場〜 環の境

先日、オルタナティブコンサルティングに入っているある園で理念再構築を行った。

そして、そこで設計図をまとめるために数々のことを聞き届け、そして数々の思いを引き受けながら終日かけてスタッフと園長とで深く対話をした。

私は今まで仕事柄、多くの園とご縁をいただいた。
その中でも、常に問題意識と危機感だけは失わずに正対してこれた積み上げが今のように園長と深い邂逅の感謝に恵まれるようになったのだと思う。

本当に、毎日のことにどれだけの心を込めて仕事をするのかというのは常に自分の力量や信条に寄るのだなと改めて感じた。

今回は、保育環境、保育実践、その他、人や空間、物など具体的に園が新たに変わるように設計図をまとめていった。

トップの人生観や園での変えてはいけない伝承伝統などを組み込み思いを編みこんでいく。

はじまったばかりだが、満貫の思いは必ず100年を貫くその園と子どもにとっての最高の方向性になると心から信じている。

私がコンサルティングで大事にしているのは「場」という考え方。

たとえば、「学校や教室を安易に用意することだけが子どもの保育や教育の環境を創った」のではないと私は思う。

子どもが育つには、そこにいる教師や校長、そして級友や上級生下級生、保護者、数々の関係が空間を構築し、偶然と邂逅を得て子どもを自然に感化していくのだと思えるからだ。

やはり教育や保育の本質は教えるのではなく方向性による「理念の感化」であると私は思う。

そして感化という言葉には、必ずその一期一会で生み出された人とヒトの奇跡の「場」にこそに生まれるのだと私は信じている。

今までの人生に於いても、本当に感化されたのは立派な人が一期一会に生み出す瞬間と永遠の「場」にその人の大切な思いや揺ぎ無い信条が吹き込まれたときだ。そして、それはまるでその奇跡の風に触れるように自然と一体として心もまるごとに感化されていく。

園では、園長をはじめ、主任や先生も子ども達が安心して育っていけるように保育の環境を日々構築していると思う。

そしてそこにいる先生も子どもにとっての良い環境だという空間の一部だとしたときに、立派な人が創ろうとするその「場」が、子どもにとっての安心して育つ環境を生み出していき子ども達同士で感化しあい、本質的な素晴らしい成長の螺旋を創り上げて発展いくのだと私は思う。

そしてその「場」とは、人、物、空間、縁、理念、時代、宿命、、、など多くの出来事が複雑に絡み合いながら真実を表現していくのだと思う。

幼児教育は、環境が大事だとよく言われる。
どの園もみんな環境に力を入れているのはぱっと見ればすぐに分かる。

しかし、本当に環境とは安易に流行りにのっとった物や空間、人をただ用意すればいいのだろうか?

私が今まで伺ってきた素晴らしいと思える園はそんなことはしていなかった。
そこには理念に基づく成長と想いの「場」があった。

未来の子ども達が安心して立派な人たちとともに感化され、本来のやりたいことを思う存分やれるという使命に生きる力を手に入れることができること。そして、立派に巣立ち社会へ世界へ共生するために自立していけるようにと心からの祈りを込めてみんなが場を創り上げていた。

それだけは、私が脚下の実践とこの目、この耳で知りえたひとつの答えだ。

だからこそ、本当の意味での幼児教育における「場」とはどのようなものなのかをカグヤはこれからも園経営者や現場へ向け真摯に正対し伝えることで感化していきたい。

観点を変えれば、今までシンドイと思えたことも喜びに変わる。
それが場の最初に訪れる変化の兆しだ。

まずは私達が脚下の実践を通して「場」を世界中に創り、その場を通して世の中にきちんと感化できるように常に私自身、三省し、理念を醸成していこうと誓う。

深い感謝ともに。

世代

私は「everblue」という団体からよくウォームマグやエコバッグなど自分で考え必要と感じたロハス関連商品を購入する。

この団体は、地球環境を考えている団体や企業そしてボランティアなどが賛同し、みんなでひとつになって活動をささえあっている。冊子なども年間購読であわせて購読している。この「everblue」は、ever(=いつまでも)とblue(青い地球)をつないだ言葉だそうだ。

いつも地球のことを考えると昨今の身近な世代のことを私は思う。

自分たちが生きている時代や時間が自分だけのものだとしたのはいつの頃からだろうと・・・
昔の人たちは、短い生涯に於いてもそれは自分だけのものとはしてはいなかった。

古人は常に次に生きる子どもたちのことや関わる周囲の生物を万物の霊長として思いやり、そして天からの恵みがいつまでも続くように心で祈り、そして先人先達から受け継いだ記憶を大切に守りぬいてきた。

いつからだろうか・・・

こんなにたくさんの人たちが他人と自分との関係を孤立無縁化しようとしたのは。そしてなぜ価値観が成熟するはずだった21世紀の日本の社会に於いてこのような異常な価値観が普通に大衆に容認されてしまったのだろうか・・・と。きっと歪の理由はたくさんある・・・

成熟した精神とはもっと豊かで揺ぎ無い自然との調和、つまり「かんながらの道」ではあったはず。日本人はそれを知っているはず。

平和と引き換えに、なぜ人間は大事なものをすぐに忘れてしまうのか。
またここでも、傲慢な動物的な人間の本能に支配されてしまうのか。

もう今の若い世代や社会にいる人たちは、自分が生きるということが、本当に自分だけで生きられるとさえ思えるくらい完全に今のシステムに染まり、勘違いしていてまったく気にならなくなっているのかもしれない。

どんなところにいたって、みんなは同じところに立っている。それが地球。そしてどんなに国境や格差を創ったって人は同じ空間を共感している。それが地球なんだ。ひとつになる、そしてみんなで助け合い寄り添い生きるとは、地球とともに生きるということだ。

こんな当たり前のことさえ、あるがままにできないのはなぜなのだろうか。

最近のニュースや、周囲の話を聴いているとこの時代の人間の価値観は、この空間や場を持つ地球や自然を人間がほぼ完全にコントロールできると思い違いし、天の裁量や采配にいちゃもんをつけ後付して、すべてのともにあるべき生き物を蔑ろにして生態系を滅ぼしていくことをも気づいていない気もする。

医療だって科学だって、浅はかな人間のちっぽけな刹那的な解決のためにさもそれが分かったかのように成功したと言い切り振舞うことで大きな富を動かしている。

そんな治療なんてよりもやるべきことがたくさんあるはずなのにそこには着手しようともしない。

しかし繰り返し歴史が必ず証明するようにもうすぐ大きな竹箆返しで気づくことになるのだろう。地球がなければ、刹那的に富はあってもその意味がないからだ。

人は時に流されるのは簡単。何も考えなければそのまま時は流れる。

でも過去の歴史の先達が残してくれた記憶を受け取る「今」を生きる私達は本当にそのまま流されていていいのか?

私達は、一人でも先祖が欠ければ今の自分はここに存在しない。
そしてその先祖はみんな多くの警笛や警告を私達へ遺して譲ってくれている。

その感謝に気づき報いるためにも、いったい今我々は真摯に何に取り組んでいくべきか。

それを分かる人たちこそが、世代を担い、世界のバランスの調整役をかってでるしかないのだろうと私は思う。

別にそれは環境ボランティアやNPOだけがそれだと言っているわけではない。

大事なのは、次世代のためにも本気で地球と一緒に生きるということがどういうことなのかを思い出すことなのだと私は思う。

きっと、一世代で叶えることが出来る夢なんてたいしたことはない。

百年先、数百年先のことを思ってこそ本当の夢なのだと思う。人間に与えられた先見の力は、遠い未来次世代の夢を繋いでいくことが素晴らしいのだと思う。そしてその世代の夢は私達の子ども達が叶えてくれる。

ここに生まれてきた命を引き継ぐ本質があるような気が私にはする。

今の子どもには、自分だけのことではなく、世界を含めた地球の存在を身近に感じることができるような常に次世代、数世代先のことを思うスケールの大きな子ども達になってほしいと強く願う。

そしてそのためにもまず我々大人こそ、子ども達のモデルとなるようにせつな的な生き方を已め、魂の質を磨き、ちゃんと何世代も越えても大事にしていく進化の本質をきちんと繋いでいける生き方を見せていきたいと思う。

世代を思い、地上に生きる命を省み改めて深く地球に関わっていこうと思う。

コミュニケーション2

以前、ある園で伺った話で参考になる出来事があった。

その園に子どもを預けている保護者から幾度となく求められる要望にこたえられず悩んでいるのでどうすればいいのかという相談を園長からもらった時の話だ。

その中でも特に大きな要望や問題は、昔の園長が続けていた年中行事を止めて新しい行事にすることへの反発だった。

そこの園は、マーチングで有名な園で全国大会などにもいつも参加しているほどの園だ。しかしその行事を実施するためには、半年以上かけて毎日の保育時間を削りマーチングの練習を園児に強要させないといけない。

ここの園だけではないが、日本の保育園や幼稚園は年中行事があまりも多い。

先日、講演会でドイツのグレッチェ博士との対話の中でドイツでは運動会はどうなっているかと質問したらそんなものはドイツでは軍隊しかやっていないと答えていた。

会場のみんなも苦笑いしていたが、今の時代の幼稚園という施設の本質を捉えた答えだったように思う。

話を戻す。

この相談があった園でも子どものためにとはじめていたことが、時代の流れとともに先生と園児の負担の方が大きく見えたということで新園長がよくよく考え抜いた結果、マーチングをやめて負担の軽い和太鼓にしたというのだ。

しかし、そのことが気に入らないとのことだ。

保護者からは、「保護者の気持ちを大事にしていない」とか「相談もなく勝手に変えた」とか「そんな園だったなんて残念だ」とか、、そんな意見が蔓延していた。

もちろん、「園長が悩んで決めたものなので信じています」や「確かに先生が疲弊していると感じるので」とか、「和太鼓もすごくいい」という意見もあった。

しかし、こういうときは反対勢力がやはり勢いがあるので話は平行線をたどる一途。

園長は3年我慢すれば、落ち着くので・・・と仰っていたがそれは園の問題は時の流れで解決するけれど保護者にとっての根本的な問題解決はしないのでその方法は最善ではないと私は話した。先延ばしにしたり、時に任せていると必ずその原因は過酷な結果をつれて解決するまでカタチを変えて問題が発生し続けるものだと思えるからだ。

モノゴトは、根幹が解決しない限りいつまでも大きくなりながら螺旋のように戻ってくるものだ。どんな問題も逃げては必ず追ってくるものだ。だからこそ、それを感謝しチャンスだと思い立ち向かうことが大事なことだと私は思う。

そこで長い時間、相談に乗りながら分かってきたことがある。話を園長や保護者、双方からよくよく伺ってみるとお互いの共通の目的も見える。それは、お互いにお互いの尺度で「子どものことを思っている」ということだった。

ただやり方や方法やお互いの価値観が少しだけ違うのだ。

そこで、割り込むのはどうかと思ったが情報リテラシーの観点からアドバイスを行うことにした。

園長は、「子どものためにゆったりと保育をしてあげたい。そして音感教育は以前のように続けて大事にしていきたい。」とのこと。これをちゃんと分かるようにプレゼンテーションをすることをお伝えした。

そのためには、自分が分かった気にならずに保護者にも分かるように専門性を持ってなぜ行事を変えるのか、そしてその理由、将来への不安、子どもへの不安、自分の目指すところ、信じてほしいこと、お互いがWIN=WINになるためにお互いが譲歩するもの、を整理してコミュニケーションを段階に分けてやっていただくことにした。

そして、最後にはすべては子どものためにやっているのに、大人たちが協力できずに関係が悪化するならばどれが一番子どものためになっていないのだろうか?と投げかけてもらうようにした。それからすぐには解決したわけではないが、1年かけてじっくり忍耐強く話を続けていただくことにした。

うまくいきすぎかもしれないが、2年目にはその園は「お互いが何よりも大事に子どもを思っているから」とお互いが本当の目的にたどり着いてこの問題は解決に向かったそうだ。

もちろん、2〜3名の分かり合えない頑なに自分の主張を通す保護者もいたそうだ。しかし、周りの保護者を見ていて次第にその態度も姿勢も変わってきたそうだ。

驚いたことに、それからというものその園は父母会がとても協力的になり行事を全面的に参加して助けてくれるようになったそうだ。問題が根源から解決すると、今までにない新たな関係ができる良い例だと思う。

これは紛れもなく私が実際に自分の目と耳で見聞きしたものだ。

もちろん並々ならぬ忍耐と努力で解決したのだが、そういうことでしか園長の理念が醸成されないのだから素晴らしい邂逅だったのだろうとも私は思う。

私自身も多くの問題が起きるが後で振り返るとその困難や艱難に於いて、自らの至誠を正したときに理念が練られているように思う。自己陶冶というのは、やはり縁をどう解釈し、無二の邂逅としていくのかという自らの信念に拠るものだと改めて思う。

そういえば、先日のリヒテルズ直子様がオランダ社会での文化での話の時もコミュニケーションにおける本質に同じようなことを仰っていたことを思い出した。

オランダの国民は、WIN=WINを大事にするので一人勝ちはせずにきちんとした話し合いという「コミュニケーション」をとって、お互いが納得する着地点をお互いが分かり合うまで話し合うのだという。それを正義だということに定義しているそうだ。過去の争いの歴史の中で学んできたコミュニケーションの方法のひとつだそうだ。

そしてこのコミュニケーションは、先々を見通した互いの輝ける未来のための「いま、ここ」での話し合いになっていることが大前提だと私は思う。将来のどの時点のWIN=WINについて基点を置き話をするのかでお互いの譲り合いと歩みよりの成果はまったく違ってくると思えるからだ。

やはりコミュニケーションの本質とは、他を理解し、他を受容することができるかどうか、つまり分かった気にならずにどこまで話しつくすことができるのかということだろう。

そのためには、お互いが自分の襟を正すといった謙虚な姿勢を持ち続けることができるかどうかがまずは根源にないといけないのだろうと私は改めて思う。

今の時代は、分かりやすい言葉やしぐさ、制度などでモノゴトを深く掘り下げようともしないし、むしろそれをメンドクサイこことして人生でもっとも大事な互いに活かしあうということを御座なりにする。

本当は、今のような時代だからこそ、時間もかかるし、根気もいるコミュニケーションを大事にしていかないといけないのだと私は思う。

そのためにも、2つの大事なことがあると私は思う。

1つは、「自分はどうなのかという矢印を自分へ向けてもらうこと」
2つは、「相手のことを自分がまず信じること」

つい人間は、うまく行かない理由を他人のせいや自分の見ている外側の世界のせいにしてしまう。

本当は、自分が創っている世界なのだからすべての問題の根源的な解決は自分にこそあるのだ。

だからこそ、常に自分を改善し自助努力を怠らず、自分の質を高めていく姿勢を子どもたちにはみせていきたいと思う。

コミュニケーション1

インターネットの出現により個々が情報を無尽蔵に発信でき、そして受信できる時代になった。

文字が今までの既成概念のカタチを超え、個々の人生観や思想の影響を受け、日々新しい言語がインターネット上では生まれてそして消えている。

文章のコミュニケーションが変われば、それを解釈する人たちの使う言葉のコミュニケーションも変わっていく。

多様化する社会とは、まずは言語から多様化するものだと私は思っている。

昔の人たちは、単語を共通認識として扱えるように言葉を大事に扱ってきた。そしてそれはその国の歴史や文化などに根ざした『指標や指針』のようなものによって言語の理解を支えてきたのだろうと思う。

その『指標や指針』は、憲法や指南書、立派な人たちの思想の源流に触れたり、発言をかみ締めたり、また親子の道や道徳倫理などに基づく地域での言い伝えなどがまさにそうだ。

しかし、今はこのような指針があまり重要視されず蔑ろにされていて見え難くなっている。

相手が喋っている言葉がどちら側に拠っているのか、その会話がどこの領域から持ってきたのかなどを見極めるのには力がいる。

それは聴き手の理解の幅や倫理などの観点や解釈の尺度に左右されるからだ。

ただでさえ、多様化した言語化社会に於いて何かの共通理解のためにお互いが話し合いをするのに、問題の起点を自分の感情や刷り込みでいっぱいになり、透明な感性や素のままの判断を奪われ尺度を自分のものだけにしてしまうとそれは永遠に分かり合えないということも往々に起こりうる。

そもそもその尺度は、自分の感情で満たした絶対正義を持って自分以外の世界を力技でコントロールしようと無意識にしている利己尺度であることが多いのでは思えるからだ。

よくよく考えてみると、相談や話し合いのうまくいかない場合の理由は「まず自分から」という謙虚な主体性がそこにないものがほとんどだと私は思う。

それはまずその相談する人本人が、自分がまずどうなのかと相談の立場を自分へ向けてくれない限り決して答えも出ないし解決しようがないので本当は相談へのステージすらも準備はできてはいないのだ。

お互いの目的がもしも自分へ向けた矢印に於いて双方が目的に対して一致するものから来ている問題であれば、リテラシーの本質を理解し、正しいコミュニケーションの段階を取ればどんな問題でも解決するのだと私は思う。

解決しないのはすべて、相手をどうこうしてやろうとする短絡的で刹那的に自分を棚に上げた「操作主義」から起きるのだと私は思う。

私もそういう相談は常に勝った負けたの議論になるのでやりたくはない。それは単にコミュニケーション不足が問題だと思えるからだ。しかし大きな会議や決定しないといけない偶然の場に於いてどうしてもやらないといけない場合は、もっと気づきに繋がる話し合いが自分に向けてできたのではないかと深く反省することが多い。

やはり、どんな問題も相手のせいではなく自分の不徳の至らなさが原因で問題は起きているということ。

相手をどうこうではなく、まずは自分を改めることだけを大事にしていくことがコミュニケーションの本質だと私は思う。

しかし、現実は時間という経験や体験という尺度があったり、その人の関わってきた人々のとの関係性からの人生観という尺度があったり、様々なものが偶然奇怪に編込まれているからこそ、何かの出来事や事件を持ってして人間関係のキョリを近づけていくという「ヤマアラシのジレンマ」という心理学用語もある。

これもこの世の縁の不思議を感じざるを得ないことだ。

もちろん、相手のことを深く分かり合うことはできても相手になることはできないのだから私自身は常に自分がどうなのか?、まず自分はできているのか?を相手以上に相手を思いやることを本懐とし、自分の姿勢を徹底して正し、同じことは繰り返さないように常に自省し、成長し続けていきたいと誓う。

まだまだ途上である精神の脆弱さも受け容れられるように、縁と気づきの機会に感謝することを忘れずにかみ締めながら歩んでいきたい。

保育環境

『先生も子どもたちにとっての良い環境のひとつになろう』

これは、以前師匠が何気ない会話の中で発していた言葉だ。
保育環境とは、いったいどういうものかと真摯に考えさせられたものだ。

環境とは、世間一般で認識されているのは自分以外の周りのことに対するカタチのことを俗には言う。寛いものを定義している言葉は、その受け取った人の創造性の広さに左右されるので平均をとってそう教えられるのだろう。きっと学校でもそう誰もが教わったし、誰だって「環境」というとそういうものだと認識されている場合が多い。

だから、保育現場では環境というとすぐに保育家具や教材、その他の遊具やツールなどが環境構築をするものだと保育士や教諭は普段の会話の中で何気なく何の疑問も持たずに話し合いをし環境を語り合っている。

しかしよく考え直してみると、保育環境とはいったいどうなのだろうか。

保育というものに於いての「環境」とは決してただの遊具や教材など短絡的な物品と関わりという関係性だけのものを言うのではないのではないかと私は思う。

「子どもが育つ」というものに於いての人間が語る保育環境とは、別のモノサシで考えれば環境によってつくられるのではなく、環境をつくる人がいるから育つのだと思えるからだ。

環境を創る人が環境なのだと思うこと、そこには天への畏れや縁への感謝、謙虚に粛々と自省しながら地に足をつけて歩む道を目指す生きかた、即ち天地人のようなものがあるように見える。

そしてそこから「保育という仕事の原点」、つまりは子どもたちが育つ環境として自らが「見守る」ということに繋がるっていくと私は思えるからだ。

「見守る」というのは、以前このブログでも書いたが人間が自立して他と生かしあう生命の持つ「共生の理念」に於いて、地球に在り生きているものとしての「普遍の役割」であると私は思っている。だからこそ、子どもを見守るためには環境を究める自身の姿勢は必ずついてくるイコールのものであり、保育をする人たちが保育の道を究めるために通るべき生きる力の扉のひとつだと思う。

保育園、幼稚園では、教材をはじめ、カリキュラム作成や、行事、コーナー作りなどいろいろな眼前の課題に取り組んでいる。もちろん、環境構築のために日夜努力精進は怠らず、その子どもたちの自立に向けてこの国と世界の未来を見通しながら子どもたちの保育環境づくりを続けていると思う。

しかし、先生といわれる自分がその保育環境をどう捉えているかでその環境づくりは子どもの育ちに於いて大きな意味を違えることになると私は思う。

ひょっとすると、安易にどこかの環境を切り取ってそれをやって安心していると大変慄然とするような結果に繋がったり、自己満足しているという環境構築の誤解に陥っていることもあるから普段から省み、気をつけないといけないと私は思う。

故安岡正篤先生の遺した言葉にこんなものがある。

「環境を人が作るという言葉に囚われてしまえば、人は単なる物、単なる機械になってしまう。人は環境を作るからして、そこに人間の人間たる所以がある。自由がある。即ち、主体性、創造性がある。だから、人物が偉大であればある程、立派な環境を作る。人間が出来ないと環境に支配される」

とても心に突き刺さる言葉だと私は思う。

現在、世の中の園では安易に誰かが開発したマニュアルやその場処置ツールなどだけを使って、経営の求める道や保育が求める道から目をそらし、なんともならない現実から逃げる。そしてトップである経営者が自分の理念をちゃんと確立したりせず、そこで働く人たちの自己練磨の機会や環境を用意もせずにしてどうして子どもたちの育つ保育環境づくりをしていくことができるのだろうかと思うと私は非常に危機感を感じる。

私は、子どもたちのための本当の「保育環境」とは企業をもってしてもまずは子どもに関わる企業人、社会人である自分自身が子どもたちにとって良い環境の一部になろうと徹底して努力精進することだと思う。会社経営のリーダーはまず、自身の理念を通して共に働く人たちの未来に向けた彼らの成長と自立と共生を祈る気持ちを忘れずに、日々魂を高める機会と練磨する場、そして彼らが最大限活きる環境を用意していきたいと自問自答、自省自戒の運営することが環境づくりの本懐であると思う。

そういう理念をまず確立しなければ、保育業者や幼児教育に関わる会社として子どものための保育環境の構築の一部を本質的に担っていることにはまったくならないと私は思える。

安易に売上や利益、自分の都合だけに執着する保育理念なき経営者は子どもたちの保育環境において無意味であり、空虚であり欺瞞であり、それは育てているという本質とは無縁であり、ひょっとすると自分自身が自分の幸福や成長をも邪魔をしているし、子々孫々への負債をつくりそれを無意識に引継ぐような本末転倒になってしまうかもしれない。

だからこそ、まずは自らが律し、子どもたちのためにも、そのようなただ環境に支配されているだけの会社にはカグヤは絶対になるわけにはいかないと私は思う。

まずは私から、そしてこの「イマ」もまずは自分自身へ、私とカグヤは自分へ自分へと厳正なる矢印を自らへ向けてまずは自分自身が立派な大人のモデルを示し、子どもたちの育つ保育環境づくりの一部になることを深く信じて、社業に透徹邁進していく。

この世界と未来の子どもたちの平和と共生を心から願い・・・保育環境を共に価値を分かち合えるご縁ある方々とともに創ってみせる。