境界線

先日、オモシロイ話を聞いた。

ある大きな会社に100人規模の営業部がある。
もちろんそこで働く営業の方は年齢も様々で、若い方から年配の方までいる。
そこには、毎年凄い業績結果を上げるトップセールスマンが数人いる。

通常は、身近に凄いトップセールスがいるのだからその人を参考にすると同じように売れるはずだと誰でも思う。同じ事務所であればなぜ売れるのかのノウハウや方法を本気で学ぶ環境はいくらでもある。

しかし、不思議なことに一般的にはフツウ大勢の営業の方はそのトップセールスに直接尋ねにいくこともないそうだ。

なぜだかと伺うと、皆口々に「彼は別だから」「彼は別格だから」と口を揃えて一線を画しているからだそうだ。
話しを聞くまでもなく、結果を見て適当に分析しそう判断するらしい。

しかもたちの悪いことに何と先輩営業の上司やちょっとできる人が、部下を飲みに誘い「ああ、彼は違うからね」など言っているらしい。
仲間意識が芽生え「だから、そうなんですね!別格なんですね!」と新人や若手も誰もそのトップセールスに近づかないし近づいて学ぼうともしない。

自分にとって無理のない一定の距離が居心地がいいのだろう。
無理してそこまでやるよりは別格とした方が自分の良さのようなものを保てる心境なのだろう。

このように所謂その道の「一流」の人を切り分け、あれは別格だ別人だヤアヤアと『境界』を引いた行為のことを揶揄して「三途の川を渡る」というそうだ。
そうやって、別人別格の人とは違う「あちら側」に渡ってしまった人のことを揶揄して「ゾンビ」と呼んでいるらしい。^^

確かに分かる。

「あちら側」とは、別格だとして結果を常に出すその一流のプロフェッショナルから学ぶこと、着いていくことを諦めた行為のことをここでは言うのだろう。
つまり、そんな人は生きててもまるで「死んでいる人と同じ=まるでゾンビ」だということだろう。

果たして、本来の生き方であろう職業人としての「仕事の遣り甲斐や生き甲斐」は一体これのどこにあるのだろうかと思う。

確かに結果が厳しい営業組織らしい厳しい意見だとも思う。
しかしある意味これはすべての業種に於いても常に的を射ていることだと思う。

そういえば、私も随分今まである分野では別格扱いを受けてきた。

やることが段々絞られてきて暗黙知的に鋭くなってくればくるほど余計に一部の方からはそう扱われることが増えた。

その都度、寂しい思いをしながらどうせそうやって於いた方が相手は楽なんだろうなと、それ以上自分から今までは深追いはしなかった。
不思議だったが今思えばこれは「できる人はできない人のことは分からない」と他人からよく評論される「アレ」のことだったのだろうな・・・いつでも「おう一緒にやろうよ」という準備があるのに一緒にやり続ける人は本当に少ない。

実際、結果を出すことはできる人といわれる人だってそんなに生易しく軽々しくできるものではないと思う。
一般的には、それをさもサラッとやってのけているように見えるし見せる。
なぜそうするのかといえば辛いキツイ、大変などを考える、他人に見せることが別に成果や結果とまったく関係がない次元でやっているというだけだ。

ここでも果たして本当のご縁を活かすとはどういうことだろうかなといつも思う。

本気でその人のように結果を出したいのならば、一緒に同じような大変さを本気で共有しないといけないと思う。
命懸けで達成するまでその人に着いていく覚悟すらいるのだろう。

師弟関係なんて、そんなものだったのではないだろうか?
そうでなければ、安易にそれだけのものを手に入れれるはずがないと思う。

私は、凄い人を見ると本気でそれを一緒にやってみたいと思う。
そして認める人に着いていき、その観ている世界を一緒に観てみたいと思う。

もちろん、それは着いていこうとする人がいるから私はやる使命があると思っている。

なぜなら私たちの会社は、その「橋渡し」をする仕事だからだ。

どんなことだって、創意工夫と知恵を出し合えば誰でもやれないことはない。
誰でもやれるようにできるツール作りこそ、弊社の事業の根幹にある。

私たちがやること全てが子どもたちの未来に繋がっていると信じているからだ。

設計図ややり方を伝授することが上手にできれば、今まで見えなかったものが観えて、素晴らしい邂逅を得られるかもしれない。

これからもより大切なお客様と共に真摯に取り組んでいこうと思う。

偉い人・・

世の中には偉い人がいる。

小さい頃から偉い人というのはどんな人なのかなとずっと考えていた。
大人になって、偉い人といわれる人たちと時折交わることがある。
世間の定義する偉い人は私からするととても理解が難しい。

そういえば、悪い人、良い人、立派な人、、、全部難しい。
みんなナンデそうなるのだろうか?

まだ何も刷り込まれていない子どもの頃は偉い人も悪い人も区別はなく「一つ」のものだった。
社会に出る頃になるとそうは簡単にはいかない。

色々な立場や柵がニンゲンを形成し、社会での地位を決めていく。
そうやって生き易くなっていくし、生き難くなってくる。

世間には色々な人たちがある。

その色々な人たちがあるから、この社会は動いているのだろうと思う。

道を求めて歩く人のことをふと思う。
道には、上下の差などもないのだろう。

道を歩くことで、すべての人を一つにしていく方がいる。
そんな人とともに、歩む世界はどんなに素晴らしいものなのだろう。
すべてを在るがままに素直に観る事ができるのではないか?

偉い人にはなりたくはない。

自分はいつまでも自分でいたいと心から思った。
道を求めて、歩んで生きたいと心から思った。

本質を学ぶ

今は便利な時代だと思う。

たとえば、実力がなくても運と科学さえあれば何でも手に入る。

料理でも、長い年月修業しなくても科学の力で即席である程度の味までは出せる。
ビジネスだって、M&Aをすればある程度会社だって大きくなる。
医者だって、パソコンがあればある程度誰でもなれるようになる。
社長だって今は簡単に会社を作れるから誰でも社長になる。
デザイナーだってそうだろう、、昔のデザイナーは本当になるもの大変だったそうだ。

昔は、ちゃんと長い年月をかけてよく研鑽を積みはじめてプロとして扱われた。
今は、ノウハウとパソコンなどあれば便利にそれが簡単に手に入る・・・

果たして、本当にそうだろうか?

その人は本当に研鑽を積み長い時間努力して学ばなくても、その領域までいったのだろうか?また世間や大衆は、それを見抜く力もなくなったのであろうか?

私は、そうは思わない。

本当に力があるとは、見た目が同じでも中身の質がまったく違うと思うからだ。

長い年月をかけて高みをじっくりと目指していたら、艱難や辛酸をなめるようなことが出てくる。そこであらゆるものが研磨されるから、本質が磨かれ濃い煌きと味わいの深いものにしていくのだろう。

今の時代、学ぶことをせず、安易に手に入れることができるから失敗するのだと思う。

若いうちに、何でも手に入ったような気がするから、変われないまま加齢していくのだと思う。

実は、何にも手に入ってないのにそれが持っている気になってしまう。
こうなったら、うまくいかない原因は外界だけのものになるから不平不満になるのだろう。

我々も同じことだから偉そうにはいえない。
いくら、コンサルタントと名がついたとて、たかだか数ヶ月でそうなったわけでないと思う。
売っているからといって、理念や考え方の本質を完全にマスターしたわけではない。

だから、我々は誠心誠意を持ってお客様に対して何をなすべきか?

まずは、何よりも真摯に学ぶこと、命を懸けて学び続けることだと思う。
そして、お客様の自己実現のお手伝いをすること。

そこに我々本来の存在意義と使命があると思う。

偶然やラッキーは、後々成長のための大きなハードルに変わる。

本質を学ぶとは、終わりなき旅路のようなものなのだろう。
終わりをつけず、今を反省し、よりみんなで一緒に学び続けていこうと思う。

自己管理

どの時代もそうだが自己管理は生きていく上で必須の能力だと思う。

幼少の頃より、色々な出来事や物事の中でどうやって本来の自分軸を保っていくのか?
人はいくつになっても、この課題を隣に持ち常に無意識に向き合い続けているのではないかと思う。

通常の社会においての「自己管理」とは、自分自身を厳しく制し管理するような定義がされている。

自己管理が厳しいと刷り込まれているのは、目的達成までに行う一部分の努力の様子やその一面を過剰に受けとり、ハードな努力や苦労でしか達成できないと一般的に盲目に信じられているからだと思う。

どんなアスリートも、その深い悦びは人に伝えられないほどの至福のものを抱いていると思う。

しかしインタビューする人やあかの他人は、客観的に大変そうな姿しか目に映らないのでそこだけを見てきっと大変なんだろうと浅いところで認知してしまい自分は無理だと諦めてしまう。

もしくはその部分だけを真似して過剰に厳しくしてしまい、悦びを感じることができず、それ故に継続できず欲望に負けて失敗を繰り返すたびに大切にしている自尊心が傷ついてしまっていたりする。

それが何度か続くと、人は目的を達成することを諦めてしまい、「何もやらないことが善なのだ」と無意識に自分に長い時間をかけて思い込み刷り込んでいたりするのだと思う。

でも、それが今の時代のように価値観が多様化し、個が生きる時代になるとそうは言ってもいられないようになってくる。どうしても何かを変えようや、何かに変わらないといけないと自覚した場合は、今までのように何もしないでよいとはいっていられない。

では、どうすればいいか?

私は「変わる」ということが常に精神論の側だけになってしまったら、苦しいものになってしまうのではと思う。そしてニンゲンの性としてそれがどうしても受け容れられないものになってしまうのではと思う。

なぜそうなるのかと言えば深層にある「楽しい」ことを心が否定することができないからだと思う。

苦しいというのは楽しいというものの裏返しであり、等価交換しながら幸福の密度が濃淡して様々な色合いを出しながら人は生きていくからだと思う。

以前脳科学の第一人者の研究発表の本で読んだ時に書いてあったが人間は、「楽しい」と思うと脳内から「遺伝子を活性化する成分」が出て無限の可能性を引き出していくのだと。

では「楽しい」ことを引き出すにはどうすればいいか?
昔の格言でいうあの言葉が参考になる。

「好きで通えば千里も一里」
「好きこそものの上手なれ」

しかし、実際は一里のようでも千里歩いている客観的事実は普遍なのだ。
実際は上手になるためにかなりの時間か密度を掛けて研鑽を積んだ事実は普遍なのだ。

ニンゲンが好きなことに出会うのは、何も場所や環境を変えるということだけではないと思う。好きなことに出会うのは、こうやって好きなところに命を使うことだったりすると思えるからだ。そうやって人間は、自分がより良い人生を歩みたい、もしくは人生の在り方を選択し、『好きであるところに命を用いていこうとする』、そのことが本来の自己管理なのだと私は思う。

アスリートもきっとこうやって色々と環境を工夫しているはずだと思う。

だからこそ、『大事なことをやろうと決めたものが本質であればそれをどうやったら楽しくやれるだろうと環境を「創意工夫」することをこれからは「自己管理」と定義してもいいのではないか』と私は思う。

刷り込みを取り除き、常識という観点を見直し環境を工夫して、好きなことだけをやる勇気を持てるかどうかなのだろう・・・

子どもたちの20年後を考えてみると

好きなことを思い切りやらせてあげる環境設定。
またそれを自ら工夫して環境を創る能力。

子どもたちには、そのような環境の創造と工夫が自らでできるようになるよう今は特に配慮していければと思う。

変化と超越

今日は、横浜にて社会福祉法人の若手経営者研修会があった。
そこで講演と情報交換会を行った。

研修のテーマは、「社会福祉法人のこれからと守るものと守らないものは何か」といった感じだった。

通常、思いに共感する人達でないと求める道が深くはならないのでGT関連や弊社顧客以外のどこかの団体の研修会には行かないようにしているのだが、今回は研修部長をなさっている方のお人柄と熱意ある姿勢に心から共感して「保育界では通常やらない講演(きつい方の講演)」をやることになった。

責任が取れない話しはやりたくないので、とても躊躇ってしまった。
講演後の事を用意するのにまだカグヤ自体が準備に時間がかかっている。

大きな旧社会システムの中にいると、どうしても別の人の力が必要になるときがある。
それは今までの常識である努力や勤勉では抜け出せないところだと思う。

だからこそそれを言う私もやりっぱなしではなく、本当の意味で協同的な創造業になるようにこれからは方法論やツールも提供していこうと思っている。

講演後の情報交換会では、会食の間に何人かの若手の先生方と真摯に素晴らしいお話しができた。

「気づく講演」という内容だったが、私が何よりも気付かされた研修になった気がする。どんな時も機会を大事にし、偶然の持つ神秘なシンクロニティを信じて、ご縁は大切にしていかなければと改めて思った。(多謝)

またいつかのタイミングで再び今回ご縁あった方々との邂逅があることを心から楽しみにしています。

また静かに自省してみると、講演実績を積めば積むほど師匠の凄さが改めてよく分かる。
凄い人を師匠にしたなと心からの感謝と感動に包まれてくる。
師匠がいることは、どんな時も学びの深い気付きを与えてくれる。

人は目指している方向が近ければ自ずとお互いが似てくるというのが物事の本質であると私は信じている。出会いの感動は、まるで大宇宙のように常に多次元での様々な邂逅に繋がっている気がする。

ただ最近、講演や研修でよく感じることがある。

やはり理念や価値観、問題意識が同様か、刷り込みが取れている方以外に話しをするのはとても難しい。

答えの無数にある今の生活者側に権力が移行した時代に於いて、このITの持つスピーディな変化に対応しないといけない「今」に於いて、先入観や経験という刷り込みは変わるための大きな障壁になっている。

本当にもったいない。

また官公庁寄りの業界は特に顕著だが、立場や見え方、肩書きや刷り込み、意識の偏りなど、所謂以前のブログで書いた「柵や常識」が邪魔している気がする。

これを考えると私を含め『まったくニンゲンは、本当にメンドクサイ』と思う。

せっかく学んだものが改めて学ぶときの最大の障害になることがあるからだ。
ある意味での学ぶために捨てていくということができるのだろうか?

また何かを協同的に気付くには人は同じではないのでお互いの共通の理解を持つために、向いているベクトルを観て限りなく分かってもらわないといけない。

特に今の時代のように、IT革命により上がった質量の密度やスピードへ自分を進化するためにも、答えを無数にしながら衆知の創発的な思想を持つようになるためにもそれはとても重要な気がする。

個はやはり個で、集団は集団という本質はそのままに在るからだ。

しかし、如何に短い講演の時間の中で問題意識を色々と伝えて理解を深めたからといって、必ずしも人は一緒にその方向へ向かっていくわけではない。

だからこそ、一緒にどこに共感する必要があるかだと思う。
今は、生き方や在り方が特に求められる時代になっているのだろう。

お互いの物差しをどこに置くかで、まったく相手の姿や言葉は常に変化していく。
やはり講演は、講師よりも受け手の方がより力が求められるものなのだろうな・・・

私もよく共感する方の講演を拝聴しにいくが、どれだけのものを持ち帰るかはやはり自分側に在るとよく実感するものだ。
その持ち帰りの量を「今の常識」を取り去って超越できないと、「次の常識」の世界には入っていけない気もする。

素直さや感受性は、これから先の時代の「生きる力」として子どもたちにはちゃんと備わることができるような保育環境も必要ではないかと心から思った。

公開するという意味

私は今までで約4000箇所以上の保育園幼稚園を訪問してきた。

きっと今の自分があるのは、伺ってきた縁の御蔭だと思う。
私を育ててきたのも私ではなくそういった「縁」長先生だと思う。
こうやって園長を縁長としてみるのもとてもオモシロイ。

子どもたちの目線からみるとそういう観点もアリだなと思う。

今の私に色々と定義される方もいらっしゃるが、自問自答すると私は決して自我としての野心だけで事業をやっているのではなく課題としてのテーマで生きているのだろうと思う。

一般的には世間では身の回りに、自我中心で生きている人ばかりだかたらよくそれに照らされ勘違いされることもある。師匠もよくそれで悩んでいる。本質で生きるとは本当に大変だなと傍にいて思うことがよくある。

きっとその方の目の前に映るもしくは耳に素通りする事象でしか安易に捉えられないから変な誤解を生んでいるのだと思う。深く会えば理解してもらえるだろうが、出会わなければ勝手に推測され偶像化されるのでその刷り込みの価値観を取り除くのが大変だ。

ここでもやっぱり縁なのだろう・・・縁は瞬間と長さ、距離、、どれも欠かせない要素だ。

私も最近それをよく感じるようになってきた。しかしそれはニンゲンの持つ感情である以上、どうしようもないので実社会やっていること、やっていくことで表現していくしかないのだろうと思う。

私の今の姿とこれからの姿は、これからまだまだ増えるであろう4000箇所以上の園の理念の集積体、つまりその受け売りの仮の姿だと自分勝手に思っているからだ。

今でも初心は変わらない。

どの園の経営者や保育者の方も、「子どもたちのためにこうしていこう」と常に高い問題意識で私へお話しをしてくれた。それはきっと私の立ち位置上、色々なところに飛び回ることができるからだたのだろうと今でも思っている。

私は地域にいて子どもを見守っている園の先生方と一緒になって最前線で一緒にやっているだけなんだなとよく思う。

先日、長いお付き合いがありとても尊敬している園長先生に「あなたの方が園長っぽいですね」と言われた。気がつくと最近では色々な園でよくそれを言われることが多い。

何だかとても嬉しい気持ちになった。
私の感覚がまだズレていないことの証明だからだ。

業者や批判者がよくする園長の定義と、私の園長に対する定義はまるで違う。だからきっと嬉しいのだと思う。それでも私はそうでありながらもそうであってはいけないので使命があるのだと自分では思っている。

出会いの邂逅と育てていただいたご恩返しに、ご縁ある先生方から教わったことを真摯にカグヤの事業でこれからも世界へ還元していこうと思う。

・・・

そのための第一歩は、まずこの意味をきちんと捉えて公開していくことだと思う。

よく「公開」は、ただ情報を開示することだと思われてきた。

今の時代の「公開」は、昔の常識である公開とまったく違っている。

今は、個々で命を懸けて積み上げてきたノウハウを隠さずに誤解を恐れずに公開することに変わっていると思う。

なぜ公開が大事かというと、公開することで真に得られるのは大衆がみんなで一緒に考える気づきになりそれが叡智になるからだと思う。

それが、ここでの『環境』というものだと思う。

江戸時代がどんなものだったか分からないが、地域関係が単にあったとかではなくきっと「それ」があったのだろう。

みんなで叡智をひねり出すための「資産」をどう活かそうとしたかを【工夫して環境を創った】のだろうと私は思う。

人的なのか、物的なのか、時代的なのか、、、その辺は知りたいのであればきっと、どこぞの著名な研究者、学者の方が分析していると思う。

使い手は、成分分析よりも使い手になる方を目指そうというのが私の思想だ。

先日、ある園でこんな話をした。

今の時代は、園の大事なノウハウや知恵は隠すのではなくすべてオープンにした方がいいという話だった。
具体的にはというと、園でやっている本質であろうその保育を世間に出していくことだ。世間に問い、世間の知恵やアイデア、そしてその資産を一緒に高めていけばいいのだ。

現在、全国各地で開催しているGTのブロックセミナーの実践発表では園の環境や保育、特色などをそれぞれで包み隠さず取り組みのすべてを堂々と発表し公開し質問をうけ協同的に高めていくという内容になっている。

これもキチンと「公開」という今の時代の公開の真贋を得ていると思う。

これからは何でも持っている資産は、包み隠さず外の人に伝えた方がいい。
それを真っ先に公開し、衆知を集めて協同的になるように導く人を「今の時代のリーダー」の在り方というのだろう。

これを考える時、子どもたちの巣立つ時に必要な生きる力。
つまり20年後のリーダーの在りかたを今に学ぶことの方が、昔に大事にされて定義された「今の時代では変な授業」よりはずっと役にたつかもしれないなと私は思う。

明日は、神奈川の社会福祉青年経営者会で講演と情報交換会がある。
ご縁と機会に深い感謝とともに得がたい創造の出会いになった。

柵と常識

生きていると色々な関係の中から、集団と過去が造ってきた柵と常識に縛られることがある。

ある国ではそれが常識でも、海を越えると非常識になる。
またその常識は過去から当たり前といわれて育てられればそれは柵になる。

とても素晴らしい個性を持つ人格者もこれにやられて朽ちていく人も多い。

なぜニンゲンは、自分への自由な探求の旅へ戻ろうとしないのだろうか?
またそれをやってはいけないと盲目的に自らに言い聞かせるのだろうか?

ふと、観点を別のところへ移すと今ある目に映るものは真実であろうか?
ふと、地点を別のところへ移すと今ある耳に聞こえるものは真実であろうか?

歴史からいったい何を引き継ぐべきなのかは常に今を生きるものに問われている気がする。

人は、過去の失敗から大事なことを色々なツールで過去を引き継いできた。
建造物・公式・条約・生活・文化・思想、、、

しかし、それはツールだけになってしまったら意味のないものになると思う。

では一体何を引き継ぐべきか、それは本質的な「問題意識」ともいうべきものだと私は思う。
それを教訓として忘れないようにするためにツールをそれぞれ創造したはずだからだ。

その創造したものとニンゲンの問題意識は常にセットでなければこれからもその無意味な柵と常識に縛られていくのだろうと思う。

誰かがその柵を外してあげなければいけない。
誰かがその常識を壊してあげなければいけない。

すべては「問題意識」と地球の進化を守るためにも。

ふと、柵と常識というタイトルで子どもたちをもう一度見つめてみた。

生まれたばかりの子どもとは普遍であるとともに自然の姿だと私は思う。

であれば、常に刷り込みと現実、柵と常識をここで外してあげるほうがこれかの大人のやるべきことだと改めて私は思った。

問題意識を持って、身の回りにある刷り込みを疑う観点を持てるようになるためにも、子どもたちへは大人のいい加減な柵や常識をうけさせないようにしていければいいなと思う。