職業観と刷り込み

仕事をしていると職業に対しての刷り込みのイメージを自分自身が持っていることに気付く。

公の仕事をしている人に対してのイメージ。
 固い話しばかりする、融通の利かない人だろうと身構えてしまう。

弁護士、司法書士などの専門士などの人に対してのイメージ。
 頭が良くて、インテリで隙がない話し方をするのだろうと警戒してしまう。

学校の先生に対してのイメージ。
 何か偏った見方で狭い世界の話を聞かされるのだろうと避けてしまう。

新宿の高層ビル群で働いている人に対してのイメージ。
 お金やキャリアのことしか頭にないのだろうと冷めた気持ちになってしまう。

気がつくと、いつの間にか特定の職業に対する勝手な刷り込みを自分が持っているのことに驚く。

いざ蓋を開けてその人と話しをしてみると時折は「ん、イメージと近いなぁ」と思うけれど、それはTVドラマの影響や、平均的な属性を持つ人たちのイメージから来る自分自身の主観的で一方方向的な刷り込みであることがほとんどだ。

世の中見渡せば意外と馬鹿にはできないほど職業による振り分けはある。
たとえば、結婚相手を職業から選んだりする。
これなんて、完全な刷り込みと結婚しているようなものだ。

色々な施設やメーカーのアンケートの中にも職業欄がある。
これを見て、やっぱりかと信じたいのだろう。
人は、必ず白か黒かを決めたがる生き物なのだろう。

他にも、肩書きや名刺からその人の職業観まで探ったりもする。
でもよく考えてみると分かる。

本当にその人を分かろうとするのならば、その職業を選んだその理由や本質、キッカケやなぜだったかを聞けばその人をより分かると思う。

無意識の職業観にだまされて、大事なものを見落とさないようにしたいものだ。どんな時でも、大事なのは常に自然のまま、あるがままの人と人の出会いや邂逅なんだろうから。

お互いに本質を見抜かずもったいない時間を過ごさないようにかけがえのない時間をより大切にしていきたいと願う。

意味への到達

日常の出来事の中には、確かな意味が存在している。
大事なことは、結果がどうだったかだけではなくその経過がどうだったかだったりする。
そこに確かな意味という名の、価値が必ずどこかに潜んでいるものだからだ。

以前、師匠から教わったことに「どの時点を成功とみなすか」ということを深く考える機会を得た。

私の友人の中でも、ベンチャー企業を立ち上げ社長をしてナスダックに上場を果たした方もいる。もしくは、やむにやまれぬ成長志向で他より抜きん出た速度と株主満足にひた向きに突き進んでいる方もいる。
でもみんな早く早くを掛け声に、無理をして突っ走っている感じがする。

先日、私が購読している「致知」という本で連載をしている陶芸家北川八郎先生を熊本阿蘇の山奥まで尋ねた。その時に、北川八郎先生が仰った言葉が今でも脳裏にやきついてはなれない。

私が子どもの為に実現したいこの夢を早く達成するにはどうしたらいいのかを伺ったときに仰られていた言葉だ。その答えは私の予想と大いに反していた。

「そんなに、早く到達することに何の意味があるのか?私は、早く到達した人たちがその後どのようになっていったかも知っている。自然の中に同じ葉がないように人それぞれ浴びる光も成長速度もみんな違うのだよ。だからね、ただただ自分に還り自分自らを高めていけばいいのだよ・・」

同じように藤森先生からは、「どうしても遠くを見ようとして船酔いをするなら、風景を観るようにすることだ」と教えていただいたことがある。

先日読んだ本多静六氏の著書にも感動する文章を見つけた。

「決して散る花を追うべからず、出づる月をただ心静かに待つべし。」

きっと、極めている方々はこのような心境をお持ちなのだろう。

他にもたくさんの啓示を多くの方々にいただいた感謝は忘れられないことばかり。

今振り返ると本物は一目見たときから醸し出しているオーラが他人とは違うなとつくづく思う。

以前、ヤオハンの和田一夫さんと仕事をしていたときも同じような感じだ。
あの方も、歩いている姿だけで人を圧倒するオーラがあった。
感謝と感動の人生の賜物だと、感動日記を見たときの衝撃は今でも忘れられない。

何か深い意味を帯びている生を歩む人たちはみんなオーラを纏っている。

さて、では私は今起きている出来事の大事な意味をどこにつなげるのか?

私は大事なことは、今ではなくどの時点の夢を追っているかだと決めた。
身の回りには色々な人たちがいて、常に強烈な思想で自分の心胆を試したりする。
でも、それもまたよしだと思う。
そうやって、心も意志も希望も夢もすべてが陶冶されていくからだ。

私は、この保育業界に習って7年ほど。
いわば、まだ保育界で言えば生まれたてか1歳児くらいだろうと思っている。
もっと多くの方々と邂逅を求め、芯から学んでいこうと思う。

これから自我が芽生え、大事な何かの意味を帯びてくるはずだと信じて学びは静からという原点の気持ちのまま明日も一歩ずつ進もうと思う。

見守るかたち1

随分前に読んだある新聞にこんな文章が書いてあった。

「子どもたちは親の期待や夢をひとつひとつ裏切りながら自立して親元を巣立っていく・・・」

これは、記者が親の立場で書いたものだ。
でも、なんとなく言いたいことは分かる気もする。
子どもは自分の所有物ではなく、一人の生命なのだ。
だから、大きくなるにつれそれがはっきりしてくるものだ。

子どもは親の都合やエゴで関わるのではなく、その子の自主性や主体性を見守りながら関わっていくのがいいのだと思う。

見守るためにはきっと、子どもの将来を必要なときに必要な量だけ援助してあげればそれだけでいいのだろう。 それも相手が求めてこなければ余計なことは決してしなくてもいい。 つまりそっとしておいた方がいいのかもしれない。

愛心が深いだけにどうしてもなかなかそれが実践できないのが親心だ。

この見守る意味を知り、愛するという観念を常に見直しながら相手との距離をしっかりと尊重し大切にしていくことができるのだろうか?
その深遠な問いは、常に日々脚下の実践でしか理解することはできないのだろう。

つまり見守るということは、自他ともへの厳かな愛のかたちでもある。

常に自分から、常に自分から、相手との距離を大切にし 変わっていくことだ。