いのちの豊かさ

私は鞍馬山とのご縁が深く、鞍馬のご縁で様々な教えに出会い、有り難い人にも出会います。人生の中で、これほど深いご縁をいただく山はなく、そう考えると人間はどのような師を持つか、如何に見守られている存在を持つかが生きていく上でとても大切なことのように思います。

同じ人生の道を歩むでも、善き師、善き教え、善き仲間、善き友に出会うかはどうかでその人生の醍醐味が変わっていきます。同じ志を持ち、大義に生きるものたちとの出会いは、自分の人生を豊かにし何よりも味わい深いものにしていきます。

私は鞍馬山で学び直しているのは、いのちの理です。

いのちというものは、私たちの感覚すべてで感受していくものです。その感覚は自然に包まれる感覚、活かされていることを実感できる感覚、すべてのいのちに触れてすべてのいのちと共に在るという感覚によって得られていきます。

そのように感覚が変化すると同時に視点も変化します。視点が変化すれば考え方も変化し、竟には生き方も変化していくものです。それを如何に感じやすくしていくか、その環境や条件があれば人間は美しく豊かな精神を取り戻すことができるようにも思います。

昔は、あまり物が多くはなく少ない資源の中で自然の共生環境を壊さないように人々は工夫して里山を育てその中で助け合い暮らしを充実させ心豊かであろうと生きてきました。しかし近代に入り、自然は無視してでも人工的に資源を増幅し自分さえよければいいと歪んだ個人主義や欲望を優先してでも物質的に豊かになろうとしてきました。

豊かさの中には、物と心の両面がありますが物か心かという両極端の豊かさではなく真の豊かさというものが存在するように私は思います。それは活かされているという豊かさ、見守られているという豊かさ、一緒に存在させていただいているという豊かさ、つまりは「いのちの豊かさ」というものがあるという気がするのです。

鞍馬山に来て、鞍馬寺の貫主様にお会いしているといつもそんな懐かしい記憶を思い出します。懐かしい記憶、いのちの豊かさを子どもたちに伝承できるように、私のなすべきことを真摯に盡していきたいと思います。

実践の背景

昨日は、同じ理念で保育に取り組んでいるお取引先の方がご来社くださり社内の見学をして帰られました。日ごろは私たちの方が訪問をして、風土や文化や仕組みを導入してそこで一緒にお話をするのですが来ていただくと改めてその実践の背景をお見せすることができます。

自分たちの体験したことや、なぜこのような実践を行うのか、また現在の課題やこれまでの経緯をオープンに伝えることで完成形でもなければ完璧でもなく、常に改善することに意味があることを私たち自身も理解します。

理念があるというのは、常に理念に応じて従い自分たちの姿勢を省みて修正改善を続けてくことであり、できたから終わりなのではなくできないからダメなのではなく、試行錯誤していく中でいつも原点から振り返り本質を維持し続けていこうと忘れないことで理念を守っていこうとする取り組みをしているだけとも言えます。

自分のものの見え方を変換したり、自分の考え方を転換するということは世界を変えていくということです。外界の世界は自分の思い通りににはならないのだから、その世界の変化に対して自分の内面をどのように変化させていくか。大切なものがあるからこそそれを守るために自分たちが変化に応じて常に今、何を変わっていけばいいか、それを学び合うことでいつまでも私たちは発達と発展を遂げていきます。

その時、どのような物差しで自分たちを磨くのか。そこに確かな理念があると自分自身の視野を超えて物事を測れるようになると思います。自分だけの視野というのは自分自身を変えるものにはならず、自分を超えた物差しや尺度を持つことではじめて自分が変わっていきます。全体最適というものもまた、どれだけ全体のために自分を優先できているかという尺度の一つです。

自分のことばかりを考えてしまうと、自利が強くなり己に執着してしまいます。忘己利他の境地のように自分のことよりももっと大きな理念や志のために如何に自分を活かしていくことができるかという課題は自分を導くためにはとても大切な実践徳目のように思います。

人は正解や成功に囚われるとどうしても自分の心配を優先してしまうものです。そしていつも正しいことばかりに固執すると、マジメになり、ないものばかりを数えてしまいます。そんな時は、思考停止してしまっていることに気づき、本当は何かと理念に立ち返り考え直す必要があります。正解よりも本質かどうかということを優先するには、魂の力のようなものが必要です。

本当の世の中は、決して自分の都合よく自分勝手になることはありませんからいいことも半分、わるいことも半分、体験を通して学びその体験を活かして意味を深く味わっていくことで変化の中り変化そのものに同化していけるのかもしれません。

「問題解決よりもそこにもっと大切な意味がある。」

そう思えるように、人生の意味を理念の物差しで常に振り返り、実践から味わい深く掘り下げてつかみ取り、それを同志や仲間と分かち合い。共に学び、共に本質そのものに近づけるように自他を分けずに一期一会の御縁を盡していきたいと思います。

 

価値観の転換、生き方の転換

人間の価値観というのはなかなか変わらないものです。今までどのような価値観でその人が生きてきたか、それを生き方とも言います。その生き方を転換することで価値観は変わりますが、生き方の転換はそう簡単なことではありません。

長い年月をかけて、同じ価値観でずっと生きてきたらその習慣が身体に沁み付いてしまいます。新しい価値観が習慣になるには、それまでの考え方を新しい習慣によって上書きして刷新していく必要があります。

またこの価値観は、周囲の環境によって知らず知らずに刷り込まれていくものです。もしくははじめて見たものを常識であると信じ込むものです。人間は、本質や本当に何かということを考え抜かないでもほとんどが反射的に動いて問題が起きないように習得していきます。幼いころからの教育や繰り返しの動作によって、考えなくても動けるようになるからです。

しかし何も疑問に思わずに生きていると、自分の見ている世界の方が揺るがなくなり本来の自然の変化の方を自分の価値観で変えてしまおうとするものです。人間社會というのは、誰かの創り上げた価値観に従ってみんなそれに順応して生きています。海外に出ればそれぞれの国の価値観があり、そこに生活する人たちはその価値観であることが当たり前になっているようにです。

今までのやり方や価値観では合わないと気づいたら、人間は自分を変えようとします。その変えようとするとき、新しい場所に行くこともまた変わることでもありますが本来は価値観の転換は生き方の転換だからこそどのような場所であっても自分自身が生き方を換えようと決意しないと変化することはないように私は思います。

今までの自分の価値観ではない新しい価値観に触れ、その価値観の方が素晴らしいと実感し素直にそうありたいと願うのなら自分の生き方の転換のための努力や精進が必要になります。

生き方を換えるというのは、それまでの自分の癖を捨てていくことです。癖に負けてしまえばまた同じことを繰り返してしまいます。自分の癖を見抜いてそれを修正する、それを自分で内省によってできる人もいれば一緒に歩んでくれるコーチや見守る人によってできる人もいます。

大事なのはまず自分の生き方を換えようと心から決意することが全てのスタートです。

引き続き、子ども第一義の生き方を通してコンサルティングを深めて弘めて同志と共に道を歩み続けていきたいと思います。

道は続く、歩み続ける

人生には出会いと別れがあります。そして道があります。道は続いていくものだから私たちは道を歩み続けます。道中に仲間ができて一緒に歩めますが、その仲間とずっと一緒に居られるとは限りません。一緒に居られるご縁というのは有難く、それは同じ道を歩み続けられるという奇跡の邂逅です。

私たちの会社の初心伝承ブックのはじめには論語の一文が入っています。

『子日わく、与に共に学ぶべし、未だ与に道に適くべからず。与に道に適くべし、未だ与に立つべからず。与に立つべし、未だ与に権るべからず。』

これは意訳ですが、孔子は言った「共に同じ道理を学ぶことはできても、共にその同じ道理を実践することは簡単にできるものではない。そして共に同じ道理を実践することができても、同じ認識に立つことは更に困難なことである。そしてたとえ認識を共有することはできても、同じ境地で運命を共にすることのできる人物は、滅多に得られるものではない」と。

私も理念を定め初心を歩んでいく中で、多くの出会いと別れがありました。道を歩むというのは、道の中にある本質や理念を深めて自分のものにしていくということでもあります。しかし実践といっても道理のままに実践できる日もあればできない日もあり、日々に実践を継続する中で実践を省みていくなかではじめて習慣となり心身に染み付いてきます。

さらに道理を実践していたとしても、分かった気になっているだけで同じ認識を持てるようになる人はかなり少なく、共に話しをしていても同じ認識で話せる人はなかなか現れません。それは実践からどれだけ本質や道理を掴んだか、それを捉え続けられるかといった本気の覚悟や決心、自己研鑽と自修錬磨が深くかかわっているからです。

そしてたとえ認識が同じ深さまで来たとしても、その境地を会得したままで人生丸ごと運命を共にでき天命に任せるままに一心同体になれる人はほぼいないということです。

私にはまだまだ自分や情が強くあり、どうしても出会い別れが慣れません。本来は道は続いていくものだから、歩み続けるだけで歩まないものを連れてはいけませんし、別の道を往くものを引き留めることもできません。

しかし思えばご縁というものは、一つの道を歩む中でどこまで道中をその人物と一緒に歩めるかということが道の途中でもあります。人生にはどこに往くのかと誰と往くのかもあります。私はどうしても誰と往くのかの方が興味があるようです。そして誰の人生にも必ず死があり、甦生し、また身体を入れ替えて引き続き道を歩める日が来るまで何度も何度も繰り返し出会い別れと共に歩み続けているともいえます。

そう考えてみると道中の複雑な想いや感情の中でも一緒に歩むことができる同志や仲間の存在が如何に奇跡であるか、そうやって道を共有できることが如何に仕合せであるかを実感するのです。

道縁はやはり無窮なのです。

最後に人生の醍醐味は、決して欲望や願望が満たされるときや結果の報酬や他人から認められることで得られないように思います。辛酸を舐め、諦めずに遣り切ったとき自分に誇りと自信を持ちその時々の道中の思い出が深い味わいを与えてくれるように思います。

いつの日か、ある境地を体得してまた出会える日を楽しみに待ちたいものです。その日に向かって私自身、決してご縁に恥じないような道を歩み続けたいと思います。

ありがとうございました。

 

歴史伝承の仕組み~神楽~

昨日、郷里の撃鼓神社の春大祭で撃鼓神楽を拝見する機会がありました。この撃鼓神社は聴福庵のある飯塚市幸袋の総鎮守であり、天太玉尊、天児屋根命、細女命の三柱の祭神とし天の岩戸の前で占ったり祝詞をあげたり踊ったりしていた神々が祀られています。

神楽も多数の演目があり、それを宮司をはじめ氏子の方々で伝承されておられました。古い伝えによると、上宮は白旗山中腹にあり下宮が山裾にあって、古くは上宮を鼓打権現、下宮を笛吹権現とよんでいたそうです。この両権現は神功皇后が三韓出兵の際の神楽奉納で、囃子の太鼓、笛を指導した神様だとも言います。

神楽は笛と太鼓の独特なリズムの中で、神職の衣装を着た方々が舞いを奉納していきます。その舞の姿や祝詞も、古代から確かな意味があり継承されているもので感覚的に魂に訴えかけてくるものもあります。

その地域の人々がこの風土で何が起きてきたか、そしてこの風土の中にどのような歴史があったのか、それを唄と踊りによって継承しているものです。どんなに石に文字を刻んでも1000年も持たずに風化してしまうというのに、この神楽は毎年続けることで1000年以上の年月を継承していきます。ここに風化させない仕組みを感じて、先祖の偉大な智慧を実感します。

今では文字が発達し、情報社会ですからデータで保存するのが当たり前です。しかしどんなに優れたハードディスクや紙があってもその情報をそのままに伝承することはできません。時代と共に文字も変われば言葉も変わり、そして価値観も人間も変わるからです。

しかしこの神楽の伝承は、そういうものが変わっても変わらずにその意味の解釈や伝統の継承が行われていきます。歴史を絶やさないという強い意思がここから感じられ、先祖代々が何を大切にしてきたか、何を誇りにしてきたかを感じて魂が揺さぶられます。

民俗の歴史や地域、その担い手により紡がれてきた伝承は洗練された芸能を産みます。日本古来からの固有の文化に触れるのは、親祖の生き方、考え方を学ぶことです。

伝統芸能を通してどのようなはじまりで今の私たちがあるのか、今の私たちまでつながっている文化はどのような発展を遂げてきたのか、その歴史に向き合うことができます。言葉をほとんど用いずに、洗練された踊りや音楽によって理解する伝統の片鱗に触れた気がします。

引き続き、芸能の本質を深めて子どもたちに伝道していきたいと思います。

 

 

信仰の甦生

世界に存在する民族にはそれぞれに歴史があります。そして同時に、その民族が経験によって積み上げてきた叡智があります。その叡智は、時には宗教として現れ、時には生活文化として現れ、また時には産業として現れます。そのどれもがその土地の風土とは切っても切り離すことはできないものです。

例えば、私たち日本人は自然を崇拝して多様な自然の変化と共に暮らしてきた先祖たちの叡智があります。稲作を中心に祭りや神事が行われ、稲作から得た叡智をその後の暮らしに溶け込ませています。

お米を作ることがなくなってきた現在、自然の中でお米を育てていくための様々な考え方や智慧も伝承されにくくなってきています。さらには機械や農薬を用いて、単独で大量生産できるようになってから本来の稲作で積み重ねた叡智もまた伝承されにくくなってきています。

神社の御祭りには、春には豊作を祈り、夏には風雨の害がないことを祈り、秋には収穫を祈り、冬にも祭祀を行うものがあります。一年を通して稲作と共に暮らし、その中でお祭りがあったことは明白です。

さらにはそれぞれの家で様々な場面で祈祷が行われました。それもまたお祭りであり、このお祭りとは決して大きなイベント的なものを言うのではなく、連綿と先祖から続く信仰のカタチのことです。

信仰は暮らしから出てくるもので、暮らしが消えれば信仰は消えます。私は民家甦生を通して如何にこの暮らしの甦生が信仰の甦生になるのかを肌で感じました。地域の信仰の甦生、神社再生のことなどもご縁があって関わることになりましたが結局はこの暮らしを追求すれば必ずこの信仰に辿り着くのです。

信仰とは、私たち先祖が暮らしを通して実践してきた叡智のことです。この叡智を途絶えさせないように、また復古創新していつまでも新しい息吹を持続できるようにその時代時代の責任を担う人たちが真摯にこの伝承を実践していく必要を感じます。

暮らしから出てきたこの信仰の甦生と向き合い、分けずに取り組んでいきたいと思います。

生き方の改善

昨日、一年間一緒に関わってきた高校のクラスで一円対話を見学してきました。一年間をかけてじっくりと協働や協力、そして生き方を学び合い成長した様子に嬉しく有難い気持ちになりました。

そもそもアクティブラーニングという学びにおいても、それは学び方とかやり方とかの方を語られますが実際はその生き方が変わらなければそれはただの方法論の一つになってしまうものです。

見た目をそれっぽく繕っても、そもそもの根底にあるものを根本的に転換しなければ変わったとは言えません。その変化とは、それまでの自分の思い込みや考え方、価値観に影響を及ぼす生き方の転換を意味するのです。

生き方の転換ができてはじめて方法論は活きてきます。能動的学びや主体性などというものは「生き方」の方が変わっているからできるのであって生き方が変わっていないければそれは表面的だけの変化であって真底から変わったわけではないからです。

この生き方の転換とは、何度も何度も素直にその本質や根本から気づき反省し学び直す中で培われていくものです。この一円対話を通して、お互いから学び直し、お互いを磨き直す中で今での知識をすべて忘れ去って新しい智慧が入ってくるのです。

人間は知識を持つことで様々な固定概念を持つようになります。それを思い込みや刷り込みと私は呼びます。そういうものを削り取って真っさらにしていく、それを磨き直してゼロにしていく、そういう学びがあってこそ初めて人は価値観の転換ができ、生き方の改善ができ、まさに心の持ち方を学ぶように思うのです。

心の持ち方や考え方を換えることは、生き方を学び直すことです。

引き続き、私たちが弘める一円観、一円対話、聴福人を通して自分らしく生きられ、生き方を改善し、楽しく活き活きと協力して味わえる学びのよろこび、そして道をつなげていきたいと思います。

 

心の持ち方

人間は心の持ち方ひとつで生き方が異なるものです。例えば、どんなに豪邸に住みどんなに大金持ちになり世間がうらやむような生活を送っていたとしても心が満たされなければそれは果たして富んでいるのかわかりません。反対に、どんなに貧しくても心が満たせている人はとても豊かに幸せに満たされて暮らしていることもあります。

そう考えてみるとやっぱりないものを数えるよりもあるものを数える人、足るを知る人は心豊かです。過去をひきずり、ないものねだりをし欲ばかりを増やしていたら大切な今を見失います。今に生きるということは、まずその心の持ち方を転換する必要があります。

もちろん人間には純粋だからこそ過去に傷つきそれがいつまでも心のトラウマとして傷跡が残ることがあります。その過去が未来を恐れ、きっとまた同じことが起きるのではないかと不安になります。その過去に縛られれば、今に反発したり今を受け容れることができないことも出てくるでしょう。

しかし、今ここにある幸せに目を向けて観れば心は次第に育ってきて心が癒されていくものです。結局は過去という名で心を縛り付けて心を閉ざしてしまうと、今この瞬間を心が味わうことを諦めてしまうのです。

心の持ち方というのは何か、それはどんな状況や環境であってもないものを欲しがるのではなく、あるものを感じる心を持てるということ。心はあるものしか感じないようにできているからです。そして言い換えれば心のままに生きるというのは、満足よりも充実に生きるということ。もしくは願望よりも感謝で生きるということに他ならないようにも思います。人間は心を持っているのだからもっと心の方を優先して生きていこう、それが心の持ち方のことなのです。

だからこそ人はみんな今の環境を嘆くよりも、心の持ち方を学ぶことでどんな環境下にあっても心豊かに幸せに生きられるということなのでしょう。

どのように物事の観方を転じるかは、その物事の価値をあるがままにありのままに受け容れることからはじまります。天が自分に与えられた一切のものは、必然でありそれはもっとも必要なものだけであったという覚悟。また欲望ではなく、心や魂が本当に求めている道はこの足元にすべて訪れてくるという覚悟。

今を受け容れることは、足るを知る感謝の心を持つということでしょう。

どんな今も「これがいいのだ」や「これでいいのだ」と丸ごと受け容れ物事の観方を自分中心ではなく御蔭様中心に転換する発想を持てるようにいつも人の話を素直に聴ける精進の場と実践の訓練を一円対話を通して伝道していきたいと思います。

 

誠の道

自然農の高菜を無事に収穫することができました。全体的に小ぶりですが、生命力に溢れ芯のあるしっかりしたものに育ってくれました。今年は虫や猪のおかげで三回ほどやり直して種蒔きをすることになりましたが、諦めずに何度も何度も訪問しては祈るように育てた期間が今は懐かしく思います。

特に今年は、古民家甦生や地域への恩返しもはじまり、また本業の方も新しい展開が増えたりと体力も時間も精神力も根気もすべて注ぎこむほどのことばかりでその中でも余裕を持つことができていただろうかと振り返ると、長い目でみたらよくやったとほめてあげたいことばかりです。

物事には短期的な目線と長期的な目線があります。長い目でみている人は、今やっていることをお座なりにすることはありません。そして短い目で見ている人は、今やるべきことに全力を注力します。結局は、今というものをやり遂げるには遠大な展望を抱きつつ脚下の実践を怠らないということのように私は思います。

収穫した高菜は、天日干しをし一つ一つを丁寧に洗い塩をまぶして仮漬けをしました。これから数日経ってのち、ウコンと塩で本漬けを行います。昔は、商品価値があるかどうかではなく食べ繋いでいけるかどうかが大切でした。

今回、育った高菜はほとんど商品価値がありません。もっと大きく形がいいものでなければ売り物にはなりません。先日、椎茸栽培している農家さんと話したときも美味しいけれど椎茸が開いたら商品価値がなくなると嘆いていました。高菜も薹が立つと売り物になりませんが、漬物にするとこの薹が立っているほうが美味しいものです。

お金を優先してつくられた商品価値と、私が自然農に取り組んでつくられる価値はどれだけその価値が異なるのでしょうか。

今回の体験の価値は決して値がつけられるものではなく、唯一無二の掛け替えのない価値が光り輝いています。誰かによって価値を定められることに準じるのではなく、自分がどれだけそのものの価値を感じているか。そしてその価値のために命がけで挑戦するか、人生とはその連続のように私は思います。

時折、短期的に遣り切ったとき振り返るとなんでこんなことをやっているのだろうかと自問自答するときもあります。しかしそんな時こそ長期的に遣り切ってきた歴史を鑑みて自分の信念や魂の導きを省みます。

そうすれば、私の場合はすべて「子ども第一義」の理念や初心に適ったことを実践して経験を積み、それを先祖子孫への伝承だけではなく民族の魂として一緒に働く人たちに還元できているのが分かります。

「そんなことをして一体何になるのか」「それをやってこれから一体どうするのか」、そんなことばかりを聴かれる私の滑稽な人生ですが、これを思う時、吉田松陰の『世の人は よしあしごとも いわばいえ 賤(しず)が誠(まこと)は神ぞ知るらん』の句が心に響いてきます。

やろうとした動機が心に浮かんでそれが誠であると信じるのなら、やると決めたら遣り切るのが誠の道です。引き続き、自然に教えられ家に教えられ、そして体験に教えられる人生を歩んでいきたいと思います。

 

家に祈る

昨日、聴福庵の家祈祷を郷里の神社の宮司様に行っていただきました。古民家甦生をはじめてから一年、ようやく神様が入れるほどに清浄な場が整ったようにも思え有難い気持ちになりました。

思い返せば、家は傾き、庭は鬱蒼と蔓や雑草で廃墟のようで家の中はあちこちクモの巣や蝙蝠の死骸などが散乱していました。民家が店舗になりあちこち乱暴に壊され、穴や傷、汚れがとても目立ちました。幽霊屋敷などとも呼ばれ、誰も近づいて来ませんでした。

それをこの一年でいろいろな人たちの協力や支援、また仲間の真心の手伝いを経て甦生しはじめ今ではとても家が悦んでいるように思えます。

家祈祷を通して、改めて氏神様が守ってくださっていることに感謝し、かつての民家の暮らしが充実していく御蔭様を実感しました。

清浄な場に魂は宿り、暮らしの道具たちは活き活きしてきます。

一家安泰、一家平安になるのは、家運を高めようと祈る当主の心がけ次第かもしれません。私自身、会社で一家宣言をしてから「家とは何か」「当主とは何か」について学ぶ機会と実践の場をこの聴福庵によって得られました。

また仲間たちもここでの暮らしを通して、それぞれが生き方と働き方を学びこの一年でとても成長してくれました。昔からあるものを大切に守り今に活かす、その勿体ないものの存在も身近に感じ、また伝統という先人の智慧や子孫への思いやりなどを身近に感じるご縁もたくさんいただきました。

家に祈るのは、いつも見守ってくださっている風土、歴史や時間の中でいつまでも変わらずに連綿と繋がっている今に感謝することです。

郷里の恩返しもはじまったばかりです。

この120年の古民家が残りあと数百年生き続けられるように、永い目で観て循環の調和した暮らしを温故知新できるように祈り続ける実践を高めていきたいと思います。