祝う

世間では一年という暦の内に一度、自らの生まれたことを皆で感謝するために誕生日というイベントがある。

カグヤでは、日々本気にミッションに挑む中でも豊かなニンゲンらしい優しさを忘れず心の豊かさやゆとりを大切にするとして共に道を歩む仲間の誕生日を必ず皆で祝うようにしている。今後は、そのスタッフをこの世へ生んでくれたご両親への感謝もあわせて会社から行うようにしている。

園でもよくお誕生日会などがあるが、祝うということがどういうことなのかを考えて祝っているかどうかが常に大切なのだとよく思う。

出会いと邂逅は、その生まれた瞬間から始まった永遠であり悠久の癒しだと思えるからだ。

命を祝うというのは、先祖や両親、多くの人たちの御蔭で生まれてきたご縁への感謝、そして自分が周囲に生かされていることへの自然への邂逅、そして自分の内面との深い対話とあるがままの平安だったりと多くの人がその祝いの中で気づき、より美しく一緒に変わっていくことが本当の祝うことだと思う。

そしてそれを受け取った人や与えた人たち皆がそれに感動して幸せに成長していくのだろうと思う。

多くのイベントや行事は日々繰り返されるたびにマンネリ化しやすいので気をつけないといけない。

イベントや行事というものは常に新生し、常に反省し、常に意識して革新を集積させていく心構えが必要なんだろうと思う。

たとえば誕生日でも命に同じものがないのだから同じイベントはありえないのだ。
普遍的なものは、命がそこにあること。
行事はどんどんその人その時、その場所、その邂逅で変わっていけばいい。

大切にしていきたい変わらないものと、変わるものを繰り返しの中でもちゃんと正対して続けていきたい。

午前中は参宮橋にある自然派パンを食べて明治神宮でゆったりとロハス体験をしてお昼から千代田区一ツ橋にあるクシ・ガーデンというマクロビオティックのレストランへ行き、皆で美味しい食事をしながら遺伝子組み換え食品の話、食の陰陽の話、粗食や食育についての話をした。

またマクロビオティックを栃木の地元で教えている先生と隣席になり色々と自然と料理の話で盛り上がった。

巷では決算だ年度末だと言って騒いでいても根本的な豊かさとそれは別物だと改めて感じた。

心のモノサシなんてやっぱりいくらでもあるんだなと世間の喧騒とは別の処で心行くまで皆で楽しんだ一日になった。

今はお金で買えないものはないとまで吹聴され勘違いし錯覚する人が増えた味気ない社会だからこそ、本当の「豊かさ」の本質を観ることに気づける機会が与えられた素晴らしい社会に入ったのだろうと改めて思う。

ここで自分の誕生日を振り返る。

常に誕生日は「謙虚」という言葉を思い出す。
謙虚という言葉に出会ってからまだ10年ほど。
まだまだ本当に実践は難しいなと心底思う。

いつの日か自らの執着がなくなるまで毎年誕生日は同じように自省し振り返っていきたい。

師匠のように「こだわりを持ちながらも執着がなくなる人に成る」ことを目指していきたい。

子ども達に背中を見せることができる立派な大人を目指して歩んでいくことを再び誓い31歳の新たな出発を迎える。

選択

毎日、人はあらゆる選択をしながら生きている。
その中でも外側に対して行っている選択と、内側に対して行っている選択があると思う。

たとえば外側で言えば、自分が与えられた現実(REAL)の環境からどうするかを選択するというもの。もう一つの内側では自分がどうしたいかどうなっていたいかという理想(IDEAL)の環境から選択するというもの。

世間でよくいう「うまくいく」と定義されているのはその両面がバランスよく存在して調和している時なのだと思う。だからそのためには決してどちらも急ぎすぎてはいけないのだろうと私は思う。なぜなら生きていく上において何よりも大切なものをおざなりにしてしまうことになるからだ。在る特殊な状況を除けば、その両面をゆっくり味わいながら自分の生のモノガタリを謳歌し楽しむことが「良き人生であった」と次に繋がる最期にはなるのだろうと定義しているからだ。

しかし、もしその両面のバランスが何らかの刷り込みという影響を受けて壊れている人を元の自然に戻そうとするためにはどうすればいいのだろうか?

私はこう考えている。

それは外側という現実で起きていることを、内側の世界を使って「まったく別の観点のものに一度変えさせる」ことだと。

毎日同じ景色や風景を見ていたものが、ある時を境に突然まったくそれが違う景色や風景に変わるようなものだ。

外側の世界は自分が与えられた環境を世間や他人が評価することで出来上がっていく。
内側の世界は自分がそれをどう受け取ったかで出来上がっていく。

つまり外側は制限があるのに対し、内側には制限はないのだ。

何かの本で読んだことがある。

「人間が持つ、心の広さは宇宙よりも広い」と。

内側の広さをただ面積的に大きく拡げるという教科書的な感覚ではなく、内側の観点を別のモノに帰れば自然に広がるということなのだろう。

そのための第一歩はまずは何より相手を「人間的」に認めてあげることだと思う。

ここでの人間的とは、美しい心、豊かな心、そんなものを持っている人間が自分なんだとそのものごとの本質を周りが深く共感し賞賛し、それを相手以上に信じてあげることだと思う。
人間的に深く認めてあげて誰よりも深く信じてあげれば、その人の内側の世界はまったく別の観点に変わっていくと思えるからだ。

今の保護者や保育士、保育、そして業界、子どもを中心とした外側の環境のあらゆるものはバランスを壊しているように私は観える。

子どもたちには、その人間が持つ素晴らしさを謳歌する大人たちが身近にいて内外ともに「生きる力」を手本とした人間の模範になれるようにまず私たちがそれをできるように内側の世界を正視してバランスをとっていこうと思う。

それは子どもが在る喜び、居る豊かさ、その全てを人間的に感動したり感謝したりありとあらゆる感情が出尽くした先にある偉大な込み上げてくるモノレベルまで実感させてあげること。

そしてそれを気づいたならば、世界の調整役を私達が喜んでかってでようと思う。
それが自分以上の大切したいものだと真剣に思えるからだ。

・・・ミッションに戻っていく。

再構築

ニンゲンは、動物の中でも特にゆっくりと成長していく生き物だという。
特に大人になるまでには20年もの歳月がかかると世間では定義している。
野生の動物であれば、ある程度生まれたらすぐに肉体が外界に適応していく。
そうでないと食べていくことができない、つまり生きてはいけないからだ。

なぜニンゲンはそうなっているのだろうか?

私の主観だがきっと自然界においてニンゲンは色々なことをゆっくりと一つずつ学んでキチンと世の中に調和し自然にしていく調整役だったのかもしれないと感じる。先人達が定義した万物の霊長となるように生物界に大きな影響を与える世界のリーダー的存在としてその成長速度がきっと必要不可欠だったのではないかと思う。

それはすべての生き物には意味のないものはなく、役割がそれぞれにあり共生していると思えるからだ。

共生するためにはそれぞれが自然界においての原理原則という真実や本質の軸がぶれないように自らの命を昇華していくのが大事なのだろう。そうやってしか相手を深く尊重し在るがままに認めていくことができないからだ。

なのになぜ今の時代は、その最低限の調和が満たされなくなってきたのか?
多くの生き物が絶滅し、環境が壊れ、人々の豊かな心も荒廃してきている気がする。

私はその原因の一つに余分な貯蓄というのがあるのではと思ってしまう。
足るを知るというか自らの持分以上を持たないというイキカタはできないのだろうか?

身近でも誰かが貯めれば誰かが損をするという仕組みを感じる。
「ありがたい」といった感謝の気持ちの方を蓄える方が価値があるのに。
「もったいない」という方が相手の心を大切にし満たすというのに。

どこぞの国のように石油の独占のために殺し合いまでする国がある。
これは本当に今の時代における自然なことなのだろうか?

貪欲な自我欲を外界に求めジブン達だけが生き残ろうというのはどうだろうか?
常に主役は「ジブン達」だけでいいのだろうか?

こんなに不自然になったのはいつからなのだろうか?
モノがなくったって心が豊かであればそれでいいという生き方がなぜ今はあまり大切にされないのだろうか?

精神だけを成長させ肉体が持つ普遍的な自然を無視し機械的に都市化された社会にだけあわせていくことが自然界にこれからもどのように混沌や混乱を起こすのだろうか?

精神も肉体あっての精神なんだよと、人々が持つ「死」がそれを我々に教えてくれているというのに。自然淘汰という響きは哀しいものではない、そこに安らぎを感じるものが自然なのだと思う。

なぜもそんなに急ぐのか、急ぎすぎるのか・・・

このように速度には、肉体的時間と精神的密度があるのだ。
その両輪がちょうどかみあわないのでは調整することはできないだろう。

・・・

話を戻すとそれでも人は悠久の年月をかけて「ゆっくりと育つ」真理は変わらないと思う。
そう考える時に、何だか不思議な矛盾を今の世の中には感じてしまう。

「精神」というカタチがないものでも同じようにゆっくりと壮大な年月をかけて育っていくはずなのにニンゲンはその精神の速度をも無理やりに上げてはいないか?

最近、ある雑誌で子ども達へのインタビュー記事を見つけた。
私自身の「子ども」への刷り込みもある程度あると思うのだがそれでもその子達のほとんどの発言は昔で言うところの「子どもっぽく」なく感じるものだった。
妙に大人っぽい意見を言うし、妙に大人や社会を意識している気がする。

もっとゆっくり子どもである方が自然なのにと思ってしまう。
見た目の子どもっぽさと、子どもが持つ純粋な童心とは意味が違うと思からだ。

大人が創り上げていく社会は、子どもが育つ時間的な速度をも強引に速めている気がする。子どもにとっての速度とはゆとりをもったゆっくりとした速度という密度が自我を正しく形成させ社会に順応し自然に調整していくのだと私は思う。

周りの人たちや大勢の集団、今のオトナ達を見ながら、この辺だろうと思うことで自分を他人にあわせていくことで正しいのだと刷り込まれそんなジブンを満たすことで精一杯になっている感じがする。

もっと子どもでいいのに。
そう心から感じてしまう。

きっとそう子どもにはさせてあげることが自然なんだと思う。
我々大人が、自分たちの勝手なモノサシで子どもの成長を邪魔してはいけないと私は思う。

この辺で世界や子ども達のためにもどこぞの人々が勝手に引いた線、ボーダーラインを再構築する時期ではないだろうか。

人々が勝手に造ってきた人工的に人為的に構築した今の社会において、もし我々ニンゲンが自然界の調整役だとしたらそろそろ本気で調整する時期になったのではないのだろうかと思う。

何代も何代もかけて、長く築いてきたものを再構築するのは大変だと思う。
しかしそれをしっかりと尊重し、子ども達の信じる未来を新たに構築するために勇気を持って変えていきたいと願う。

ふるさと

今日は富山県氷見市にある幼稚園保育園が総合的に融合しているこども園で保護者へ向けて講演を行った。

参加していただいたどの保護者も地域の方々も真剣な眼差しで私の話に耳を傾けてくれた。
一緒に子どもと関わる大人として価値観を共有できることは何物にも代え難いありがたい感謝の気持ちで一杯になる。

今回のご縁もまた、これからの子どもの世界を創り上げるための社業や命の糧にしていきたいと思いました。貴重な邂逅を本当にありがとうございました。

この園では、私が伺った中でも特に「本物へのこだわり」が光っている園だった。園長先生が、「与えるのならば最高のもの」を園の経営理念にし実践されているからだ。その自らの生き様というか、生き方、在り方を伝統や地域への愛情、そしてその深い信念に基づいた様々なモノやコトが「こだわり」というカタチになって全体を通して園の姿を外部へ伝えている感じがした。

いつの時代もそうだが、本当に伝えたいことがあれば遠慮なく徹底して「こだわる」べきだと思う。

そこに所謂お金という一方方向の唯物的モノサシではなく、概念的付加価値のモノサシの方を大事に守る、それこそが本来で言うところの『理念の体現』だと私は思う。

歴史的に観ても宗教も、哲学も、全てそういった人たちの「こだわり」でしか後世の子孫や未来へ向け大事なものを遺していくことができなかったからだ。

特に園長との一連のお話の中で感じたことがあったのでご紹介します。

前日入りしたので夕方から園内研修を行いその後、翌日講演が終わり東京へ戻るまで本当に温かく私をアテンドしていただきました。その間、氷見市の魅力について色々なお話をしていただきました。

どの話も氷見市を心から愛し、地域の人たちとともに生きている素晴らしさを感じる内容でした。そしてどの話もある軸から反れずに語っていたことがとても印象的でした。

「私はね、いつか子ども達がこの氷見に戻って来たいと思って欲しいのです」

この言葉に深い共感と自分の中にある何かとても懐かしいものを感じました。

私が思う「ふるさと」とは、決して生まれた場所だということではない。

またいつの日かここに戻ってきたいと思う人々の営みや文化や慣習、そこに根をはり心豊かに生きている人たちの命を愛するこころ、自立し飛び立つ子ども達が戻ってくることができるようにそのままに心の在るがままを残そうとする、そんな温かく優しい慈愛に満ちた生活こそが本当の「ふるさと」であると感じました。

心の中にある、変わらないもっとも大切な場所。

それが「ふるさと」なんだと。

そしてそれを持つ人たちを守ることこそ地域を大切にすることに繋がっているのだと。

以前、ブログで書いた「自分の根」。
根のないものには命はないのだと。

そのことを深く内省した2日間になりました。

子ども達が都市化して近代化したグローバル社会の中において、根っこを忘れずその命の輝きをより煌きに変える事ができるようにこの「ふるさと」を全世界の園と一緒に遺していきたいと心から誓った。

これからは、大事なモノやコトを守るためにデザインを融合しアートにするように色々なことを調整する力が生きるためには必要だと私は改めて思った。

本当に大切なものをこども達にきちんと伝えて遺していけるように、理念を具現化していくお手伝いをより真摯により覚悟を持って社業に変えいこうと思う。