あるがままの自分

人は自分自身をどのように受け入れているかによって、他者への態度が決まってくるものです。自分というものに期待し過ぎたり、自分というものを卑下しすぎたりする態度は、周囲の人へも同じように接してしまうからです。

あるがままの自分を受け容れるというのは、あるがままの自分で善いと思えること。そこには自信が必要で、その自信は等身大の自分自身を受け容れるところからはじまるように思います。

例えば、理想が高いと自分は本当はまだできるはずだといつも無理をしようとします。また反対に、自分はできないと不安を抱えていると同様に無理をしてしまいます。これはどちらも「本当はこんなはずではない」という自分が描いている自分像とかけ離れるときに起きる執着の一つのようにも思います。

過信と自信は異なり、過信はそうであってほしいという自分の欲望が変化したものです。自信は謙虚で素直な心の態度であり、自分自身を深く慎み受け止め、いただいているご縁に感謝して自らを少しでも高めていこうとするものです。

ごう慢さというのは、自分がこれでいい、間違っていないという自分の思い込みを優先し他人の話に耳を傾けないところから発生してきます。これであっているはずと過信して取り組むことは周りに迷惑をひどくかけとても乱暴なことです。しかし自分がひょっとしたら間違っているかもしれないと、常に周囲への配慮、耳を傾け謙虚に自分自身のままで学び続けている人は本当の自信を持っています。

結局は、自信を持つとは自分のままでいられることであり、あるがままの自分を受け止めそれを肯定して認め、同様に他者を認め無理をせずに自然体でいることのように思います。そのうえで、自分自身を自覚し周囲への配慮を忘れないということです。

不自然な姿が周りに不自然を作り出し、本来の自分ではない姿が周りに警戒心を与えたりするものです。自分以上のことは出せないし、自分自身であることが周囲への安心感を与えるのだからもっと自信をもって自分自身と対話し向き合い受け止めていくことを大切にしていきたいと思います。

引き続き、子どもの純粋な心を見守れる大人になるようにあるがままの自分を自覚し他者を認め自然体に近づいていきたいと思います。

不易流行の真髄

不易流行という言葉があります。これは変わらないものと変わっていくものです。別の言い方では、時中時流とも言えます。如何に時の流れの中でも本質や本物を維持し続けるかということでもあります。

時が経てばかつての本質や本物は次第に色あせていきます。それは時が流れていくからです。いくらある時それが本物であったとしても、時が経てば次第にそのものが本物ではなくなっていくのです。

例えばお茶を点てるとします。しかしお茶は時間の経過とともに酸化して味が変わっていきます。そしてそれを美味しいと思う人の心も変わっていきます。昔ある時に飲んだ美味しい一杯のお茶と同じ味を維持しようとしたら自分が時の流れ、環境の変化を感じて自分の方が変化してその時の味に近づけなければなりません。つまりそのままでは古くなるから新しく磨き直すのです。

いくら言葉で真理が語られていたとしても、その時代時代にその言葉の意味を磨き直す実践者が出てこなければその真理は本物ではなくなっているからです。それは仏陀であっても孔子であっても、それを今ならどう行うかというのはその時々の人たちがその本質を磨きかつてその言葉が語られた時と同じにする必要があるのです。

易経に、時に中ると書いて「時中」とありますがこの境地は本当に今、この時のままであろうかと変化の最中を確認するという意味であろうと私は解釈しています。

生命は不思議で、本来は老化しすり減って消滅していく身体を持っていますが何度も何度も使っている場所は逆にいつまでも皮膚も分厚くなり感覚もいつまでも鋭くなっていきます。経年劣化ではなく、磨き続ければ経年変化になるのです。

古民家甦生を通して私が学び直しているのはこの不易流行の真髄です。

変わるものと変わらないものを捉える心は中庸です。そして時機を逃さず最適なタイミングで直観したものを一つ一つ丹精を籠めて種を蒔くのは時中です。人間は徳が高まり、人格が磨かれれば自ずから不易流行の境地に入るのかもしれません。

徳を磨き続けることで本物は維持できます。本物か偽物か分からなくなっている今の世の中で、真に本物かどうかは徳が証明します。

学んだことをそのまま実生活に活かすためにも、学びに素直に、問いに謙虚に日々の体験一つひとつを今、此処の真心で真摯に磨いていきたいと思います。

力の本質

人間にはそれぞれに個性があります。そして個性と共に才能があります。その個性も才能も天から与えられたものです。例えば個性は、男性女性などの性も生まれながらに天が与えてくれます。そして才能もそれぞれの興味関心や体つき、また持って生まれた時から備わっています。

なぜそれが生まれながらあるのか、それは誰かのために役に立ちたいからとも言えます。全てのいのちは天から与えられるものですが、いのちは与えられた天分を活かそうとします。これは自分の意思に関わらず、自然の一部として存在する私たち生命の営みの根本原理であり生きている意味にもつながっています。

この世には無駄なものも意味のないものも一切がなく、どんなに自分が無意味だと思っていてもそれは大切なお役目を帯びています。だからこそそれぞれが自分らしく生きていくことは大切で、その存在により世の中は生き活かされていくように私は思います。

天分を活かすには、天分を活かしあう仲間が必要です。それを共生とも言います。人間は自分らしく生きていきながら仲間と共に生きていくことを使命にしています。そしてその場が生まれると安心し幸せな気持ちになるものです。

家族や一家を形成するのもまた、本来の人類の使命を本能で実感するからです。そして大切なことは、その天から与えられた才能を独り占めせずにみんなに活かすこと、みんなに使ってもらうこと、みんなのために磨いて役に立つようにしていくことです。

そのために教育や環境の場があるといっても過言ではありません。そういう場を醸成していくのが教育の本質だとしたら、私たちはそのいのちや才能がどのような状況の時に発揮できるのかを見極める必要があります。私はそれが協力や協働をする意味であると信じています。

協力というのは、当たり前過ぎてあまり議論もされることもありませんがこの字は分解するとわかりますがすべて「力」が合わさってできています。みんなが力を合わせれば天地のすべての御蔭様を得るということです。

これからの近い未来、また遠い未来において何をもっとも大切にしていけばいいか。人類の智慧はこの協力のこそあります。私は一円対話を通してこの智慧を伝承していきたいと思っているのです。

自分が天から頂いたものをそのままお返しする日が訪れるまで、子どもたちそれぞれが天分を活かし世の中を百花繚乱に多彩のまま輝かせていくためにも日々の御縁を大切に仲間を増やしていきたいと思います。

学びの鮮度~感動する心~

人は自分の間違いに気づくことで素直になるものです。どう考えてみても分からないものを「分かりません」と素直に言えるところに心の明るさがあるようにも思います。つまり素直さは、自分の心と向き合って分からないことが分かったといったありのままの姿を受け容れるということです。新しいことを学ぶときは、鮮度というか生々しさが必要でその生々しさを味わい感じることで新鮮な学びを持つことができます。

人は誰でも新しいことを学ぶとき、今まで使ったことがない筋肉、また脳の回線がつながっていないところで理解するしかありません。今までにないことを学ぶのは、今までにない自分の発見でもあります。発見というものは、今まで気づかなかったところが急につながるような感覚があります。「これはすごい!」という気づきや感動はそのまま感動のままに新しい回路につながり新しい筋肉を動かしていきます。

今までにないもの、分からなかったことに気づけた悦びは楽しみに変わります。人が変化するというのは、この学びの鮮度を高めていく必要があると私は思います。

できない理由ばかりを思ったり、分からないからよくないと思ったり、最初から無理だと諦めたりする前に、物事に対して出来事に対して素直に取り組んでいくという姿勢が学びの鮮度を保つ方法だとも私は思います。

学びの鮮度の高い人は、新しいことに挑戦して次々に自分を変化させていきます。それは生々しい体験とセットですが、この生生しさを全身全霊で感じながら味わいながら進んでいくのです。言い換えるのなら、感動しながら働き、感動しながら学ぶのです。

頭でっかちに考えてしまうとこの感動する気持ちが減退していきます。それはすでに鮮度が落ちている証拠です。同じ仕事などが発生することは一度としてなく、同じ出来事が起きることも一つとしていない。同じことだと思い違いをしてルーティンにしマンネリ化するのは自分自身の心です。

人間は同じことをしているうちに頭で処理できるようになりますが、無理やり自分の思い通りのものにすり替えてしまっているだけです。似ている事例を似ているようにやって学びの鮮度が落ちてしまえば新しいことに気づく感度は急激に減退します。

常に物事を究め上達し、変化し続ける人物は感動する心を持っています。感動する心があるから改善と工夫を怠りませんし、まただからこそ感動も続きます。つまり心の姿勢が素直で謙虚であるのです。

何が間違っているのか、その大前提を直すことは自分を変化させていくときの要諦です。新しいことに取り組んでいない日々は一日たりともないのだから、その変化を感動のままに楽しむ工夫を行うことです。それは気づいたらすぐ変わる、気づいたらその場で変わる、変化を迫られる前にサラリと自分の方が先に変わることです。

変化こそ、自然体であることを自覚し感動の心で新しいものを追求し道を深めていきたいと思います。

心のふるさと

先日、もう8年間一緒に理念の実践に取り組んでいる園で理念研修を行いました。ここは「心のふるさと」を子どもたちに持ってもらえることを目的にしておりそのために見守る保育を取り入れて実践しています。

私もこの心の故郷という言葉には、強く心が惹かれるものがあり懐かしく思います。この心の故郷とは何か、それを少し深めてみようと思います。

心の故郷を思う時、私は純粋な心を思います。純粋な心とは、子ども心のことです。子ども心は、あるがままの心、つまり心そのもののことです。これが歳を経ていくごとに次第に純粋さが日常の些事によって曇っていきます。曇ってしまえば、自分の純粋性も分からなくなり魂が何を望んでいたかもわからなくなります。

三つ子の魂百までという諺があります。私の解釈では、魂や心が望んでいることは誰にも変えようがない。つまりは普遍的に魂や心はこの世で何をしたいかを持っているという意味です。天命を与えられて生まれてきた存在は、そのまま死ぬまで天命がなくなることがないということです。

しかし実際は、その天命をやらせてもらえず教育によってやってはいけないことばかりを仕付けられてはそのものであることが否定されたりもします。純粋な心はそれによって曇り、自分自身が何をしたかったのかが観えなくなっていくのです。

その純粋な心、三つ子の魂の本来の心であり、その心のふるさとは魂の父母が住んでいるところ。それを心に持っている人はいつまでも自分の天命に回帰し、自分の使命に生きていく悦びを忘れないで魂と全うしていくことができます。生まれてきた意味を知るということは何物にも代えがたい安心感なのです。

そして子ども心が何かをしたいと思う時、如何に寛大に丸ごと受け止めてくれる存在があるか。そしてその子どものことを丸ごと見守ってくれる存在であるか。子どもを信じることで、その子どもは信じる道を歩むのです。

子どもが安心して生きていけるというのはこの心の中に懐かしい故郷、その心の父母の無償の愛を持っているということです。その無償の愛とは、言い換えれば自然慈愛の魂とも言えます。この自然慈愛の父母の魂が、子どもの魂に宿るれば人は死をも怖がらなくなります。

純粋さを貫くことができること、それを「至誠」といいます。純心を死ぬまで持ち続けられた人をみると私たち人間は魂が激しく揺さぶられます。それは魂が望む姿を魂が感化されるからです。理想の生き方、真実の生きざまを魂は心の奥深くで求め続けて已まないのです。

その至誠の魂が子どもの魂を見守ることで、魂の純粋さは永遠に保たれていきます。その魂の純粋さを守ることで、その人は一生涯自分の安心基地を自分の心の中に持つことができるようになります。人がこの世で信じられるものを持っているということは、一生を生きていく中でとても大切なことです。本当の仕合せは魂の邂逅を得ることだと私は思います。

それを子ども時代に与えていきたいと願うのは、真心がそうさせるからです。真心の生き方を貫く人はみんなこの心のふるさとが助けて見守ってくれることを自覚しているのです。私がそうであったように、子どもたちが心のふるさとを持って自分の随神の道を歩んでいけるように自分自身の純粋な魂や真心を盡して子どもたちの環境に貢献していきたいと思います。

遺言として心の故郷を見守ることは、何よりも優先される死生間の仕合せであると明記してこのブログを締めくくりたいと思います。

 

奥深さの感性

先日、ミマモリストのブログに「物事の深さ」に気づくことで未熟さが分かったとありました。人間が今に変化をし続けていくことは、この奥深さを知り続けるのようにも私は思います。

この奥深さについて少し深めてみようと思います。

「奥深い」を辞書でひくと「表から遠い。また、ずっと奥まで続いている。」「意味が深い。簡単には究めがたい。」とあります。言い換えるのなら、分かることがない世界とも言えます。知識では知りようがない場所、到底辿り着けようのない次元のようなものです。例えるのなら宇宙の果てのようなところが奥深いところというのでしょう。

この奥深さは知れば知るほどに自分の未熟さが分かります。この時の未熟さとは、自分が知らなかったことを知り、分かった気になっていたことが分かり、如何に自分は知った気になっていただけだったのかを自覚するのです。それにもう一つは、自然の畏敬を感じるかのように如何に自分がちっぽけな存在であったかということに気づくのです。奥深さに気づけるというのは、謙虚で素直な状態であるということでもあります。

また先に知っていれば不安も恐怖もないのでしょうが、知れば知るほどに好奇心の方は働かなくなってきます。不思議を思ったり、未知を感じようと思う感性は奥深さに近づきたいと思うところから出てくるものです。

学問の醍醐味もまたそこにあり、人は出来事や体験したことを振り返り内省することでその味わったことのない新しい価値に気づき、学び直すことができるように思います。

知りえない、分からないからこそそこに奥深さがある。奥深さとは感性なのです。そして人生の奥行きが深くなるのは、「その体験をどのように感じことができるようになったか」ということだと私は思います。

福に転じるチカラというのは、この奥深さのことを指します。

どんな出来事や物事であっても、それをどのように感じてどのように捉えるかはその奥深さの感性の中にあるものです。私たちの会社の戒訓の一つ、「分かった気にならない」は道を歩むものとしての大切な徳目です。

引き続き、子どもたちの歩んでくる道が未知の面白さ、好奇心に溢れる楽園になるように奥深さの感性を磨き上げていきたいと思います。

 

 

自然の時流

世間には人間が言う時間というものと、自然の中にある時間というものがあるように思います。人間の時間は、グリニッジ標準時を基準に動ていますが自然の時間はそのままの存在が時間として動きます。

例えば、グリニッジ標準時は人間世界で時間を統一するための基準ですからスケジュールは人間の都合で動かしていきます。人間が誰かと共に行動するには、年間、月間、週間、また一日、午前午後、何時何分と細かくなっていきます。時間が合うとか合わないとはお互いにその時間帯が確保できる余裕があるか、他の予定が入っていないかということが問題になります。

結局は時間はその人たちの都合ですから、上手くお互いがその時間を合わせていくことがタイミングがあったということになります。

しかし自然の時間は、こういうものではなく過ぎ去っている瞬間瞬間、言い換えれば「今」だけが時間ということになります。自然農で例えればすぐにわかるのですが、種まきの時機や収穫の時機、そして今何をすべきかはすべて自然を観察することで行われます。自然は刻々と変化を已みませんから、その時々でやらなければ手遅れになります。そこには人間の都合などは関係なく、自然は絶妙にバランスの中で動いていますから自然に合わせて変化していくしかありません。

人間には時流というものがあります。これは人間の間で流行りすたりがあるということです。時流に乗って成功する人もいれば、時流で失敗する人もいます。これは人間社會の中での観察に由ります。

自然の時流とは、自然そのものの存在の流れ、それは運とも言います。中国の古書に易経という時の書というものがありそこに「時中」という言葉があります。これは自然の時を顕す言葉です。

時に流されながら時に流されない、つまりは流れるということを得ているということ。運に任せ人事を盡す、つまりは今から離れることなく今そのものに的中するということです。これを中庸とも言います。

如何に時に中るか、それを私は直観と呼びます。

直観を使うというのは単に博打をするというわけではありません、直観とは丸ごと全体そのものと一体になっている境地であり、今何をすべきかが素直に自明している状態であり正直にありのままの自然な流れに従うということです。

自然の経営の極意は、タイミングを外さないということです。自然な流れで自然に生きることは、如何に謙虚に真心のままでいるかということです。

引き続き、子どもたちに自然が譲れるように時を深めていきたいと思います。

心の豊かさ

古民家甦生を通じて古いものを修繕していると誰もがその光景をみて「懐かしい」と感じます。その懐かしいと感じるものは何か、それは心の豊かさです。懐かしさとは人の心の中にあります。

今の時代は、過剰な貨幣経済が発達しお金の方が物よりも溢れかえっています。都会にいけば手に入らないものはほとんどありません。家電製品であったり生活用品であっても簡単に購入できます。

しかしちょっとしか使われずもっといいものがあれば購入して古いものは廃棄されます。本来、昔の先祖たちはものを大事に最後まで使い切りました。それを見立てるとも言います。

私が尊敬している鞍馬寺の貫主様も、壊れた茶碗を花瓶に見立ててお花を活けていました。こうやって使えなくなったものを別の形にして活かそうとする。その心の豊かさは私たち先祖たちがずっと大切にしてきた心です。

この心を知る時、私たちは豊かさとは何かの本質に出会えるのです。

心の豊かな人とは、もったいないそのいのちを使い切る人です。同様にもったいないその一期一会のご縁を活かす人です。

二度とないものをもっと大切に使い切ろうとする心は別にゴミを捨てないとか、節約しようとすればいいのではありません。今までお役にたってきたいのちを慈しみ愛おしむ心、いのちが宿っているものへの思いやりと感謝、それは自分がこの世で暮らしていける仕合せを味わっている人生の豊かさです。

心の豊かな人は、その存在が懐かしく感じます。こうやって先祖の心に触れて生きていけることは何もない中でも無尽蔵にある宝に出会っているようです。

子どもたちにも心の豊かさを譲っていけるように古民家甦生を楽しんで歩んでいきたいと思います。

民家甦生

私たちは日本語を用いる日本人ですが、世界には様々な民族が存在します。その民族はその風土と歴史によって独自の文化を発展させ、それをそれぞれの個性として大事に守ってきました。

その中には衣食住をはじめ、宗教、精神、生き方に至るまでそれぞれの独自の価値観を持ち先祖たちの生きざまが私たちの生きざまに色濃く滲み出ています。現在はどこの風土であっても、均一に画一的に同じ環境を用意することで金太郎飴のようにどこでも同じ風景になってきました。それは衣食住に限らず人間の精神も価値観もまた同様に単一化してきています。

これはある文明がそれまでの自然を征服し、どのような自然環境であっても自分たちの文明が凌駕しているという価値観の証明でもあります。この一つの価値観のみで世界を包むというのは、その気候風土の多種多様さを無視して自分が頂点として支配しようという考え方です。支配というものは、一つの価値観にしてしまうということです。そこから人間の中にある差別もまた生まれ、戦争の種を蒔いていきます。

お互いを尊重するというのは、それぞれの価値観を尊重するということです。それは多種多様な気候風土を尊重し、その中で暮らしてきた民族の精神と生きざまを尊重するということです。

民族の個性というものは、支配の歴史で語るものではなく自然との共生で語られるものです。その自然が風土として顕現してきたその土地の民族、それは生物多様性がある豊かで仕合せな永続する社會の実現です。

地球環境においても生物多様性は、それぞれがお互いを認め合い尊重し合う中で生み出してきた「自然の恩恵をみんなで分かち合う自然の仕組み」です。「誰も損することもなく、誰も得することもない世界。」それはお互いが思いやり豊かに地球と共に永遠に存在していくための唯一の方法です。

文明と文化は丸ごと自然そのものとも言え、それは破壊と創造によって甦生していくものです。これは歴史が語るように、病気から回復し健康になり再び病気になるように常に繰り返しを已みません。調和は常に破壊と創造によって行われます。現在、人類の歴史で私たちが知っているのはまだまだ短いものですが、今は時代の転換期を控え長い目で観てもう一度色々とこれからどうなるのかを子どもたちのためにも見つめる必要があるように思います。

しかしそんなに遠い遠い先の将来のことを考えなくても、現在の多種多様な個性、また生物多様性が失われてくればそのうち絶滅の危機に瀕することは火を見るよりも明らかです。だからこそ自分の個性を大切にし、日本民族の個性を大切にし、大切な自分たちの風土を醸成し続けることを已めるわけにはいきません。

私が文化や暮らしを子どもたちに譲ろうとするその根底には、この時代の調和や転換期にどのように風土の歴史を伝承していくかということの一点に由ります。初心伝承とは、民族の初心の伝承です。

原点が失われればそれはもはや個性とは呼びません。

常に原点・初心を忘れず民家甦生を楽しみつつ転じて子どもたちにちゃんと受け渡したいと思います。

自分の道、自分にしか歩めない道

今月の致知の社内木鶏の記事で桂歌丸氏と中村吉右衛門氏の対談がありました。その中で伸びていく人と途中で止まる人ということが語られていました。大変印象深い文章で桂氏は「その差は自分自身にある」といいました。「自分自身の勉強の仕方、自分自身の努力の仕方。」であると。そしてこう続きます。

「自分自身のことがよくわかっていないで他人のことはよくわかるという人がいるんですけど逆だと思うんです。他人のことばかり気にしているのは大変な間違い。」そして中村氏は「自分をしっかり見る」と応答されると「ずっと見ていないとダメですよ」と語っておられます。

人間は自分で考えることをやめてしまえば他人軸や世間の評価でばかりにあわせて生きてしまうものです。自分が分からないという人が増えていくのも、自分と向き合うこともしないで他人のことばかりを気にしていることでますます増えていくように思います。自分が自分自身と正対し自分を丸ごと認めることなしに、他人から認めてもらいたいことばかりを求めても自分の道を歩んでいることにはなりません。

自分自身の道を深めていくということが学問を実践することであり、自分の道を往く中でそれぞれ人として大切なことを修得していくようにも思います。

松下幸之助氏に自分の道を歩むことの大切さが語られた詩があります。

「自分には 自分に与えられた道がある。天与の尊い道がある。どんな道かは知らないが、他の人には歩めない。自分だけしか歩めない、二度と歩めぬかけがえのないこの道。広いときもある。狭いときもある。のぼりもあれば、くだりもある。坦々としたときもあれば、かきわけかきわけ汗するときもある。この道が果たしてよいのか悪いのか、思案にあまるときもあろう。なぐさめを求めたくなるときもあろう。しかし、所詮はこの道しかないのではないか。あきらめろと言うのではない。いま立っているこの道、いま歩んでいるこの道、とにかくこの道を休まず歩むことである。

自分だけしか歩めない大事な道ではないか。
自分だけに与えられているかけがえのないこの道ではないか。

他人の道に心を奪われ、思案にくれて立ちすくんでいても、道は少しもひらけない。道をひらくためには、まず歩まねばならぬ。心を定め、懸命に歩まねばならぬ。それがたとえ遠い道のように思えても、休まず歩む姿からは必ず新たな道がひらけてくる。深い喜びも生まれてくる。」

自分の道に気づくのは、自分の道を覚悟したときかもしれません。その姿勢が本当に自分が受け容れた道であるのなら、この道を歩ませていただきたいという謙虚な心が定まるように思います。こんなはずではないとか、もっとできるとか、環境さえあればとかないものねだりをしては他人の道を羨み自分自身のことを自分自身で深掘っていこうとしないでは自分自身のことが分かるはずがありません。

自分自身のことが分かるというのは、自分の心が分かってくるということです。自分の心を大切に生きている人は、必ず自分自身のことが結ばれていきます。自分と自身が結ばれるとき、人は他人軸が気にならなくなり本当の自信を持てるようになります。

自信とは何か、それは結果が出てから持てるものでもなく、評価されたからもてるものでもなく、それは自分が自分を信じられるとき持てるようになるものです。そのために信念があり、その信念によって磨かれて磨がれているうちに本物の輝きを放つようになるように私は思います。

自分の心をお座なりにすることがないように、自分の心の声をずっと聴き自分の心を見つめてその心と最良の関係を築くことで自他を認められる人格を育てていけるように思います。

人格形成はまず自分の道を定めることなのかもしれません。

引き続き、人生の先輩に学び直しながら真摯に自分の道を歩んでいきたいと思います。