民の道

民族のルーツをたどっていくと、それぞれの民族に発祥があることに気づきます。それはその土地の自然風土の中で、何とつながり、何と絆を結んだかという自然との共生により発生したものです。それをより深め、子孫へと伝承してきたのが発達であるとも言えます。

そう考えてみると、多様性というものはその土地や風土の変化に合わせて自分たちが変わり続けていることを知ります。その土地の生き物たちが場所を超えて巡り合う時、様々な化学反応が起きます。そして破壊と創造をくりかえし新たなものがそこに発生します。

連綿と続いてきたその民族特有の血脈は、見た目には失われているように見えてもそれはなくなってはいないものです。その証拠に、私たちは伝統や歴史、先祖たちの生き様や文化に触れると魂が揺さぶられる感覚があります。つまり本物に触れることができるのです。

例えば、アラスカの土地でアフリカの文化をみても私たちはそこに違和感を感じます。しかしアフリカの土地でアフリカの文化を感じると私たちは感動します。それは自然と結ばれてきた人々の暮らしが文化に残存するからです。

長い年月をかけて、風土と共に経年変化した味わいというものは偉大な化学反応でありその壮大なスケールに私たちは畏敬の念を覚えるように思うのです。

一代でなしえないことを、何世代もかけて順応させていくという智慧は地球の成長と変化に結ばれ自然と共生してきた私たちのいのちの本質なのでしょう。

目先の大きな変化が変化のすべてだと勘違いしてしまいますが、実際の変化とはもっと悠久の年月をかけ壮大なつながりの中で行われているものです。自分の中に流れている血に民族の魂と志を感じます。

引き続き、周りから誤解されて理解されなくても自分の進むべき道を迷わずに歩んでいきたいと思います。

おもてなしの本質

「お客様は神様です」という言葉があります。これは商売の間では、一般的にクレームの声や様々なアドバイスや利益をいただけるお客様はまるで神様のようであるというように使われているように思います。

しかしこの言葉を使い広がった起因となった歌手の三波春夫氏は、お客様は神様であるという意味をこう言います。

『歌う時に私は、あたかも神前で祈るときのように、雑念を払って澄み切った心にならなければ完璧な藝をお見せすることはできないと思っております。ですから、お客様を神様とみて、歌を唄うのです。また、演者にとってお客様を歓ばせるということは絶対条件です。だからお客様は絶対者、神様なのです』

しかしこの本意がなかなか伝わらず三波春夫氏は説明に苦慮されたそうです。それが下記の問答の中にも残っています。

『ある時こんな質問を受けたことがあります。「三波さん、お客様はお金をくださるから神様なんですか」と。私はその時その人に聞きました。「じゃああなたは神様からお金や何かをもらったことがありますか。お賽銭を上げてお参りするだけでしょう」』

信仰するということの意味から離れて、個人の損得のみで判断する世の中になっていく中で本来の「神様に対する姿勢」という畏敬の念もまた失われてきたのかもしれません。

この神様に対する姿勢の中で日本民族の代表的な言葉に「おもてなし」があります。広辞苑ではとりなし、つくろい、たしなみ、ふるまい、挙動、態度、待遇 馳走、饗応など書かれます。真心を持って気遣いや心配りをする生き方のことで日本人の徳性の一つです。

このおもてなしは、裏表なしの「おもてなし」とも言われます。裏のないあるがままの純粋な心のままに気を配るということです。ここに私は先ほどの神様が深く関係していると感じるのです。

日本では古来より、神事や御祭において神様を自然の場所から御社へと御迎えして「おもてなし」を行います。供物や神楽をはじめ素直な心で真摯に感謝の念を伝えます。この時、私たちが実践しているのは「神様をもてなす」ことであり、「お客様は神様」になっているのに気づきます。

お客様が神様であるというのは、私たちのご先祖様が常日頃から生活文化の中で「暮らし」を通して自然に実践を積み重ねてきたものであり、世界に誇る真心の接待は神様をお客様として御迎えするなかで伝承されてきた「生きざま」だったのです。

しかし今では、御祭りの意味変わり、個人主義が蔓延し、人間のみを相手にサービスばかりを増やしては満足度を気にしているようでは「お客様は神様」の意味もまた変わってしまうのでしょう。

どれだけ相手を卑下せず尊重して自らの姿勢を正すか、畏敬の念で相手の心に寄り添い丹誠を籠めて真摯に尽力しようとするところにその人たちの目線の丁重さを感じます。低姿勢の人はみんな生き方が謙虚であり、相手のことを慮り思いやる素直な姿勢を持っています。

常に自分の姿勢を省み、全てのいのちを神様だと思いそのお客様に仕える心で生きていきたいと感じます。ご先祖様たちの大切にしてきた暮らしを守っていきたいと思います。

原点回帰とは

今というものを紐解いていくと、それは過去のある時点での決心の延長線にあるものだと気づくものです。今の自分が存在する結果は、かつて蒔いた種が実っているということになります。そしてその種ともいえる動機を初心とも言い、それを原点とも言います。この原点を忘れないままでいると、自分の根がどこに伸びているか、そしてその根がどのように何を吸収しているのかを自分で理解できるようになります。

例えば、自分の根の成長を省みると自分の信念や理念、その初心とつながりそれが困難や苦労によって下へ下へと根が広がっていくのが分かります。そして根は養分を土の中から上へ上へと土壌の水分などを吸い上げていきます。

それが「いのちの成長」でもあります。

私たちは表に出て変化している部分と、表には出ませんが土の中で成長していく部分があります。これは植物で比喩していますが、見た目と内面の変化とも言えます。

原点を持つというのは、この根を深めるということにおいて何よりも重要になります。根を深めるとは、原点回帰をすることであり、何のために自分が今これをやるのか、なぜこれを今やるのかと、常に自分の根を張り巡らせてしっかりとその場所に根付いていくことです。

根無し草や根が弱ければ、ちょっと風が吹いたり嵐がきたり、困難があるとあっという間に吹き飛ばされたり折れたりして枯れてしまいます。そうならないように、その場所に深く根を張ることで困難を成長の糧にし、艱難を持って信念を醸成するのです。

人が自分の根をそうやって深く掘り下げていくように、組織もまた同様にみんなで深く根を掘り下げていきます。そうやって繰り返し、植物たちのように「いのちの廻り」を繰り返しているうちに土壌は発酵し様々ないのちをささえる楽園になっていきます。そこに他のいのちが活かされ、そこはまさに生き物たちのユートピアになるのです。

原点回帰というのは、それぞれが自分の価値観よりも少し大切なものを持つということに似ています。また自分の価値観よりも優先するものを持つということ、言い換えればこれだけは譲れないと思っているものを持っているということです。

この原点を大切に守っていくことが原点回帰であり、時代の変遷の中であっても不易と流行のように変わるものと変わらないものをちゃんと回帰しながら歩んでいくということです。

この「回帰」というのが、初心に帰るという意味であり理念に立脚するという意味です。

引き続き、人間の一人一人が幸せに生きていく社會、やりがいと生きがい、誇りと安心立命できる豊かな社會を目指して、原点回帰の実践を仲間と一緒に取り組んでいきたいと思います。

 

時間の使い方~志間~

昨日、長年一緒に歩んできた理念の同志の志を確認するご縁がありました。改めて深く聴き直してみると、この期間どのような生き方を目指してどのような生きざまがあったかという時の変遷です。

人間は時間は等しく同様に与えられ過ぎ去っていきますが、その時間をどのように使ってきたかはその人の生き方で決まります。時間が同じであってもその人の時間はその人の人生になるからです。言い換えるのなら時間とは命のある時の間、生まれてから死ぬまでの寿命のことです。

そしてその時間を自分の為だけに使う人と、世の中や人の為に使う人がいます。同志は自分のことよりも誰かのため、他人のため、世の中のためにと使い切って歩んでいました。自分を捧げ切るという生き方は、頂いた命を捧げ切るという生き方でもあります。そしてそれは自分を生き切る、命を生き切るという生き方にもなってきます。

命の使い方をどのようにするかと決心することが覚悟の価値であり、その決心したままに生きることで実践が積まれ本物になっていくように思います。ここでの本物とは、素直なままの自分、あるがままの自分、天命のままの自分になるという意味です。

人は我執が強くなり、自利ばかりに傾くと天命に気づかなくなっていくものです。そして天命は自分の与えられた時間でもありますからその時間を「何のために使うのか」という自問自答は、自分の一度しかない人生を生きる上で何よりも大切なことのように私は思います。

そしてその人生をどう生きるかどうかを決める出会いや邂逅がその人にあったというのは、その人が幸運に恵まれているとうことでもあります。そしてどんな人が幸運に恵まれるかというのは、道を求め感謝の心を忘れずに素直に謙虚になろうと決めた人のようにも思います。

人間は自分の物事の受け止め方が歪んでしまうと、一つひとつの出会いを大切にできないように思います。出会いを大切にする人は、物事から逃げようとせず、避けようとせず、誤魔化そうとせず、言い訳しようとせず、ただただその出会いに感謝します。そしてその出会いに感謝できている人はそれを恩とし、その恩に感謝しその恩を自分もお返ししたいと思うようになります。

こういう生き方の態度が決まっている人は、自ずから幸運を味方につけていきます。それは周りから活かされていることを知り、その活かしてくださっている周りを活かそうと自然の流れに逆らわないからです。つまり幸運とは好循環する自然の摂理に適ってきたということでもあります。

自然の摂理に対して、自然に反して自分の方にひきよせようとすればするほどに問題が起きます。自分のことばかりを考えて自分の心配ばかりしていては不自然になります。もっと周りのために自分を活かそうとすることが自分自身のいのちを大切に使っていくことになるのです。畢竟、人間は己に克つことが肝要で日々に我執に吞まれないように、どのように時間を使っていくのかの積み重ねが最期の自分の人生を創るということなのでしょう。

同志の生き方や生きざまに勇気がもらえ元気になります。引き続き私も自分の理想とする生き方に近づいていけるようにあるがままの自分を丸ごと認め、日々の小さな心がけと志間の積み重ねを継続していきたいと思います。

機嫌好く

人には「機嫌」というものがあります。これは表情や態度に現れる自分の感情であり、その感情の良し悪し、気分の良し悪しで機嫌が分かれていきます。この機嫌というものは、自分で自覚できるものでありその機嫌をどのようにするかは自分次第で調整していくものです。

これは体の健康と同じで、調子が良い悪いはいつも出てきますからいつも体調が良い状態に維持するように努めるのは自分自身の自覚と日ごろの努力に由ります。そして自分にとって良い状態とは、悪い中でも最善を尽くしていくことや、好循環になるように気を配り続けることでもあります。

この機嫌というものは、心や精神の健康のことをいいいつも機嫌が好い人は心が健康であるということでもあります。さらには主体性が出ている人や積極的に楽観的な精神を持っている人は魂が健康であるとも言えます。日々に健康に過ごすというのは、常に自分の状態を好循環する方、言い換えれば機嫌を善くしていくことで実現するのです。

かつて中心社の常岡一郎さんがこういう言葉を遺しておられます。

「機嫌のよい心には弾力がある。 機嫌のよい時は、おい隣村まで行ってくれないか
と言われても、「よし」とすぐ引き受け、すぐ走り出せる。 機嫌の悪いときは、なにもかもおっくうになり、 重苦しく感じる。 すべての人間はいつでも、どこでも自分の心の責任者である。 心に明るさをたたえた、機嫌のよさを失ってはならない。 これを失えば人生の旅はすぐ疲れる。 それが不幸や不運や病の原因となる 。」

常岡さんはこの機嫌の好いことを「心の弾力」といいます。これを言い換えれば「植物の新芽」であるといいます。常岡さんはこれを「伸びる力」であるといいます。

そして伸びるものはやわかいといいます。

「育つもの。伸びるもの。生命おどるもの。それは常にやわらかさを失ってはならぬ。固まったら伸びない。我執は人間を堅くする。偏狭は人間の明るさを失わせる。草や木も、やわらかな間にのびる。やさしい新芽から伸びる。堅くなったら伸びることが止まる。人の心もそうである。」(常岡一郎一日一言」(致知出版社)より

自分の心の責任者は自分という言葉、これはとても大切なことだと思います。誰のせいでもなく、言い訳もしない、如何に自分自身が感情を大切にし疲れないように手入れをするかは日ごろの心がけに由ります。

いつもニコニコ機嫌よく、穏やかで明るい人は、皆から安心され信頼されるだけでなく関わる人たちを元気にしていきます。好循環をつくりだす人はみんな運が好い人であり、そういう幸運の人の周りには幸運が集まってきます。

「ご機嫌いかがですか?」というあの挨拶は、心の健康はどうですかという挨拶です。他人と会うときにはまずは自分の機嫌を自覚し、いつも快活に元気に健康に日々に感謝の念と謙虚な反省の気持ち、そして素直な実践をもって自分を磨いていきたいと感じます。

最後に常岡一郎さんの言葉で締めくくります。

「あなたはいつも上機嫌ですか、こう突っ込まれてにっこりほほ笑むことの出来る人になる。これが他人の心に明るさを与える資格だと思う。」

子どもの周囲に思いやりを運ぶ仕事をする私たちだからこそ、働き方や生き方、その機嫌の在り方が大事だと思います。子どもたちのためにも、機嫌好く笑いの絶えない現場を創造していきたいと思います。

あるがままの自分

人は自分自身をどのように受け入れているかによって、他者への態度が決まってくるものです。自分というものに期待し過ぎたり、自分というものを卑下しすぎたりする態度は、周囲の人へも同じように接してしまうからです。

あるがままの自分を受け容れるというのは、あるがままの自分で善いと思えること。そこには自信が必要で、その自信は等身大の自分自身を受け容れるところからはじまるように思います。

例えば、理想が高いと自分は本当はまだできるはずだといつも無理をしようとします。また反対に、自分はできないと不安を抱えていると同様に無理をしてしまいます。これはどちらも「本当はこんなはずではない」という自分が描いている自分像とかけ離れるときに起きる執着の一つのようにも思います。

過信と自信は異なり、過信はそうであってほしいという自分の欲望が変化したものです。自信は謙虚で素直な心の態度であり、自分自身を深く慎み受け止め、いただいているご縁に感謝して自らを少しでも高めていこうとするものです。

ごう慢さというのは、自分がこれでいい、間違っていないという自分の思い込みを優先し他人の話に耳を傾けないところから発生してきます。これであっているはずと過信して取り組むことは周りに迷惑をひどくかけとても乱暴なことです。しかし自分がひょっとしたら間違っているかもしれないと、常に周囲への配慮、耳を傾け謙虚に自分自身のままで学び続けている人は本当の自信を持っています。

結局は、自信を持つとは自分のままでいられることであり、あるがままの自分を受け止めそれを肯定して認め、同様に他者を認め無理をせずに自然体でいることのように思います。そのうえで、自分自身を自覚し周囲への配慮を忘れないということです。

不自然な姿が周りに不自然を作り出し、本来の自分ではない姿が周りに警戒心を与えたりするものです。自分以上のことは出せないし、自分自身であることが周囲への安心感を与えるのだからもっと自信をもって自分自身と対話し向き合い受け止めていくことを大切にしていきたいと思います。

引き続き、子どもの純粋な心を見守れる大人になるようにあるがままの自分を自覚し他者を認め自然体に近づいていきたいと思います。

不易流行の真髄

不易流行という言葉があります。これは変わらないものと変わっていくものです。別の言い方では、時中時流とも言えます。如何に時の流れの中でも本質や本物を維持し続けるかということでもあります。

時が経てばかつての本質や本物は次第に色あせていきます。それは時が流れていくからです。いくらある時それが本物であったとしても、時が経てば次第にそのものが本物ではなくなっていくのです。

例えばお茶を点てるとします。しかしお茶は時間の経過とともに酸化して味が変わっていきます。そしてそれを美味しいと思う人の心も変わっていきます。昔ある時に飲んだ美味しい一杯のお茶と同じ味を維持しようとしたら自分が時の流れ、環境の変化を感じて自分の方が変化してその時の味に近づけなければなりません。つまりそのままでは古くなるから新しく磨き直すのです。

いくら言葉で真理が語られていたとしても、その時代時代にその言葉の意味を磨き直す実践者が出てこなければその真理は本物ではなくなっているからです。それは仏陀であっても孔子であっても、それを今ならどう行うかというのはその時々の人たちがその本質を磨きかつてその言葉が語られた時と同じにする必要があるのです。

易経に、時に中ると書いて「時中」とありますがこの境地は本当に今、この時のままであろうかと変化の最中を確認するという意味であろうと私は解釈しています。

生命は不思議で、本来は老化しすり減って消滅していく身体を持っていますが何度も何度も使っている場所は逆にいつまでも皮膚も分厚くなり感覚もいつまでも鋭くなっていきます。経年劣化ではなく、磨き続ければ経年変化になるのです。

古民家甦生を通して私が学び直しているのはこの不易流行の真髄です。

変わるものと変わらないものを捉える心は中庸です。そして時機を逃さず最適なタイミングで直観したものを一つ一つ丹精を籠めて種を蒔くのは時中です。人間は徳が高まり、人格が磨かれれば自ずから不易流行の境地に入るのかもしれません。

徳を磨き続けることで本物は維持できます。本物か偽物か分からなくなっている今の世の中で、真に本物かどうかは徳が証明します。

学んだことをそのまま実生活に活かすためにも、学びに素直に、問いに謙虚に日々の体験一つひとつを今、此処の真心で真摯に磨いていきたいと思います。

力の本質

人間にはそれぞれに個性があります。そして個性と共に才能があります。その個性も才能も天から与えられたものです。例えば個性は、男性女性などの性も生まれながらに天が与えてくれます。そして才能もそれぞれの興味関心や体つき、また持って生まれた時から備わっています。

なぜそれが生まれながらあるのか、それは誰かのために役に立ちたいからとも言えます。全てのいのちは天から与えられるものですが、いのちは与えられた天分を活かそうとします。これは自分の意思に関わらず、自然の一部として存在する私たち生命の営みの根本原理であり生きている意味にもつながっています。

この世には無駄なものも意味のないものも一切がなく、どんなに自分が無意味だと思っていてもそれは大切なお役目を帯びています。だからこそそれぞれが自分らしく生きていくことは大切で、その存在により世の中は生き活かされていくように私は思います。

天分を活かすには、天分を活かしあう仲間が必要です。それを共生とも言います。人間は自分らしく生きていきながら仲間と共に生きていくことを使命にしています。そしてその場が生まれると安心し幸せな気持ちになるものです。

家族や一家を形成するのもまた、本来の人類の使命を本能で実感するからです。そして大切なことは、その天から与えられた才能を独り占めせずにみんなに活かすこと、みんなに使ってもらうこと、みんなのために磨いて役に立つようにしていくことです。

そのために教育や環境の場があるといっても過言ではありません。そういう場を醸成していくのが教育の本質だとしたら、私たちはそのいのちや才能がどのような状況の時に発揮できるのかを見極める必要があります。私はそれが協力や協働をする意味であると信じています。

協力というのは、当たり前過ぎてあまり議論もされることもありませんがこの字は分解するとわかりますがすべて「力」が合わさってできています。みんなが力を合わせれば天地のすべての御蔭様を得るということです。

これからの近い未来、また遠い未来において何をもっとも大切にしていけばいいか。人類の智慧はこの協力のこそあります。私は一円対話を通してこの智慧を伝承していきたいと思っているのです。

自分が天から頂いたものをそのままお返しする日が訪れるまで、子どもたちそれぞれが天分を活かし世の中を百花繚乱に多彩のまま輝かせていくためにも日々の御縁を大切に仲間を増やしていきたいと思います。

学びの鮮度~感動する心~

人は自分の間違いに気づくことで素直になるものです。どう考えてみても分からないものを「分かりません」と素直に言えるところに心の明るさがあるようにも思います。つまり素直さは、自分の心と向き合って分からないことが分かったといったありのままの姿を受け容れるということです。新しいことを学ぶときは、鮮度というか生々しさが必要でその生々しさを味わい感じることで新鮮な学びを持つことができます。

人は誰でも新しいことを学ぶとき、今まで使ったことがない筋肉、また脳の回線がつながっていないところで理解するしかありません。今までにないことを学ぶのは、今までにない自分の発見でもあります。発見というものは、今まで気づかなかったところが急につながるような感覚があります。「これはすごい!」という気づきや感動はそのまま感動のままに新しい回路につながり新しい筋肉を動かしていきます。

今までにないもの、分からなかったことに気づけた悦びは楽しみに変わります。人が変化するというのは、この学びの鮮度を高めていく必要があると私は思います。

できない理由ばかりを思ったり、分からないからよくないと思ったり、最初から無理だと諦めたりする前に、物事に対して出来事に対して素直に取り組んでいくという姿勢が学びの鮮度を保つ方法だとも私は思います。

学びの鮮度の高い人は、新しいことに挑戦して次々に自分を変化させていきます。それは生々しい体験とセットですが、この生生しさを全身全霊で感じながら味わいながら進んでいくのです。言い換えるのなら、感動しながら働き、感動しながら学ぶのです。

頭でっかちに考えてしまうとこの感動する気持ちが減退していきます。それはすでに鮮度が落ちている証拠です。同じ仕事などが発生することは一度としてなく、同じ出来事が起きることも一つとしていない。同じことだと思い違いをしてルーティンにしマンネリ化するのは自分自身の心です。

人間は同じことをしているうちに頭で処理できるようになりますが、無理やり自分の思い通りのものにすり替えてしまっているだけです。似ている事例を似ているようにやって学びの鮮度が落ちてしまえば新しいことに気づく感度は急激に減退します。

常に物事を究め上達し、変化し続ける人物は感動する心を持っています。感動する心があるから改善と工夫を怠りませんし、まただからこそ感動も続きます。つまり心の姿勢が素直で謙虚であるのです。

何が間違っているのか、その大前提を直すことは自分を変化させていくときの要諦です。新しいことに取り組んでいない日々は一日たりともないのだから、その変化を感動のままに楽しむ工夫を行うことです。それは気づいたらすぐ変わる、気づいたらその場で変わる、変化を迫られる前にサラリと自分の方が先に変わることです。

変化こそ、自然体であることを自覚し感動の心で新しいものを追求し道を深めていきたいと思います。

心のふるさと

先日、もう8年間一緒に理念の実践に取り組んでいる園で理念研修を行いました。ここは「心のふるさと」を子どもたちに持ってもらえることを目的にしておりそのために見守る保育を取り入れて実践しています。

私もこの心の故郷という言葉には、強く心が惹かれるものがあり懐かしく思います。この心の故郷とは何か、それを少し深めてみようと思います。

心の故郷を思う時、私は純粋な心を思います。純粋な心とは、子ども心のことです。子ども心は、あるがままの心、つまり心そのもののことです。これが歳を経ていくごとに次第に純粋さが日常の些事によって曇っていきます。曇ってしまえば、自分の純粋性も分からなくなり魂が何を望んでいたかもわからなくなります。

三つ子の魂百までという諺があります。私の解釈では、魂や心が望んでいることは誰にも変えようがない。つまりは普遍的に魂や心はこの世で何をしたいかを持っているという意味です。天命を与えられて生まれてきた存在は、そのまま死ぬまで天命がなくなることがないということです。

しかし実際は、その天命をやらせてもらえず教育によってやってはいけないことばかりを仕付けられてはそのものであることが否定されたりもします。純粋な心はそれによって曇り、自分自身が何をしたかったのかが観えなくなっていくのです。

その純粋な心、三つ子の魂の本来の心であり、その心のふるさとは魂の父母が住んでいるところ。それを心に持っている人はいつまでも自分の天命に回帰し、自分の使命に生きていく悦びを忘れないで魂と全うしていくことができます。生まれてきた意味を知るということは何物にも代えがたい安心感なのです。

そして子ども心が何かをしたいと思う時、如何に寛大に丸ごと受け止めてくれる存在があるか。そしてその子どものことを丸ごと見守ってくれる存在であるか。子どもを信じることで、その子どもは信じる道を歩むのです。

子どもが安心して生きていけるというのはこの心の中に懐かしい故郷、その心の父母の無償の愛を持っているということです。その無償の愛とは、言い換えれば自然慈愛の魂とも言えます。この自然慈愛の父母の魂が、子どもの魂に宿るれば人は死をも怖がらなくなります。

純粋さを貫くことができること、それを「至誠」といいます。純心を死ぬまで持ち続けられた人をみると私たち人間は魂が激しく揺さぶられます。それは魂が望む姿を魂が感化されるからです。理想の生き方、真実の生きざまを魂は心の奥深くで求め続けて已まないのです。

その至誠の魂が子どもの魂を見守ることで、魂の純粋さは永遠に保たれていきます。その魂の純粋さを守ることで、その人は一生涯自分の安心基地を自分の心の中に持つことができるようになります。人がこの世で信じられるものを持っているということは、一生を生きていく中でとても大切なことです。本当の仕合せは魂の邂逅を得ることだと私は思います。

それを子ども時代に与えていきたいと願うのは、真心がそうさせるからです。真心の生き方を貫く人はみんなこの心のふるさとが助けて見守ってくれることを自覚しているのです。私がそうであったように、子どもたちが心のふるさとを持って自分の随神の道を歩んでいけるように自分自身の純粋な魂や真心を盡して子どもたちの環境に貢献していきたいと思います。

遺言として心の故郷を見守ることは、何よりも優先される死生間の仕合せであると明記してこのブログを締めくくりたいと思います。