学問求道の背中

先日、ある人から「やっている仕事がすごく楽しい」と言われ天職に巡り合えてよかったですねと答えました。その人はもう数十年も歯科衛生士として勤めている方で、色々と学んでいるうちに様々な場所や先生とまた技術や人ともお話ができて嬉しいと仰っていました。私も以前、患者として関わった時に色々とお話をしましたが雰囲気や表情などに丸みが出ており以前より和やかに楽しく働いている様子に居心地がよくなりました。

人が自分が求めていることが深まっていくというのは、自分の道を深めているということです。どんな山に登るか、どのように川を渡るかはその人の決めた生き方が左右してきます。結果云々ではなく、その道の歩み方に人生の生き方があるように思います。今いるところを深掘っていく人はその道を深めていく人です。どんな境遇でどんな場所にあろうが、自分から学びその意味や価値を深める人は常にその場所で必要なことを学びそれを自他のお役に立てていくことができます。

吉田松陰が野山獄で獄中にあっても『孟子』の講義をするなど、乱れていた野山獄の風紀改善に取り組み囚人達は互いに教え、学び合い、まさに楽しい学舎になりました。これも同じく道を深めている人の傍はいつも学ぶ楽しみや悦び、仕合せに溢れています。しかし同時に、学問の道を志していない人や感化されない人は自分の境遇を自分で憐み、結局は何も学ぼうとしません。獄中に吉田松陰があっても学ぼうとしない人もまた多くあったかもしれません。

通常であれば自分の境遇に嘆き心が腐るところをこういう境遇こそが自分を磨くという発想の転換ができるのは、吉田松陰は生きた学問をしていたからと言えます。王陽明による事上錬磨、また知行合一もまた体験こそを学びにして深く味わい意味をつけていくという実践を怠らない、つまりは本物の学問を志したからでしょう。

知識だけで学んだ気になっているのは学問をしているのではなく、学識をただ蓄えているだけです。至誠と実行というのは、理屈ばかりに人間になるのではなく世の中を動かす人物になれということです。

今では就職活動などもそうですが、就職することが目的になり、もしくはキャリアだけが目標になり、自分にマッチングするかで転職する人が増えているように思います。転職ではなく天職を全うするような生き方を示す大人も先輩もまた減ってきているのかもしれません。

若い人が自分の人生を迷わないように、私の尊敬するメンターのように学問を求道する背中を子どもたちに見せていきたいと思います。今いるところにこそ本当の先生があり、今いるところの足元の深いところに真実があることを自らの実践と内省により伝道していければと思います。

 

立場

人はお互いに立場で関わると本来の平等な関係が築きにくくなるものです。例えば、上限関係や父と子、兄弟、師弟など、それぞれの立場を優先すればやってもらって当たり前と勘違いすることがあります。これは刷り込みで、お互いの立場を思いやり助け合っていけばいいのですが実際は立場でのみ相手と関わると大切な感謝の心が通じ合わないことがあります。

立場というのは、損得や利害が入ってくるものです。自分の立場が崩されないようにと、自分を中心に損か得かになれば感謝の心は入りません。本来、関係性というものはお互いに必要で大切だから感謝しあっているものです。しかしその前に立場を持ってくればやってもらって当たり前などというごう慢な気持ちが出てくるのです。

例えば何かをするときに「自分がただそうしたかったから」と思って見返りも求めず、認めさせようともせず、恩を着せようともしなければ相手も立場などを気にしません。しかし「自分はここまでしてやったのに」と思って見返りを求めればすぐに立場が入り込み人間関係にヒビが入ってくるものです。この立場を利用するというのは、自分の立場、その立ち位置ばかりを優先して行動しているときに出てくるものです。

よく考えてみればすぐにわかるのですが、心配すべきは自分の立場ではなく相手の立場を考えてあげることです。それが思いやりだとも言えます。どうしても自分の立場ばかりを考えて行動してしまえば、思いやりに欠ける言動が相手を傷つけてしまうことがあります。

特に立場が上だったり、立場が優位にある人はいつもそうではない人の立場を慮り配慮することで相手の立場を理解して思いやりが欠けないように気を付ける必要があると思います。それがお互いに一緒に尊敬し合う関係を築いていくことになるからです。人間関係が睦まじくなれば、共に生きていくことが楽しくなり仕合せになります。

身内であったり、友人であったりすればなおさら甘えからその配慮は欠けてしまい自分の立場ばかりを守ってしまうものです。思いやりや優しい人になるためにも、感謝と尊敬の念を忘れず、相手の立場をまず考える人になりたいと思います。

人間関係は自分の利他心を磨くものだから、引き続き自ら省みて行動に換えていきたいと思います。

 

地球の一部

当たり前のことですが私たちは地球の一部であり、人間だけが地球から離れている存在ではありません。地球を守るとか言いますが、それは刷り込みでおこがましく本来は地球に守られているのが私たちの存在です。

気候変動やマグマの活動、地震活動や海流の変化はすべて地球の生成によって行われます。いくら原子力があろうが、宇宙船をつくろうが、そんなものは地球規模の活動においてはまったく意味をなしません。人間は地球から離れて地球の一部であることを忘れれば忘れるほどにごう慢になってきます。

例えば、絶滅種を守ろうとかエコ活動をしようとかいいますがどれも人間都合で考えられるものです。本来の地球の一部として謙虚にいるのなら、御蔭様に感謝しつつ畏敬の念をもって地球の一部として暮らしていくものです。

この先、どのようなことが起きるとしても地球の一部であればまた時間が経てば再生して地球と共に変化成長を続けていきますがそこから離れているのであれば再生することはありません。

私たちは生き死にをゴールだと設定しようとしますが、本来は継続していくことにゴールを設定しなければなりません。それは人間や自分を中心にするのではなく、地球の一部であることを謙虚に受け止めているからです。

長い目で観た時、私たちの存在は一瞬です。その一瞬を生き延びようとすることが大事なことではなく、永遠に生きるために如何に地球と共に発展していくか、地球と一緒一体に暮らしていくか、その適応を求めていく必要があります。多様性も然り、協調性も然り、全ては地球の一部として存在するための叡智なのです。

人間だけが世界でもなく、人間の生きているところだけが全てではない。いくら火星にいこうが月にいこうが、そこから地球を観れば自分たちが地球から離れることができないことを人類はただ悟るだけです。

地球というものと一緒に歩もうとするものには、心の安らぎと魂の救済があるように私は思います。引き続き、先々のことを予見しつつ今はただ磨くことのみですがその生き方を未来のために定めていきたいと思います。

伝主伝道

人は心を感じる生き物です。たとえばあるものを購入する時でも、それを誰から購入したいかというものがあります。どんな人がどんな思いで取り扱っているのか、その心を感じているとも言えます。その心を心のままに思いを合わせて伝えてくださるとき、人は心が感動するように思います。

先日も、畳を生産する人の心を畳を加工していく人がしっかりと受け止めてその心を合わせてそのものの思いを伝えてくださいました。するとその畳には思いが詰まっており、今でもその畳はキラキラと家の中を照らしています。これは何が照らされているのかといえば、その心によって空間を照らしているのです。

人の思いというものは、目には観えませんが思いや物語の中にいつまでも遺っています。何を買うかも大切ですが、誰から買うかというものはもっと大切なものです。何をするかも大切ですが、どのような思いであるかはもっと大切なのです。

ただそのものの商品説明を聞いても心は入ってきませんし、その人が思いを汲むことができない人であれば物語は生まれてきません。物語を聴いて感動するのが人間ですから、何よりも伝えることはその心の方なのです。

心が伝わると人は一生それを忘れません。また思いが入っていることを知れば、いつまでもその思いが残存していることに気づけます。心や思いが入るからこそ、自分の一挙手一投足に真心を籠める必要があるのです。電話一つ、挨拶一つ、おもてなし一つ、お祈りひとつ、そのものに心と思いを入れるのです。

心や思いはつながり、ご縁の中に確かに弘がっていきますからその伝播が伝承を育て子孫へと生き方が伝承されていきます。常に自分が伝主であることを忘れずに、心と思いをしっかりと感じて伝道していきたいと思います。

生業生成~本物の仕事~

生業という言葉があります。これは「なりわい」や「せいぎょう」とも呼ばれます。生活を営むための仕事という意味でもあり、暮らしをするためのものとも言えます。

今ではあまり使われなくなったこの生業という言葉ですが、とても大切な価値を持っています。世間では一括りに仕事といい、就職と書いて職に就くといいます。そのうちプライベートと仕事を分け、本来分かれていなかったはずの人間の暮らしが消失していくのは残念なことです。

この生業というものを改めて定義し深めてみようと思います。

そもそも生業というものは、自然におけるあらゆる生き物たちはすべて持っているものです。さらにいうのなら、地球の活動は生業の中心とも言えます。その地球の活動は、マグマの活動や気候変動、宇宙との調和にいたるまで休むことはありません。

そして自然では、その地球の生成と共に生き物たちも一緒一体になって生成を已みません。私たちの身体はその宇宙や地球の一部として機能しており、生きていくためには自然と共生していかなければ生きていくことすらもできません。たとえ地球をロケットで脱出しても私たちは地球の営みで行われた食べ物や着物、道具を使わなければ宇宙に存在していくこともできません。つまりはそれが生業(生成)というものです。

生業を勘違いしてただ生活のためで価値が低く、仕事は世の中のためで価値が高いということを言う人がいますがそれは刷り込みだと私は思います。生活とはすべての生物たちの根本でありもっとも尊いものです。いのちが生まれて死ぬまでに私たちは生成を已みません。その生成をどのように行っていくか、それは自然に沿って暮らしていく人と、自然から離れてしまい暮らしを亡くしていく人がいるだけです。

私たちはこの暮らしを通して生成されているのだから、もっとも大切なのはその生業生成をどのように生きていくか、つまり生き方と働き方は分けることなど不可能なのだから暮らしを通して自分たちがどのような仕事をしていくかの両輪をちゃんと組み立てなければならないのです。

私は会社生活において様々な暮らしの実践を行いつつ、遊んでいるように働いているといわれますが本来、暮らしとは自然に寄り添いながら文化を味わいその生成を活かし続けることにあると私は思います。私たちは生業の背景にある生き物たちの生成の御蔭様をいただいて生きて活かされていることを決して忘れてはなりません。

そしてこの生業のことを私は神業と定義しています。

この奇跡のような日々の中でどのように生き活かされていくか、それは本来の生業にどれだけ自然から学び直し近づいていくかによります。引き続き、自然淘汰の中で遺る文化と寄り添い、自然農や自然養鶏、様々な自然との暮らしを味わい、自然生業のなせる神業に近づいて本来の仕事、本物の仕事を子どもたちに譲り遺していきたいと思います。

本物の佇まい

本物には本物だけが持つ佇まいというものがあります。例えば、自然物でそのいのちが壊れないように丁寧に丹精を籠めたものはそれを手に持つと独特の佇まいが出てきます。他にも、神社仏閣であっても古来からの技術や祭祀をそのままに守り徹底して厳修されているものにもまた独自の佇まいが出てきます。

この本物が持つ佇まいとは何かということです。

例えば物事には本質というものがあります。何のためにそれをするのか、なんでそうなるのかということを透徹するまで磨き上げその本質に辿り着くとします。それを守るためにありとあらゆる手間暇と真心を込めていくと自然にあったかのような雰囲気が出てきます。そこに人工的なものがなく、まるで自然のものになるのです。言い換えるのなら無心であるそのものが顕れます。

こういうものは我が入っておらず本質そのものになっています。本物というものはこういう佇まいを放つのです。つまりは本質や本物には人間の我や慾をどれだけそぎ落とされたものであるか、どれだけ純粋であるかということと同じであるのです。

人は知識を持てば、その知識によってある程度のところを狙っては妥協していくものです。もしくは自分のことを中心にその知識や認識で考えているうちに自然から遠ざかってしまうものです。自然とは何かすらわからない状態では、本物が何かも分からないのです。

自然物というものは誰がつくったのか、それは自然にできたものです。誰かがではなく、自然の御蔭で出来上がっているのです。そういう御蔭様をもって自然に本物は顕現します。

自然の力を引き出すのも、自分の持ち味を引き出すのも、その中心には何のためという本質に由ることが本物であることです。本物の佇まいとはつまり自然体であるということです。

引き続き、自然と本物を深めて近づいていきたいと思います。

手間暇とプロセス~本物とは何か~

現在は、本物を見分ける目というものが失われてきています。例えば、売られているほとんどのものが大量生産大量消費するために用いられていますから古来からの商品では採算が合わず値段を安く抑えるために効率を優先されて製作されていきますから本来の工程を経ていません。この工程という順序や段階を経ないということはどこか手間暇を抜いたということです。しかしこの手間暇こそ本物かどうかの大切な見分けどころになります。

それは食べ物でも生活用品でも、または何かしらの営業においても同じです。例えば、漬物は合成香料などで味付けし漬けることもなく、お酒でもアルコールを添加して発酵させることもなく、時間がかかるものはほとんど排除されています。他にも生活用品でいえば先日の畳や障子、木材などもプラスチックで機械で大量につくられます。

見た目さえ似ていれば安い方がいいという考え方の消費者が増えれば増えるほど、本物が伝わらなくなっていくものです。なぜなら本物は高くて不便、価値がないと思われるようになるからです。すでに原材料が少ない上に、昔は職人たちの道具はすべて繋がって循環していましたからそのひとつが失われると周りも一緒に消失します。

例えば、藁は農家がお米を作った後にその藁を用いて畳や屋根、草履に草鞋、米俵にしめ縄などをつくります。他にも竹を取ればそこからあらゆる製品の職人たちに流通します。今ではプラスチックで竹も藁も代用されますからそれらの職人たちには原材料が届きません。こうやって次第に本物であったものが失われていきます。

そして仕方がないからと原材料を変えてしまったり、それまでの製作技術を壊してしまっていたらそれはもう本物とは呼べません。しかし本物にこだわり高価になりすぎてもそれは金額が膨大で購入することができません。こうやって古来からのものは失われますがそれは消費する側が改革していくしかないように私は思います。

もしも消費する側が、こちらの方がいいと大多数の人たちが購入するようになればまたかつてのような職人たちの仕事が発展していきます。そのためにはかつての本物の善さを身近に触れるような場や機会が増えなければなりません。今のようにどこにいったら本物に出会えるかわからないような市場ではなかなか触れる機会がありません。

伝統や文化というものは、長い年月をかけて培われてきたものですからそれを伝承している人も今は急激に減少していますからいよいよ出会う機会が薄れています。お金に早くしようと結果主義で工程を排除していくというのは、偽物を大量に作り出すということと同じです。

子どもたちのことを思えば、何が本来だったか、何が本物であるかを知ることはその工程や順序、段階を体験する場、または素材や原料が循環するプロセスを観る場が必要だと感じます。その中にある徳を見極める力を育成していかなければなりません。

引き続き、古来の文化を深めながら風土改善を見つめていきたいと思います。

 

自分磨き

先日、いつもお世話になっている恩人の方々と一緒に古い木製品や古鉄の道具の手入れを行う機会がありました。蜜蝋や椿油を用い、一つひとつを磨いていくのですがそのものを磨くうちに無心になってきます。この無心とは何か、それは考えなくなるということです。考えなくなるというのは空っぽになること、それまでの知識や教養などを用いずにそのものと一体になっていくということです。

磨くという行為は、それまでの刷り込みや知識を捨て去っていくことに似ています。分類分けされた知識は、複雑だったものを単純にしましたが実際には自然と同じように複雑ではないものは何一つありません。天気一つとってみても、今は天気、曇り、雨、などで分類しますが一日とて同じ天候の日はありません。複雑に変化している気候を観るのは知識分類知を用いず、無心になって触れてみるしかないのです。

そして一緒に磨く面白さは心が通じ合うところにあります。一人で無心になるのも楽しいことですが、一緒に無心になるのはかえって考えない空っぽのところに自分たちを置き、その中で感じることを語り合いますから居心地がいいのです。

暮らしの中で共に生きるうちにお互いの本心に触れ合う気がして、その合間の寛ぎが心地いいのです。

人間は心を用いていくことで頭で考えてしまう知識を離れていきます。今は知識を用いてから心を使おうとしますが本来はそんなことはできるはずがありません。それは心ではなく知識なのです。心を使うのは、まず心を用いてそれに知識がついてくるのです。頭で考えた心配などなく、頭で考えた配慮などもなく、頭で考えた共感などはないのです。

だからこそ、心を用いる作業を一緒にやりながらその心を磨いていくことは感謝で生きてきた先祖との触れ合いになります。特に手作りで大切に扱われ、時代を越えて経年変化を続けている道具を触るとその時代から心を用いて大切に扱われてきた道具と人との関係性に触れます。道具によって自分が磨かれ、自分が磨かれることで道具が磨かれるのです。

手入れというのは、頭入れとはいわないのはまずは手間暇をかけること、その労力と時間を用いることで心が入るということです。自分が労力をかけて苦労することが何よりも自分磨きになります。

引き続き、磨く仕合せ磨く喜びを体験しながらまた一緒に磨いてみたいと思います。

素直の能力

色々なご縁を辿っていると、あの出会いがまさかこうなるとはと人は感じるものです。その時、分からなかったことが後々に自明してくる、まさにご縁は縦横無尽に時を超越して結ばれてきます。

人が人と出会うのは、果たして自分の意思だったのかそれとも自然にそうなったのかと考えてみると私は後者の自然にそうなったのではないかと思います。これを天命といいます。

人は誰にしろ天命があり、その人の使命や定めというものがあります。その宿命はその人のいのちに決まっていますがそれをどのように感じるか、それをどのように味わうかはその人の選択になります。

素直に生きていく人はみんな自分は運が善かったと言います。これは来たものを受け容れてそれを感謝で味わっていく能力が高いということです。素直の能力とは、訪れたご縁に対して素直に謙虚で生きていく才能というものです。

その才能はどのように伸ばし磨くのか、それは日々に発生するご縁に対してどれだけ真摯に反省し、一つひとつを学び直していくかということです。直すというのは磨くということです。人格を磨いていくのは自分の間違いに気づき、その間違いを直していくということです。そして判断基準は自己を中心にするのではなく、いただいたご縁に感謝することを中心にしてもしも自分に感謝が足りず間違っている姿勢があればそれを素に直すということです。素は人間はみんな正直です。その正直な自分でいられるように人は感謝を学び謙虚を実践するのでしょう。

人は磨かれていくことで研ぎ澄まされ天命がはっきりと観えてくるように思います。日々の出来事の受け止め方、受け取り方こそがその人の素直の能力なのでしょう。

引き続きご縁を大切に、日々の学び直しを深めていこうと思います。

心の潤い~暮らしの中の仕事~

昨日、パートナーとして一緒に理念に取り組んでいる熊本の保育園に訪問する機会がありました。昨年のことを振り返りつつお互いの理念の実践を確認しあうことができました。

ここの保育園では「子どもたちの心のふるさと」を理念に掲げていますから新年から子どもたちと一緒に餅つきや門松作り、また獅子舞、また手漉き和紙を用いた年賀はがきの作成など数々の実践を楽しそうに行っていました。着実に目的に向かって一つ一つの実践を全員で積み重ねていく様子に大変嬉しくもあり、有難い気持ちになりました。

最近では、餅つきは不衛生だと禁止になり、除夜の鐘はうるさいからと昼間になり、歩きながら本を読むのは危ないから二宮金次郎の像を座らせたり撤去したり、お祭りは宗教勧誘だからと中止になり、祭祀や神事は人間都合で変更され、挨拶は不審者だから気を付けろと教え、その他言い出せばキリがないほど本質的ではない改造が行われ、様々なかつてからの日本の文化もまるで価値がないものに変わってきています。

かつては祖父母と一緒に暮らしていく中で子どもの頃よりその後ろ姿の実践から自然に学んでいました。毎朝早起きをして仏壇や神棚を拝み、掃き掃除や拭き掃除をして挨拶をし、家族で味噌汁とご飯を一緒に食べていました。感謝することを第一に、素直に謙虚に自然に暮らしを通して私たちは日本文化を伝承されていきましたが今ではその暮らしの伝承があちこちで途切れてきています。

子どもたちが暮らしから遠ざかるのは、その周囲の大人たちが暮らしを豊かに味わうことを忘れてしまってきたからです。日々にお金ばかりを気にして、時間に管理されギリギリいっぱいに結果に終始し膨大な作業に没頭してその本当の味わい深さや豊かさを感じる余裕が失われてきているからです。

それは単に仕事量を減らせばいいのではなく、本来の暮らしをしなければ取り戻すことはできないと私は思います。その暮らしとは、日本の生活文化のことです。私たちカグヤでは日本の伝統芸能や伝統文化を深めて実践するクルーたちが増えたことで日々の生活に「潤い」が出てきています。その潤いは「心の潤い」で、日々の生活の中に喜びや仕合せ、楽しさや感謝がどんどん増えていく豊かさが感じられていくということです。

この潤いがある仕事というのは、人々の心を豊かにしていく仕事になっていきます。人は何のために仕事のするのか、人類は日々に仕合せに暮らすために今まで苦労しても楽しく仕事をして生き残ってきたはずです。だからこそこの生活や暮らしの潤いが増えていくということは、それだけ真に皆で豊かな社會を創造したということになります。

取り組んでいる室礼の実践一つをとっても、日々の小さく大きな豊かさを感謝と共に暮らしに飾ります。するとその飾る室礼を見た人たちに心の潤いが伝わりよりお互いに心が瑞々しく若返っていくのです。

忙しい忙しいと自分のことばかりに忙殺されていく中で本当に失っているものは暮らしの豊かさの方なのです。だからこそ私は子どもたちが大人になった時に、暮らしのない世の中にならないようにと祈り願い、子どもたちの周囲にいる大人たちへと実践を弘めるために学び直し新たな仕事を開発しているのです。

もちろん仕事か暮らしかというわけではなく、暮らしの中に仕事があるのだから豊かな人が仕事をしていくと潤いがある質の高い仕事になるのです。その日々の心を籠めた丁寧で丹精を入れたものが本来の仕事の意味になり大切なお仕事になると思っているのです。

玄米クッキーをつくって持っていくご挨拶も、お手紙を書いてお渡しする写真も、手間暇かけて漬けたお漬物をお贈りするのもすべてはこの「心の潤い」を結びお届けするためです。

引き続き、何が大切で何を守るかの優先順位を間違えないように忙しくても忙しくしない、忙しくても豊かさは身近にあるように心を磨き、実践を深め、ニコニコ顔で命がけの真剣勝負の日々を楽しんでいきたいと思います。