随分前に読んだある新聞にこんな文章が書いてあった。
「子どもたちは親の期待や夢をひとつひとつ裏切りながら自立して親元を巣立っていく・・・」
これは、記者が親の立場で書いたものだ。
でも、なんとなく言いたいことは分かる気もする。
子どもは自分の所有物ではなく、一人の生命なのだ。
だから、大きくなるにつれそれがはっきりしてくるものだ。
子どもは親の都合やエゴで関わるのではなく、その子の自主性や主体性を見守りながら関わっていくのがいいのだと思う。
見守るためにはきっと、子どもの将来を必要なときに必要な量だけ援助してあげればそれだけでいいのだろう。 それも相手が求めてこなければ余計なことは決してしなくてもいい。 つまりそっとしておいた方がいいのかもしれない。
愛心が深いだけにどうしてもなかなかそれが実践できないのが親心だ。
この見守る意味を知り、愛するという観念を常に見直しながら相手との距離をしっかりと尊重し大切にしていくことができるのだろうか?
その深遠な問いは、常に日々脚下の実践でしか理解することはできないのだろう。
つまり見守るということは、自他ともへの厳かな愛のかたちでもある。
常に自分から、常に自分から、相手との距離を大切にし 変わっていくことだ。