昔訪問した園の先生から「敬と愛」について伺ったことがある。
子どもを育てるのに両方必要だということだった。
「愛」が母性であり、「敬」が父性であるという。
この世の生き物は、特殊な生物でない限りオスとメスで構成されている。
だから自ずと役割も分かれている。
以前、動物の子育てを特集したTV番組でこんな光景を見た。
メスが子どもを育て、オスがそれを傍で見守る。
空に舞う鳥もメスが巣で子守をして、オスが食事を運ぶ。
サバンナの動物たちも、メスが子どもを連れオスがそれを守る環境をつくる。
陸でも海の生き物でもそうだった。
しかし常に危険が隣り合わせである自然の中ではオスもメスも覚悟もある。
そこには生も死も深いところで共にしあっているようにみえる。
夫婦というのは、同じ時を生き、死をも運命をも供にするということなのだと。
子々孫々に生きた証を残していくためにすべてを懸けて子どもをつくる。
そう思うと今の時代はどれだけ「結婚する」ということを若い人は思うのだろう。
自然界では当たり前のことである「このこと」が何だか重く心を打つ。
まだ自分が幼い頃はその光景に自然と不思議な安堵感を覚えたものだ。
生きていく子どもにとって必要なのは社会に出て一人自立していくこと。
母の愛だけでは厳しい自然界の中にあるルールを学ぶことができない。
そのために生きる上で求められる「敬う」ということを父から学ぶ。
そしてこれを父性と母性の違いというのだろうと思う。
自然界にある当たり前のことを侮ってはいけないしそこから学ぶことだと思う。
子孫を継承するノウハウは、我々生物の遺伝子情報に深く刻まれているのだ。
主観だけど今の時代は社会に「父性」が持つ尊厳な「敬」が足りないと思う。
何でも満たす母性が強い時代の中の学びだけでは、どう自分ひとりで自立して歩んでいけばいいか子どもたちが分からず道に迷ってしまう気がする。
今の時代は社会にとっても立派な大人が父性という名の「敬」の道を示すことが一番だと私は思う。それが子どもたちにとって最良の環境づくりになり少子化と育児価値の劣化の歯止めにもなるのだと思う。
それは決して僧侶になれということではなく、世界やわが国の先人たちが築き上げた人としての道徳や古道から継承した尊い自然を歩むその背中やその姿勢を社会に示すことなのだと私は思う。
色々な起業家や業界人から、その道を示せるような敬える大人を望むものだ。
私もこの仕事に携わる以上、いつかはその道の一隅を照らせるようになりたい。