「メリハリがある」ということを考えてみる。
人間関係だと馴れ合いがその反対の意味で使われる。
以前、中国の大学で過ごしていた時にたくさんの留学生と一緒の寮に入った。
外国からやってきた留学生にとっては校則も主だった規則もなく、まるで日本の大学生活を思わせるような日夜エンジョイするような寮生活だった。
そこでは、自由を満喫し無意味な毎日でも楽しく、また何もしないダラダラすることすらも喜びのひとつだった気がしていた。
そしてその日暮らしの場当たり的な生活に、何だか青春の真っ只中のような気がしていた。
それがまったくの「間違いだった」と気付くまでは。
「気がしていた」けれど実際はそうではなかったと気付くまでは。
私が何かの目標のために『自己管理』をする事を覚えたのもこの頃だった。
日本から来ている自分と同じくらいの年齢の学生たちがいる。
見た目も成績も実力も、最初はそんなに変わらないもの。
しかしこのような環境下では、あっと間にその差がついてしまう。
当初、有名な日本の大学で中国語を勉強してやってきた優等生であっても半年も経つとまったくのイイカゲンな人間になって悪友と群がり勉強もやらず刹那的な快楽に身を投じて堕落していく人がいる。
そうかと思えば、入学当初は底辺の成績で決して優等生とは言いがたい人でもとことん日々努力精進し実践と体験を重要視して、実社会と大学の両立から学び、半年で別人のように自立した大人へと変わる人もいる。
同じ環境下でだ。
しかも、それは何も規則のない自由な校風で全てが自分自身で判断できるのにだ。
いったいこれは何だったのだろうと考えてみるとある答えに往きつく。
自由な環境の中では、実は「自己管理」できない人は結局全て中途半端で何も残らないのだ。
確固たる目標やルール、規則がないというはむしろイイカゲンな環境のなかで自分自身が常に試されているのだと思った方がいいのだ。
現在、社会は自己責任という名において実力型成果主義になってきている。
ある意味でこのような自由な環境下においては、私の中国の大学の時と何も違わないと思う。
何もやらなければやらなくても良い。
それについては誰からも何も言われない。
刹那的な悦びで場当たり的に日々楽しく生きるのも良い。
それも全部自分の判断だからだ。
しかし、それを選択するのは自分自身だということを忘れてはいけない。
そこで私がここから学んだものは「メリハリを持つ」ということだった。
自由な環境下において、ルールという名のメリハリがあるかどうか?
たとえば人間関係においても、馴れ合いではなく仲間内でのメリハリという名のルールを共有して守れているかどうか?
メリハリとはどんな職場や関係性の中でも求められるものだと思う
私の会社でもそうだが、自由であってもルールは確実に存在している。
だから、馴れ合いではない関係が構築できているのだと思う。
子どもたちはどうだろう?
子どもたちの環境においても、自由だけ与えてもそれを自然に学ぶのは難しい。
自分で分かる年齢になるまでは、この「メリハリ」を保育の環境に中に用意してあげた方がいいような気がする。
ちゃんとした集団でのルールがあるという存在も周知してもらうことも将来その子が自立する時に必要なスキルに繋がっていくと実体験から思う。
そうしてメリハリのある環境が、個を尊重して個を見守ることになるのだろう。