素直さの定義

誰かと一緒に仕事をしていく上で人に最も求められる能力は「素直さ」であると私は思う。
会社を経営し、目的を達成するための組織を創っていく度、そして年を重ねれば重ねるほど、そういった出会いと別れを繰り返すほど「素直さ」ということを考えさせられる。

スキルや技術、実践経験や見た目などは時間と努力と忍耐、強い思いさえあれば後々必ず誰でもある程度は獲得することはできると思う。しかし、この「素直さ」については人間素材や先天的な部分になるので後天的な改善を行うことは何かしらの衝撃がない限り気付きにくく修正することがとても難しいのが現実だと思う。

だから私は人と物事を一緒に為そうとする時には、まずその人が「素直」であるかどうかの判断を今では最優先することにしている。

私達のような保育や教育の仕事に携わる人たちにはとても欠かせない部分だとも思っている。

しかし通常、日常的に今の世の中で使われるこの「素直さ」という定義についてはちょっと違うのではないかと私はよく感じる。

「素直さ」というと何だか上司や人の言うことをハイハイと何でも聞くだけのイエスマンをイメージする人の方が多い。そうだとすると、ほとんどの人が素直だということになる。そういった素直さは、職人の世界のような一子相伝的な暗黙知の伝承などの中では通用するかもしれない。しかし一般的にはそうならないだろう。もし「言うことを何でもすぐ聞く=それが素直さ」というのなら、世の中、すべて相手にあわせればそれで素直な人だということになってしまう。

ひょっとするとそういった勘違いが日常的になってしまっているから今のこの日本では素直さが勘違いされ、相手に合わせることが自分を大事にしているしそれが幸せのカタチだと無意識に思っている人が多いのだろう。

私は本当に素直な人とはどんな人かと社内のスタッフに話しをすることがある。

それは、どんな出来事や場面であってもそれを真っ直ぐに受け容れて正しい方に「軸を修正する」という「修正力」がある人だと話している。

一言でいうと、「価値観に柔軟」であるかどうかを素直さだと定義している。

『素直さの定義』をより細かく解釈すればはどんな時代の多様な価値観や偏った内容であってもニンゲンの普遍性と宇宙の真理のような偉大なものを受け容れる心があり、それを丸ごと正対し自分の中で噛み分けたり深く味わったりして相手の真意を正しく理解して自分がどうすればいいかという考えを整理修正し、自分の価値観を柔軟にしている人のことを言うのだと思う。

・極端に言えば、ありとあらゆるものを「在るがままに受け容れる」能力。
・そして、受け容れてそれをより共感する目的のために自らで消化する能力。
・さらには、価値観を肯定も否定をもし、その真実を自然に見極め正しい方に変換できる能力。

そんな人はどんな激しい変化の中においても、常に自分の向きや能力、命の方向を修正し正しく歩んでいくことができるのだと思う。

そしてそういった素直さを持つ人たちは、心根がとても人として優しく思い遣りがあり、真心、情けなどの何かがある感じがする。

これからの時代は色々な仕事の場面において、「素直さ」という資質や感性は時代やスピード、人類のステージが上がっていくたびに最も試され求められていく力になるのだろう。

だからこそ、子どもたちには幼い頃から自然環境等やあらゆる事柄を通して世界を受け容れることができるという「生きる力」を備えることができるようにその環境をしっかりと創って見守っていきたい。

らしさ

子ども達が穏やかに集まっている場所。

そんな観点で時々、客観的に子ども達を少し離れたところから眺めてみる。
情緒的な表現だがとても温かい静かな気持ちになれる。

子どもがいること、子どもが育つこと、子どもと育つこと、子どもと学ぶこと、子どもと生きること、子どもが在ること。

世の中にある全ての贅沢に匹敵する素晴らしい出会いと感動、邂逅の一瞬だ。
たくさんの子ども達が、生き生かされながら命を輝かせていく。

そんな贅沢を楽しめるという時代が来ているのだろ思う。
少子化は、ひょっとすると大きな気付きを私達に与えてくれているのかもしれない。

穏やかに見つめると何となくその子なりの「らしさ」が光っている。
その「らしさ」をもっと伸ばしてやりたいと思う。

りんごにはりんごの木の、みかんにはみかんの木の、「らしさ」は存在する。
りんごにはりんごの木の、みかんにはみかんの木の、見守りかたがある。

もちろん、移り変わりゆく世の中でも精一杯生きようとしている。
その姿をじっとみつめていると感動することがある。

雨にも打たれながら、風にも吹かれながら、虫にもくわれながら、微かな光であっても、「らしく」生きていく、そこに美しさと無常の平穏があるような気がする。

自然界には本当に色々な「らしさ」がある。
そんなたくさんの「らしさ」が重なり合い寄り添いながら生かしあっている。

そんな木々にニンゲンができることは本当に少ない。
「らしく」生きられるように、信じて見守ることしかない。

自然の中でどんな風に「らしく」生きたいのかを心から味わいわかってみたい。
そして、生まれてきたその「らしさ」に気づいてあげたい。

これからの時代に生きる子ども達にはらしさを大事にして生きていくことが、「気づいていく」上でとても重要になるような気がする。
世の流転の速度が、子ども達を惑わせないように変化を受け容れることから逃げないように「らしさ」を守っていきたいと願う。

道具の役割

太古の時代から人間は多くの道具を開発し活かしてきた。
何かの目的を最短距離で達成するために道具は人間の大切なパートナーだ。

今はコンピューターが生まれ「道具」という概念が急速に進化している。

ここで私の専門であるITの活用について考えてみる。

この国では一般的にITのことをいまだに、効率化・合理化・コスト削減をするものだと思っている人が多い。私達が提供する見守るほいくソフトも同じようなものだと思われるので毎回毎回理解してもらうのが大変だ。

今では人間にしかできない叡智や工夫、直感や機微などを活かすためにもITやソフトはこの時代においては生きていくのに欠かせない大切なパートナーになっている。

全部は多いので書けないがその効果の一つに、人間の脳処理の部分の大部分をサポートする能力がある。それにより今まで人間が行っていた記憶という作業をコンピューターに任せることができる。これを行うことでその情報を組み合わせたり取り出したり、検証したり、、、あらゆる効果を組み合わせ使うことで人間の持つ際立った別の潜在能力が表出する。そして人間が人間らしく発揮されるという新たな可能性を大きく開いた。

このように記憶の道具一つをとってもそれを使ってどのような組み合わせで何をするかなどは人間でしか行うことができないという事実に焦点が絞り込まれてくる。そう考えれば分かると思うがITとは本来、人間をより人間らしくしていく進化を援助するパートナーになっているのだ。

具体的なたとえをまた一つ。

「記憶」を活かすという分野で顕著な能力をITが発揮するのは「データベース」という考え方がある。情報を集積し、一元化し、分析し、採掘など様々な用途に加工できる技術のことだ。

たとえば、人間はその膨大なデータの中からコンピューターを使って統計的な処理を行い、データ間の関連性を調べ、役立つ価値のある情報を選び出していく、そして次々に何が現場で欠けているかなどを導き出していったりすることができる。

データベースがあればこのようにマイニングの手法も広がる。

今までは当然と思われていた人間の「知覚や感覚」での情報を、データベース化により数値化し客観化して明瞭にしていくことは重要だ。

教育や保育の世界は、今まで人間の体験や経験だけに頼り数値化やデータ化をあまりやってこなかった。しかし、今のように社会が複雑に絡み合い、多様な価値観と急速な変化の中では本当にやっていることが今の時代の子ども達にあっているかどうか、それがどのような意味を持つのか、それを俗人的にばかりやってもいられない。

今こそ、このITを最大限活かし子ども達のために役立てるときではないかと私は思う。

世界のIT国家の発展は、リアル空間とネット空間のバランスと融合にこそあると私は思う。だからこそ、分からないからと難しいからとそこから逃げてはいけないのだと思う。そのためには、トップがそのITの効果をまず学び最大限使いこなすことが最も大事なことだと私は思う。

この保育や教育の業界でも、ちゃんと保育や教育が分かる人がITという道具の効果についてちゃんと熟知し、情報の在り方、活かし方、効果の検証などの研修を増やし正しい理解をしていくことをやるべきだと私は思う。

そして我々のようにITをやる会社の人間も、安易に「お客様」という名の分かっていない人のニーズばかりにあわせたり聴くだけになるのを止め、儲けよりもまず先に子ども達の未来を優先しちゃんと何に使え何ができるか、自分にしかできないことは何かを真摯に考え使い手と一緒になって開発し活かしていくことが重要なのだと思う。

きっと今の子ども達が大人になったときには、ITを理解し使いこなしている人が目標に最短距離で到達することができる無限の可能性を手に入れていると思う。

だからこそ将来の子ども達のためにも、今を生きる我々大人がITという事実を常識や一般の価値観に囚われずにパートナー=道具として真直ぐ正視して深く学び込んで欲しいと願う。

国家の大計

埼玉県で関東ブロック見守る保育研究セミナーがあった。
子ども達のために、自分を素直にさらけ出し公開保育をしながら皆と一緒に保育の質を高めていくというやり方は今の時代にとてもあっていると思う。

ITの世界では、リナックスというOSがある。

通常はウィンドウズが有名だが、このリナックスは「オープンソース」という手法を取り、プログラムのソースを世界中に公開し一緒に良くしていきましょうとという理念で展開している。同じ理念のもとに集まったプログラマーが改良し続け日々非常に品質の良いものになっている。

これも思い切って、自分のやっていることの本質を隠さず、自分のものだけにせず、オープンにしているからその理念に共感し協同でより質の高いものにしていくことができるのだろう。

日本人はシャイなのでなかなか公開するという行為が苦手な民族だと思う。
しかし世界では、それでは自立しているニンゲンであると評価されない。
また、自分しかできないことで世の中に自分の命を還元することも見つけにくくなっていく。どんどん公開して自分の役割と可能性を広げていく方が良いと思う。

通常、参加者は公開するのを見に行く方がメリットが大きいと思われている。しかし実際は、このように堂々とオープンにする方がメリットはダントツで大きい。なぜなら、それを行うことで意見や感想、問題提起などが創発しそれだけ多くの方々の集合知というか、一人の専門家だけから得ていたような知識から、大衆に塗れ精査され非常に価値のある「知恵」に変わるからだ。

今回のセミナーでも、多くの気付きを皆で持ち帰ることができたと思う。

園での子どもの「お片づけ」が指針の人間関係に相関関係があると気づいた実践園もあった。他にも、共通理解を取るためにも発達をみていくことが必要でそのための会議には、言葉をちゃんと定義することだと気づいた園もあった。

こうやって、同じような価値観で問題意識を高めるから気付きを共有できるのだと思う。

この業界は、あまり保育のことをトップが語る風土がない。女性の仕事という今までの流れもあるが、だからといってすぐに経営の方ばかりに走るのもどうなのだろうかと思う。我々株式会社であれば、経営が基本でないと成り立たないが社会福祉法人や学校法人であればその基本以上の付加価値である「質の追求」に走る方が私は良いのではないかと思う。それが社会においての役割と自分にしかできないことに繋がっていると私は思うからだ。

またそれぞれが自園の方針でやっているからと野放し自由にそれぞれに基準が設けられているが、実際は子どもの養護や教育は国家の大計であるべきだと私は思う。

そのようなものがハッキリしないから、普遍的な指針や指標が重んじがられず流行の目線や一般的に安易なマスコミニーズだけが蔓延するのだろう。教育ママや早期教育などもちゃんとした国の指針が見えないから混乱し適当に多様化を続けるのだろう。

世界は、日本が細々拱いているうちにどんどん子ども達の命の生きる力を育むために様々な施策を数年以上かけて構築しているというのに・・・

良いニンゲンが良い国を創る、良い教育が、良い未来を創る。

今がこの先の15年後の未来に繋がっているとしたらこれからの世界を見通し眺望し、子ども達にどうなって欲しいのかの方向性は国のトップが普遍的に照らすべきだと私は思う。

国家の大計である、子どもの姿を国民と一緒に語れるような大人たちが増えればいいと思う。子ども達には、この国の代表として世界で命を活かし輝いて貢献して欲しいと願う。

子ども達のためにもこのブロックセミナーをまだまだ広げ深め、より本質と道を求めながら一緒になって今の時代の「オープンソース」的発想を大事にしながら保育の質をもっと深めるお手伝いを様々な角度から行っていきたい。

指針

「指針」という言葉を辞書でひく。

すると、「 物事を進めるうえでたよりとなるもの。」と書かれている。

多様な価値観や集団の持つ大衆心理、時代背景や環境の変化に於いて物事を進めていくためには一つの軸のようなものが必要でありそれを観てどのように判断するかを決めていくのが世の中の常であろうと思う。それを人物や有識者が指針や指標という形に残し、過去の過ちや未来への決断を今を通して普遍的に人々へ託していくのだと思う。

では、その指針をどうやって決めているのだろうか?

きっと、このような手順ではないかと思う。

まずは今までの歴史から観てこれからがどうかを考える。
データを分析して、本質がどこにあるのかを観て考える。
最後は話し合い決断者の人生観や先見性などにもよるのだろう。

方法はたくさんあるのだろうが、このように様々なものを包括的に観て決めていくのだろうと思う。だから、このように決められた指針はその実践者に於いても尊重して常住利用していくのだろう。

では、実践者に於いて指針を活かす上で最も大事なことは何だろうか?

私は、その『解釈の仕方』のほうだと思う。

使命を帯びているその時代の国のリーダーが、精魂込めて考えを指針で示す。
そこには叡智や哲学、思想や体験、知識が満遍なく取り入れられているのだろうと思う。

しかし、一つの文章や指針がその実践者の環境や背景においてそのまま使える場合と使えない場合がある。なぜなら、その文章は言葉が凝縮された意思を分かりやすく理解されるようにしているからだ。だからこそ、その文章をよく実践者やリーダーは一緒になって検証し、理解し、共感し、その後の拠り所となるものにしていかなければいけないのだと思う。

そうやって、一つ一つの指針を長い時間と日々の細かな実践に於いて練成していくものが「指針の本質」なのだろうと私は思う。

そして、そこまでで一体としなければせっかく素晴らしい指針といえどもそれを実践現場で活かせるものにならず、指針も指針になっていかないと思うからだ。

やはり「モノヅクリ」とは、誰の為に、何のために、いったいなぜ作るのかをまず取り組む際にみんなで深く協同的学びに於いて理解しないといけないのだろう。

先祖代々受け継がれてきた伝承文化や世の中の道徳倫理などの一般的に言語化されない観得ない指針だが、その指針を遺し活かす存在に実践者である我々がなれるように日々実践で真摯に努力することを忘れないようにしていきたい。

初心と宣言 2007

年の瀬は無心に穏やかに、静かに過ごすようにしている。

一年三百六十五日の中で自分自身を厳かに真摯に向き合い振り返り、その生き方のあるべき「中心軸」を見直すにはとても良い機会だと思う。

毎年、初詣はいつも夜のうちから参拝に巡る。

ここ10年は山口県萩市の松下村塾がある松蔭神社へ参拝している。

深夜に荘厳な神社の境内で感じるわずかに映る瞳の光りとゆらめく風、また静寂と無音の冷気やその漆黒の闇、すべては尊厳なる雰囲気を「杜」がまるで見守り演出してくれているようだ。

日本人には、古来より「厳か」といった透明な威と尊というような感性があると思う。
これは世界からみても、潔白な精神、その美しさ厳しさを受容する無二の至宝文化のひとつである思う。

このような叡智ある感受性もこれより後世を生きる我々の子どもたちへ在るがまま伝え、ゆずっていければいいなと心から思う。

思い返すと昨年2006年は本当に色々なことがあった。

一言でまとめれば、私にとっては『志』ということを真剣に見直すとても良い年になった。

迷っている時に相談した師匠からも信念がまだできあがっていないと指摘をされた。
本当にまだまだだなと常に迷う弱い自分の心をもう一度真っ直ぐ見つめた年になった。

佐藤一斎が遺した「言志四禄」の中にの一節にこのようにある

 『閑想客感は志の立たざるによる。
  一志すでに立ちなば、百邪退聴す。』

 (つまらないことで悩んでいるのは志(信念)がまだできていないからだ。志(信念)ができあがっていればどんなこともたいした障害にはならず、つまらないことで悩んだりすることも囚われることもない。)

志を世界や時代へ一本立てるためにも、一道を直向に求め孤高を目指していかないといけないと改めて初心に帰ることができた。

やはりどんな時も一道の極みを目指すならばそこで最も求められるのは「覚悟」なのだろうと私は思う。

覚悟は教えられるものではない。
覚悟は、多くの大恩人や邂逅の御蔭、感謝の賜物であり艱難のなせる業だと思う。

逃げないということ、その時にこそ内省し自我を見つめなおすということ、
生きるとは本当に素晴らしい感動に満ちているとよく涙がこぼれる。

シンクロニティというか、叡智というか、宇宙の中の不思議には心が震える。
こうやって出会いの神秘に、日々驚いてばかりだ。

すべてが自然そのものになるのにはまだまだきっと時間がかかるが深く味わいながら前をちゃんと向いてしっかりと歩んでいこうと思う。

また振り返る。

昨年は守りたいものと守りたくないものを決めた。
そう覚悟することができた。

今年は、より大きな変化の年になる。

自分しかできないことをみつけて、それを貫くことを決めたからだ。

何十億人という人がいるなかでニンゲンの寿命はたったの数十年ほど。
その中で自分ができることは一体どれだけあるのだろうと思う。

やりたいこと、興味があることが沢山あるのに、本当にやり遂げることができることは一体どれだけあるのだろう?
もし見たい世界への道や頂上が高いのならば、それを目指すのならば一体どれだけの時間が残されているのか?

知命をよくできたものしか立命できないものだと故安岡正篤氏の仰っていたことが、今は少しだけ身に染みてきた気がする。
だからこそ初心に帰りもう一度自分にしかできないことを見つけていきたい。

子どもたちにも、自分にしかできないことを見つめて命を昇華できるようになれるよう、より見守る環境を多くの出会いと邂逅と最高のパートナー達と一緒に社業を通して世界を創っていこうと宣言し再び心に誓う。