情報リテラシー2

埼玉県でメディアを使った研究会があった。
この研究会は毎年恒例で、全国の様々な箇所で開催されているそうだ。

主には小学校や研究機関、NHKはじめ放送局各社が主体でセミナー形式でやっている。その分科会の一つには幼稚園保育園からも参加してその取り組みについて発表をすることになっている。今回は、その実践発表の園の先生のフォローでお手伝いすることになった。

午前中の園見学では、今の時代にあわせた取り組みと環境などを説明。
午後からはパワーポイントを使った、その取り組みの詳細発表。
そして基調講演という感じで進行する。

私がお手伝いしたのは如何にメディアリテラシーを考慮に入れた園の経営や保育を実践しているかについて発表される園長の行ってきた実践裏付けを説明することだった。

通常今までの研究会では「メディア=ITを使った合理化省略化、広報の一部」などと定義された発表だったそうだが今回は「メディア=情報リテラシー」として発表を行っていた。園長の実践報告も高い問題意識から切り込み非常に分かりやすく斬新だった。参加者の皆さんもとても真剣に話しに聞き入っていた。

本当はこのように変化している姿をより研究することがもっとも大事なのではと思った研究会であった。つまりそれは情報=ITが生み出す変化の視点からそれの「在り方」をどう学ぶのかというのが研修の本質であるべきだと私は思う。

 
『学びて思わざればくらし、思いて学ばざればあやうし』

論語にある「本当の意味を常に学ぶ」という学が問われている気がする。

ほかの分科会では、「遠隔のテレビ会議で秋を感じよう」などいろいろあったがなぜそれをわざわざIT技術で獲得する必要があるのかとどのタイトルテーマを拝見してもなんだか疑問ばかりの内容だった。

「情報=インフォメーションテクノロジー」というのは、時代背景、大衆相手や風潮にあわせて変わっていくものだと私は思う。その変わったものをどう受け取ることができるかを学びあうためにその方法論としてパソコンやツールが”たまたま”あるのではと思う。

日本人はすぐにアメリカからやってきた流行の単語を自分勝手に定義しやれITではなくICTだの、専門の学者は研究してもっともらしくそれを今までと同じように高い教壇から一斉に「教える」が、基本的にはICTなんていうのはそうやって教えて学ぶということがすでにズレテイル気がする。

【I】情報【T】技術に【C】コミュニケーションを入れたのは、それだけ多様化してきた言葉の氾濫をどうそれぞれで見分け使いこなし、双方向で定義するのかということを【C】を間に入れて証明しているだけだと私は思う。

ここでも情報の「在り方」を時代の変化にあわせてITという単語の定義が収まらなくなったのでただ単に変化させた証明なのだろう。

基本的には哲学ともいうべきその土台の部分をどう深く検証するかということが大事なのに、企業側もよく流行にあわせたその機能満載の商品で小学校に堂々とシステムを販売することができるなと思ってしまう。

それを見ていると道徳教育は子どもたちだけで本当によいのか?とこれにも疑問に思う。

この業界の悪循環は、いい加減な業者が判りもしないのに学者の意見に従い、みんながそうだからそうだと子どもたちにその根幹の本質をしっかりと身につけてもらうための商材を開発するわけでもなく、安易にそれができますよといった程度の低い勝ち負け理論が優先されているのではないか?

一体これだけの変化の時代にどこを見て商品開発をしているのだろうと思ってしまう。
私が尊敬している本田宗一郎氏や藤澤武夫氏などは最先端の流行に踊らされず最初から時代や世界の本質を軸に物事を観ていたように思う。
本当はそんな事業家や経営者が、手本になって子どもたちの未来への夢を膨らませて育ませていくのだろうと思う。

もちろん全部が全部ではないのだが、情報リテラシー教育やICTはむしろ国家戦略の中心軸に関係する大事なことだと私は思う。このような大事なことを業者や学者にだけでやらせてはいけないと思う。もっと国が主導で国境なきこれからの情報革命において個としての在り方を説いて行くべきだと私は思う。

今の子どもたちは、メールも携帯も対人関係も手紙も、もっと今のニンゲンとしてこれからの情報の在り方とそれを補うツールとどう向き合うかを大人が目をそらさず一緒に真摯に学んでいくべきだと思う。

分からないからとただ目を背けさせたって、いつかは自分たちでそれに向き合う時が必ず来る。

以前ある国でこんな話しを聞いたことがある。
そこでは、「先生」という名の単語を教育界から禁止にしたそうだ。
先生はどの国でも「答えを先に知っている人」という定義がされている。
でも答えなんてまだ解明されていないものが多いし、これからの情報化社会では常にそれは生きる力の上で成長の障害になっていくことが予想される。
だからその単語をやめ「答えまで導ける人」という新たな単語で呼ばせているそうだ。

これも時代にあわせた情報リテラシーではないのか?

では、分からないから他人任せでいいのか?誰かがやるまで先延ばしでもいいのか?
分からないから取り組まないというのは今の時代では諦め以上に悪い状況を創り出してしまうかもしれない。

日本という国は、世界をもっと見て今の情報がどのように世界を変えていくのかをもっと子どもたちと一緒にディスカッションする風土を提供していくことの方が重要ではないのかと私は思う。

それだけでもどの国にもないわが国の立派な情報リテラシー教育になると思う。

今あるツールは、1年で使い物にならなくなるほどのマウスイヤーだと言われる。

だったらそれを勉強させることをやめ、それが何なのかを分かるような人間が学ぶべき部分にシフトして欲しいと心底願うものだ。

潜在能力

先日、東京で知り合った友人と食事をする機会があった。
同世代なのだが、お互いがとても良い刺激になる関係を続けている。

日常のことやプライベートの話しなどをたくさんするがほとんどが仕事に繋がる話しを意識して行っている気がする。

きっと仕事を誰よりも楽しんでいる2人だからこそなんだろうなと思った。

お互いその境遇はといえばそれはそれは困難や艱難ばかり、^^;
高いハードルや大きな壁にぶち当たりながら全力でまだ見ぬ成果と自分の成長のために時間と自分という器に投資を続けている。

よく社会で定義している成功者やできる人といわれる人たちと出会った時に思う感覚がある。

彼らはみんな目標を目指して、日々ハードに努力鍛錬に取り組んでいる。
決してそこには愚痴はこぼさないし、よりうまくやろうと、もっと描いている通りにできるようになろうと誰と比較することではなく唯自分自身と真っ直ぐに対峙して仕事に取り組んでいる。

それはきっと人生の大切なものを得るためにだろうし、自分の潜在力を最大限に引き出すためにハードに働くことは重要なんだと思う。

潜在能力がどれくらい自分に備わっているのか?
20代の頃の自分の目標はそれを知りたいと必死に努力した10年だった。

振り返ると30代になった今でも、その気持ちは基本的には変わっていない。
しかし、より難しくなってくるし、より高度に複雑になってくる感じだ。
どれだけのものがこの先の対話で見つかるのだろうかと思うと心躍る好奇心で胸いっぱいになる。

だからこそ、ある意味でまた初心に戻りハードな日々に取り組む勇気がいるのだと思う。
楽になるためとか安定するためなどを目標にする人もいるが、それはきっと辛い方を選択しているんじゃないかなと時折話しを聞きながら思ってしまう。
本当の楽しさというのは、どんな時も自分に内在する自我の潜在能力と対話する悦びによって得られているような気がするからだ。

なぜなら何かしらの決断や判断は、すべて他人ではなく自分で全て選択し決めているからだ。その対話は誰とではなく自分自身としかしないはずだからだ。

目に見える世界は自分が作り出しているもの。
だからそうなのだろうと私は思う。

毎日、何かしらの出来事が世界中で起こっている。
その中で自分がどの位置に立ち、どの位置で考え、どの位置で向き合うか?

大きな課題があればあるほど、自分の中の潜在能力が「まだいける」「まだいける」と声がかかるのは本当に不思議だ。

自分を信じるということは、人を信じることに繋がっている。
できる人、できない人とは定義をしたくはないのだが唯一言えばそれは内在する潜在意識を引き出そうとする気持ちがあるかないかだと思う。

マンネリ化する日々は、無情にも過ぎ去るばかり。
より成長を目指して、世の中に貢献できる命を使う人になりたいものだ。

人生は旅をしているようなものだとよく言われる。
まさに生まれてから死ぬまで人の一生は、終わりなき旅路なのだろう。

旅にとって大切なことは何か?
それは、やはり「出発する」ことだろうと思う。

以前、あるセミナーでこんな話をしたことがある。

「どんなスタートをきるかでほぼそのゴールは決まってしまう。
 大事なことは、原点でありその思想、理念の根幹だと私は思います・・」

これは、ソフトの開発をする時に某マニュアル系業務ソフトと私が開発するソフトとの根本的な違いについて話しをした時のことです。

「出発」とはあらゆる思想の根幹を見つめることであり、その時の初心がずっとゴールまでの一つの旅にとって大事になっていくのだろうと私は思う。

きっとニンゲン誰もがよりよい自分の人生を歩みたいと思っている。
だからこそ、一緒でも一人でも旅がとてもオモシロイものになるのだろう。

 どこでどんな人たちと出会い、そして別れ、
 どこでどんな出来事たちと出会い、そして別れ、
 どこでどんな価値観と出会い、そして別れ、、、

旅そのもの全ては、あるがままに自然に無条件に前へ前へと時を進めてくれる。

どんな様子も内包していく心に、その静かな喜びと深い悲しみの足跡を残していくのだろう・・・

だからこそ、

旅は、この目に映るミエルセカイとミエナイセカイを広げてくれる。
旅は、至宝の黎明のような美しき眩しさをよりオオキク写してくれる。

どのような旅であれ夢追い人を透明に受容するこの世界に対し、一人の旅人としてただ祈るだけ、祈るだけ。

それをそのまま全力で走りきること、その後の未来に近づけるため進むだけのこと。

旅のなかで出会う至純の邂逅に心から感謝。

意味

日常の中には、理由なく昔から続いている不思議な物事によく出会う。
それが本当に必要かどうかなどももうすでに誰も気付かないまま、検証もされないまま時の流れに身を任せている感じなのだろう。

最近、政治家が二世議員などとも言われなくなった。
権力者が時代にあわせて換わるとなく世襲制であることも当たり前になった。
それで徳性を備えているわが国の未来を背負う人などと思えるはずがない。

他にも教育がただ食べるための就職をする仕事になっていたり、宗教的情操観念を広げる人も親がそうだからやったとなるとその地位や品格も世の中にはあまりよく映らなくなるのも納得できる。

よく観察すると、不思議な光景だ。

それは対して何の意味もなくただ続けているだけになったのだろうなと思ってしまう。
ある時、それが大事なことだから繰り返すことを決めたのに、その本質は引き継がれず、そうでない目に映るところだけがただ闇雲に繰り返される。

でも周囲に見える力がある人たちが多い時代はそれでよかった。
今は果たしてそうだろうか?
どれだけの人たちが、その繰り返す意味を感じ取っているのだろうか?

念仏だってそうだろうし、行事だってそうだろう・・・
繰り返しの意味が分かる人たちがいるからそこに確かな意味が生まれるのにと思う。

またそれはトラウマではないが、成功体験からでもそうなるのだろう。

たとえば俗に営業マンといわれる人も、時代が変わったのにいつまでも昔のような売り方をやり続ける人が居る。
今の時代は昔とは情報の量も価値観の多様性もまったく違うのに過去の販売実績という成功体験を頑なに守り続けて頑張り続け時代錯誤になっている人がとても多い。

ルートで廻るなどという思想も、本当はちゃんと廻る理由があったはずなのに毎日同じく繰り返していると意味が分からなくなってしまっているのだろう。

今の時代は、営業は必要ないと思う。
今の時代は、相手に付加価値を提供できるコンサルタントだけでいいのだと思う。

話しを戻すとつまりニンゲンは、繰り返しであることに弱いのだろうと思う。
命の鼓動も、日々の食ということも、生きるという意味さえも、繰り返しの中でマンネリ化し本質に気付かないままナァナァとなるものなのだろう。

でも、それをずっといつまでも続けていくことはやはり難しいことだと思う。

なぜなら、時代は繰り返される日々においても無情に進化していくからだ。

生きていれば、同じことをしていても身体は次第に老けていくように。
仕事でも同じことをただしていたら、必ずスキルは落ちていく。

常に日々繰り返しの中でも進化してプラスアルファでなければ、維持することすらも難しくなる。
日々、繰り返しの中でちゃんと進化し続けなければ落ちていくだけなのだろう。

常に選択に囲まれている世界において、意味を感じる力がとても重要だと思う。

それは意味のないものをやめ、意味のあるものを選ぶ「魂の力」ともいえるものだろうか・・

身の回りに本能的誘惑の多い今の時代は、セルフコントロールが教育においてもっとも重要なのだろうと私は思う。
幼児期から自立したり自律したりということもこれからの時代には必須の「生きる力」になるのだろうな・・・

やはり何度振り返っても、大変な時代だと思うばかりだ。

子どもたちには、日々繰り返される出来事に意味を感じることと、その意味をちゃんと選択できるようになって欲しいと心から願う。

それが社会に出るときにどのような力になるかも大人はちゃんとその意味を知り日々繰り返し伝えていかないといけないのだろうと思う。

先生という言葉の定義

今日は埼玉の保育園で勉強会をご一緒させていただきました。
遅い時間から始ったのに最後まで集中してお話を聞いてくださりありがとうございました。

ここでは、2年前から子どもたちの姿に危機感を感じた園長先生がこのままでいいのだろうかと自問自答して変化を受け入れる決心をなさったそうです。日々、子どもたちを見ていながらもその緩やかな変化に気付くということは大切なことだと改めて思いました。私も環境を変えようとするのには本当に大変な勇気がいるとよく感じます。時間が前に進むことと深く正対し、前へ前へと忍耐努力して向かっている姿には深い共感と感動を覚えます。

今日の先生方とのご縁や出会いにも本当に心から感謝しています。

研修では言葉の定義について話をした。
状況や環境、背景やタイミングなどで定義されて使われる「言葉」はとても理解することが難しいということだ。
たとえば日ごろ使っている日本語の「私」という言葉でも、英語ではI、中国では、我、などとひとくくりである。しかし日常で使われる「私」は、状況においては俺、わたくし、わがはい、おい、等々出していたらきりがないほどある。

しかもどの言葉でもその環境や状況により情緒的な感性でその当事者しか分かからないというニュアンスが人が使う言葉に暗黙知的に癒着している。

この言葉を様々な定義によって使われることでニンゲンが陥りやすいのは、その単語が何某の強い影響があった出来事で印象付けられるということだ。そしてその思い込みの単語で物事を判断していることに気付かす、刷り込み殻の勘違いでズレてしまうということだ。
大勢の人間集団の中では、自分自身の定義していた言葉の意味も安易にそちらにいってしまう自分がいるのに時折気がつく。これはこの国が島国という土地柄であったことと統一民族だったからであろうか?
個体で森の中などで佇んでいると、在るがままに答えを出せるものが市井の中の生活圏内に入ると集団意識というか大衆心理そのものを深く考えずに受け入れてしまって、時が経って当たり前に矛盾があっても当然ように感じてしまうから不思議だ。

そうやって死ぬまでその意味に気付かないまま生きるという方法もありなのだろうが、何だかそうであればこの世のすべては一体なんなのだろうと思ってしまう。

だから「保育」「教育」「子ども」という言葉なども時代や環境にあわせて定義が変わるのだろうし、今回のタイトルである昔からの「先生」という定義も考え直さないといけないのだと私は思う。

たとえばで例を挙げてみると、師匠から教わった「見守る」の言葉も「新しい先生像」を定義しあらわしている。

見守るを分解してみると、「見る」というのは、一人ひとりの発達を見ることで、「守る」というのは、それを助長することだと先日の講演で仰っていた。

先生=何かを教える人。
先生=発達を助長する人。

同じ単語であっても、使う環境によってはまったく意味がこのように変化する。
学校や今までの施設の延長で引き継がれてきた過去の「先生」という定義とは明らかに違うと分かる。

まず今まで何気なく認識していた「先生」という言葉の定義をここで一度ガラッと変える勇気を持つことが大事なのだろう。その施設、地域、環境、人、関係によって、また時代背景によって言葉の定義は常に千差万別に変わっていくのだ、つまり万物流転といってもいいのだろう。変わらないというものはその定義の中にある普遍性であり言葉そのものではないということに気付いた方がいいと思う。

それこそが本当に大事なものを守ることに繋がっているからだと私は思う。

多くの人が今の社会全体が引きずってきた刷り込みを外し、本質から子どもの姿を見守っていければと心から願う。

萬燈行

最近ニュースで異常気象により悲しい出来事がよくTVで流れます。
そんな時、ふと自然界でも緩やかに着実に変化があっていることを何かの事件があるたびに実感します。

専門家やマスコミもただ自然の猛威だと評論するだけで、それを対処療法で回復させようとしても難しいというのが現状なんだと思います。

あまりにも長い時間をかけて、あまりにも広い範囲での物事には意識がついていかないのだろうと思う・・

しかしTVを見ているとよく感じるが聴衆に一方的に不安を募るだけで、一向に具体的な方法論や結論まで話し合わない。まあ番組上のスポンサーなどの都合だろうが情報の垂れ流し、議論の流しっぱなしでやっているといつか裸の王様になるのは簡単に想像できる。
時代の潮流といえばそうなのだろうが、何でも議論を最後まで突き詰めようともせず途中で途切れてもまったく気にならないというのは「魂の弱さ」のような感じがする。受け手にそれを製作側は委ねているようだが、最近では作り手もそこまで深く考えてはいないようだ。
それをバランスという方もいらっしゃるが、きっとそうではないだろう。バランスは振り子のように振られるからある一定のバランスをとることができるのだと思う。「考える力」というものを幼少時からいい加減にしてきたからそうなるのだろう。一般的な公立学校の授業でも50分間で学べないことは、あとは自分自身でより研究するしかない。しかし現在は単位が基準になっているのでそのような機会もなくなってしまっているのだろう。履修問題など、基本的には学問の本質においてまったく関係がないのにと思ってしまう。

ではどのようにしてこの長くゆっくりとした広い問題の中で全体を見通しながら変化していけるのだろうか?

東洋思想には、物事を根幹から治癒しようという深い自然観がある。

一人ひとりがそのように深く自然を信じて行動することが最も近道なのだろう。

私の尊敬する故安岡正篤先生に、「萬燈行」という一節があります。
このようなことを深く見つめる時に読み返すと意識が覚めます。

 「内外の状況を深思しましょう
  このままで往けば、日本は自滅するほかはありません
  我々はこれをどうすることも出来ないのでしょうか
  我々が何もしなければ、誰がどうしてくれましょうか
  我々が何とかするほか無いのです
  我々は日本を易(か)えることが出来ます
  暗黒を嘆くより、一燈を點(つ)けましょう
  我々はまず我々の周囲の暗(やみ)を照す一燈になりましょう
  手のとどく限り、至る所に燈明(とうみょう)を供えましょう
  一人一燈なれば、萬人萬燈です
  日本はたちまち明るくなりましょう
  これ我々の萬燈行であります
  互に真剣にこの世直し行を励もうではありませんか 」

この本は 「一日一言」(致知出版社:安岡正篤著)から出ています。
お勧めの座右の書の一つです。

何だか、このような方がきっと世界を導く本当のリーダーの姿なんだろうなと強く感じます。

私は自然からの警告があるたびに、私はこの「萬燈行」の気持ちを思い出します。

世直し行は、きっとこのように一人ひとりの力でやっていくのだと思います。
一人の力が無限に広がる至高の燈であるように、子どもたちにもこの萬燈行の燈を心に伝えていきたい。

職業観

青森県の八戸で東北ブロック保育研究セミナーがあった。
勇気を持ってまず大人が子どもたちのための「モデル」を見せる。
主体的で自発的な活動を促す本当に素晴らしい取り組みだと改めて思った。

それぞれの園で創意工夫した保育実践をお互いにストレートに公開しあって学びあう。
今の時代、先に自分から情報をオープンにした方が得るものがとても多いような気がする。
きっと今はそんな時代なのだろう。

初日は保育実践園の見学とその内容についての発表とQ&A。
そして二日目は、東北地区の実践園の発表と藤森平司先生の講演を行った。

今回もたくさんの保育士が参加し、それぞれの問題を語り合っていた。
その中で職業観のことについて少し考えることがあった。

一般的に保育士、幼稚園教諭になりたいという人は子どもが好きな人が多い。
よく観察して話しを聞いて見ると、「この人は子どもが好きなのかその仕事が好きなのかが分からないな?」と思うことがよくある。
話しをした後にふと不思議に思うのだが単に子どもが好きなだけだったら、別にボランティアなどで子どもたちと関わる方がよほど楽しいのではと思ってしまう。
そっちの方が責任もないし、純粋に好きであり続けることができるからだ。
よくそれだけ好きだと言っていた先生がたった勤めて2〜3年で「疲れた」と言って退職するのには本当にびっくりしてしまう。

先日、ある園の主任先生からこんな相談を受けたことがある。

そこでは、園全体で子どもの連続する発達を見ていこうと園長が方針を決めた。
しかしそこで働くある保育士が何度言ってもそれを理解しようともしないし、やろうともしないのだ。しかも、主任先生の親切丁寧な説明に対して「子どもが好きでやってて何が悪いんですか?」と感情的になって涙をポロポロと流していたそうだ。

まあフツウに考えると子どもが好きなことはよく理解できるし、それだけの思いがあるのはよく分かる。しかし保育士というプロの仕事をしているのに、発達を見ていこうという当たり前のことよりも自分だけの感情を優先するのなら早く他の仕事についた方が絶対に良いのにと思ってしまう。でないと、その仕事をそのまま続けていることはその人にとっても本当に不幸だなと思えるからだ。

合わない仕事を続けることの方がよほどその人にとって可哀想だと思うからだ。

以前、外国の小学校では低学年から留年の制度がある話を聞いたことがある。
日本では、まだ幼いのに留年させるのが可哀想だと言われる。
しかし、外国では学力が着いていけないのにそのまま学ばせる方が可哀想だという考え方だ。私は外国の考え方がフツウな気がするが、日本では授業でもある時期にならないとこれを学ばせないという、またついていけない子どもは無理やり付いていかせる方が正しいという・・・そっちの方がよほど残酷な気がするのだが・・・
いじめが一向になくならないのもすぐに納得できる。
きっと一斉の中で「個人差」を理解しないからお互いを認め合えないのだろう。
人は能力が違うわけだし生まれながらに個人差があるから、皆で一緒に活かしあうのだ。
みんな同じ姿であることがどれだけの意味があるのだろうかと真剣に思う。

園児で言えば、生まれた時から与えられている天性の個人差があり発達の偏りがそれぞれにあるというのにみんな同じ状態でないといけないという大人の刷り込みやその保育のやり方は一体どうだろうか?
その子だけの発達の速度があり、その子だけの学びの量があるのだろうに。
もし人生の密度まで他人と同じであればなんてこの生はつまらない人生だなと子どもも感じてしまうかもしれない。

仕事(働く)もまったくこれと同じだことだろう。
合わない人がそのままそこに無理に居ること、またそれに強硬についていかせるほどその人を苦しめることはないだろうしその人の人生にとってもこんな不幸なことはないと私は思う。

その人の大事な自分のたった一度の人生の機会損失を防ぐためにも、早くその職場を離れた方がいいと私は心底思う。

働くというのは、個人差はあってもそこに必要な普遍的な職業観があるからそこで自分の能力を正しく活かすことができるからだ。

これは私もよく体験することだが、会社で自分の好きなことだけをやりたいのならば逆に給料を会社からもらわずに授業料を支払って勉強させてもらうように会社に頼んだ方がよほど自分と周りの人のためになると思うことが多い。
であれば、親切な会社ならきっとその支払った分は会社が教育してくれると思う。
タダで教育してもらって、その上好き嫌いなんていうのは職業観としてはありえない考え方だからすぐにでも止めた方がいい。

この日本という国は、「なぜ働くのか?」という自覚を社会人になる前に子どもたちにしっかりと考えさせ、その理解を正しく持たせた方がいいのではと私は新卒採用や中途面接の時に思うことが多い。

人生というのは、社会という現実の世界においては一人では生きていないのだからキチンと社会で働くことで得られる「自己実現」という意味をまず理解すべきだと思う。
よく自己実現は、「自分だけ」の理想の実現などと間違って勘違いされるがそうではなくて自分の持って生まれた能力・センスを何かの目標や夢の実現のために活かし活かされながら誰かとともに実現することだと思う。

以前TVで見たマラソンのQちゃんと小出監督も一緒に自己実現していたし、野球でもバレーでも選手、監督、コーチ、スポンサーみんな自己実現しているではないか?

たとえば、金メダルをとった選手だけが自己実現したなどと定義でもすればその選手以外の関係者はみんな自己実現しなかったことになるのか?
そうではないだろう、子どもだってその子のためにみんなで自己実現するために努めるのが保育園であり、幼稚園であると思う。
自分のクラスのためとか、自分の園のためとか、表層に惑わされないようにしないと大事な職業観を手に入れることはできないし自己実現をそこで得ることができないのではと僭越ながら私は思う。

まず子どもの立場で考えることは、職業観として最低限のことだと私は思う。
そうでなければ一緒に自己実現していくことはできないはずだからだ。

特に社会福祉の仕事は、最初から自分勝手の自己実現が目的で働こうとする人が多い傾向があるような気がする。社会福祉とは、現在の社会全体にとってその福祉がなぜ必要で一体何のためにあ
るのかをよく考えた上で、自分の持つ能力を世の中にどう活かしていこうかと考えることがまずは常道であると私は思う。

だから、どの仕事においても職業観は必要だと思う。

職業とは、一人ひとりが生き生かされるというニンゲンとしての営みであり共に生きるものとしての役割なんだと思う。

だからこそ人が一生の中で、「好き」なことに出会うことは難しいことなんだと思う。

本当に好きなことというのは、単純に狭い視覚的な「好き」ではなくて何か相手のために自分の命を使いたいという広い理念的な「好き」であることだと思えるからだ。

だからこそ、日々の仕事はマンネリ化せずに常に自問自答して高めていきたいと思う。

今の幼い子どもが働くことになろう20年後の時代には、どうなっているのだろう?
今の子どもたちが正しい職業観を身に纏い、未来には全世界で活躍してくれているだろうか?

そのためにはやはりこの「今」をなんとかしないといけない。

脚下の実践としてはどんな仕事も給料をもらう以上、まずはプロとして自覚し、自分だけのどんな得意不得意があるのだと知ること、そしてその唯一与えられた能力をその仕事でどう活かしていくかを学び実践していくことだと思う。

まずは自分たちからそのモデルとして率先垂範して示していきたい。

研修の意義

本日、神奈川から社会福祉法人を中心に集まる組織の研修委員長と研修委員の3名の方が、12月7日に私が依頼された講演内容の打ち合わせにわざわざご来社いただいた。
研修を企画する方の意義とその本質が見えて、きっと当日はお互い気持ちよく一緒に学びあえそうな予感がしました。「講演をやる」のではなく、「講演をする」という主体性からくる協同的学びそのものが一番大事なことなのだろうと改めて気付かせていただきました。

お打ち合わせ後、ご会食も設定いただき本当に楽しいお時間を過ごすことができました。
つい初対面なのに6時間以上も話し込んでしまい、相変わらず私は園の先生とお話しをするのが心から好きなんだなと思いました。

私は色々と悩みや考え事があっても園の現場に行くとスッとそれがなくなります。
なぜなのか分かりませんが園長や主任、先生の悩み事を一緒に解決するのが楽しくて仕方がないんでしょうね。
それで子どもが変わったなどと感動して連絡があると嬉しくて感激してしまうばかりです。
これも師匠の指導の御蔭ですね。

さてこの会では、「社会福祉法人は一体何なのか?」という社会的意義を模索し、その根本的な思想において何が守るもので何を守らないのかを「クリエイティブ」な視点から追求していこうという主旨で研修しているそうです。
特に若手の社会福祉法人の経営者が中心にこの会をリードして運営しているとのこと。
今までにあまりお会いしたことのない、業界色が染まっていない方々でしたのでとてもびっくりしました。

今回の講演依頼では、カグヤがなぜ他の会社と違うのか?またこの社福の業界でブランドが急成長しているのか?ということが「クリエイティブ」のテーマにあったとご判断していただけ講演依頼をすることになったとのことでした。

先生方のお役に立ちたいと努力していることが、どんなカタチにしても声としてこのようにご評価いただくことは会社として本当に有難いことだと深い感謝を覚えました。

当日は期待に添えれるか分かりませんが、私が観て聴いて考えたことを少しでもご参加の皆様の知恵の一隅になればと心から願っています。

さて、今回の会食の中であった話を一つご紹介します。

「かねて昔から行われている行政主導の社会福祉法人への平等の補助という価値観が『文化』として深く根付いているとしたらこれをどう払拭できるのか?」

保育のサービスや規則、第3者評価、等々すべてのサービスは行政側を向いて行われている。保育園側から保護者やサービス対象者が必要だから補助をくださいと行政にいうのは現在ではまかり通ることはない。ただ補助枠の削減は時代とともにどんどん加速してく。それに対抗しようとしてもあまり現実的にはありえない理由になってしまい、行政はそれを特異な例であると請け負おうともしない。

今は、これの繰り返し。

そうしているうちに、実際の園運営をしている方はそのサービスが行政側のニーズなのかそれとも世論のニーズなのかはまったく分からないものになってしまっているのが今の保育界の実状だと思う。

今の時代は、画一的な平等を受け付けない多様な価値観を持った人たちが世の中にはたくさんいる。昔のように、平等が与えて側だけのものでは今の時代の人は満足してくれない。
こんな単純なニーズですら園では遠い別世界の話になっている。
これは本当に危険なことだと私は思う。

このように行政は立場上仕方がないのだろうが補助を平等に無理にしようとするあまり、世論の細やかなニーズを掴むことができない。それは現場に任せようとするけれど、お金の流れ方、補助の考え方が合っていないから継ぎ足し改革では一向によくなる兆しが見得ない。何かをすると何かを付け足すというような方法では広範囲を対象とした画一的な押し付け補助を行うのみにこれからもなるのだろう。
酷い話になるが管轄側が今までずっと長い期間「それ」(マンネリ化した刷り込み)に従わせて園運営させていながら、急にバウチャー制度など選択を与えられ現場側を見捨てたら園の経営はいきなり大変になるのが簡単に予測できる。
何だか、自己責任という行政側の都合の良い言葉がまたもや見え隠れする。。
本当にこの国の民族を大切に思っているのか疑問ばかりだ。

園では、「茹で蛙」ではないが昔からの文化が邪魔して気付く人は少ない。
きっと今の流れを見ると来たるべき時は突然やってくる感じだろう・・・

そうなる前に、準備しておかないといけないのものは一体何なのか?

競争原理など、社会福祉法人に果たして必要なのだろうかと私はいつも思う。
質を追求しながら何のための施設かを皆で一緒に目指しあう方が本質ではないだろうか・・・それは難しいのか?
それはある意味難しくある意味簡単に達成できると私は信じている。
大事なことは意味のないものを捨てる勇気と意味のあるものを選択する勇気だと思う。
そうやって今までも誇れる我が国の先人たちは大きく未来を変えてきたのだ。

カグヤは、今も社会福祉法人の意味をサービスに置き換えながら伝えている。
「今の時代」のニーズをよく感じ取り、行政主導の運営という刷り込みから真に脱却し、子どもたちのための本当の運営に変えていくことだと私は思う。

そのためにカグヤはよりサービスを向上させて、企業の競争原理ではない我が国の未来と世界の平和を担う「大切なものを守る」ための今の時代の園運営をこれからも価値観の理解できる方々とともに提案していきたいと思う。

すべては、私たちみんなの未来と世界のために。