寄り添い

今日は、ある幼稚園団体にオブザーバーとして招待され保育者の資質や研修のシステム構築についてアドバイスをしてきた。

委員長は私が非常に尊敬している方で今回もとても勉強になった。
アドバイスをする立場で伺ったのだが、私自身が一番多くの得られた気持ちだ。

委員長は大阪で8箇所の施設を運営している園長先生。
いつも朝は自園の玄関に立って子ども達一人ひとりに挨拶の実践を続けている。
深い志や信念があり、様々な役割を担いながらも全てを寛く受け容れているニンゲン的な器の大きさの中に魅力が煌いている。

常に相手の大事なものを勝手に決め付けずに共感し、それを認めてあげている。
そしてそれを自分が考えている方向になるまで、相手の気持ちを尊重し大事にしながら見守りモノゴトを正しく進めていく。

時としてうまくいくときもあるし、いかないときもある。
でもそれでもそれを尊重して進めていく。

そんな人として人のなんたるかを深い理念と哲学で真摯に歩む姿に、私自身の足りない部分を再び見つめる最高の機会になった。

以前、「寄り添う」ということについて誰かに話をしたことがあった。
私はよく言葉を定義するときには自然界のことで例えることが多い。
自然界では普遍的なことはあるがままに行われている。

たとえば、花は自然界の中で生かされながら自らが立ち開花する。
そこに自然界の中で生かされた蝶や蜂が飛来してくる。

そしてお互いを生かしあいながら自らが生を実現していく。
それを自然界という。

こうやって、自ら環境の苛酷な変化の中においてもお互いの弱さを認めお互いを活かし高めあいながら成長しあっていく「寄り添い」を行っている。

だからこそ、振り返る。

決して自分勝手にだけは生きてはいけない。
自分が絶対に正しいなどとは決して思ってはいけない。

『寄り添う』とはそういうことだと私は思う。

よく寄り添うことを「弱い」と勝手に勘違いをして必死で頑なに心を張り続けている人もいるがそれはどうだろうと思う。

何かの刷り込みによってずっと一人で孤独に負けないように戦ってきたのだから仕方ないのだが一度そうなってしまうと価値を大切にしていきているような人と何らかの出会いがなければ変わっていくことができないのかもしれない。

私は「強い」というのは、弱い心を認めることが本当の「強い」ということだと思っているからだ。

自分の大事なものを守るために弱さを受け入れ、本来の生きる強さを手に入れるのだと思う。

本当に寄り添うためには、自分の内面にある不安、未熟さ、頑固さ、刷り込み、宿命、など様々な「弱さ」をすべて認めないとできないのだと思う。

子ども達には、「その弱さを認めること」が強いことなんだと大人である自分を鏡とし真摯に見つめて実践を通して伝えていきたい。そうやって、弱さを認め合う社会がいつの日か自然界の一部として再びちゃんと戻っていくことができるようにまずは自分自身が「寄り添い」を大切にし在るがままに生きていきたい。