夏の日の午後

夏も本格的な暑さを迎え、今年も多くの台風がこの町にやってきている。

年間何回もないが、大雨や大雪、地震や台風、濃霧や黄砂など何かの自然現象のせいで仕事が滞るというのも何だかある一面ではほっとする。
この自然現象で犠牲になったり災害を受ける当事者の方々のことさえなければ自然が近くにあることを知り心のどこかでは一種の安心ささえ感じてしまう。
自然は無為にどんなことも当たり前にしていく。
そしてそこに人の世界で言うところの非情ささえ当たり前に併せ持っているもの。

だから自然には人の生き死にさえも、地球の一部として受け容れる無限の包容力があるのだろう。

道元禅師にある

 「春は花 夏はほととぎす 秋は月 冬雪さえてすずしかりけり」

ここに自然あっての自己然を感じてしまう。

以前ブログでも紹介した陶芸家の北川八郎先生が仰っていた言葉にこんなものもある。

 「人は、人に与えた喜びや悲しみだけを持ってあの世に逝く。」

生まれた時から死ぬときまで人は多くの出来事と出会い、そして別れる。
何かを築いても、それは見た目は同じでも時が経てば同じものではない。
思い出や思想は、その人本人の生きた主観であるからだ。

以前、尊敬する経済人田坂広志先生の講演を拝聴したときに「万物螺旋の法則」のことを伺った。

螺旋は、横から見れば上にあがっている螺旋階段のように見えるが、真上から見ると同じところをただ丸く廻っているだけだという。

同じようなことをやっても、同じところに戻ることはない。
そう考えるとこれが自然の在るがままで在りのままの姿ということだろう。

人は同じように生きたとしても何もないことは在り得ない。
必ず何か新しいものを次の螺旋を歩むものたちへ遺していく。
見た目は灰となっても確かな何かは残っていく。
特に偉大な人が亡くなると、必ず後進を生きるものへ大切なものを遺していっていると感じるものだ。それは亡くなった後にその道を生きる人が必ず証明するからだ。

そこから我々は邂逅を得て未来への生き方を深く学び修養していくのだろう。
死生観に息づく深き思索の中にこそ、一期一会の意味が訪れる。

野見山広明の名刺の裏に書いたその一瞬の重みが真摯に胸に突き刺さる。
夏の日の午後を静かに過ごす、こんな日にも切々とかんながらの道をゆく。