

和むというのは、心の作用を言います。そして心はそのものと人、人と人、すべてのものが相調和したときに空間に一切の邪魔が入らず無為自然になるのです。これは自然の中に入るのと同じで、あるべくしてありなるべくしてなる。日本の風土に沿って日本の伝統的なものに包まれたとき、私たちは心が安らぎ和むのです。

例えば、都会の喧騒と鉄筋コンクリートの壁の中でのむ一杯のお茶とこの日本の和の空間の中でのむ一杯のお茶は同じ味にはなりません。舌先三寸の味はどれも同じであっても、心が落ち着いて和むのはそのお茶によって周囲の空間に気付けるのであってお茶がそれをなしているのではありません。

私は茶道のことはよくわかりませんが、伝統的な自然な日本民家で鉄瓶でじっくりと沸かしたお茶の味わいは心がよく知っています。その心の落ち着きはすべて和からきているものです。この和とは、日本の道具を使えばいいのではなくそこに流れている暮らしや主人の精神、人と家と道具が見事に調和するときに出てくるものです。

空間とは呼んで字の如く、「空」の「間」です。

その間を如何に空にするか、そこに邪魔が入るような私欲や邪念を一切捨て去って真善美の徳を顕すこと。そういう空間にこそ場が生まれ和が宿るのです。

古民家甦生を通して磨かれるのはその和の精神、大和魂です。

引き続き子どもたちに和の精神、大和魂を伝承できるように真摯に「場」を磨き続けていきたいと思います。

お天道様と素直な心

お天道様という言葉があります。これは天の道のことをいいますが、昔は「お天道様がみてますよ」と天の道に背かないように正道を歩みなさいとみんなで声掛けを続けてお互いに見守り合い生きてきたといいます。

日本人にはもともと「恥」という意識があり、常に道から外れないように自戒を持ち社會を形成してきたといいます。今ではあまり聞かなくなりましたが、このお天道様の存在は人間がごう慢になっていかないための大切な社會の基礎だったように私は思います。

この天の道とは何かといえば、自然に沿った道のことでもあります。人間だけにとどまらず全ての生きものたちは天の助けによって活かされている存在だとも言えます。この天とは、宇宙であり自然であり、自分たちを存在させてくれているもの全てのことです。その天の助けが入ることで人はこの世に存在することができています。

いつもその天の御蔭様の存在を感じて生きていけば、人間の欲望だけを優先して生きていくことが正しくないことをすぐに気づけるものです。天の道、天の助けを借りて、今度は人の道、人の助けがあるのが人生です。

その天の助けが入るような生き方とは、お天道様が見守ってくださっていると信じて天の声に従い天命に生きる人にこそひかりが宿るように思います。そのためには、そのお天道様の声が聴けるような素直な心が必要ではないかと思います。

素直な心は、天と一緒にあると思うのです。

天と一緒にあるものは、志を同じくする仲間に恵まれ、そしていつも有難いご縁に導かれ、豊かに大義に生きることができます。

今の時代、あまりそういうことを言う人もいなくなったのは住みながらにして価値観だけが別の国の文化にすげ代わって本来の生き方が入れ替わってきたからかもしれません。

古人が師としたものを師とし、ご先祖様が大切にした生き方を守って、子どもたちに確かな道筋を遺し伝道していきたいと思います。

日本的な精神の醸成

先日、聴福庵で暮らしの体験をした高校生に体験して気づいたことを教えてもらうと改めて学び直すことがありました。

「滞在中ずっと季節を感じることができた」とか、「理屈抜きで手間暇をかけるということを肌で感じることできた」とか、「今まで泊まった高級旅館などと比べてどこよりもドキドキワクワクしっぱなしだった」とか、短い滞在時間で思っていた以上に深い体験をしてくれたのが分かり有難い気持ちになりました。

伝統的な日本の家屋には、昔からある日本的な場があります。それを主人の心得として家が喜ぶかどうかを重んじ、かつての暮らしに忠実に温故知新することで「古くても新しい」という境地を産み出すことができるように思います。

現在では、西洋から入ったきたものを新しいと呼びますが本来はかつての日本の文化が温故知新されて進化することで新しいと呼んでいたものです。かつての文化が取って代わられていることは決して新しいのではなく、「すげ代わった」だけで本来の新しいとは今の時代の子どもたちに伝承されその子どもたちがその時代の価値観に合わせて自ら文化を進化成長させるときにはじめて新しいと呼ぶのです。

今では衣食住すべてが、ほとんど西洋のものにすげ代わっています。そして西洋から入ってくるものを新しいと飛びつき経済も発展させているようですが独自の文化で進化させていかなければ本当の意味で世界の中での日本の発展はないと私は思います。

だからこそ、子どもたちには本物を遺し譲り、そこから学び、感性を磨き、伝統的な日本の精神を持ちつつも世界の一流と渡り合えるほどの柔軟性を身に着けて立派なリーダーを育成していく必要があります。そのリーダーになることを私は国際人と呼びます。

国際人はそれぞれの国の文化を正しく伝承し、それをものにして世界と対等に語り合うことができうる人材です。そこには単なる西洋の真似事ばかりで名誉や地位や知識ばかりを持って偉くなることではなく、日本の文化や自然に精通し、真理を語れ実践により実力を磨いている必要があります。

その修練の道場として、古民家と暮らしが教えるものはかけがえないない伝統的な暗黙知であり、その暗黙知を継承することで独自のアイデンティティが醸成されるように思います。

若く瑞々しい感性は、すぐに日本的な精神を取り戻していくという可能性を感じる3日間になりました。引き続き、真摯に子ども第一義の志のためにも暮らしの甦生に正対していきたいと思います。