主任セミナーと今昔

先日、2日間を通してGT主催の主任セミナーがあった。
今までの保育環境セミナーは、園長でも主任でも保育士、教諭問わず参加できるものだが今回は同じような保育理念と問題意識のある主任の先生達だけが集まって学びあうという初のセミナーだ。

通常は、保育園幼稚園は園長の考え方が違うから主任といわれる先生も随分考え方がバラバラであることが多い。なので全国から集まるよりも、同じ保育観で保育を行っているところの方と話し合いを持つ方が理解は深い。しかしセミナーとなると、広いところにあわせないとそれができないので意外と浅くなってしまう。そうなると実践での暗黙知が飛び交う気付きによるお互いの協同的学びまでにはとても発展しない。

今回はそれをグループをこまめに入れ替えテーマ別のセッション形式で行い、それぞれの関係性の中から発達別にそれぞれの課題を見詰め合うことができてとても議論も内容も発展性のあるものになった。

もっとも大切なのは「理念」という名の価値観が共有できるということだろう。

まさに「見守る保育」ならではの研修会になった。

カグヤのコンサルタントもよく主任先生と話すことが多い。
ひょっとすると業界でも1,2を競うくらい主任と話しをしているのではないかと思う。

たとえば、各園に見守るほいくソフトをコンサルテーションする時でも主任先生と色々なテーマについて話し合う。記録一つにしても、監査、伝統のための書類という記録の定義を捨て去ってもらい、子どもの姿を正しく捉え個別に課題が見え、振り返る価値のある「意味のある本当の記録」という新しい定義に変える。そして、物事の見方、所謂、主観に囚われない客観的な課題を見つけ出し個々に見合った保育ができるようになり先生方の具体的な方法論が変えていくという流れの話しをする。

このようなことを説明する時に最初必ずカグヤのコンサルタントは「主任の壁」(弊社では刷り込みの壁ともいうのだが)というものにぶち当たる。

どこの園でもベテランといわれる方々が、主任先生を務めている。
お世辞は一切なく誤解を恐れずに語れば主任が持つ、職人的要素はある意味芸術的な高さを持っているところが多い。

責任感のある先生が実体験を通じて身に着けてきた感性とセンスは、とても素人には分からない職人芸的高度な水準を持っているような気がする。
よく納得してうなずきながら「本当に凄いな」と思うことが多い。
もちろん、マンネリ化しているところがほとんどだが稀に分かる人にしかわからない神がかり的境地だったりもする。でもそうなると一般の先生はこれを理解するのは大変だろうなと思ってしまう。

しかし一番多いパターンというものがある。
それはその主任が体験して気付いた時と環境そのものがその当時と違うということに気付いていない方の場合だ。

たとえばこのように考えてみると分かると思う。

保護者というひとくくりの単語でも、20年前と今では同じだろうか?
子どもというひとくくりで姿を語っても、10年前と今では同じ姿だろうか?
園経営のやり方についても自論を展開したって、40年前と同じものだろうか?

つまり、身の回りの環境が気付かない間に無意識下に変わってしまっても本質的なものをどれだけ科学的に引き継ぎ残していけるかがキーワードになっていたりするものだ。

感覚だけで自分がずれていることに気付かないことほど怖いことはない。
以前どこかで聞いた「茹で蛙」状態になってしまう。

それに非常に特異な狭いある一定の関係や環境の中でだけ「正しい」と信じることは時として色々な矛盾を創り出すことになることも多い。

今は昔とどう違っているのか?
今の時代がどういった価値観になっているのか?

ひょっとしたら、一日寝たら世界が変わっているかもしれないという感覚だ。

常に、外側に目を向けて内在する本質がぶれない様に工夫成長させていくことが本当に学ぶべき「スキル」の心得なのではないのかなと私は思う。

まずはブレずにズレないために「共通理解」を持ってもらうために保護者、職員に対して、どんな関わり方、環境を用意するか創意工夫の集大成としてそのモデルを示すことがきっと大事なことなのだろう。

私達カグヤがお手伝いしたいと心から思っているところも全てはそこに集約される。

主任先生が引き継いできた貴重な職人的要素をもっと私達のITと科学の目を使いしっかりと分解して本質を次世代に届けていけるようこれからもカグヤとして努力していきたい。

ガイアシンフォニー

本日、龍村仁監督のガイアシンフォニー(地球交響曲)第六番の完成披露試写会の夜の部に参加してきた。

完成まで何だかとても長く待ったようであっという間だったような気もする。
不思議と、作品を待つ心境は長い旅を一緒にしているような錯覚を覚える。
気がつくと、目的地にやってきていて一緒にその深い悦びや感動を分かち合っているからだ。

改めて、五感で触れることのできる素晴らしい作品とご縁の邂逅に心から感謝。

このガイアシンフォニーは私の価値観に大きな影響を与えている一つの映画。第五番からはこの素晴らしい作品製作の一隅を少しでも担いたいと、微々たるものだが個人的な寄付を続けている。

第二番で出演していた故星野道夫さんから深い共感を覚え、第一番からずっと映画館に通って観た映画だ。この映画は自主映画なので、フィルムを借りて上映するため普通の映画館では観る事はできない。上映する方もそうだが集まってくる人たちは同じような価値観の方々が多い。何だかこのような方々がいると思うと明るい未来が期待でき勇気とエネルギーがふつふつと沸いてくる。

最近、DVDが発売されそれもすぐに購入したのだが何だか映画館で観る「場」にも力があるように思えて自宅ではなかなか手が出ない。

このガイアシンフォニーのテーマは、「地球」
地球が一つの大きな生命体だとして、我々がどうあるべきなのか。

龍村監督のインスピレーションで自然と寄り添い歩んできた方々とご縁を繋ぎその取材を通して語られる宇宙観と自然観に息を吹き込みその美しさを魅せてくれる・・・

龍村監督の素晴らしいなと心から尊敬するのは、自然を本当に愛おしく美しくあますことなく表現し撮っていること。
何だかとても言葉にはできない、優しさと畏敬の思いが伝わってくるよう。
また、関わる人たちの言葉で自分の語りたい言葉にならないものを聴き手に語っていること。
何だかこれも言葉にできないが、人と自然の叡智が伝わってくるよう。

はじまるとすぐにこの映像のすべてにあっという間に引き込まれてしまう。
何か観えない力に導かれるような感じだ。

価値観を共にする方々との貴重な邂逅は、人生において至高の贅沢だなと心底思う。

きっとこれからの時代は、価値観を同じくする方々と自分たちのできるそれぞれの「命」で力を合わせお互い支えあっていく・・・そんな時代に入ったのだろうなと思う。

・・・・ガイアを思い・・・・

私たちのいる地球は、大宇宙の中の太陽系を永遠に廻っている。
きっと宇宙の星星は、私たちの記憶の遥か先にある。
観えないのだから心で感じるしかない。
生命はこの今も、何かしらの大いなる意志に生かされている。
どんな時も、生かされているという深い感謝を思う時、地球の存在を身近に感じる。

森の中の小川のせせらぎ、木漏れ日の中の透明な光と風、打ち寄せる穏やかな波の音、夜空に煌く数多の星星・・・

どれも人間のものではない。
どれも誰のものでもない。

そう思う時、とても静かになる。
この地球とともに命を寄り添い生きていくこと。

・・・・

この情報過多の時代の中で、子どもたちに伝えていくことはもっとたくさんあるんじゃないかと思う。
行間や余韻、静と動、明と暗、移り変わりの時に現れてくるメッセージを感じることをもっと体験させていきたい。
それはきっと子どもにさせるのではなく、まずは大人がそれを感じ、美しく変わっていくことだと思う。

子どもたちが未来と美しいものを感じる素晴らしさを伝えるためにも、立派な大人たちがそれを自らが実証し伝承していくことが大事なのだと思う。

そう思うとひょっとするとこの日本でしかできないことがあるかもしれない。
日本人である我々しかできないことがあるかもしれない。

この先もずっとこのことを心に刻み道を歩んでいこうと思う。

組織

組織というテーマでよく考えることがある。

コンサルタント系企業がどこかでうまくいっている事例を研究しマニュアルを用いそれを行えばうまくいくというような耳さわりのよいキャッチでご商売をなさっている方々がいる。

でも忘れてはいけないのは、そこは責任を取ろうという気がないということだ。
つい多額のお金を支払えばさもそれがうまくいくように聞こえるが、実は本質的なものは取り組むために必要な自覚があればいいだけだったりする。
どの仕事もどの悩みも自覚をすれば、時間はともあれほとんど解決へ向かう。

しかし人はそれを焦り、身の回りの手軽なものに執着していく。

もちろん、マッチングがたまたま合えばうまくいくのだろうがでもその先のものも必ず楽をした理由で悩みが訪れる。

自分に合うものを創り上げるという過程は組織においては避けては通れない大切な要素なのだろう。

そしてトップの理念が醸成されていけばそれは少しずつ姿を現していく。
トップの理念とは、色々な艱難や深い思索に基づく価値観のようなもの。

手助けはできても本人にはなれないので努力がいる。

私なりのやり方だが、まず良い人に触れることだと思う。
また自分が学びたい、真似したいと思うものを自分なりに答えを探していくこと。
そして哲学というか観念を創り上げていくこと。
共通するものの中に平等や自由、ルールなどを工夫していくこと。
それから逃げないこと、実行すること、信じること・・・等々。

書くのは簡単だがなかなかできないもの。
どれも時間がかかるものであるし、自分を見つめないといけない。

しかしそれから得られることは、お金がうまくいくいかないなど以上に素晴らしい邂逅が得られるもの。

形がないからそれが明確に心に揺らがなくなるまでは悩み迷う。

共通理解

何かの物事を誰かとやろうとすれば必ず何かしらの共通理解が必要だと言われる。

物事をどう捉えて、どう進めていくことがいいのかをイメージしないと人は分かりあうことが難しいからだ。そうやって分かり合うことがなければ、相手が何を求めているかを勘違いしてしまい結果が無残なものになってしまうことが多い。コミュニケーションもそうだがまず基本として相手のことを分かり合おうという双方の努力・工夫・素直な心ありきなのだろう。

たとえば何十時間話しをしても、その言葉の意味は頭でわかっても観得ている世界が全く違うということは往々にしてよくあることだと思う。
特に先入観や刷り込みが深いと、なかなかメンタルブロックは壊れない。
壊そうとしているわけではなくても、大事なものを受け取ることができない。
せっかくのプレゼントを開ける前から拒否するようなものだ。
もし片方でもそういう気持ちがあれば、せっかくのご縁からや天からお互いに与えられる創造的なプレゼントでも両方とも受け取れないという悲しいことになってしまう。人間は一人ではそれを受け取れないということを深く理解すれば、相手のためにとかお役に立ちたいとかいう気持ちに自然になれるのだろう。

また相手は分かったような素振りをしていても頭で分かった「つもり」になっているだけかもしれないからよく観察しないといけない。
表層で理解することと深層で理解するのはまったく違う。
それも、その後の「実践」を見ればすぐに分かってしまうからだ。

意味を感じ取る思慮深さや相手の気持ちにたった気配りや配慮などが足りないと平行線を辿るばかりだ。
今度の教育要領の改訂のキーワードでも「コミュニケーション」を取り上げる理由がよく分かる。

今は体の部位でも上の方で理解することが多い、耳で聞く、頭で理解する、胸にしまう、などだ。
腹で聞く、腹にしまう、腹で感じるなど腹まではいくことが分かっていないし分かろうともしない。
たとえば他人から聞いた話を自分に容れて醸成して腹で理解しない、本を読んでさも当然のようにそれを他人に教える、やってみてもないのにさもやってきたかのようにそれを話す。ひょっとするとテレビの影響だろう、、実践が伴わない知識を入れすぎなのかもしれない。そこからだけの頭で理解する情報ばかりあまりたくさん入れていれば大事な本質に気付くための得がたい機会も損失してしまうかもしれない。
きっと腹で考えないから、そういう勉強法、学習法ばかりが世の中に蔓延するのだろう。
本当の教育をやりたい人たちは、時代にあわせながらそれを教えるのは大変だろうな・・
このようなことをどう今の子どもたちに実践教育で伝えていくのだろう?
教育をする方々の凄さというのを考えると心底尊敬してしまう。
今度の教育要領の改定でそこまで考えてくれる人たちがどれだけいるのかを見守りたい。

今は私生活で「深み」に触れ合う機会がないから仕方がないのだろうが教育界の問題ではなく企業でも経営者になったりするとそれも仕方ないなどは言っていられない。
色々な人がいるのに、社会に対する貢献への思い、その経営者の価値観、世界観を一緒に働いてくれる人たちに理解してもらわないといけないからだ。
今のリーダーは今の時代の情報の伝え方があるということに気付いていかなければいけないと私は思う。

とかく今の時代は分かりやすいものに弱いのも特徴だ。
分かりにくいものに対しては拒否反応すらある世の中。

物事を分かりやすい言葉に置き換えていくことも大事だと思う。
そしてそれを分かりやすい実践に工夫することはより大事なことだと思う。

昔は良かったという時代は終わっているのだ。

今の時代に真剣に向き合い、今の時代にあわせていくことが重要だ。
それも、守るものと守らないものを自らが決めることによって。
見通す力はこれからの時代には必須の能力になるのだろうと私は思う。

誤解を恐れずに語れば一瞬も一秒もある意味隙がない時代なのかもしれない。
多様性の中にある共通の問題意識を、今の時代の人と共有するのは大変だ。

子どもたちのためにも、まず自分が変わっていくことを信条にしたい。

ブルーオーシャン

今日、ダイヤモンド社主催の「ハーバードビジネスレビュー創刊30周年記念エグゼクティブフォーラム」に参加してきた。

予てからどうしてもお会いしたかった人物がいたからだ。

INSEADボストンコンサルティンググループ・ブルース D.ヘンダーソン記念講座教授の「W.チャン.キム」氏だ。
世界中飛び回っており、日ごろは英国にいらっしゃるのでお会いできなかった。
その方が今回の30周年フォーラムにお越しになったのだ。

この方が書いた著書、「ブルーオーシャン戦略」に魅了されてからずっとお話しを伺ってみたいと念じていた。また一つ夢が叶った思いだ。
今もその熱意の篭った講演のお姿や雰囲気、人柄等の余韻が残り感動している。

また著書では分からなかったところがより深みをまして理解することができた。

 『争いの中の血みどろの赤い海ではなく、争わない平和な青い海の創造。』
  
        ブルーオーシャン戦略(出版社:ランダムハウス講談社)

特に印象に残ったのは、物事の見方についての価値基準の置き所についてだ。

物事は色々な見方があり、それを誰かが強烈に信じることである価値観が構築される。それを周辺が信じはじめ、ある価値基準が大衆の間で当然のように共有される。そしてそれが長い年月をかけて刷り込まれていく。しかし、それはその時代のものであって環境、人、時が変わればまた変わるものであるということ。しかしそれは次第に無意識に刷り込まれ、それがさも当然であるという概念から人は抜け出せなくなる。
そして気がつくとその中で、無益な争いの赤い海、レッドオーシャンになっていく。

その時に、どのような価値観のステージでどのポイントに物事の見方を再構築するか?そこが新しいものと古いものの融合、つまり大切な守るべきものと、時代とともに変えていくものの融和、つまり有益で争わない青い海、ブルーオーシャンにしていくかなければならない。

たとえばこれを弊社である「カグヤ」の実践に置き換えてみる。

私たちの会社がなぜ教育保育界ではあまり考えにくいことを「オモシロク」やろうとしているのか?

それも実は単純で、昔の答えが今の時代にあっていない気がしているからだ。
私は答えが時代にあわせて変わったということを証明したいのだと思う。

学校では1+1は2が正解というのは変わらない。
それを答えられれば先生から優秀だと褒められる。
しかし、時代と人と環境がかわり価値観が変われば2ではないかもしれない。
そんなことを言うと変人だと思われる。
学校の100点が本当の正解ではないという発想ですらも真剣に疑問に思う人があまりいない。

また障害者という概念でもそう。
メガネがない時代は、目が悪い人は障害者。
今は単に個性の一つで、メガネをかけている人。
テレビや芸能界ではそれをチャームポイントにして人気があるアイドルなどもいる。
ひょっとすると今障害といわれるものはすべて100年後はみんな当たり前か単なる個性になっているかもしれないというのに勝手な刷り込みで対応を間違えていないだろうか?

そう考えると如何にその時代の価値観がいい加減で普遍ではないかはすぐ分かる。
なのに勝手な刷り込みで、それを他人にまで押し付けるとはどういうことだろうかと思う。

可能性というのは、答えが先にあるものではないはずだろう。
可能性というのは、どのような答えか分からないから可能性ではないのか?

たとえば、師匠の「見守る保育」という概念で考えてみる。

今の時代、私は保育はもっともっと楽しいものでいいと思う。
だから保育が本当に楽しいものに創造し工夫していくのだ。

子どもの発達が見えて、その子が自立していく過程を専門性を持って距離を保ち理解して受容し、気づき喜びを実感しながら将来を一緒に期待していける。
よく導入していただいている先生からは保育がオモシロイと喜ばれる。
私はそんなことを先生から言われた時が一番嬉しいような気がしている。

そもそもこの保育が浸透できないのは、保育が大変だとか思っているからだろう。

なぜ「オモシロイ」ではいけないのか?
なぜ「ゆったり楽チン」ではいけないのか?
なぜ「やってあげるではなくみまもる」ではいけないのか?

何かに抵抗を感じるというのは、価値観が違うから。
しかしそれが本当に自分のものかどうか、一度確かめてみるといいと思う。
気がつくと、常識的にとか、、誰がとか、、普通は、、とかになることが多い。

これを分かってもらい変えていきたいと思っても多くの人に勘違いされることがある。
私の場合は、年齢や学歴など分かりやすいものがないことときっと陰徳が足りないのだろう・・
しかし、常住から師匠はしっかりと本質を捉えていると思う。
話していてもいつも「子どもの目線」からぶれることがない。

どこまで先を見通して個性を見取り受容しているのかと驚くばかりだ。

今日のハーバードMBAで世界のリーダーを育てる方々も世界で活躍するためのグローバル人材の育成手法はまるで「見守る保育」のやり方にとても似ている感じがした。

今は現代、家庭は裕福になり、子どもが減り、地域や環境が変わった。
もちろん、保護者や働く人たちの価値観も変わった。

みんな変わっているのに変わっていないのは変われないのは一体誰だろうか?

この幼児業界では、これからのグローバル社会に向けて避けては通れない必要な戦略が『ブルーオーシャン』だと私は信じている。

キム教授との出会いと邂逅で学んだこの種をもっと多くの日本の未来へ向けて蒔いていきたい。

まだまだ内容の濃いセミナーなのでこのブログで紹介します。

祖父の思い出

幼い頃から両親が共働きだったのでよく祖父に私の面倒をみてもらった。
その祖父はもう亡くなったのだが、とても印象が強い人だった。
戦争も経験し、寡黙でとても自他共に厳しい人だった。

その祖父はよく私を山登りへ連れて行ってくれた。
私が今でも山登りが好きなのはきっと祖父の影響を受けているのだろう。

祖父の山登りは少し違って、どこから登るというものがない。
たとえば、世間一般の登山路ではないところから山に登ろうとする。
どこを目指しているのかさえまったく分からない。

幼心に、遭難しないのか?大丈夫なのか?と不安を抱きながら一生懸命背中を追いかけて信じてついていった記憶がある。
子どもの歩むペースにはあわせてはくれず、足早に登っていくのも怖かった。
ここで引き離されたら遭難してしまう!と必死で着いていってた記憶がある。
実際に、遭難に近いこともあり数時間以上彷徨い反対側の町へ出ることもあった。

そんな時は、私が色々と文句を言うのに無言で公道を通り道伝いに帰るのだ。

戻った後は、祖母から色々と心配されるけどそれでも祖父はよく無言で孫たちを連れ出した。

しかし今思うと、その登山という無言の実践から学校では習わないもうひとつの学び方があるということを教えてもらっていた気がする。
社会に出ると、この山登りの記憶が色々なところで役になってくれるからだ。

またこんなことも思い出した。

祖父は畑を耕して野菜を作っていた。
その畑で耕した野菜を車に乗せて知り合いが集まるところに売りにいっていた。

いつも祖父が私を呼びに来る時は「乗れ」の一言。
その後どこに連れて行かれるのか常に不安だった。

山か、川か、ひょっとすると畑の手伝いか、草むしりか、自転車発掘か、だいたい楽なことはなかった。

しかしこの野菜売りだけは何もしなくていいのが特徴だった。

今思うとここから商売というものの原点を教わった。

祖父は野菜を必ず相手が払いたいと思う以上にあげていたのだ。
たとえば、500円で大きな買い物袋2つ分くらいの野菜をつめてあげていた。

傍で見ても、「本当に商売する気があるのか?」と子どもでも分かるようなお金のやり取りにいつも不思議で仕方なかった。

その帰りに手伝いをしお小遣いの100円をもらっていた。

あれだけ苦労して手伝って作った大量の野菜が、あの量で他人からたったの500円。
その手伝った私のお小遣いが100円も。

「これでいいのか?!」

といつも感じていた。
でも使う時は子どもだったのですぐに駄菓子へ直行だったのだが。

でも今は、とても有難かったと亡くなった祖父に心から深く感謝している。

商売という無形の財産、無形の資産があることを教えてもらった。
私が幼い頃に見ていたものは、ただのお金だった。

会社を興し、たくさんの人たちに助けられ支えられる今、祖父が無言で私に教えてくれたことが少しだけ分かるようになった。

社会貢献というものの無形無財の対価。
見える財産と見えない財産。

商売の本質を教えてくれたのは、幼い頃の祖父の教育だった。
祖父は、必要なものは自分で感じ取れということを言いたかったのだろう。

今の社会は、勝ち組だ負け組みだとくだらないことで生き方を翻弄される人が多い。子どもたちには、そんなものを見るよりも知るよりも違うものを見てもらいたいものだ。

幼い頃に学んだものは、すべて成人し社会に出て本当に自分自身を支えてくれる。
その支えがあるからあらゆる艱難を喜びに変えていける。

祖父のような人を解釈することはできない。
すぐにマスコミや評論家は言葉に変えてさも分かったように物事を語る。
本当に心が寂しい人だなと思うし、これで食べているのだから、、と思ってしまう。
だから学校では、もっと情報リテラシー教育を進めれば良い。
本質を見抜くとは、その背景や世の中を広く見て自分自身で答えを見つけ出すことなんだよと教えることもそのひとつだろう。

本当に美しいものはきっと一緒になることでしか分からない。
本当に感動するとき人は、その中に一体になっているのだから。

祖父に教わったこの大事な本質をもっと醸成し、仲間を増やしていきたい。
亡くなった祖父の人柄を思い深い感謝を込めて。

未来のために少子化を止める

国家の少子化対策基本法前文にこんなふうに書かれている。

「我らは、紛れもなく、有史以来の未曾有の事態に直面している・・」

そんな事態なのに、このままのやり方では本当に危機的状況になるのではと焦る。
この国の民族は、なぜいつから自らの将来を閉ざそうとしてしまっているのかという気がしてしまう。

どの国も、将来への行く末を見通し今何をやるべきかを考えている。
命が存続すること、大切なもの受け継ぐためにやっていることだ。

この国のリーダーたる人たちが、目に見えない偉大な叡智なるものを大切にしない今、どうやって将来を見通すことができるだろうかと思う。
簡単に目に映るものの如何に価値の低いものかなぜ分からないのか?
本当の感性は、そこから見えないものを分かるようになる霊性のところにあるのということも忘れてしまっているのか?

たとえば、政策ひとつでもなんと浅いところで国民に語るのだろうと毎回思ってしまう。
国民が分かりやすいようにとやっていることが矛盾だらけだ。
言葉に力が感じられない。

先日、師匠にセミナーで対談していただいた。

やはり本物といわれる人、凄い人は、誰にも分かるやさしい言葉で話しながらももその話しの水準の高さは一切下げてはいない。
決して難しい言葉ではないのに、相手に対して伝えたいところはきちんと伝えている。
そして聞き手がその大事なものを受け取ることができ美しく変わっていく。

そんな本物の人がこの国のリーダーにならないから、分かりやすいところだけで民衆に語る言葉言霊に「本気の魂」が宿らないのだと思う。

本物の人が本当の場所に座し本気じゃないから変わらない。

産むためにどう、働き方がどう、補助がどう、、、なぜ分かりづらくても見えづらくても創意工夫、努力信条で物事の本質を堂々と語らないのかと思ってしまう。

それが分かる人がこの国を救うのではないか?
どちらの価値観を持つ人たちを集めて一体何をしようとしているのか?
そんな生き方をこの国の手本にして果たしていいのか?

今の時代は、大衆も何かを話すとすぐに宗教だなんだとコウルサイ。
しかし本当はそれはこの国の大事にしてきた「誇り」であり「文化」「伝統」だといえばいいじゃないかと思う。何が恥ずかしくて、何が悪いのか、あなたが今ここにあるのは誰のおかげなのか?すべては連続性があり、繋がっていて途切れていては今はないはずではないか?それなのにそれに感謝する気持ちも忘れてしまったのか?日本人の霊性は世界最高だと私は信じているのに。

もう道徳心をないがしろにする身勝手な大人の持つ利害関係や損得基準で、「世界人類のための命=こどもの将来」を閉ざすのはやめて欲しい。

こどもは、過去、今、未来の全てを持ってここにいるのだ。

少子化を止めるには、もっと違う視点がここで必要だと思う。

それは我々国民一人ひとりが、神道にあるようなすべてのものに生かされているとうことを感じる力を分かち合い醸成し、すべてのものに命が宿るというかんながらの心をもう一度初心に帰り見直すことだと私は本気で思う。

こどもの素晴らしさは、自然を内包しているのだ。
自然の中に世界への扉、未来への夢が開いているのだと思う。

このような感動と素晴らしさを国民の皆で心底味わい、分かち合い、喜び合うことこそ、本来の姿であると思う。

 五穀豊穣を祈り続ける姿から、この国の明るい未来の行く末を。
 伝統を重んじ、守り続ける姿から謙虚な未来への姿勢を。
 太陽や水、空気、地球から生かされているという未来への感謝を。

かんながらにあるようにそうやっていくことが少子化を止めることだと私は思う。

一見、繋がっていないように思えることでも物事の本質は変わらないと思う。

目に見える快楽、耳さわりのよい政策、都合の良い満足に決して惑わされてはいけない。
確固とした価値意識を共有できる崇高な理念の人たちを集めていくのだ。

私たち日本人は全世界へ大きく貢献する力が備わっている。
世界にとって稀な民族であり崇高で偉大なものが分かる唯一の民族。

この国の皆が心の奥底に持っている本当の誇りをもう一度未来へ向けて開放する時期が近いのではと思う。

今こそ人任せにせず、まず実践し、すべてをこどもから学び、すべての自然から受け取るようにして、保育界、幼児教育界に関わる一企業人としてこの価値を分かって頂ける方々と共に命を懸けて真摯に取り組んでいきたい。

存在

生きていると嫌なことや嬉しいことに出会う。
また何かに執着すると自分勝手に善悪を決めて、よく後悔することがある。

形あるものには形がなく、形があるからこそ大事なものが見えなくなる時がある。
存在を感じるには、形があるものではないものを「在るもの」だと思う力が必要だと思う。

たとえば、

 そこになくても、あるように思えるもの。
 そこにあるのに、ないように思えるもの。

この存在を見つめるときに何を思うだろうか?

もし何かの感情に執着したり固執したり囚われると、大事なものまで見えなくなってしまう。

以前、田坂広志氏の著書で「死生観」のことを学んだ。

もし自分が明日死ぬとするならば、この今をどう生き切るか?ということだった。そしてその他に、「歴史観」「世界観」ということも大事だと書いてあった。

この今の判断がすべての未来に繋がっているとして、今、目の前の出来事に対してどう自分が処すことができるか?

存在を考える時、人は「今」を見つめているのだと思う。
今を見つめる時、存在の本質を穏やかにそして静かに感じるものがいいのだろう。

きっと人は存在をどう感じて、存在に対してどう向き合うかで生き試されている。
大きな存在の中に在りその境界でしか、それを感じることができない。

存在が持つ境界とはきっと、分けるものではなく「許す」ものなのだろう・・・

メリハリ

「メリハリがある」ということを考えてみる。
人間関係だと馴れ合いがその反対の意味で使われる。

以前、中国の大学で過ごしていた時にたくさんの留学生と一緒の寮に入った。
外国からやってきた留学生にとっては校則も主だった規則もなく、まるで日本の大学生活を思わせるような日夜エンジョイするような寮生活だった。

そこでは、自由を満喫し無意味な毎日でも楽しく、また何もしないダラダラすることすらも喜びのひとつだった気がしていた。
そしてその日暮らしの場当たり的な生活に、何だか青春の真っ只中のような気がしていた。

それがまったくの「間違いだった」と気付くまでは。
「気がしていた」けれど実際はそうではなかったと気付くまでは。

私が何かの目標のために『自己管理』をする事を覚えたのもこの頃だった。

日本から来ている自分と同じくらいの年齢の学生たちがいる。
見た目も成績も実力も、最初はそんなに変わらないもの。
しかしこのような環境下では、あっと間にその差がついてしまう。

当初、有名な日本の大学で中国語を勉強してやってきた優等生であっても半年も経つとまったくのイイカゲンな人間になって悪友と群がり勉強もやらず刹那的な快楽に身を投じて堕落していく人がいる。
そうかと思えば、入学当初は底辺の成績で決して優等生とは言いがたい人でもとことん日々努力精進し実践と体験を重要視して、実社会と大学の両立から学び、半年で別人のように自立した大人へと変わる人もいる。

同じ環境下でだ。
しかも、それは何も規則のない自由な校風で全てが自分自身で判断できるのにだ。
いったいこれは何だったのだろうと考えてみるとある答えに往きつく。

自由な環境の中では、実は「自己管理」できない人は結局全て中途半端で何も残らないのだ。
確固たる目標やルール、規則がないというはむしろイイカゲンな環境のなかで自分自身が常に試されているのだと思った方がいいのだ。

現在、社会は自己責任という名において実力型成果主義になってきている。
ある意味でこのような自由な環境下においては、私の中国の大学の時と何も違わないと思う。

何もやらなければやらなくても良い。
それについては誰からも何も言われない。
刹那的な悦びで場当たり的に日々楽しく生きるのも良い。
それも全部自分の判断だからだ。

しかし、それを選択するのは自分自身だということを忘れてはいけない。

そこで私がここから学んだものは「メリハリを持つ」ということだった。

自由な環境下において、ルールという名のメリハリがあるかどうか?
たとえば人間関係においても、馴れ合いではなく仲間内でのメリハリという名のルールを共有して守れているかどうか?

メリハリとはどんな職場や関係性の中でも求められるものだと思う
私の会社でもそうだが、自由であってもルールは確実に存在している。
だから、馴れ合いではない関係が構築できているのだと思う。

子どもたちはどうだろう?

子どもたちの環境においても、自由だけ与えてもそれを自然に学ぶのは難しい。
自分で分かる年齢になるまでは、この「メリハリ」を保育の環境に中に用意してあげた方がいいような気がする。

ちゃんとした集団でのルールがあるという存在も周知してもらうことも将来その子が自立する時に必要なスキルに繋がっていくと実体験から思う。

そうしてメリハリのある環境が、個を尊重して個を見守ることになるのだろう。