本気

今日は、素晴らしいご縁と邂逅をいただいた。

生きていると、本当に色々なことがあるからオモシロイ。
オモシロイことを目的に生きていると、予想もしなかった出会いに恵まれる。

求めて動けば、それ相応のものが得られる。
大切なのは自分から主体的に動くことなのだと思う。

以前、書いたものだけれど本日コメントに気付き、今は2010年9月ですがせっかくなので下記を付け足します。

主体的に動くというのは、決めたことを行えばいい。

つまりは自分自身が何事にも流されず、すべての一切のことを決めているということ。

そういう自分のことを嘘偽りない真心で歩めているから本気という。

本気はブレルのではない、ブレルのは本気ではない。

本気はブレナイ。

なぜなら本気とは、心で行うものであり、決心することだからである。

自分が生まれたことに何よりも深く感謝し、自分の人生を大切に生きることが天や神様、両親、周囲のご縁の人たちへの誠意だと思い、流されず心を優先しあるがままに自然体で生きれるように心技体を磨き、道徳を兼ね備えた人物として人間を完成することだと思います。

生きる力

生きる力というのをよく研修で話す。
子どもたちの生きる力を見守ることが幼児教育の本質であると。

人生はある意味とても長い道のりだ。
自己実現までの道のりで勝負をする時期、大成する時期、艱難の時期がある。

今、その子にとって最良でも20年後はどうなのか誰にも分からない。
環境は刻々と変化し、関係する人々も刻々と変わっていくからだ。

いつでも何年後の子どものことを思っているかが保育者には求められるのだ。
保育者だけではない、親でもきっとそうだろう。
今だけがいいのならば、今自慢の子どもにすればいい。
でもそんなものは子どもの将来にとってあまり役に立たないものが多い。

結局、その子の何年後の成功を願い今どう接するべきかを知る事が大切なのだと思う。

だからそのような職責を担う先生はきっと、子どもたちがどんな環境の中にあっても、自我と自立した個性を持ち、何をして歩むのだろうと「見通す力=洞察力」があることが専門性となり子どもを守ることになると私は思う。

この自然界ではとても不安定な多くの関係性と多元性の中で共に生き合って生かし合っていることも個々で理解し習得していかないといけないことだと思う。

その子どもが、将来自分から社会で独り立ちし巣立ち「生きる力」が求められるときその子のために今自分に何がいったいできるのか?

日々深い思索の中で、自問自答、自反することも大事なのだろう。

たとえば、子どものどの時期に最適な力になるかを推測し促す力を考える。
それはほんの些細な『言葉掛け』ひとつでも子どもは自分で気付いていけるものだ。
その気付いたものが30年後にその子への掛け替えのない大切な「生きる力」になるかもしれない。

その「かもしれない」があるから教育は本当に面白いのだと思う。

人間を育てているという深遠で答えのないものがあることを知ることが「生きる力」を育む能力に繋がっているのだと。

幼児教育というのは、本当に味わい深い素晴らしいものだと心から思う。

失敗

失敗について考えてみる。

生きていると「失敗したな・・・」と思う時がある。
得てして時間が経過するとそれはその時は最善だったといつも思うのだがなかなかその瞬間はこれは大失敗だなとしか思えずとても悶々と悩んでしまう。

事業をしているとその目標の高みや崇高な志から、人間関係の問題や自己嫌悪が起きるような出来事があるとついまた失敗してしまったと深く悩む。

以前、師匠から論語の曾子の言葉にある「三省」の意味を教わった。
これは本当に判断を悩む時に座右にしていこうと思っている。

「われ日にわが身を三省す。人のために謀てしかして忠ならざるか。朋友と交り言てしかして信ならざるか。習はざるを傳ふるか。」

・・・

なかなかこれは簡単にはできないことであるなとつくづく思う。

自らが誠意を持って人に接し、友に対して真実で付き合い、自分のものになってない知識を安易に語らない・・・

私にとってはこれは三省どころか何百回もやらないといけない。

失敗は色々な意味で、前へ向かい自分が変わっていくための活力をくれる。
そして変わることで、その失敗と向き合うことができる。

だから私は思う。

子どもたちも失敗することよりもどう起き上がっていくことが大事だということを背中で伝えていきたいと。

今の世の中は失敗を恐れ、安定を求めることがとても多い。

以前、どこかでこんなユダヤの格言に出会ったことがある。

 『決して失敗しなかった者は、何もしなかった者である』

きっと、そうなのだろう。
失敗は恐れるものではなく、失敗は成長への唯一の機会なのだと。
何かをやるから失敗するのであれば、それは勝利への勲章であるのだと。

成功への段階を得てより将来へ味わいを深めるための最高の糧が失敗なのだ。あまり大きすぎる失敗は乗り越えるのに宿命や運命が圧し掛かる。だからそれを幼児期の「学びや遊び」でしっかりと体験することが今は特に大事なだろうと思う。

生きているとうまくいかないことの方が多い。
だからこそ生きている目標や夢は、叶えるまでがオモシロイのだと。

本当の面白さは、失敗があるからこそだろうなと。

根になる人

以前、中国で仕事をしていた時にある人に言われたことが今でも心に残っている。

それはある大きな商談を任された後の会食の席でのことだった。
日系の商社や中国大手のメーカーの経営者の方々と歓談をしていた時のことだ。

その頃、若さからくる無知な自分故の過剰な自信があったのかもしれない。
大きな商談をまとめた後だったので、自分なりに満足感があったのかもしれない。

私はその経営者の面々に対してこう切り出した。

「私はこの2年半で日中間のビジネスは大方理解しました。私は経験以外は機知に富んだアイデアと技術、人脈、スキル、言語、そして若さと可能性というすべてを併せ持っているダイヤの原石です。もし私が独立開業したらお取引をしていただけますか?」

私は、必ず「もちろん」という返事が返ってくると思って自信満々に聞いた。
そして、何人かは笑いながら「歓迎歓迎」と相槌を打ってくれた。

ただその中に、私が最も信頼している関係の良いパートナーは違った。
俯いて考え込んで黙っているのだ。

気になったので帰りの車を同行しその車の中でもう一度尋ねた。
するとこの方は私にこう言ったのを今も忘れられない。

「私は、あなたが独立しても取引はしませんよ」

酔っているのかと耳を疑い再度なぜかを尋ねると静かにこう言われた。

「今のあなたには根がないからです。」

この言葉が衝撃でその夜は眠ることができなかったことを覚えている。
私が帰国して起業を決意したのはこの方のこの言葉があったからだ。

その頃の自分はだから開業して根をはるのだと思っていた。
つまりその頃は「根をはる」というのは単に会社を創ればいいのだと思っていたのだ。

そして今の年齢になり会社を経営してみるとその方が語った言葉の意味が少し理解できるようになったような気がする。会社においても、国においても、世界にとっても「根になる」ということはいったいどういうことなのか?そして根があるというのはどういうことなのか?

葉ではなく枝ではなく、幹ではなく『根』になるということ。

10年の前のことなのに今でもどうなのだろうかと自問自答の日々。
まだまだ「根をはる」人には程遠い今の自分が在る。

昔の思い出と出会い、有難いその言葉の意味に本当に感謝を覚える。
いつの日か、根をはってもう一度その方と色々なことを伺ってみたいものだ。

両義性

今日、滋賀県から園長先生が弊社を尋ねていらっしゃった。
セミナーやホームページなど色々とお取引をいただいている大切な上得意先お客様の御一人です。

前職の経験を通して学んだITの知識やノウハウにとても精通していて、また現在は保育園の経営者としても素晴らしい知性と感性をお持ちの方です。
本日も色々と勉強をさせていただきました。

お話しの中では相対評価や絶対評価などのことを熱っぽく語り合いました。

第三者評価がこれからどのようになっていくのか?
認定こども園は果たして、何を意味しているのか?
バウチャー制度は導入されるのかどうか?
家庭の育児支援にはどのような形で進められるのか?

全体から観た業界やその布置はどこを意図していくのか・・・

等々、語り合いは4時間近くも続いた。

その中でも印象に残ったのは「両義性」の話しだ。

何かの出来事や物事は、片方からだけではなく両方から観て行くという事。
そして両面から見た物事の矛盾をどう捉えて答えを持っていけばいいか・・・

一方から観た出来事と、違う多方面の側面から観得る出来事の大いなる矛盾。

たとえばで言えば、答えがない答えがあることだってそうだろう。
その答えがない答えを求めていけば宗教になるのか哲学になるのか・・・

ただ、両義性の中の矛盾をどう包括していけばいいのか・・・

私なりには大いなる自己矛盾を包括してこうイメージした。

本質はその都度形を変えるということを当たり前に認識できるだろうか・・・
真実は、虚像の中に見出していくものだと理解していけるだろうか・・・
自己矛盾をあわせ持つことが、受容や寛容といった人間的自立を育む事など・・・

どんなことも白だ黒だということはないのだと思う。
高い低いもなく、重い軽いもない。
その両方なのだという絶対矛盾の中に真実を観ようとする力があるかどうか。

その「間」があることを認めることができないのは、ニンゲンには観得ない部分が必ずあるという厳かで深遠な思想を謙虚に受け入れていないからだと私は思う。

事物の連続性や継続性、それに伝統や文化、、、「生命」というもの。

物事を浅い知識から分かったふりをすることは誠に損なことばかり。
分からないからこそ深い思索の中にある有形無形の真理を呼び込むのだと。
やはり実体験の中で気付くことが近道なのだろう・・・

子ども達には、実体験からの学びや遊びを通して気づきある人生を選択して欲しいと願う。

本日のこの出会いと園長先生と一緒に過ごせた有難い時間に非常に感謝の気持ちで今は満たされている。崇高な理念やその志が同じ方向であったり、目指す価値観に深い共感ができる方との邂逅や出会いは人生においては至福の瞬間だと改めて思った。

本当にありがとうございました。
また次回、色々とお話ができるのを心から楽しみにしています。

敬と愛

昔訪問した園の先生から「敬と愛」について伺ったことがある。
子どもを育てるのに両方必要だということだった。

「愛」が母性であり、「敬」が父性であるという。

この世の生き物は、特殊な生物でない限りオスとメスで構成されている。
だから自ずと役割も分かれている。

以前、動物の子育てを特集したTV番組でこんな光景を見た。
メスが子どもを育て、オスがそれを傍で見守る。

空に舞う鳥もメスが巣で子守をして、オスが食事を運ぶ。
サバンナの動物たちも、メスが子どもを連れオスがそれを守る環境をつくる。
陸でも海の生き物でもそうだった。

しかし常に危険が隣り合わせである自然の中ではオスもメスも覚悟もある。
そこには生も死も深いところで共にしあっているようにみえる。

夫婦というのは、同じ時を生き、死をも運命をも供にするということなのだと。
子々孫々に生きた証を残していくためにすべてを懸けて子どもをつくる。

そう思うと今の時代はどれだけ「結婚する」ということを若い人は思うのだろう。

自然界では当たり前のことである「このこと」が何だか重く心を打つ。
まだ自分が幼い頃はその光景に自然と不思議な安堵感を覚えたものだ。

生きていく子どもにとって必要なのは社会に出て一人自立していくこと。
母の愛だけでは厳しい自然界の中にあるルールを学ぶことができない。
そのために生きる上で求められる「敬う」ということを父から学ぶ。

そしてこれを父性と母性の違いというのだろうと思う。

自然界にある当たり前のことを侮ってはいけないしそこから学ぶことだと思う。
子孫を継承するノウハウは、我々生物の遺伝子情報に深く刻まれているのだ。

主観だけど今の時代は社会に「父性」が持つ尊厳な「敬」が足りないと思う。
何でも満たす母性が強い時代の中の学びだけでは、どう自分ひとりで自立して歩んでいけばいいか子どもたちが分からず道に迷ってしまう気がする。

今の時代は社会にとっても立派な大人が父性という名の「敬」の道を示すことが一番だと私は思う。それが子どもたちにとって最良の環境づくりになり少子化と育児価値の劣化の歯止めにもなるのだと思う。

それは決して僧侶になれということではなく、世界やわが国の先人たちが築き上げた人としての道徳や古道から継承した尊い自然を歩むその背中やその姿勢を社会に示すことなのだと私は思う。

色々な起業家や業界人から、その道を示せるような敬える大人を望むものだ。
私もこの仕事に携わる以上、いつかはその道の一隅を照らせるようになりたい。

習慣

以前読んだ本に習慣のことが書いてあった。
とてもインパクトがあったのでメモを残しておいたのをここで紹介する。

「習慣」

私はいつもあなたのそばにいる
一番頼りになる助け手でもあれば、あなたが背負う最大の重荷でもある
成功への後押しもすれば、足を引っ張って失敗にも導く
私はあなたの命令次第で動く
あなたのすることを私に任せてくれれば
私は素早く正確に片付けてしまう
私の扱いは簡単
しっかり指示すれば、それでいい
どのようにしてほしいのかを明確に示してくれれば
少しの練習のあとで自動的にそのことをこなす
私はすべての偉人の下僕であり
そして残念ながら、すべての失敗者の下僕でもある
偉大な人が偉大になったのは私のおかげ
失敗した人がしくじったのも私のせい
私は機械ではないが、機械のように正確に
そして知性あふれる人間のように賢く働く
利益になるように私を使うこともできれば
破綻をきたすように使うこともできる
私にとってそれはどちらでもよい
私を利用して訓練し、しっかりと指示してくれれば
世界をあなたの足もとに届けてあげよう
しかし、私を甘く見れば、あなたを滅ぼすだろう
私は誰だろうか?
私は習慣である。

潜在能力というか、無意識の自我というか、ヒトは必ず内在する意志があるとよく感じることがある。病気の時や、悲しい時、それでも前へ向いて生きようとするときに感じる。日常では、何かに突き動かされるように行動したときや、弱気で不安なのにしっかりとやれてしまう時などに感じる。

大いなる内在する潜在意志は、自分との対話からはじめそれを手に入れたいと心から願うならばこの「習慣」と上手に付き合っていくしかないのだろう。

大人が子どもに残せるものは財産ではなく、習慣という名の内在するしつけなのだと私は思う。だから子どもたちには、専門性のある人が将来を見通した上でその子にとっての良き習慣が身に着けられるよう大人がプレゼントをしていって欲しいと願う。

情報リテラシー3

情報バリアフリーという考え方がある。

今までは特殊な情報で一部しか知らなかったものが、一般の人でも安易に手に入れることができるのもその一つだ。

たとえば、医療情報で薬の情報などもインターネットで検索すれば効果・効能・副作用まで調べることができる。また掲示板などで、専門家からアドバイスや利用者の声なども閲覧することができる。

時代は今、「情報」をそれぞれがオープンに共有できる時代に入っているのだ。

園でも、親子でのコミュニケーションを大事にする。
園と家庭との情報共有が大事という。

もちろん、人と人が会うというコミュニケーションはニンゲン界においては当たり前以上に大切なことだ。

しかし、今はまさに情報バリアフリーの時代。

ホームページを使って、もっと多くの人たちに「知りたい」という情報を開示していかなければ地域や保護者からの信用はもらえないと私は思う。

なぜなら、先ほどの医療でもそうだが実際の患者の方とのやり取りは非常に密に丁寧に診察を通してコミュニケーションが進められる。そして診断結果や治療については、非常に公共性のある情報開示手法を用い分かりやすく誰にでも分かるように対応する。

この2つのバランスがあるからこそ、情報を通して信頼を勝ち取ることができる。

園だってまったく同じだと思う。

子ども一人ひとりの発達や保育など細かい気配りとコミュニケーションは保護者と行い、公共性のある情報はホームページなどで迅速に開示していく。

たとえば、ある園では専門性のある子どもの発達をカルテとして必ず保護者面談をひらき、対面での会話を丁寧に行っている。そして給食などの食育についてはその素材から作り方、食事の様子まで写真や詳細を日々ホームページなどで開示している。

保護者の立場にたてば分かるが、情報とは過不足なく用意されていなければ満足することはないからだ。それがあるからこそ、園からの言うことを聞くようになっていくのだと思う。まずは受容して相手のニーズを受け取らないとこちらの言い分を通そうとしても難しいのである。

よく園では、ホームページなどで情報の開示をやりましょうと言うと「昔ながらがなくなるから」とやらないという選択を行うところが多い、特に過疎や僻地などでその傾向が強いがそれは完全な間違いだと私は思う。
それは時間軸ですぐに分かるが単に、昔ながらのやり方が今の時代にあっていないだけということがほとんどなのだ。先日も書いたが、伝統は革新の集積なのだ。今の時代にあったやり方で昔ながらの本質をやり続ければ、ホームページを使わないという結論には至らないはずだし、そうであれば公共性のある情報開示がまた一部の人たちのものになり情報バリアフリーはずっと先のことになってしまう。それではますます昔ながらの大事なものがなくなってしまうかもしれない。討ち死にと格好つけても結果守れなければ悔しいだけだしその地域にとっても大きな損失になってしまう。

両者が揃ってこそ、情報リテラシーをマスターし本当の意味での情報バリアフリーを提供していることになるのだろう。

まとめると、園の情報リテラシーで必要なことは「対面コミュニケーション」と、「対外コミュニケーション」のバランスなのだと思う。

何らかの理由で片方だけに固執・執着しては必ず偏るものだ。
「偏る」と気付かせてくれるチャンスもたくさん得られるが、その分失敗だと勘違いする機会も増えるのできちんとした知識が必要だ。

だから地域や保護者、子どもの為に対面を密にしたいのならば、ホームページなどの対外をあわせてしっかりやっていくといい。振り子のようにやればやるほど情報はバランスを取ってくれる。時間もこなれるので短くなっていき、そして密度が増えるのでやり続ければ必ず効果はでる。

両方をバランスよく具備してこそ、この時代にあわせた「情報」を身にまとうという地域や未来からの信頼を得ることができるのだと私は思う。

「距離」の保ち方は、子どもたちとの関係だけではない。

距離は、色々なところにも存在しその距離感を持つことが園の情報リテラシーを知ることにも繋がっているのだ。

積極思考

仕事をしていると様々な問題に出会う。
大きな問題から小さな問題まで、毎日求める目標が高ければ高いほど解決へ向けて努力する。

仕事をしていく上で、2通りの人に出会う。

問題が起きた時に、マイナスの感情で満たす人。
問題が起きた時に、プラスの感情で満たす人。

その2通りだ。

前者は、心配怒りのエネルギーが増幅されあっという間に感情が冷え切ってしまう。感情が冷え切れば、諦めという最後の手段が頭を擡げるのだろう。

そして後者はどうだろうか?
後者は、積極思考でやる気が起こるとあっという間にモチベーションが上がりどんなことも前向きに考え困難を乗り越えて自信に変えていくのだろう。

問題を避けて通ろうとする人もいるが、これは文字通り問題外だ。
問題とは、解決への第一歩であり成功への足がかりなのだ。

大事なことはどんなことがあっても「積極思考」「プラス思考」で挑むこと。
情熱があり、やろうとすればその問題はほぼ解決したようなものだ。

子どもたちが何かをやる時には、この積極思考を持つようにしてやればいい。
やる前から諦めては、大事な可能性もなくなってしまうかもしれない。

「自分でやる」と言った自立への決意は、崇高なものだしそれこそが本物の「プライド」なんだと思う。そのプライドを持つことが社会で独り立ちする決意なんだろうと思う。動物の世界もそうだが、人間の世界でも親元を離れて「自分で立つ」ということは生きるという行為に於いて自他共に認めるもっとも尊いことなのだと私は思う。

どんな障壁があっても、その人の持つ無限の可能性を信じてあげたいものだ。

1996年

1996年の時のメモノートが見つかった。
この頃は、まだ中国に居て繊維(アパレル)の仕事をしていたときのものだ。

この頃も貪欲な向上心があり、若い情熱と熱意でより高くより早くをモットーにひたすら自分を痛めつけながら仕事と向き合っていたようだ。

ノートの節々に書き綴ったメモを見ると、それが分かる。
その自分のメモの一つにはこう書いてあった。

「行動するときは、必ず何かを掴む気持ちで
  行動した後は、必ず何かを掴んで帰る。」

「給料を上げるのは上司ではなく、部下なのだ。
  部下が上司を突き上げて給料を上げさせるのだ。」

この頃は、有名な常務についてただ自分の無能さ無力さを呪っていたものだ。
早く一人前になって、仕事で結果を出したいとその一心で日々を送っていた。

上司に気に入られることよりも、上司を愛することを目指していた。
嫌なこともたくさん言ったがすべては愛する上司と会社のためだった。
時には本気で嫌がられる時もあった。
でもその御蔭で、とても上司には可愛がってもらった記憶がある。
馴れ合いはなかったが、本当に大事な仕事の意味を教えていただいた。
今でもその常務から教わったことは、座右にしているものが多い。

そして、他にはこんなことが書いている。

「本当に優しい人間は、自分に厳しい人間だけ。
 経営者とはこのようにならなければならない。
 会社のため、社員のため、お客様のため、鬼になれ!」

まだこれは私が20歳の時のころのメモだ。

今、10年経って果たしてどうだろうか?
まだまだ自分はあの頃の約束を果たしていない。

あの頃の約束が社長になった今、果たしてどれだけ実践できているだろうか?
まだまだ向上する貪欲さは一向に衰えないどころかこの今も自分を突き動かす。

できるならば、この先10年で本当の意味での脱皮を図りたいものだ。
久々にノートを開きながらこの先にある各々の持つ心の斜陽を真っ直ぐ眺めた。