成長の意味を考えてみた。
なぜそもそも人間が成長するとは何なのか?
この数ヶ月間、カグヤスタッフも大きく成長してきたと実感する。
それぞれが成長していくには、その「あるべきよう」にいくつかの可能性があることに気づく。
もちろん、まずは自分がモデルを示すことが大前提だと思うのだが「素材、素養、素質」とはまったく私の主観に基づく定義にて整理するために分けてみた。
素材
精神性というか魂というか、日々繰り返し陽を与えて真心で水を与えれば、その成長は無限に伸びる。伸びるというより素直になって優しくなるといったほうがいいのだろうか。それはそれぞれが自立するまでやらなければ、やめると止まってしまう。これを理念だというのかもしれない。
素養
スキルというのがあり、ある力は人間社会のルールとして平均値までは義務として社会に出す以上、その人間をそこまでは躾る義務が在る。保護者的な義務のこと。動物社会でもそうだが、その種が集団で生きていく上での絶対的なマナーのようなものだ。これは習慣と慣れによりカバーできる。
素質
才能というか宿命というか、その人が何の実をつけるのかは、それぞれの持っている価値観の優先順位による。そのもっとも興味のあるところを見てその思いの強さというか悩みの深さというか、後は素材のようなものなのかもしれない。これは、その持っている問題意識か危機感のビジョンの組み合わせがアートであるかどうかによる。
この3つの中で一番難しいのが、3つ目だと思う。
1、2は、努力精進して修己治人していけばある程度は自己実現というものが得られるのだろうが、3はそうはいかない。
自分の描いているビジョンに、相手の持っているビジョンが組み合わさることでどうなるのかというような「空間認識創造能力」(今は仮)のようなものが必要なのかもしれない。
選ばれた人とはよく言うが、正確には「選ぶ人」が居るということだと思う。
選ばれた人の影に必ず、選んだ人がいるのだとしたら最も人間が成長するということを理解しているのはそういう人ではないかと思う。
私の尊敬する故吉田松陰先生も、選ぶ人であったのだと思う。
ここでの「選ぶ」とは単に世間でいう選ぶではなくどこか偉大な次元から「降りてくる」といった感じのものなのだろうと思う。
しかしこれはまだよく分かっていない。
つまりは、中庸、ファジー、もしくは夢幻というかそのようなゆらゆらとしたものこそが本質である気もする。
ここでは偉大なものを観る感性のままに「かんながら」であることが「選ぶ選ばれる」にはやはり大事な気がする。
そして選ぶ人にならなければ、選ばれる人にもならない。そして、選ぶ人とは自分のビジョンをどのような問題意識の在る人と組み合わせれば達成できるかが分かる人なのかもしれない。
これを考えるとまさに師匠はそういう人だ。
やはり師匠のそういう感覚はとても凄い。
師匠はそれを「直感」だと、そして違う言い方では「天命」と仰った。
説明を聞けば分かりやすくいつもしてくださるのだが、でもそれは私がわかるようにと現象での解釈であり実体ではないのが分かる。
得意不得意だとか安易に表層に惑わされるのではなく、本質はきっとその人がもっている思想の根幹、もしくは思想の源流、もしくはトラウマ、もしくはその人の持って生まれた宿命と才能、その何かが、自分のビジョンと結びついた時、その人を選ぶのだろう。そしてその人たちの御蔭で自分が選ばれるのかもしれない。
カグヤ、そして私は人を育てる仕事であり、さらには子どもを育てることへ間接的にも携わっている以上、決してこれは避けてはとおれないし、いつまでも逃げてはいられない。
いつの日か必ず、自分にしかできないことを見つけ世の中へその能力を還元するためにもまた、人を活かし活かされるという他を生きる本質に自らが自然化するためにも、その人にしかできないことが「選べる人」になりたい。そして決断決意をしたら不退転の強き思いを持ってまた学び続けていきたい。