新渡戸稲造の武士道を読んだ、ものすごい気迫を感じた。
宮本武蔵の独行動を読んだ、ものすごい覚悟を感じた。
古に一本通った人たちは、みんな常に自分への研鑽を怠らなかった人たちだ。
カグヤはコンサルタントが居る。
コンサルタントは、ある意味でとても厳しい生活を送っている。
常に自問自答し、より厳しく律した生活を余儀なくされる。
それでも、手に入れたい大事なものがあるから続けることができるのだろう。
ひょっとするとそれが個々の持つ「志」というものなのかもしれない。
以前、動静についてブログで書いたことがあった。
相対する出来事の中で本質が観得て来るというものだ。
私たちが伺う保育園幼稚園では、常に行事や諸事に追われて忙しくしている。
またゆったりしているところもあるけれど、それはそれで暇だったりする。
しかしよく考えてみると、動静というのは相対する中にあるものなので静であれば動を求め、動にあれば静を意識することが成長に於いては大事なことなのだろうと思う。
中国の『菜根譚』にこういうことが書かれてある。
静中の静は真静にあらず。
動処に静にし得来たりて、わずかにこれ性天の真境なり。
楽処の楽は真楽にあらず。
苦中に楽しみ得来たりて、わずかに心体の真機を見る。
(意訳)
環境を静かにして、ようやく心の静けさを保つというよではまだまだ。
活発な活動の中でなお心の静けさを保ってこそ、道を体得した者といえよう。
楽しい場所で心を楽しませるというのではまだまだ。
苦労の中に楽しみを見出してこそ、心の不思議な働きを生かした者だといえよう。
つまりは、何かを得たいと思うのならば苦中に楽を得、楽に苦を得ることが動静の真理と繋がっているのだろう。
以前、なぜそこまでして全力投球するのですか、なぜそこまで力を使い切って一日を終えないと気がすまないのですか、と社員に聞かれたことがある。確かに、全力投球して力を使いきろうとしているようにまわりにも見えるし自分でもよくそう思う。
しかし、この意味を少し考えてみるとすぐに答えが出る。
自分の力を使い切らない時の方が夢見も悪く、非常に心身ともに疲れるからだ。
それらはすべて、このギリギリの緊張感の中で自らの能力の限界を広げるために自分へ向けた矢印ゆえにだろうと思う。もし逆に一日を安易に終えたりしhて、一日を振り返るとき自らへ向けたの自己評価が中途半端でしかなければそれが何よりも非常に辛く悲しいことだと心から思えるからだ。
自己採点するにも全力を尽くしたかどうかが前提でなければ点数をつけることすらもできないからだと私は思う。
いつからかあまり他人の評価の方をたいして気にしなくなり、自分自身の評価をまず優先してモノゴトを判断して生きていこうとすると自然に誰が見てようが見ていまいが真面目に全力を尽くして取り組もうとしてしまう。
ここでの真面目というのは、「時間のすごし方や生活の仕方がまじめ」ということではなく、「自分の定めた人生の目的、その結果に対する目標に対してマジメ」なのだということになっているのだろうと思う。
よく遣り通した一日の最後は、心の平安と安らぎ、そして通常の楽では得られない「真の悦び」を得ることができる。内省が楽しみに変わるのも遣り通した日であったからだと思う。
結局は、自分の感情や思考だけが自分を形成しているのだから、やはり自分が好きな自分でいたいし、自分にしかできないからこそ自信がつくのだと思う。
たとえどんなに大きな悩みや考え事があったにしても、日々全力を出し切り目の前の脚下の実践にどこまで真剣で挑み本気で尽くしたかが我々コンサルタントとしての本懐であると思う。
コンサルタントへの道は、まだまだ道半ば、より矢印を自分へ向けて研鑽・練磨を永遠に続けていく気迫と覚悟を持つ。
そうやって子どもたちには、父性を持つ大人のモデルになれるように私たちは私たち自身の評価に基づき納得のいくプロフェッショナルとしての仕事をしていこうと思う。