今とイマ

すべての時間や記憶を思うとき、そこに「今」があることに気づく。
「今」を観て「今」に生きるとは全ての癒しであり静寂であると思うときがある。

私は今という概念には二つの次元があるのだと思う。

たとえば、時間的に過ぎ去る「今」のこと。
もうひとつは、そこに確かな気づきがあり変化する「イマ」のこと。

二つは、同じ言葉であってもまったくその意味が違う。

たとえば、生きていると様々な物事や人たちに出会うそして別れる。
それは生死という別れもあれば、道を歩む上での別れがある。

その別れが在るゆえに「今とイマ」が存在しているのだとよく振り返る。

この「今とイマ」という瞬間を切り取るとき一方からでは語れない真理が潜んでいるのだと思う。

ニュースやマスコミ、世間や巷では常にこの先の未来の不安や過去のアヤマチばかりにフォーカスすることばかり。そんな日々に於いて子ども達のこれからの未来や過去に一体何の価値があるのか。

最も優先する大事なことは「今、気づいた」という「真実のイマ」の方だと思う。

子どもが自然であるとして、本来の在るべきようはこの「今」にこそ正対し気づいた「イマ」をこれからどうするかを一緒に考えるべきではないか。

子ども達の「イマ」は現在いったいどうなっているのか。

私は単なる今という概念からもっと別の「イマ」を問題意識や危機感で語り合え改善していくことが大事なのだと思う。

そしてそれをよくも考えず簡単にそれを否定してしまうことは本当の大人がすることなのかと私は思う。そんなことをやっているから世界の調和が乱れ、負のサイクルを繰り返すのだと。

イマをどう感じ、イマをどう受け取り、イマをどう生き切るか。

今は永遠の一瞬であり、悠久の流れの中の無限であるとしたらこの今をどう子ども達のための「イマ」に変えていくことが本懐であり全てではないのかと私は真摯に思う。

こんなにも長く続いた肉体的に傷つける本能的な戦争のない平和の中で、我々の精神の成熟は次のステップに入り、その環境との調和のプロセスは非常に難しい局面にきていると、「イマ」、私は思う。

そのイマをどう受け取りどう否定せずにイマを信じ感謝し在るがままに受け止め受け容れ、信じ抜き信じ切るか。

未来なんてカタチのないものよりも、大事なのはどうにでもなるこの掛け替えのない気づいたこの永遠の一瞬の「イマ」。

「今」との今までの安易な関係を見直し感謝のままに大人が手本を見せていくこと。それだけが子どもに継ぎ譲れる大切な『イマ』になっていくのだと私は思う。

私は未来への不安も過去へのアヤマチもどんなものもそのまま感謝できるようにイマを肯定できるように我々が率先垂範し、だからこそ「イマ」へ生き切るということを優しく伝えていきたい。

その「イマ」が持つ深層の癒しと緑の調和を感じたまま社会の中、そして世界の一員としての個としての人間が真間に自立できるようになることを願いミッションに挑む。