アナログとデジタルについて

アナログとデジタル、違いは経過や量と瞬間と面を表すということだ。

アナログは、そこまでの過程を見ることができる。
また今を起点に今後どうなっていくのかも知ることができる。
これを上手に使えば、すべての本質を考察することができる。
生きるとは経過であるからだ。

デジタルは、その瞬間を全体の一部としてみることができる。
全体の断面をとらえ正確に今に対しての状況を明確にすることができる。
これを上手に使えば、すべての結果を考察することができる。

なんらかの出来事や物事を見聞きするときにはこれらの2つをバランスよく持ちあわせることが重要だと思う。

これをどんなときでも使ってみるといい。
すると、より物事が正しく見えるようになると思う。

さて今の時代を考えてみると、どうだろう?
事件もニュースも今の結果だけを伝えるし、人間関係も繋がりもデジタル的に処理していくヒトが増えてきた。つまり今の時代はかなりのデジタル社会だといえるだろう。

何をやったかではなく、どのようにやったかを伝える。
何が起きたかではなく、どのような経過でそうなったかを伝える。

子どもについては今の時代背景を考えるとこれからは物事の過程について話を深く見聞きさせ、議論していくアナログ教育的なことが大事だと思う。
そしてそれはきっと将来、世界すらも動かす個のアイデンティティ育成の鍵にもなっていくだろう。

毎回、相手がデジタルで来たらアナログで返す。
アナログで来たら、デジタルで返す。

そのバランスこそが、道を正しく歩むために必要な羅針盤になるのだろう。

世界や未来は、個の意志で創り上げていくその人の叙事詩だ。
羅針盤をちゃんともって進む方向は見誤らないようにしたいものだ。

いのちの道

今日は、渋谷オリンピックセンターで誕生学協会のイベントがあった。

ワークショップのテーマは、「いのち」だった。
参加者は、未就学園児の子どもとその親たち30人ほどだろうか。

このイベントは、誕生学協会理事兼バース研究所の代表大葉ナナコさんと一緒に企画したものだ。
この方のバイタリティとポテンシャルはとにかく凄い。
通称「生ませ屋さん」と呼ばれていて、出産の素晴らしさいのちの大切さを日本から世界へ向け広げている。
きっと、少子化なんてこのような活動だけでなんとでもなるのだろうなと思う。

最初は、大葉ナナコさんからお母さんと子どものつながりを話します。
そして、色々なワークショップで子どもたちと工作などをしながらいのちについて学びました。
その中のひとつに、お腹の中にいたときのことを子どもたちに語ってもらった。

「ひもで遊んでいたよ」
「ボクシングしていたんだよ」
「なんだかカラフルで楽しかったよ」
「くるくるまわってたよ」

などの発表があった。
きっと、この子どもたちはお腹の中の時の記憶をまだ忘れていないのだろう。

そして、お母さんから子どもへ生まれてきたことへの感謝の言葉を画用紙に書いて一人ひとり発表していく。

そのときの子どもたちの嬉しそうな表情がとても忘れない一日になった。

人は、いつのまにか生まれたときの周りの幸せを忘れている。
生まれてきたときのみんなの祝福を忘れてしまっている。

お母さんはそうだが、お父さんもみんな、いのちを得てこの世に出でた時の感動や感謝、祝福や幸福感は言葉にできないほど崇高で愛情に包まれているものだったはず。

だから絶対に忘れてはいけない。
この人生の主役はみんな自分なんだということ。
自分が祝福されていいのだということ。

人生に脇役はなく、それぞれが主役としていのちを燃やして生きたいものだ。

トラウマ

人は何かしらのトラウマを持って生きている。
それはいつの時に刷り込まれたのかは分からないがずっと心の深いところで息づいて虎視眈々と機会を狙って待っている。

人には心があるから、目に見えるところだけではすべてを判断できない。
深い深いところになるとより見つけることが難しい。
そして、その深さほど解決までの時間がかかるものだ。

しかし必ずその部分に向き合う瞬間が訪れる。
一定周期なのかそれとも、終わりのときなのか分からないがそれは必ずやってくる。そしてそれは、無意識に「浮世の導き」として引寄せていく。それが良い方向なのか悪い方向なのか、幸福なのか困難なのかはその人のものだけにこれは誰にも分からない。

だからこそ時折は、日常の出来事の中で自省し自我の深層部分に光を少しずつ当てて見つめていくことも大事なことだ。

特に気になることがある。

幼い頃の記憶は、幼ければ幼いほど素のままの心に深い影響を与える。
私もそれを持っている。
そしてそれは、きっとみんな持っているのだと思う。

幼いだけに意識が明確になった頃には持って生まれた当たり前の宿命のように、無自覚のまま本人はそのトラウマを背負い一生生きることになる。
だから、その無自覚のトラウマに人生が翻弄されていく。
向き不向きでどうなるか、また環境や教育、出会いや遺伝子でもどうなっていくか分からない。

しかしはっきりしていることがある。

幼児期の子どもたちには大人の身勝手なトラウマを刻んではいけない。
不注意でトラウマを持てば、その子の一生を決めてしまうことにも繋がる。

スタートは大事、スタートが全てのゴールを決めていくのだ。

私はカグヤのHPに「幼児期は人生の縮図だ」と書いた。

だからこそ、深い愛情を持って人の愛が分かるような優しい人間に育って欲しいと望み関わることが我々大人の責任だと思う。

幼児期の子どもたちの世界に及ぼす力を侮ってはいけない。
それが、この地球の進化をつくり、我々人類の未来を創るのだから。

刷り込みの脱却

この世の中、他人の刷り込みという方法で無意識にたくさんのことを見えなくしてきた。

マンネリ化という言葉がある。
これは大事なことが繰り返される間に、最初の本質が喪失することのことだ。
日々忙しく同じことを繰り返していると、考えなくなるのも当然だろう。

宗教でも昔からの慣習でもそうだが、本当は何かとても大事なことを忘れないように子々孫々へ伝承するために「方法」にして「形」になるものを先人が残したのであろうと思う。
しかしどんなことも時が経過するにつれ次第にその本質は語られなくなっていく。
つまり、最初にやったときが最高で後は下がっていくということだろう。
常に創意工夫をやっているのは関係性や時代背景にあわせて新しいものを生み出しているということなのだろう。

先日、古神道発祥の地と言われる長崎県壱岐島へ旅行に行ってきた。
確かに壱岐には、神社の数が尋常ではないからそれも納得した。
そして住吉神社である壱岐神楽を観にいった。
壱岐神楽は国内一般の神楽とは違って、唯一神職が舞うことが許されている神楽だ。

大事なものを守るために代々神主が型を正確に守り700年以上も続いているそうだ。そこには確かな日本人の感性で知り得る「厳かなるもの」があった。

世の中は、派手なもの、自分が分かるもの、共感するその道の浅い部分などを分かったつもりになり深く考えず刷り込もうとしそして刷り込まれていく。

子どもだってそうだ、不思議に思えば本当に世の中理不尽なことばかりなのにその疑問を感じようとはしなくなってきた気がする。
子どもがよくいう、「なぜ?」「どうして?」は刷り込みがない証拠なのだ。
大人はその「なぜ」を答えられない。
なぜなら、その答えを知らないでいいまま自分に刷り込んだからだと思う。

私は今でも童のように、「なぜ??」と思い続けることが多い。

たとえば、仕事の思想だってそうだ。
一般的には仕事の思想でいう今の時代の個人にとっての報酬とは雑誌や情報誌によく掲載されている「給与・年収、役職・地位」などだという。
しかし昔の日本は、日本人はどうだっただろうか?
ジャパンアズナンバーワンの時代はどうだったか?実際はどうだろうか?
松下幸之助さんや本田宗一郎さんなど尊敬に値する過去の偉人はみんな「仕事の報酬は仕事だ」と仰った。それはいわゆる「働き甲斐」というもののことだ。自分の仕事で自分が学び成長して他人を喜ばし、自分を誇らしく思え、家族を幸せにし崇高な志を持ち周囲のために自分を捧げる事を最良として素直な心で日々精進しながら感謝し貢献を悦びとする。

そうではなかったか?
本当の仕事の報酬と本質はきっと、自分というニンゲンがニンゲン社会に貢献できたということではないだろうか?

我々は今の自分の勝手なエゴに都合よく刷り込みをあわせてはいけない。
もう一度、真実の鏡を見抜き見取り、既存の刷り込みから脱却しないといけない。
そして本質の生き方を選んでいかないといけない。
どんなに抵抗されても刷り込みへは素心と感謝と報恩で使命を尽くしていかないといけない。

今の我々日本人は平和が保たれ、衣食住に事欠かなくなっている。

私が思う今一番必要なのは、「個がいかに本質に生きるか」じゃないかと思う。

私はそれをカグヤを通して率先垂範していきたい。
お互いが違いを認め合え生かし合い共に支えあう関係を目指すと心に誓う。

変わっていくこころ・・

こころは毎日、刻々と変わっていく。

同じ太陽は昇らないし、同じ風が吹くことはない。

でもそのまま変わらないと思っている自分がいる。

多くの人たちとの魂の邂逅を経て、こころが変わっていく。

バーチャルでの出会いでも変わることがある。

リアルの出会いでも変わらないことがある。

こころは、日々死に、そして朝目覚めるとまた生まれ芽生えている。

同じままであることなんてできないのに、変わらないでと願うことがある。

変わっていくこころ。

でも、そこからまた新しい命が創造されていく。

そう思うと、、なんと静かになれるんだろう。

こころ、心、ココロ、今日も深い感謝とともに時を超越して安らぎに満ちていたい。

基なる礎。

最近、ソフトをより理解してもらうために各地で園内研修を始めた。
どちらかというと個人情報管理や危機管理、衛生管理などその都度必要を迫られる時事的な研修ではなく、「子どもたちひとりひとりの発達を保障するため」という園では必須項目でもある保育所保育指針・幼稚園教育要領に沿った発達理解と共通理解などについて行うことにしている。

園では、色々な研修に参加している。
しかし、研修でマスターするのは何も難しいテーマばかりを追っているから早く問題が解決して理想まで辿り付くという訳ではないと思う。

子どもの発達と同じで、やはり人の成長は段階があるのだ。
習熟度もあるし、偏りもあるし、タイミングもあるし、関係性もある。
だから、強引に無理をすればすぐに捩れてどこかで階段を踏み外し転がり落ちることが多い。

以前、私はバレーボールをやっていた。
かなり強い学校だったのだがそこでは基礎練習(走る・鍛える・見る・聞く)だけで2年もやった。試合出場なんてとんでもない、2年間はずっと試合にも出してもらえなかった。
きっとスポーツをやった方ならみんなそんな経験はあると思う。
まれに才能がある人がいきなり起用されるが、何らかの壁があると心か身体のどちらかがポキっと折れてすぐに再起不能になる。
3年にもなるのとさすがにそれはなくなると思っていたら、3年でも応用練習と別にどんな時でも相変わらず基礎練習は終わるまで続いた。

野球の王監督も、張本さんも素振りの量は普通の選手の基礎練習での量を軽く超えるほど桁違いやっていたそうだ。
先日TVでヤンキースの松井選手を取材していたがやっぱり素振りの量は凄い。

結局、すべての応用技術は基礎力があってはじめて手に入るものなのだ。
どんな凄いプレーヤーでも、毎朝毎日欠かさず基礎練習をしている。
しかし一流のアスリートまで行こうと思ったら貪欲に、工夫と努力、検証をしているかどうかがキーワードになるのだろう、それは頭も一緒に使うということだ。

ただ決して忘れてはいけないのが大前提としてその確固たる「基礎練習の意味」を心の芯で理解しているかどうかになってくる。
ニンゲンはそんなに強い生き物ではない、だからきっと「深い気付き」がないと続かない。

つまり我々も同じで仕事で何かを習得したいのならばその専門の芯の部分に気付き、それに関する基礎練習を徹底して行うことだと思う。

保育の場合は、それは「発達」になるのだろう。
健康・人間関係・言葉・環境・表現と五領域をしっかりと理解把握すること。
私は、それさえ日ごろからできていれば応用は自然に身につくと思っている。
保育の専門性は、子どもが獲得したその発達を深い見識で観る力だ。
花で言えば、根っこの部分が観れて語れ望むべき花にしていく工夫だ。
だからこそ、日ごろから根っこが見えるような特別な基礎訓練がいる。
お医者さんも写真屋さんも、修理屋さんも、植木屋さんも、みんな普通には見えない部分をみんなプロとしてみれるようになっている。

つい人は業界で有名で権威のある方が語る事例や特例にばかり目を奪われている。
安易にやるとひょっとすると本末転倒になるから気をつけないといけない。
この方々は、凄い人たちなので特例しか語らないからだ。
当たり前のことは、当たり前なのでわざわざ講演で発表したりしないからだ。

私の会社でも同じようなことでは組織マネージメントというものがある。
もちろん早く何とかしたいがこればかりは短い時間でやろうとしてもどうしようもないものはどうしようもない。やはり発達と一緒だからだ。

会社では、”企業理念”に基づく日々の約束・期限・納期・3S・確認、等々、報告連絡相談がそれになる。これは日々必ずやらないといけない、これは日々繰り返し見直さないといけない。そうやっているうちに、次第に身について観得るようになっていくこともある。

何でも軸はずらさないようにしないといけない。
基礎は目立たないし、気付きにくいがとても大事なことだから。

基礎練習をバカにしてはいけない、基礎は応用に繋がる唯一の道なのだ。

認定こども園と若手の指標

今日は、岩手県花巻市で幼児教育とマネージメントを学ぶ若手経営者の研修会に参加している。もうこの会での研修会に参加を開始して早3年目になる。

今回は、9月に控えた「認定子ども園」について色々と議論があった。
基調講演は遊育の吉田正幸さんが行った。
やはりこの方は凄い人だ、ジャーナリストの鑑というか・・・学ばせていただくことがとても多い。行政の考えと、実践現場の考えのズレ、首相の方針と時代のズレ、何だかすべてがズレて曖昧で分かりづらくなってしまっている。
制度を作る側の色々な確執や縛りなどがあるからだと客観的に聞いて私は思った。

こうやって大事なことは全部後回しにしていく。
そしてズレに気付かずに贖罪を続けていく。
ニンゲンは、まったくもって昔から変わっていないなと改めて思った。
そしてその被害を一番受けるのは子孫である子どもたちだということも。

とかく大人社会でのエゴと未来への押し付けは負の螺旋へ一直線だ。

やはり、時代にあわせて大きく何かを変えるには危機感を持った立派な人が強烈なリーダーシップを発揮することを待つしかないのだろうか・・・

さて、話しを戻すがこの研修会は開始して18年目になるそうです。
創始メンバーのお一人でもある、あけぼの幼稚園園長安家周一先生からなぜこの会がはじまったのかをご挨拶のときにに伺った。今から18年前、夢を求め業界を良くする為に熱く語り、そしてぶつかり、もっと子どもの為に、より子どもたち未来の為にと若手が集まりやってきた。スタートからやってきた諸先輩方の思いがあって、その大事な本質を受け継いでで欲しいとの一念でこの会は継続しているそうだ。昔の話をお聞きすると、今より状況は決してよくなかったけれど心があった、情熱があったそうだ。
今その創始メンバーは引き時を模索しながら後継を育てている。

安家周一先生から新渡戸稲造の武士道の話もあった。
昔の日本人は、どう生きるか、どう死ぬかというための教学である道徳を大切にした。安家先生は、これを幼児教育の中に取り入れることはできないか、それをみんなで一緒に考えていきませんか!と我々参加のスタッフに真っ直ぐ咆哮して語った。

その言葉を聴いたときに心にじーんと深い感動が来た。
そんな人が、幼稚園団体の教育部会のトップだなんて涙が湧き出そうだった。

もっと考えていきたい。
もっと、道を追ってみたい。
師匠の背中を追いながら、まだまだ見えぬ真理への道を歩んでいこうと誓った貴重な一日だった。

英国での出会い

私は以前、中国の上海へ留学していたことがある。
まだ20歳くらいのころの話だ。

今まで生きてきた中で初めて接した外国での感性と文化、価値観、等々。
現地の人たちと一緒に生活してみると海外には今まで如何に自分が何も考えず生きてきて物事を見る物差しを持っていなかったかに気付かされる。
ちょっとでは駄目だ、一年以上住むと分かってくる。

中国では本当に色々とやった。
学校も仕事も旅行も・・・
もちろん大学でも、大勢の中国人の学生とふれあい、考えをぶつけ、そして多国籍の人たちがいる学生寮でともに学びそして生活をした。
異文化の中にも、一人のニンゲンとして大事なことがあることを知ったのもその時だった。

「人は、決して一人では生きてはいけないということ。」

そんなシンプルな真理も、学びの入り口へも20年かかっていた。
やっぱり、人生はところどころに衝撃的な出会いがあるからオモシロイ。

そしてそこでも、人生を左右するある人との出会いがあった。
日本人だが、中学の国語の教師をしていて生徒に対して見聞が足りないと一度すべての職を他の先生へ引き継ぎ単身中国へ留学へ来ていたのだ。
チベットなどはじめ、数々の町へ旅をし深い見識と優しい人間味があった方だ。

その方は、中国ではたった一度きりの2時間ほどの出会いだった。

それから2年ほど経って中国で働いていた日系企業での仕事を辞め、帰国後のある日自宅に一通の手紙が英国のロンドンから届いた。
その国語の教師の方からだった。

私も変なのかもしれないが、手紙を見て気がつくとすぐ英国ロンドンへきていた。

そこでも様々な衝撃の日々だった。
特にその方に教えていただいた最高の学びは「謙虚」ということだった。

今でも、その謙虚を紙に書いて机の前に貼っていたころのことを思い出す。
年を取るにつれて、悟るどころかその重みは次第に深さに変わっていく。

でもその方に出会わなければその言葉にも出逢う事はなかった。
そして、その方は私の結婚式の仲人になっていただいた。

人生は本当にとても不思議なことばかり。

これから、新しい何かの学びがあることを考えるとわくわくするものだ。
ふといつも素直な気持ちで『童心』に返ることができる。

この大人になってもココに在る”子ども心”、これからもずっと大切にして多くを見守っていけるといいなと切に思う。