信仰の甦生

世界に存在する民族にはそれぞれに歴史があります。そして同時に、その民族が経験によって積み上げてきた叡智があります。その叡智は、時には宗教として現れ、時には生活文化として現れ、また時には産業として現れます。そのどれもがその土地の風土とは切っても切り離すことはできないものです。

例えば、私たち日本人は自然を崇拝して多様な自然の変化と共に暮らしてきた先祖たちの叡智があります。稲作を中心に祭りや神事が行われ、稲作から得た叡智をその後の暮らしに溶け込ませています。

お米を作ることがなくなってきた現在、自然の中でお米を育てていくための様々な考え方や智慧も伝承されにくくなってきています。さらには機械や農薬を用いて、単独で大量生産できるようになってから本来の稲作で積み重ねた叡智もまた伝承されにくくなってきています。

神社の御祭りには、春には豊作を祈り、夏には風雨の害がないことを祈り、秋には収穫を祈り、冬にも祭祀を行うものがあります。一年を通して稲作と共に暮らし、その中でお祭りがあったことは明白です。

さらにはそれぞれの家で様々な場面で祈祷が行われました。それもまたお祭りであり、このお祭りとは決して大きなイベント的なものを言うのではなく、連綿と先祖から続く信仰のカタチのことです。

信仰は暮らしから出てくるもので、暮らしが消えれば信仰は消えます。私は民家甦生を通して如何にこの暮らしの甦生が信仰の甦生になるのかを肌で感じました。地域の信仰の甦生、神社再生のことなどもご縁があって関わることになりましたが結局はこの暮らしを追求すれば必ずこの信仰に辿り着くのです。

信仰とは、私たち先祖が暮らしを通して実践してきた叡智のことです。この叡智を途絶えさせないように、また復古創新していつまでも新しい息吹を持続できるようにその時代時代の責任を担う人たちが真摯にこの伝承を実践していく必要を感じます。

暮らしから出てきたこの信仰の甦生と向き合い、分けずに取り組んでいきたいと思います。

生き方の改善

昨日、一年間一緒に関わってきた高校のクラスで一円対話を見学してきました。一年間をかけてじっくりと協働や協力、そして生き方を学び合い成長した様子に嬉しく有難い気持ちになりました。

そもそもアクティブラーニングという学びにおいても、それは学び方とかやり方とかの方を語られますが実際はその生き方が変わらなければそれはただの方法論の一つになってしまうものです。

見た目をそれっぽく繕っても、そもそもの根底にあるものを根本的に転換しなければ変わったとは言えません。その変化とは、それまでの自分の思い込みや考え方、価値観に影響を及ぼす生き方の転換を意味するのです。

生き方の転換ができてはじめて方法論は活きてきます。能動的学びや主体性などというものは「生き方」の方が変わっているからできるのであって生き方が変わっていないければそれは表面的だけの変化であって真底から変わったわけではないからです。

この生き方の転換とは、何度も何度も素直にその本質や根本から気づき反省し学び直す中で培われていくものです。この一円対話を通して、お互いから学び直し、お互いを磨き直す中で今での知識をすべて忘れ去って新しい智慧が入ってくるのです。

人間は知識を持つことで様々な固定概念を持つようになります。それを思い込みや刷り込みと私は呼びます。そういうものを削り取って真っさらにしていく、それを磨き直してゼロにしていく、そういう学びがあってこそ初めて人は価値観の転換ができ、生き方の改善ができ、まさに心の持ち方を学ぶように思うのです。

心の持ち方や考え方を換えることは、生き方を学び直すことです。

引き続き、私たちが弘める一円観、一円対話、聴福人を通して自分らしく生きられ、生き方を改善し、楽しく活き活きと協力して味わえる学びのよろこび、そして道をつなげていきたいと思います。

 

心の持ち方

人間は心の持ち方ひとつで生き方が異なるものです。例えば、どんなに豪邸に住みどんなに大金持ちになり世間がうらやむような生活を送っていたとしても心が満たされなければそれは果たして富んでいるのかわかりません。反対に、どんなに貧しくても心が満たせている人はとても豊かに幸せに満たされて暮らしていることもあります。

そう考えてみるとやっぱりないものを数えるよりもあるものを数える人、足るを知る人は心豊かです。過去をひきずり、ないものねだりをし欲ばかりを増やしていたら大切な今を見失います。今に生きるということは、まずその心の持ち方を転換する必要があります。

もちろん人間には純粋だからこそ過去に傷つきそれがいつまでも心のトラウマとして傷跡が残ることがあります。その過去が未来を恐れ、きっとまた同じことが起きるのではないかと不安になります。その過去に縛られれば、今に反発したり今を受け容れることができないことも出てくるでしょう。

しかし、今ここにある幸せに目を向けて観れば心は次第に育ってきて心が癒されていくものです。結局は過去という名で心を縛り付けて心を閉ざしてしまうと、今この瞬間を心が味わうことを諦めてしまうのです。

心の持ち方というのは何か、それはどんな状況や環境であってもないものを欲しがるのではなく、あるものを感じる心を持てるということ。心はあるものしか感じないようにできているからです。そして言い換えれば心のままに生きるというのは、満足よりも充実に生きるということ。もしくは願望よりも感謝で生きるということに他ならないようにも思います。人間は心を持っているのだからもっと心の方を優先して生きていこう、それが心の持ち方のことなのです。

だからこそ人はみんな今の環境を嘆くよりも、心の持ち方を学ぶことでどんな環境下にあっても心豊かに幸せに生きられるということなのでしょう。

どのように物事の観方を転じるかは、その物事の価値をあるがままにありのままに受け容れることからはじまります。天が自分に与えられた一切のものは、必然でありそれはもっとも必要なものだけであったという覚悟。また欲望ではなく、心や魂が本当に求めている道はこの足元にすべて訪れてくるという覚悟。

今を受け容れることは、足るを知る感謝の心を持つということでしょう。

どんな今も「これがいいのだ」や「これでいいのだ」と丸ごと受け容れ物事の観方を自分中心ではなく御蔭様中心に転換する発想を持てるようにいつも人の話を素直に聴ける精進の場と実践の訓練を一円対話を通して伝道していきたいと思います。

 

誠の道

自然農の高菜を無事に収穫することができました。全体的に小ぶりですが、生命力に溢れ芯のあるしっかりしたものに育ってくれました。今年は虫や猪のおかげで三回ほどやり直して種蒔きをすることになりましたが、諦めずに何度も何度も訪問しては祈るように育てた期間が今は懐かしく思います。

特に今年は、古民家甦生や地域への恩返しもはじまり、また本業の方も新しい展開が増えたりと体力も時間も精神力も根気もすべて注ぎこむほどのことばかりでその中でも余裕を持つことができていただろうかと振り返ると、長い目でみたらよくやったとほめてあげたいことばかりです。

物事には短期的な目線と長期的な目線があります。長い目でみている人は、今やっていることをお座なりにすることはありません。そして短い目で見ている人は、今やるべきことに全力を注力します。結局は、今というものをやり遂げるには遠大な展望を抱きつつ脚下の実践を怠らないということのように私は思います。

収穫した高菜は、天日干しをし一つ一つを丁寧に洗い塩をまぶして仮漬けをしました。これから数日経ってのち、ウコンと塩で本漬けを行います。昔は、商品価値があるかどうかではなく食べ繋いでいけるかどうかが大切でした。

今回、育った高菜はほとんど商品価値がありません。もっと大きく形がいいものでなければ売り物にはなりません。先日、椎茸栽培している農家さんと話したときも美味しいけれど椎茸が開いたら商品価値がなくなると嘆いていました。高菜も薹が立つと売り物になりませんが、漬物にするとこの薹が立っているほうが美味しいものです。

お金を優先してつくられた商品価値と、私が自然農に取り組んでつくられる価値はどれだけその価値が異なるのでしょうか。

今回の体験の価値は決して値がつけられるものではなく、唯一無二の掛け替えのない価値が光り輝いています。誰かによって価値を定められることに準じるのではなく、自分がどれだけそのものの価値を感じているか。そしてその価値のために命がけで挑戦するか、人生とはその連続のように私は思います。

時折、短期的に遣り切ったとき振り返るとなんでこんなことをやっているのだろうかと自問自答するときもあります。しかしそんな時こそ長期的に遣り切ってきた歴史を鑑みて自分の信念や魂の導きを省みます。

そうすれば、私の場合はすべて「子ども第一義」の理念や初心に適ったことを実践して経験を積み、それを先祖子孫への伝承だけではなく民族の魂として一緒に働く人たちに還元できているのが分かります。

「そんなことをして一体何になるのか」「それをやってこれから一体どうするのか」、そんなことばかりを聴かれる私の滑稽な人生ですが、これを思う時、吉田松陰の『世の人は よしあしごとも いわばいえ 賤(しず)が誠(まこと)は神ぞ知るらん』の句が心に響いてきます。

やろうとした動機が心に浮かんでそれが誠であると信じるのなら、やると決めたら遣り切るのが誠の道です。引き続き、自然に教えられ家に教えられ、そして体験に教えられる人生を歩んでいきたいと思います。

 

家に祈る

昨日、聴福庵の家祈祷を郷里の神社の宮司様に行っていただきました。古民家甦生をはじめてから一年、ようやく神様が入れるほどに清浄な場が整ったようにも思え有難い気持ちになりました。

思い返せば、家は傾き、庭は鬱蒼と蔓や雑草で廃墟のようで家の中はあちこちクモの巣や蝙蝠の死骸などが散乱していました。民家が店舗になりあちこち乱暴に壊され、穴や傷、汚れがとても目立ちました。幽霊屋敷などとも呼ばれ、誰も近づいて来ませんでした。

それをこの一年でいろいろな人たちの協力や支援、また仲間の真心の手伝いを経て甦生しはじめ今ではとても家が悦んでいるように思えます。

家祈祷を通して、改めて氏神様が守ってくださっていることに感謝し、かつての民家の暮らしが充実していく御蔭様を実感しました。

清浄な場に魂は宿り、暮らしの道具たちは活き活きしてきます。

一家安泰、一家平安になるのは、家運を高めようと祈る当主の心がけ次第かもしれません。私自身、会社で一家宣言をしてから「家とは何か」「当主とは何か」について学ぶ機会と実践の場をこの聴福庵によって得られました。

また仲間たちもここでの暮らしを通して、それぞれが生き方と働き方を学びこの一年でとても成長してくれました。昔からあるものを大切に守り今に活かす、その勿体ないものの存在も身近に感じ、また伝統という先人の智慧や子孫への思いやりなどを身近に感じるご縁もたくさんいただきました。

家に祈るのは、いつも見守ってくださっている風土、歴史や時間の中でいつまでも変わらずに連綿と繋がっている今に感謝することです。

郷里の恩返しもはじまったばかりです。

この120年の古民家が残りあと数百年生き続けられるように、永い目で観て循環の調和した暮らしを温故知新できるように祈り続ける実践を高めていきたいと思います。

いのちの心

変化というのを考えるとき、人は新旧や古今という比較によって理解するものです。時代は常に変わり続け、諸行無常、この世には変わらないということがないのだから変わっていくものに柔軟に対応していかなければ時代に取り残されてしまうものです。

この変化とは、自然の摂理でもあります。例えば、太陽も地球も、そして自然も古くなることはありません。常に新しい状態を維持していくために、常に変化し続けます。

昨年咲いた桜の花が今年咲いたからといって古いとは誰もいいません。桜の花は毎年春に咲いていますがその花は新しく入れ替わっていくからです。つまりは同じ花ではありますが同じ花ではないということです。

これは組織においても言えるし、自分自身の価値観においても言えることのように私は思います。

かつての時代は、ある花が咲いたのですがその花は今咲いている花と同じではありません。今の花は今の環境にあわせて咲き始めなければなりません。毎回、新しい花を咲き続けるからこそ花は古くなりません。同じ場所で同じ土地で同じ種でといったとしても、毎年自然の変化は微細に壮大に繰り広げられますから私たちはその都度、生死を繰り返し新しくなり続けていくのです。

おかしな言い方ですが、新しいままでいるというのは生き続けることではなく死を繰り返していくということです。

何をもって死とするか、それは今に合わせてやり直すことです。やり直すというのは、もう一度今なら何が本質を維持できるかを考え抜き柔軟に変え続けいくことです。

自分を守り周りを変えようとするのをやめ、本質を守り自分を柔軟に変化させ続けるということです。自分が正しいということに固執して頑なに自分を守っていたら不自然なになります。それは桜が花を一年中咲き続けているようなものだし、冬に咲いたり夏に咲いたりしているようなものです。

そうではなくこれは本質であるか、本物のままかと常に問いを持ち続けてこれは自分が間違っているなと思ったらすぐにそれまでのものを手放して今まではとは異なるやり方でやり直していくことのように思います。

結局、変化にもしもコツがあるとするのなら今までとは違うパターンを試していくこと、試行錯誤して新しい方法に取り組んでいくこと。きっとまた同じだと思い込むのではなく、こういうパターンもあったのかと好奇心で楽しく変わっていくことのように思います。

自然に生きるあの植物たちや昆虫たち、すべてのものは周囲の環境に対して試行錯誤を繰り返しているから古びれません。みんな変わらないものはないと自覚しているから常に試行錯誤を楽しんでいるのです。それがすべてのいのちの心の姿かもしれません。

自分がせっかくこの世に生まれてきたのだからこの人生をどう楽しもうといった純粋な心、いつまでも面白いと感じる好奇心、そういうものを試行錯誤し磨き続けることが変化と一体になっていくことのように思います。

今度は何を試してみようかと、その実験の手を緩めず実践を楽しみたいと思います。

 

星は光る

私が尊敬している先人に東井義雄氏がいます。

「教え子に教えられる」という教育思想と実践にまさにこの道の源流や本流を感じます。子ども主体という見守る保育の先生もまた同様に子どもから学び子どもと共に育ちあい学び合い成長していく生き方をなさっています。どの時代も教育を考える前に人間とは何かと深めて道を往く人たちはいつも同じような境地を体得しているのかもしれません。

東井義雄氏の遺した言葉は、時代が経っても私たちの魂に語り掛けてくるものがあります。その眼差しや姿勢、真心の生き方は人間をそのまま丸ごと見よう、そのままであることを信じようといった人間そのものを見つめる純粋で包み込むような思いやりや慈愛を感じます。

『どの子も子どもは星』

みんなそれぞれがそれぞれの光をいただいて
まばたきしている
ぼくの光を見てくださいとまばたきしている
わたしの光も見てくださいとまばたきしている
光を見てやろう
まばたきに 応えてやろう
光を見てもらえないと子どもの星は光を消す
まばたきをやめる
まばたきをやめてしまおうとしはじめている星はないか
光を消してしまおうとしている星はないか
光を見てやろう
まばたきに応えてやろう
そして
やんちゃ者からはやんちゃ者の光
おとなしい子からはおとなしい子の光
気のはやい子からは気のはやい子の光
ゆっくりやさんからはゆっくりやさんの光
男の子からは男の子の光
女の子からは女の子の光
天いっぱいに
子どもの星を
かがやかせよう

私たち人間は簡単に言葉で表せるものではありません。複雑で不思議な存在だからこそ、前提にその存在を丸ごと認めてはじめて人間理解・人間教育の土俵に立つことができるのではないかと私は思います。

一方的な偏見で評価したり、常識や価値観で裁いたりする前に、そのものそのままあるがままを認めることを学ぶ・・本来の人間として生きるということです。そして東井義雄氏はこうもいいます。

「人間の目は不思議な目 見ようという心のスイッチがはいらないと 見ていても見えない 耳だって頭のはたらきだってみんなそう スイッチさえいれれば 誰だって必ずすばらしくなれる」

自分という人間を見ようというスイッチを入れることができるかどうかは、その一度きりの自分自身の人生において一生のテーマであるはずです。人間は内省をすることではじめて自分自身が観えてきます。人間は人間であることを自覚できるとき、その人格が磨かれるように思うからです。

一度きりの人生で「人間とは何かをつかむ」というのは自身の成長を確かめることにおいて何よりも大事なことのように思えます。二度とない人生は道場、人生は修行三昧だからこそその価値を感じずにおれません。

しかし人生は言葉で書けるほど簡単ではなく、文字で言えるほど平易でもありません。艱難辛苦を味わい苦労してみてはじめて理解できるものばかりです。そういう人生の苦しい時に寄り添ってくれる存在は、有難く人生の恩人とも言えます。

「雨がふった日には 雨のふった日の生き方がある」

「一番よりも尊いビリがある」

そのままでいいと認めてくれる存在に私自身も沢山の勇気をもらってきました。

最後に、人生の節目を迎える仲間に”はなむけ”の言霊を祈ります。

 

『自分は自分の主人公 世界でたったひとつの 自分をつくっていく責任者』

 

自分の星を光らせていくのは自分、みんなの人生が道の途中でこれからどんな光を放つようになるかが楽しみでなりません。

いっしょに”これでいいのだ”と丸ごと認める人生を味わっていきましょう。

運命をひらく

人間には運命があります。その運命は閉じているとそれを歩めず、ひらくことで伸ばしていけるようにも思います。その運命とは成長のことで、人間は成長するからこそ成熟し人になるようにも思います。

そして運命をひらくのは、苦しみや葛藤、油汗が出て眠れない夜を過ごしていくなかで培われていくものでもあります。そのひらくには、苦しみの中で何を見出すか、起きている出来事をどのように解釈するかということでもあります。

例えば、出会いと別れは表裏一体です。愛別離苦ともいい、出会いがあって深く愛せば愛するほどに別れの時は苦しくつらいものがあります。しかしそこで苦しくつらいことばかりを見てしまえば、出会うこともまた苦しくつらいものになります。

なぜ人はそれでも出会おうとするのか、それは別れのつらさや苦しさ以上に出会いの素晴らしさが大きいからです。出会い別れで発生する歓びと苦しみ、それを苦しみ以上に歓びが大きかったと感じるとき人はないものねだりではなくあるものを数えるように思います。

私がアニメのワンピースの中で心に残っているシーンがあります。それは主人公のルフィが兄のエースを目の前で亡くしたときに自暴自棄になっている様子を見守る恩人ジンベイの言葉です。ジンベイはルフィの苦しみに寄り添い、こう問いかけます。

『もう何も見えんのか お前にはどんな壁も越えられると思うておった「自信」、疑う事もなかった己の「強さ」それらを無情に打ち砕く手も足も出ぬ敵の数々…

この海での道標じゃった「兄」、、無くした物は多かろう。

世界という巨大な壁を前に 次々と目の前を覆われておる。それでは一向に前は見えん 後悔と自責の闇に飲み込まれておる。

今は辛かろうがルフィー・・・それらを押し殺せ

失った物ばかり数えるな 無いものは無い

確認せい お前にまだ残っておるものは何じゃ』

そしてルフィは残ったものやあるものを数え始めます。するとそこには航海を共にしている仲間のこと、約束していることを思い出します。すると自分を責めて過去の後悔ばかりをしていたルフィの我執を壊していきます。そして我執を手放したルフィは泣きながらいいます。

『仲間がいるよ』

そして仲間に会いたいと心の声が出てきて本来の自分を取り戻しまた立ち上がり前に進み始めます。運命をひらくというと、このシーンを思い出します。

人は自分の自責や後悔に入ると、運命が狭くなっていくように思います。運命は本当は大河のように大らかで悠久の時を流れているように思います。その大河の中で浮かんでいる小舟を人生に見立てるとき、狭い心はありません。ないものばかりを求めては悔いる人生ではなく、自分がいただいたものやあるものを数える生き方をするとき心は広くなり運命はひらくのです。

同時に発生する出来事の中で、いただいているものを数える力、それが感謝かもしれませんが運命を一つ一つそうやって数えて味わうことが一度きりの運命を幸せにいきるということかもしれません。

恵まれすぎていると感謝を忘れるのは人間の常ですから、それを忘れないように敢えて禍の種を蒔きそれを味わいたいという心もあるのかもしれません。すべてのことは意義があるとして、一つひとつを私自身はどのように数えるか、その数える自分の心を深く見つめて精進していきたいと思います。

器と道

人には様々な運命があるものです。生まれてきてはこの先どうなるのかが不安で自分探しばかりをする人もいれば、時の流れに身を任せて安心して我執を捨てている人もいます。
すべての生き物には天命がありますから、どうにもならないこともあります。その中でどうにかなるとしたら、自分というものに囚われないことかもしれません。
「身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ」これは和歌や川柳から出たことわざの一つです。そしてこれは平安時代の僧侶 空也上人(903~972)の作と伝えられています。
『山川の末に流るる橡殻も 身を捨ててこそ浮かむ瀬もあれ』「空也上人絵詞伝」

これは山あいの川を流れてきたトチの実は、自分から川に身を投げたからこそやがては浮かび上がり、こうして広い下流に到達することができたのだと詠まれます。

自分を大事と思って、いつまでも我に執着していたらなかなか道が開けないという意味で用いられます。この身を捨てては、我執を捨ててということですがこれが覚悟の本質であろうと私は常に思います。

何を大事に守るかという問いは、道を歩むことにおいては何よりも重要なことのように思います。迷いはどこから来るものなのか、それをじっと見つめてみることです。
私たちはいわば「器」です。

その器を自分でいっぱいにしていたら、何もその器に入れることも載せることもできなくなります。器は空っぽであるからこそ、その器は無尽蔵に活かされていきます。

我で満たされた器にしないように私たちは初心や理念を持つ必要があります。
そうやって初心や理念によって本当に大事なものが大事なままで維持されていくのです。

先ほどの「身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ」は、自分を手放せば本当の自分が観えてくる、そして道が顕れるということを意味しているのでしょう。

何を優先して生きていくかは人生一生の課題です。

優先順位を間違わないように、常に大事なものを大切にした生き方を積み重ねていきたいと思います。

古民家甦生~時中した暮らし~

古民家甦生を続けていくと古い道具を用いますから技術や感覚は次第に磨き直されていきます。こちら側の都合では道具は使えず、道具の特性や弱さ、また持ち味や使い方を扱いながら学び直していきます。

慣れていないとすぐに壊してしまい、さらに道具もまた活かされないので生活や暮らしそのものを便利なものから不便なものへと価値観ごと転換していく必要もあります。特に今のように水道やガス、電気、家電製品や空調器具がある世の中で敢えて不便に戻すというのはとても勇気がいるものです。

先日もトイレは昔のものに戻すのか、風呂は、洗濯は、冷蔵庫はと矢継ぎ早に質問されました。全部排除してしまえば、それは山奥の隠者のような生活になるのではないかというのです。

確かに目的が、先祖返りのように過去に戻ることならばそうなるかもしれません。しかし時代は過去に戻ることは不可能であり、常に今を刷新し続けていくのが生きるということです。温故知新も復古創新も、決して江戸時代や縄文時代などに回帰しようとするのではなく、何を変え、何を変えないかをその時代の人たちが取捨選択してそれまでの初心や大切な伝統が守られるように継承していこうとするのは子孫である私たちの使命でもあります。

私の古民家甦生も、電気も水道もガスも空調設備もあります。それを全部排除しようとか排除しないとかいう考え方ではなく、長い先を観て大事なものは守り続けようということなのです。

そのためには、その近代に発明された便利なものも活かそう、そして昔から連綿とつながっている文化や智慧も活かそうという、古新を融和融合し、今の時代ならどう暮らすかということを提案しているものなのです。

子どもたちには選択肢が必要です。そしてそれが多様性でもあります。その多様な選択肢は、みんな新しいものに右へ倣えではなく、こういう選択肢もあるという生き方も見せてあげる必要があります。それは極端に右か左か、上か下か、富か貧かではなく、かつての古き善きものを取り入れながら今に活かすという時中した暮らし、生き方を感じてもらいたいということなのです。本来、どちらかに偏らないというのは中心を捉えた中庸でもあり、これはどちらかに偏るよりもずっと難しい挑戦なのです。

私が実践する古民家甦生は、まさに今の時代に古の智慧をどう活かすかという事例を伝道伝承しようとするものです。

引き続き、何を変え何を変えないかを自分の生き方を通して試行錯誤していきたいと思います。