意味

日常の中には、理由なく昔から続いている不思議な物事によく出会う。
それが本当に必要かどうかなどももうすでに誰も気付かないまま、検証もされないまま時の流れに身を任せている感じなのだろう。

最近、政治家が二世議員などとも言われなくなった。
権力者が時代にあわせて換わるとなく世襲制であることも当たり前になった。
それで徳性を備えているわが国の未来を背負う人などと思えるはずがない。

他にも教育がただ食べるための就職をする仕事になっていたり、宗教的情操観念を広げる人も親がそうだからやったとなるとその地位や品格も世の中にはあまりよく映らなくなるのも納得できる。

よく観察すると、不思議な光景だ。

それは対して何の意味もなくただ続けているだけになったのだろうなと思ってしまう。
ある時、それが大事なことだから繰り返すことを決めたのに、その本質は引き継がれず、そうでない目に映るところだけがただ闇雲に繰り返される。

でも周囲に見える力がある人たちが多い時代はそれでよかった。
今は果たしてそうだろうか?
どれだけの人たちが、その繰り返す意味を感じ取っているのだろうか?

念仏だってそうだろうし、行事だってそうだろう・・・
繰り返しの意味が分かる人たちがいるからそこに確かな意味が生まれるのにと思う。

またそれはトラウマではないが、成功体験からでもそうなるのだろう。

たとえば俗に営業マンといわれる人も、時代が変わったのにいつまでも昔のような売り方をやり続ける人が居る。
今の時代は昔とは情報の量も価値観の多様性もまったく違うのに過去の販売実績という成功体験を頑なに守り続けて頑張り続け時代錯誤になっている人がとても多い。

ルートで廻るなどという思想も、本当はちゃんと廻る理由があったはずなのに毎日同じく繰り返していると意味が分からなくなってしまっているのだろう。

今の時代は、営業は必要ないと思う。
今の時代は、相手に付加価値を提供できるコンサルタントだけでいいのだと思う。

話しを戻すとつまりニンゲンは、繰り返しであることに弱いのだろうと思う。
命の鼓動も、日々の食ということも、生きるという意味さえも、繰り返しの中でマンネリ化し本質に気付かないままナァナァとなるものなのだろう。

でも、それをずっといつまでも続けていくことはやはり難しいことだと思う。

なぜなら、時代は繰り返される日々においても無情に進化していくからだ。

生きていれば、同じことをしていても身体は次第に老けていくように。
仕事でも同じことをただしていたら、必ずスキルは落ちていく。

常に日々繰り返しの中でも進化してプラスアルファでなければ、維持することすらも難しくなる。
日々、繰り返しの中でちゃんと進化し続けなければ落ちていくだけなのだろう。

常に選択に囲まれている世界において、意味を感じる力がとても重要だと思う。

それは意味のないものをやめ、意味のあるものを選ぶ「魂の力」ともいえるものだろうか・・

身の回りに本能的誘惑の多い今の時代は、セルフコントロールが教育においてもっとも重要なのだろうと私は思う。
幼児期から自立したり自律したりということもこれからの時代には必須の「生きる力」になるのだろうな・・・

やはり何度振り返っても、大変な時代だと思うばかりだ。

子どもたちには、日々繰り返される出来事に意味を感じることと、その意味をちゃんと選択できるようになって欲しいと心から願う。

それが社会に出るときにどのような力になるかも大人はちゃんとその意味を知り日々繰り返し伝えていかないといけないのだろうと思う。