「指針」という言葉を辞書でひく。
すると、「 物事を進めるうえでたよりとなるもの。」と書かれている。
多様な価値観や集団の持つ大衆心理、時代背景や環境の変化に於いて物事を進めていくためには一つの軸のようなものが必要でありそれを観てどのように判断するかを決めていくのが世の中の常であろうと思う。それを人物や有識者が指針や指標という形に残し、過去の過ちや未来への決断を今を通して普遍的に人々へ託していくのだと思う。
では、その指針をどうやって決めているのだろうか?
きっと、このような手順ではないかと思う。
まずは今までの歴史から観てこれからがどうかを考える。
データを分析して、本質がどこにあるのかを観て考える。
最後は話し合い決断者の人生観や先見性などにもよるのだろう。
方法はたくさんあるのだろうが、このように様々なものを包括的に観て決めていくのだろうと思う。だから、このように決められた指針はその実践者に於いても尊重して常住利用していくのだろう。
では、実践者に於いて指針を活かす上で最も大事なことは何だろうか?
私は、その『解釈の仕方』のほうだと思う。
使命を帯びているその時代の国のリーダーが、精魂込めて考えを指針で示す。
そこには叡智や哲学、思想や体験、知識が満遍なく取り入れられているのだろうと思う。
しかし、一つの文章や指針がその実践者の環境や背景においてそのまま使える場合と使えない場合がある。なぜなら、その文章は言葉が凝縮された意思を分かりやすく理解されるようにしているからだ。だからこそ、その文章をよく実践者やリーダーは一緒になって検証し、理解し、共感し、その後の拠り所となるものにしていかなければいけないのだと思う。
そうやって、一つ一つの指針を長い時間と日々の細かな実践に於いて練成していくものが「指針の本質」なのだろうと私は思う。
そして、そこまでで一体としなければせっかく素晴らしい指針といえどもそれを実践現場で活かせるものにならず、指針も指針になっていかないと思うからだ。
やはり「モノヅクリ」とは、誰の為に、何のために、いったいなぜ作るのかをまず取り組む際にみんなで深く協同的学びに於いて理解しないといけないのだろう。
先祖代々受け継がれてきた伝承文化や世の中の道徳倫理などの一般的に言語化されない観得ない指針だが、その指針を遺し活かす存在に実践者である我々がなれるように日々実践で真摯に努力することを忘れないようにしていきたい。