どの時代もそうだが自己管理は生きていく上で必須の能力だと思う。
幼少の頃より、色々な出来事や物事の中でどうやって本来の自分軸を保っていくのか?
人はいくつになっても、この課題を隣に持ち常に無意識に向き合い続けているのではないかと思う。
通常の社会においての「自己管理」とは、自分自身を厳しく制し管理するような定義がされている。
自己管理が厳しいと刷り込まれているのは、目的達成までに行う一部分の努力の様子やその一面を過剰に受けとり、ハードな努力や苦労でしか達成できないと一般的に盲目に信じられているからだと思う。
どんなアスリートも、その深い悦びは人に伝えられないほどの至福のものを抱いていると思う。
しかしインタビューする人やあかの他人は、客観的に大変そうな姿しか目に映らないのでそこだけを見てきっと大変なんだろうと浅いところで認知してしまい自分は無理だと諦めてしまう。
もしくはその部分だけを真似して過剰に厳しくしてしまい、悦びを感じることができず、それ故に継続できず欲望に負けて失敗を繰り返すたびに大切にしている自尊心が傷ついてしまっていたりする。
それが何度か続くと、人は目的を達成することを諦めてしまい、「何もやらないことが善なのだ」と無意識に自分に長い時間をかけて思い込み刷り込んでいたりするのだと思う。
でも、それが今の時代のように価値観が多様化し、個が生きる時代になるとそうは言ってもいられないようになってくる。どうしても何かを変えようや、何かに変わらないといけないと自覚した場合は、今までのように何もしないでよいとはいっていられない。
では、どうすればいいか?
私は「変わる」ということが常に精神論の側だけになってしまったら、苦しいものになってしまうのではと思う。そしてニンゲンの性としてそれがどうしても受け容れられないものになってしまうのではと思う。
なぜそうなるのかと言えば深層にある「楽しい」ことを心が否定することができないからだと思う。
苦しいというのは楽しいというものの裏返しであり、等価交換しながら幸福の密度が濃淡して様々な色合いを出しながら人は生きていくからだと思う。
以前脳科学の第一人者の研究発表の本で読んだ時に書いてあったが人間は、「楽しい」と思うと脳内から「遺伝子を活性化する成分」が出て無限の可能性を引き出していくのだと。
では「楽しい」ことを引き出すにはどうすればいいか?
昔の格言でいうあの言葉が参考になる。
「好きで通えば千里も一里」
「好きこそものの上手なれ」
しかし、実際は一里のようでも千里歩いている客観的事実は普遍なのだ。
実際は上手になるためにかなりの時間か密度を掛けて研鑽を積んだ事実は普遍なのだ。
ニンゲンが好きなことに出会うのは、何も場所や環境を変えるということだけではないと思う。好きなことに出会うのは、こうやって好きなところに命を使うことだったりすると思えるからだ。そうやって人間は、自分がより良い人生を歩みたい、もしくは人生の在り方を選択し、『好きであるところに命を用いていこうとする』、そのことが本来の自己管理なのだと私は思う。
アスリートもきっとこうやって色々と環境を工夫しているはずだと思う。
だからこそ、『大事なことをやろうと決めたものが本質であればそれをどうやったら楽しくやれるだろうと環境を「創意工夫」することをこれからは「自己管理」と定義してもいいのではないか』と私は思う。
刷り込みを取り除き、常識という観点を見直し環境を工夫して、好きなことだけをやる勇気を持てるかどうかなのだろう・・・
子どもたちの20年後を考えてみると
好きなことを思い切りやらせてあげる環境設定。
またそれを自ら工夫して環境を創る能力。
子どもたちには、そのような環境の創造と工夫が自らでできるようになるよう今は特に配慮していければと思う。