心の甦生

ちょうど今から一年前、島根県石見銀山の帰りに郷里の古民家に立ち寄ったことで古民家甦生がはじまったのを思い出します。生きていると事あるごとに自分を育ててくださった故郷、自分を見守ってくださった風土、そして歳を経れば経るほどにその有難さに頭が下がる思いがしました。

私たちは当たり前に空気を吸い、当たり前に水を飲み、当たり前に食べ、当たり前に住まいを得ては生活していますがそれはその土地の風土がなければ実現しないものです。その土地の空気、水、環境は先祖代々大切に守られてきたもので、その恩恵を享受され私たちは安心して仕合せな暮らしを継続していくことができるとも言えます。

今では簡単に移転や引っ越しをして、遠くの土地に移動していきますが古来は自分の住んでいる場所は周りと共生関係を結びいのちの廻りを繰り返した処ですからその場所で循環をし好転し続けるように自分自身も協力して場所を活かし続けていくのが人の道です。

この一年、古民家甦生を通して郷里の誇りや自信を感じました。さらに、それまでに刻まれた歴史や物語、そして今に至るまでの偉大な恩恵を感じることもできました。自分たちのルーツを持つというのは、歴史を持つということでもあります。今の自分を知るには、その自分の歴史を知ることだとも言えます。自分の歴史と郷里の風土は切り離されることはありません。その偉大な恩恵を感じるとき、私たちははじめて暮らしの大切さを学び始めます。

暮らしというのは、現代では何か人間社会の生活のみで語られることがありますが本来は風土と一体になってはじめて暮らしは実現します。その暮らしは、それまでの歴史を伴い、生活文化としての暮らしを言うのです。文化を切り離しての生活は暮らしとは呼べないのです。その文化は風土自然と一体になっています。

私が恩返しで実践をはじめた民家の甦生は、暮らしの甦生でもあります。そして同時にそれは歴史の甦生、風土の甦生、自然の恩恵に感謝して生きる私たちの心の甦生です。

いよいよ古民家甦生も二年目に入りますが、ご縁を大切にし御蔭様のお助けに感謝し、初心を忘れずに実践を高めていきたいと思います。

伝承の豊かさ

先日、古民家甦生で聴福庵の囲炉裏の間に入っているくにさき七島藺の畳の生産者、淵野聡さんにお会いするご縁がありました。この『七島藺(しちとうい)』は、大分県の国東地方だけで生産されているカヤツリグサ科という植物です。

七島藺は350年の歴史があり、琉球畳は本来、この七島藺を使ったものを言っていました。かつては国東で2万戸の農家が生産していた七島藺も今ではその生産ができる農家が9戸のみになっています。畳表を製作しているところも見せていただきましたが、一日わずか2畳分しかできない手間暇をかけて作られているものです。

淵野さんは、この七島藺に魅せらせそれまでに勤めていた高速道路の仕事を辞め、この七島藺の生産と製造をはじめられたといいます。よき人、よき師匠に巡り合い、いい畳をつくりオリンピックの柔道畳に採用されることを目下の目標にし精進しておられました。

世の中では単に脱サラして転職したとか、いろいろと評する人がいますがこの方は道に入るといって導かれるままに天職に移ってこられた方です。不思議なものですが、本人が選んでいるようにも見えますが、実際は七島藺が人を選んでいるようにも見えます。これは出会いと同じで、いのちといのちの廻り合いは時や場所を超えて縁尋奇妙に結ばれています。何かが失われそうなとき、それを守る人が出てくる、諦めそうなとき、助けてくださる存在がでてくる、道の伝道に伝承者が顕れるように、ご縁の不思議さを感じます。お互いに我慾ではなく、真摯に真心を籠めて天命に従うとき、人は本物と出会うのでしょう。

また今回はちょうど苗を育てている時期だったので、水田の中で新芽を出している七島藺を拝見することもできました。これは真菰竹などと同じで、種ではなく苗を越冬させその苗から翌年のものを育てていくものです。

こうやって大切に株分けされたものを長い年月をかけて育てて農産物を大切に加工して生産していくことに大きな豊かさを感じます。自然と共に暮らし、自然からいただいたものを大切に自分たちの暮らしの中に取り入れていく。当たり前のことですが。これができる幸せは、単にお金で買えるものとは一線を画します。

豊かな暮らしというものは、先祖から大事に譲られてきた伝道をそのままに私たちが子孫へつなぎ紡ぐ伝承をするときに感じられるものかもしれません。

引き続き、未来の子どもたちの為にも日本の民家甦生を味わいながら豊かな暮らしを再生していきたいと思います。

使い方の修行

道具というものは面白いもので使い方次第では、あらゆる可能性を秘めています。古民家甦生を通して、かつての古道具をリメイクしてそれを今の時代だったからどう活かすかと磨き上げていますが用い方によっては新たな発見や発明がありワクワクします。

かつて中心思想の常岡一郎さんは、『人間は生まれながらにして「使い方」の修行をするのだ』といいました。確かに、道具も使い方、そして道具を活かす人間自体も使い方、自分という人間も使い方、この様々な使い方の中に生きる哲学があり、その人の生き様があるように思います。常岡さんは心の使い方に注目しこう仰います。

「この世の中そのままがわれわれにとって道場であります。生まれて死ぬまで人間は修行してるものと思われます。それは「使い方」の修行です。身体の使い方、 心の使い方、 金の使い方、 力の使い方、 知恵の使い方、鮮やかさの使い方、正しさの使い方、 自然に添う使い方、 気持ちよい使い方、それを毎日修行する。そのための人生は心つくりの道場であると思います。」

心つくりの道場・・・自分がもしも天や神様の道具だとしたら、こうじゃなきゃ使われないと意固地に頑固に潔癖であったらその道具は使いにくいし出番も少ないように思うのです。

今、リメイクしている道具たちはこちらがこう使ってもいいかと聴くとなんでも受け入れて手伝ってくれます。ある時はテーブルに、ある時には蓋になり、またある時は扉になり、またある時は台になり、こちらの要望にあわせていくらでも変化して、しかもそれであってまるで最初からそうであったかのように馴染んでくれます。その道具もまた自分を新たに発見しその時代に活かされる歓びを感じているかのように活き活きと輝きます。

古民家の道具たちは、あらゆるものに変化し、使い手と協力関係を結びお互いを尊重して大切に相談しながら活かしあい互いに馴染み合います。そこには自然や偉大な調和を感じます。

その時、確かに使い手の使い方もありますが、使われる側にも使われ方というのもまたあるように私は思うのです。それは、「あなたがのぞむのならば私はどのようにでも使われますよ」といった天命を受け容れる心の強さ、柔軟性があるのです。

以前、マザーテレサが「私は神様の小さなえんぴつである」という言い方をされていたのを著書で読んだことがあります。マザーテレサはこう言います。

「鉛筆を使って画家がすばらしい絵を描いたからといって、もし鉛筆が自分は偉いと思い込んだらどうなるでしょう。鉛筆がおごり高ぶって自分の力で勝手に動き始めたら、きっと絵はめちゃくちゃになってしまうに違いありません。鉛筆は、画家の手の中で、画家の思うままに動くからこそ美しい絵を描くことができるのです。」

この無欲さ、捧げ切るという生き方、道具が活かされるには我執や固執があると活かせるものも活かされなくなるのかもしれません。

古い道具たちが時代を超えて私と一緒に今の時代に生き続けられるのは、みんな一緒に天命の赴くまま天意の思うままに生きているからです。そしてこれこそが変化の王道であり、成長の要諦であり、永続する自然のいのちの理なのではないかと私は思います。

「人生は使い方の修行である。」

とても含蓄のある言葉です。引き続き、来たものを選ばず自他一体に真心を盡していく日々を味わっていきたいと思います。

 

暮らし~人生至高の錬磨~

古民家甦生を通して暮らしを実践していると「もったいない」の意識が変化していくのがわかります。例えば、それまでは日常の生活の中で「いのち」などを意識しなくても様々な道具も食材も建築物もそのまま頭の中の知識の一つとして無造作に扱っていましたが、実際に暮らしはじめていくと全ての生物非生物にいのちが宿っていることに気づけるようになります。

この日常の暮らしの実践というものは、私たちにいのちの存在に気づかせ、そのいのちをどのように活かしていけばいいかを学び直す人生至高の錬磨になります。

昔の人々は、建物にもいのちがあると考え、寺社仏閣にはご本尊があることが観えたといいます。それは太古の昔から、大きな樹や大きな岩、また滝や川、あらゆる自然の中に神や精霊を見出しそれを祀っていたのを観ても感じます。

こういうものを感じなくなってしまったのが現代であり、太古の昔はそれを身近にいつも感じて慎み深く恭しく謙虚に生活を営みました。この暮らしというものは、私たちはあまり議論にもしなくなりましたがそれまで観えていた世界を観なくなったというのが暮らしの消失でもあります。

如何に自分を磨いていくか、如何に自己を鍛錬していくか、人生修行、人生道場においての道場はこの暮らしの実践にこそあるように私には思えるのです。

同じもったいないというものであったとしても、ある人はそのものを別のものに見立てていのちの寿命を伸ばします。またある人は、そのものの手入れを怠らず何世代も活かし続けて甦生させていきます。

これはすべて暮らしの実践によって磨かれた人格であり、私たちの先祖はいのちをどのように活かすか、いのちをどのように伸ばすか、いのちをどのように甦生させるかといういのちと向き合ってきた民族であったのは明白です。

これらのいのちの暮らしがなくなれば、私たちはいともたやすく精神を損ない、魂が枯れ、心が疲れていきます。今の時代の忙しさの元凶は何か、魂が病んでいる人が増えたのはなぜか、精神が怠惰になってしまうのはなぜか、これは暮らしの喪失によって行われていることに気づかなければなりません。

日々の暮らしはいのちを学ぶ道です。

そのいのちを学ぶ至高の道場が家ですから、どのように家で暮らすかはその人の人生に多大な影響を与えます。家が先生であるという理由は、ここに極まります。

人生にとって一番長い時間は暮らしをしている時間です。この時間にどのような暮らしを実践するか、それを人生とも言います。経済優先、スピード重視、効率効果ばかりが叫ばれる自転車操業の世の中で人類は一度立ち止まり、自らの暮らしと向き合い見つめ直す時機に来ているように思います。

引き続き暮らしの実践を通していのちの甦生、人々の甦生、子どもに譲りたい未来のためにたゆまず磨き深めていきたいと思います。

 

道中

古民家甦生をやっていると、色々と周辺の人たちには何をするのかと聞かれます。直してどうするつもりかと尋ねられることはあっても、なぜ直しているのかとはなかなか聞かれることがありません。

私にとってはこの古民家甦生のプロセスの中に、日本人の生き方や民家の暮らしの尊さを学び直して自分を直しているのであり結果はその直した後に自然に出てくるように感じています。

直すというのは、こちらが直しているのか、それともこちらが直されているのかというものがあります。自然農も同じく、私が田んぼを作り直しているのではなく田んぼによって自分の方が直されていくのです。

相手が自然や伝統である場合、ズレてしまっているのは自分の方であることに気づきます。自分が不自然になっていないか、自分がつながりを見失っていないか、一つひとつの体験を通してそのことに気づいていくのです。

ある人にとってはこんなに田んぼを遊ばせてもったいないや、古民家をお店として利用しないでもったないなどと言われることもありますが、私にとってのもったいないというのはこの取り組んでいるプロセスがもったいないと感じるのです。

もちろん結果や収穫、家が完成するのもまたうれしいのでしょうがこの取り組んでいる最中こそが有難く、心豊かで仕合せを感じます。古民家甦生などは一年でよくもここまでやったなと周囲に言われますが、これは結果に対して焦っているから早く完成しているのではありません。

私にとっては自然農も古民家甦生も大変ですが取り組むたびに新しい発見があり楽しく、そして好きで好きで仕方がなく、やっていることで学問の悦びを感じます。周りからは急いでいるように見えても、私にとっては四六時中同じことを考えていますからそのどれもがかんながらの道に観えています。

道楽というのは、来たものを選ばずにそのどれからも学び続けている幸福の中にいるということです。

また仲間がいるから、家族があるから一緒に道を歩める仕合せがあります。

引き続き、子どもたちのためにも目的を大切にして結果を求めずに求道し続けていきたいと思います。

 

民の道

民族のルーツをたどっていくと、それぞれの民族に発祥があることに気づきます。それはその土地の自然風土の中で、何とつながり、何と絆を結んだかという自然との共生により発生したものです。それをより深め、子孫へと伝承してきたのが発達であるとも言えます。

そう考えてみると、多様性というものはその土地や風土の変化に合わせて自分たちが変わり続けていることを知ります。その土地の生き物たちが場所を超えて巡り合う時、様々な化学反応が起きます。そして破壊と創造をくりかえし新たなものがそこに発生します。

連綿と続いてきたその民族特有の血脈は、見た目には失われているように見えてもそれはなくなってはいないものです。その証拠に、私たちは伝統や歴史、先祖たちの生き様や文化に触れると魂が揺さぶられる感覚があります。つまり本物に触れることができるのです。

例えば、アラスカの土地でアフリカの文化をみても私たちはそこに違和感を感じます。しかしアフリカの土地でアフリカの文化を感じると私たちは感動します。それは自然と結ばれてきた人々の暮らしが文化に残存するからです。

長い年月をかけて、風土と共に経年変化した味わいというものは偉大な化学反応でありその壮大なスケールに私たちは畏敬の念を覚えるように思うのです。

一代でなしえないことを、何世代もかけて順応させていくという智慧は地球の成長と変化に結ばれ自然と共生してきた私たちのいのちの本質なのでしょう。

目先の大きな変化が変化のすべてだと勘違いしてしまいますが、実際の変化とはもっと悠久の年月をかけ壮大なつながりの中で行われているものです。自分の中に流れている血に民族の魂と志を感じます。

引き続き、周りから誤解されて理解されなくても自分の進むべき道を迷わずに歩んでいきたいと思います。

おもてなしの本質

「お客様は神様です」という言葉があります。これは商売の間では、一般的にクレームの声や様々なアドバイスや利益をいただけるお客様はまるで神様のようであるというように使われているように思います。

しかしこの言葉を使い広がった起因となった歌手の三波春夫氏は、お客様は神様であるという意味をこう言います。

『歌う時に私は、あたかも神前で祈るときのように、雑念を払って澄み切った心にならなければ完璧な藝をお見せすることはできないと思っております。ですから、お客様を神様とみて、歌を唄うのです。また、演者にとってお客様を歓ばせるということは絶対条件です。だからお客様は絶対者、神様なのです』

しかしこの本意がなかなか伝わらず三波春夫氏は説明に苦慮されたそうです。それが下記の問答の中にも残っています。

『ある時こんな質問を受けたことがあります。「三波さん、お客様はお金をくださるから神様なんですか」と。私はその時その人に聞きました。「じゃああなたは神様からお金や何かをもらったことがありますか。お賽銭を上げてお参りするだけでしょう」』

信仰するということの意味から離れて、個人の損得のみで判断する世の中になっていく中で本来の「神様に対する姿勢」という畏敬の念もまた失われてきたのかもしれません。

この神様に対する姿勢の中で日本民族の代表的な言葉に「おもてなし」があります。広辞苑ではとりなし、つくろい、たしなみ、ふるまい、挙動、態度、待遇 馳走、饗応など書かれます。真心を持って気遣いや心配りをする生き方のことで日本人の徳性の一つです。

このおもてなしは、裏表なしの「おもてなし」とも言われます。裏のないあるがままの純粋な心のままに気を配るということです。ここに私は先ほどの神様が深く関係していると感じるのです。

日本では古来より、神事や御祭において神様を自然の場所から御社へと御迎えして「おもてなし」を行います。供物や神楽をはじめ素直な心で真摯に感謝の念を伝えます。この時、私たちが実践しているのは「神様をもてなす」ことであり、「お客様は神様」になっているのに気づきます。

お客様が神様であるというのは、私たちのご先祖様が常日頃から生活文化の中で「暮らし」を通して自然に実践を積み重ねてきたものであり、世界に誇る真心の接待は神様をお客様として御迎えするなかで伝承されてきた「生きざま」だったのです。

しかし今では、御祭りの意味変わり、個人主義が蔓延し、人間のみを相手にサービスばかりを増やしては満足度を気にしているようでは「お客様は神様」の意味もまた変わってしまうのでしょう。

どれだけ相手を卑下せず尊重して自らの姿勢を正すか、畏敬の念で相手の心に寄り添い丹誠を籠めて真摯に尽力しようとするところにその人たちの目線の丁重さを感じます。低姿勢の人はみんな生き方が謙虚であり、相手のことを慮り思いやる素直な姿勢を持っています。

常に自分の姿勢を省み、全てのいのちを神様だと思いそのお客様に仕える心で生きていきたいと感じます。ご先祖様たちの大切にしてきた暮らしを守っていきたいと思います。

原点回帰とは

今というものを紐解いていくと、それは過去のある時点での決心の延長線にあるものだと気づくものです。今の自分が存在する結果は、かつて蒔いた種が実っているということになります。そしてその種ともいえる動機を初心とも言い、それを原点とも言います。この原点を忘れないままでいると、自分の根がどこに伸びているか、そしてその根がどのように何を吸収しているのかを自分で理解できるようになります。

例えば、自分の根の成長を省みると自分の信念や理念、その初心とつながりそれが困難や苦労によって下へ下へと根が広がっていくのが分かります。そして根は養分を土の中から上へ上へと土壌の水分などを吸い上げていきます。

それが「いのちの成長」でもあります。

私たちは表に出て変化している部分と、表には出ませんが土の中で成長していく部分があります。これは植物で比喩していますが、見た目と内面の変化とも言えます。

原点を持つというのは、この根を深めるということにおいて何よりも重要になります。根を深めるとは、原点回帰をすることであり、何のために自分が今これをやるのか、なぜこれを今やるのかと、常に自分の根を張り巡らせてしっかりとその場所に根付いていくことです。

根無し草や根が弱ければ、ちょっと風が吹いたり嵐がきたり、困難があるとあっという間に吹き飛ばされたり折れたりして枯れてしまいます。そうならないように、その場所に深く根を張ることで困難を成長の糧にし、艱難を持って信念を醸成するのです。

人が自分の根をそうやって深く掘り下げていくように、組織もまた同様にみんなで深く根を掘り下げていきます。そうやって繰り返し、植物たちのように「いのちの廻り」を繰り返しているうちに土壌は発酵し様々ないのちをささえる楽園になっていきます。そこに他のいのちが活かされ、そこはまさに生き物たちのユートピアになるのです。

原点回帰というのは、それぞれが自分の価値観よりも少し大切なものを持つということに似ています。また自分の価値観よりも優先するものを持つということ、言い換えればこれだけは譲れないと思っているものを持っているということです。

この原点を大切に守っていくことが原点回帰であり、時代の変遷の中であっても不易と流行のように変わるものと変わらないものをちゃんと回帰しながら歩んでいくということです。

この「回帰」というのが、初心に帰るという意味であり理念に立脚するという意味です。

引き続き、人間の一人一人が幸せに生きていく社會、やりがいと生きがい、誇りと安心立命できる豊かな社會を目指して、原点回帰の実践を仲間と一緒に取り組んでいきたいと思います。

 

時間の使い方~志間~

昨日、長年一緒に歩んできた理念の同志の志を確認するご縁がありました。改めて深く聴き直してみると、この期間どのような生き方を目指してどのような生きざまがあったかという時の変遷です。

人間は時間は等しく同様に与えられ過ぎ去っていきますが、その時間をどのように使ってきたかはその人の生き方で決まります。時間が同じであってもその人の時間はその人の人生になるからです。言い換えるのなら時間とは命のある時の間、生まれてから死ぬまでの寿命のことです。

そしてその時間を自分の為だけに使う人と、世の中や人の為に使う人がいます。同志は自分のことよりも誰かのため、他人のため、世の中のためにと使い切って歩んでいました。自分を捧げ切るという生き方は、頂いた命を捧げ切るという生き方でもあります。そしてそれは自分を生き切る、命を生き切るという生き方にもなってきます。

命の使い方をどのようにするかと決心することが覚悟の価値であり、その決心したままに生きることで実践が積まれ本物になっていくように思います。ここでの本物とは、素直なままの自分、あるがままの自分、天命のままの自分になるという意味です。

人は我執が強くなり、自利ばかりに傾くと天命に気づかなくなっていくものです。そして天命は自分の与えられた時間でもありますからその時間を「何のために使うのか」という自問自答は、自分の一度しかない人生を生きる上で何よりも大切なことのように私は思います。

そしてその人生をどう生きるかどうかを決める出会いや邂逅がその人にあったというのは、その人が幸運に恵まれているとうことでもあります。そしてどんな人が幸運に恵まれるかというのは、道を求め感謝の心を忘れずに素直に謙虚になろうと決めた人のようにも思います。

人間は自分の物事の受け止め方が歪んでしまうと、一つひとつの出会いを大切にできないように思います。出会いを大切にする人は、物事から逃げようとせず、避けようとせず、誤魔化そうとせず、言い訳しようとせず、ただただその出会いに感謝します。そしてその出会いに感謝できている人はそれを恩とし、その恩に感謝しその恩を自分もお返ししたいと思うようになります。

こういう生き方の態度が決まっている人は、自ずから幸運を味方につけていきます。それは周りから活かされていることを知り、その活かしてくださっている周りを活かそうと自然の流れに逆らわないからです。つまり幸運とは好循環する自然の摂理に適ってきたということでもあります。

自然の摂理に対して、自然に反して自分の方にひきよせようとすればするほどに問題が起きます。自分のことばかりを考えて自分の心配ばかりしていては不自然になります。もっと周りのために自分を活かそうとすることが自分自身のいのちを大切に使っていくことになるのです。畢竟、人間は己に克つことが肝要で日々に我執に吞まれないように、どのように時間を使っていくのかの積み重ねが最期の自分の人生を創るということなのでしょう。

同志の生き方や生きざまに勇気がもらえ元気になります。引き続き私も自分の理想とする生き方に近づいていけるようにあるがままの自分を丸ごと認め、日々の小さな心がけと志間の積み重ねを継続していきたいと思います。

機嫌好く

人には「機嫌」というものがあります。これは表情や態度に現れる自分の感情であり、その感情の良し悪し、気分の良し悪しで機嫌が分かれていきます。この機嫌というものは、自分で自覚できるものでありその機嫌をどのようにするかは自分次第で調整していくものです。

これは体の健康と同じで、調子が良い悪いはいつも出てきますからいつも体調が良い状態に維持するように努めるのは自分自身の自覚と日ごろの努力に由ります。そして自分にとって良い状態とは、悪い中でも最善を尽くしていくことや、好循環になるように気を配り続けることでもあります。

この機嫌というものは、心や精神の健康のことをいいいつも機嫌が好い人は心が健康であるということでもあります。さらには主体性が出ている人や積極的に楽観的な精神を持っている人は魂が健康であるとも言えます。日々に健康に過ごすというのは、常に自分の状態を好循環する方、言い換えれば機嫌を善くしていくことで実現するのです。

かつて中心社の常岡一郎さんがこういう言葉を遺しておられます。

「機嫌のよい心には弾力がある。 機嫌のよい時は、おい隣村まで行ってくれないか
と言われても、「よし」とすぐ引き受け、すぐ走り出せる。 機嫌の悪いときは、なにもかもおっくうになり、 重苦しく感じる。 すべての人間はいつでも、どこでも自分の心の責任者である。 心に明るさをたたえた、機嫌のよさを失ってはならない。 これを失えば人生の旅はすぐ疲れる。 それが不幸や不運や病の原因となる 。」

常岡さんはこの機嫌の好いことを「心の弾力」といいます。これを言い換えれば「植物の新芽」であるといいます。常岡さんはこれを「伸びる力」であるといいます。

そして伸びるものはやわかいといいます。

「育つもの。伸びるもの。生命おどるもの。それは常にやわらかさを失ってはならぬ。固まったら伸びない。我執は人間を堅くする。偏狭は人間の明るさを失わせる。草や木も、やわらかな間にのびる。やさしい新芽から伸びる。堅くなったら伸びることが止まる。人の心もそうである。」(常岡一郎一日一言」(致知出版社)より

自分の心の責任者は自分という言葉、これはとても大切なことだと思います。誰のせいでもなく、言い訳もしない、如何に自分自身が感情を大切にし疲れないように手入れをするかは日ごろの心がけに由ります。

いつもニコニコ機嫌よく、穏やかで明るい人は、皆から安心され信頼されるだけでなく関わる人たちを元気にしていきます。好循環をつくりだす人はみんな運が好い人であり、そういう幸運の人の周りには幸運が集まってきます。

「ご機嫌いかがですか?」というあの挨拶は、心の健康はどうですかという挨拶です。他人と会うときにはまずは自分の機嫌を自覚し、いつも快活に元気に健康に日々に感謝の念と謙虚な反省の気持ち、そして素直な実践をもって自分を磨いていきたいと感じます。

最後に常岡一郎さんの言葉で締めくくります。

「あなたはいつも上機嫌ですか、こう突っ込まれてにっこりほほ笑むことの出来る人になる。これが他人の心に明るさを与える資格だと思う。」

子どもの周囲に思いやりを運ぶ仕事をする私たちだからこそ、働き方や生き方、その機嫌の在り方が大事だと思います。子どもたちのためにも、機嫌好く笑いの絶えない現場を創造していきたいと思います。