変化と超越

今日は、横浜にて社会福祉法人の若手経営者研修会があった。
そこで講演と情報交換会を行った。

研修のテーマは、「社会福祉法人のこれからと守るものと守らないものは何か」といった感じだった。

通常、思いに共感する人達でないと求める道が深くはならないのでGT関連や弊社顧客以外のどこかの団体の研修会には行かないようにしているのだが、今回は研修部長をなさっている方のお人柄と熱意ある姿勢に心から共感して「保育界では通常やらない講演(きつい方の講演)」をやることになった。

責任が取れない話しはやりたくないので、とても躊躇ってしまった。
講演後の事を用意するのにまだカグヤ自体が準備に時間がかかっている。

大きな旧社会システムの中にいると、どうしても別の人の力が必要になるときがある。
それは今までの常識である努力や勤勉では抜け出せないところだと思う。

だからこそそれを言う私もやりっぱなしではなく、本当の意味で協同的な創造業になるようにこれからは方法論やツールも提供していこうと思っている。

講演後の情報交換会では、会食の間に何人かの若手の先生方と真摯に素晴らしいお話しができた。

「気づく講演」という内容だったが、私が何よりも気付かされた研修になった気がする。どんな時も機会を大事にし、偶然の持つ神秘なシンクロニティを信じて、ご縁は大切にしていかなければと改めて思った。(多謝)

またいつかのタイミングで再び今回ご縁あった方々との邂逅があることを心から楽しみにしています。

また静かに自省してみると、講演実績を積めば積むほど師匠の凄さが改めてよく分かる。
凄い人を師匠にしたなと心からの感謝と感動に包まれてくる。
師匠がいることは、どんな時も学びの深い気付きを与えてくれる。

人は目指している方向が近ければ自ずとお互いが似てくるというのが物事の本質であると私は信じている。出会いの感動は、まるで大宇宙のように常に多次元での様々な邂逅に繋がっている気がする。

ただ最近、講演や研修でよく感じることがある。

やはり理念や価値観、問題意識が同様か、刷り込みが取れている方以外に話しをするのはとても難しい。

答えの無数にある今の生活者側に権力が移行した時代に於いて、このITの持つスピーディな変化に対応しないといけない「今」に於いて、先入観や経験という刷り込みは変わるための大きな障壁になっている。

本当にもったいない。

また官公庁寄りの業界は特に顕著だが、立場や見え方、肩書きや刷り込み、意識の偏りなど、所謂以前のブログで書いた「柵や常識」が邪魔している気がする。

これを考えると私を含め『まったくニンゲンは、本当にメンドクサイ』と思う。

せっかく学んだものが改めて学ぶときの最大の障害になることがあるからだ。
ある意味での学ぶために捨てていくということができるのだろうか?

また何かを協同的に気付くには人は同じではないのでお互いの共通の理解を持つために、向いているベクトルを観て限りなく分かってもらわないといけない。

特に今の時代のように、IT革命により上がった質量の密度やスピードへ自分を進化するためにも、答えを無数にしながら衆知の創発的な思想を持つようになるためにもそれはとても重要な気がする。

個はやはり個で、集団は集団という本質はそのままに在るからだ。

しかし、如何に短い講演の時間の中で問題意識を色々と伝えて理解を深めたからといって、必ずしも人は一緒にその方向へ向かっていくわけではない。

だからこそ、一緒にどこに共感する必要があるかだと思う。
今は、生き方や在り方が特に求められる時代になっているのだろう。

お互いの物差しをどこに置くかで、まったく相手の姿や言葉は常に変化していく。
やはり講演は、講師よりも受け手の方がより力が求められるものなのだろうな・・・

私もよく共感する方の講演を拝聴しにいくが、どれだけのものを持ち帰るかはやはり自分側に在るとよく実感するものだ。
その持ち帰りの量を「今の常識」を取り去って超越できないと、「次の常識」の世界には入っていけない気もする。

素直さや感受性は、これから先の時代の「生きる力」として子どもたちにはちゃんと備わることができるような保育環境も必要ではないかと心から思った。