情熱の出所のことを他人に聞かれたことがある。
情熱の出所なんて分からないけれど至純の夢があるからだろうと私は思う。
なぜそう思うのかも分からないし、なぜ自分がとも分からない。
けれど、なぜか生まれたばかりの子どものことを思うときその純粋な夢を壊すわけにはいかないと思える自分が其処にある。
こんな時は、あの詩を思い出す。
「ドン・キホーテ」
永遠の青春の騎士は
五十にもなってから、胸の中の
やむにやまれぬ気持ちを実行に移した。
七月のある美しい朝、旅に出た
美しいもの、真実のもの、正しいものを、
索めて旅に出た。
彼の前には世界があった
いかがわしくきたならしい巨人たちの棲む世界だ
そして彼の下にはロシナンテがいた
悲しくも雄々しいロシナンテが。
わたしは知っている、
ひとたびこの情熱に捉えられたら
ひとたび心に高貴な重みがかかったら
どうにもならぬのだ、わがドン・キホーテよ、
風車とさえも戦わねばならんのだ。
君のいうとおり、
デュルシネはこの世でいちばんの美女だ、
取るに足らぬ小商人どもに向かってさえ
このことを叫ばねばならんのだ、
すると奴らは君の上に押しかぶさり
袋だたきに合わせるに違いない、
だがしかし、君は渇ける無敵の騎士なのだ
炎のように、君は生き続けるだろう
鉄でできた重い殻に閉じこもり
生きるだろう
そうしてデュルシネは日毎に美しくなるだろう。
トルコの詩人〜ナジム・ヒクメット(訳服部伸六)
詩には万言の単語を持ってしても伝えられないものを伝えられる。
今の時代は、刹那的で詩をまともに解釈しない傾向があるけれど私は詩こそが本当に伝えることのできるリテラシーの本質なのではと思う。
そして、常に矢印を自分へ向ける理由があるとするならば、情熱の出所があるとするならば私が座右の師である故吉田松陰先生の遺言である「やむにやまれぬ大和魂」なのではないだろうか?
そうやってしか生きられない不器用さも内包しながら、かんながらの道のままに今の時代にあわせて和としての里の仙人足りえるか。
世界への挑戦はまだはじまったばかり。
この大きな矛盾はどう私を変えていくのか。
情熱は、「ままに」、そして至純の夢を水無月の雨に思う。