先生という言葉の定義

今日は埼玉の保育園で勉強会をご一緒させていただきました。
遅い時間から始ったのに最後まで集中してお話を聞いてくださりありがとうございました。

ここでは、2年前から子どもたちの姿に危機感を感じた園長先生がこのままでいいのだろうかと自問自答して変化を受け入れる決心をなさったそうです。日々、子どもたちを見ていながらもその緩やかな変化に気付くということは大切なことだと改めて思いました。私も環境を変えようとするのには本当に大変な勇気がいるとよく感じます。時間が前に進むことと深く正対し、前へ前へと忍耐努力して向かっている姿には深い共感と感動を覚えます。

今日の先生方とのご縁や出会いにも本当に心から感謝しています。

研修では言葉の定義について話をした。
状況や環境、背景やタイミングなどで定義されて使われる「言葉」はとても理解することが難しいということだ。
たとえば日ごろ使っている日本語の「私」という言葉でも、英語ではI、中国では、我、などとひとくくりである。しかし日常で使われる「私」は、状況においては俺、わたくし、わがはい、おい、等々出していたらきりがないほどある。

しかもどの言葉でもその環境や状況により情緒的な感性でその当事者しか分かからないというニュアンスが人が使う言葉に暗黙知的に癒着している。

この言葉を様々な定義によって使われることでニンゲンが陥りやすいのは、その単語が何某の強い影響があった出来事で印象付けられるということだ。そしてその思い込みの単語で物事を判断していることに気付かす、刷り込み殻の勘違いでズレてしまうということだ。
大勢の人間集団の中では、自分自身の定義していた言葉の意味も安易にそちらにいってしまう自分がいるのに時折気がつく。これはこの国が島国という土地柄であったことと統一民族だったからであろうか?
個体で森の中などで佇んでいると、在るがままに答えを出せるものが市井の中の生活圏内に入ると集団意識というか大衆心理そのものを深く考えずに受け入れてしまって、時が経って当たり前に矛盾があっても当然ように感じてしまうから不思議だ。

そうやって死ぬまでその意味に気付かないまま生きるという方法もありなのだろうが、何だかそうであればこの世のすべては一体なんなのだろうと思ってしまう。

だから「保育」「教育」「子ども」という言葉なども時代や環境にあわせて定義が変わるのだろうし、今回のタイトルである昔からの「先生」という定義も考え直さないといけないのだと私は思う。

たとえばで例を挙げてみると、師匠から教わった「見守る」の言葉も「新しい先生像」を定義しあらわしている。

見守るを分解してみると、「見る」というのは、一人ひとりの発達を見ることで、「守る」というのは、それを助長することだと先日の講演で仰っていた。

先生=何かを教える人。
先生=発達を助長する人。

同じ単語であっても、使う環境によってはまったく意味がこのように変化する。
学校や今までの施設の延長で引き継がれてきた過去の「先生」という定義とは明らかに違うと分かる。

まず今まで何気なく認識していた「先生」という言葉の定義をここで一度ガラッと変える勇気を持つことが大事なのだろう。その施設、地域、環境、人、関係によって、また時代背景によって言葉の定義は常に千差万別に変わっていくのだ、つまり万物流転といってもいいのだろう。変わらないというものはその定義の中にある普遍性であり言葉そのものではないということに気付いた方がいいと思う。

それこそが本当に大事なものを守ることに繋がっているからだと私は思う。

多くの人が今の社会全体が引きずってきた刷り込みを外し、本質から子どもの姿を見守っていければと心から願う。