物事には、どんなことにもそこに何かの隠れた意味が必然的に在るのだと思う。
それは目を強くすると表層上の視覚で見える範囲だけに留まり、まったく物事の在り様はよく映らなくなる。物事に正対するに於いて、いったいどこで観ようとするのかが物事の在り様の本質を知るためには必要なのだろう。
そうでなければもったいない自分の唯ひとつの命を活かすには至らない気がするからだ。
たとえば意味を思う時、その時は果たしてそれが偶然だと思ったことでも後々になればそれが大きな決断の分水嶺だったり人生の方向を決めてしまっていたということは周知のとおり往々にしてよくあること。
特に日ごろから努力し、その意味を紡ぐほどの感覚を研ぎ澄ませていれば自然にその出会いや邂逅を引き寄せていくのだと思うが今の世の中には余計な情報がありすぎてなかなかそうはならない。
何が余計かというと、自分の内面にある雑念の情報のこと、他人にその辺を委ねようとする幼い頃からの刷り込みの連続のこと。
やはりここでも大事なことは、常にその物事に正対する場に於いて確固たる揺ぎ無い軸や理念、また平常心で静寂を維持する魂の強さのようなものなのであろうと思う。
たとえるとそこにある、生や死、また絶対的な無常の境地によって常に「なぜ」を哲に確かめる求道の唯中に在るのだろうと思う。
まだまだ私もその時々の色の濃さに無意識にもっていかれる自分がある。
孔子の『論語』にある
「子曰く、吾十有五にして学に志し、三十にして立ち、四十にして惑わず、五十にして天命を知る。六十にして耳順う。七十にして心の欲する所に従いて矩を踰えず。」
今の時代と彼の時代は実際的な年齢や背景が異なっているとしてもそれでも道を生きていく上でとても指針になる詞のひとつだ。
齢31才、自分にしかできないことを知るために歩みつつも、本当に齢40才頃にして不惑にはなれるのかなとまたまた自問自省ながらひたひたと歩む日々。
でもそんな日々に於いてどんなことにも無意味な些細なことはないと思え、どんな出来事に於いても常に隠れた確かな意味があることをが在ると思えると、とても安息で幸せな気持ちになる。
どんなことがあるかが分かってしまう人生なんてつまらない。
そしてどんなことがなかったとしてもあるものにする人生こそがオモシロイ。
やっぱり旅のように目的地へ向かう途中にある、わくわくどきどき、そして喜怒哀楽、豊かな思い出やその密度の深く濃いものがあるからこそちゃんと「生きた」ということになるのだろうなと私は思う。
今日も、そんな夢のようなシンクロニティを感じた一日になった。
今日、杉並区にある保育園にカグヤが新しく始めた「オルタナティブコンサルティング」の契約を正式にいただいた。
これから2年間、共に同じ目的のために歩みそして邂逅をいただいた人たちとともに子どもを中心に据えて未来を創造しそれぞれの理念を本気で体現していくことになる。
ここの園の創始者でありその創設の理念はとても素晴らしい。
「人を救い、世を建て直す」
その満貫の思いが、多くの人たちに大きな影響を遺し今でも様々な人たちへ感化し続けている。すべての始まりはすべての未来に繋がっていることをまたここでも実感することができた。
やはり初心やスタートには、偉大なる意味が必ず存在するのだ。
そしてこの方がその思いを世の中に打ち出し一本立てたのは齢31歳のとき。
私の今の年齢とまったく同じだ。
今日を振り返り意味を観ると、まだまだ私はあらゆる隠された意味と正対し真摯に学んでいくのだと誓い直すことができた日になった。
私の満貫の思いをカグヤの創設の理念としてこの新サービス「オルタナティブコンサルティング」を通して世界の子どもたちの輝ける未来へ向かって自然に広がって往く意味を感じ、日々平常心や静寂を保ち得、信念を醸成し襟を正して矢印を常に自分へ自分へと向け続けていくぞと・・・イマここに思う。
まずは自分が変わってみせようと子どもたちに改めて誓う。