『先生も子どもたちにとっての良い環境のひとつになろう』
これは、以前師匠が何気ない会話の中で発していた言葉だ。
保育環境とは、いったいどういうものかと真摯に考えさせられたものだ。
環境とは、世間一般で認識されているのは自分以外の周りのことに対するカタチのことを俗には言う。寛いものを定義している言葉は、その受け取った人の創造性の広さに左右されるので平均をとってそう教えられるのだろう。きっと学校でもそう誰もが教わったし、誰だって「環境」というとそういうものだと認識されている場合が多い。
だから、保育現場では環境というとすぐに保育家具や教材、その他の遊具やツールなどが環境構築をするものだと保育士や教諭は普段の会話の中で何気なく何の疑問も持たずに話し合いをし環境を語り合っている。
しかしよく考え直してみると、保育環境とはいったいどうなのだろうか。
保育というものに於いての「環境」とは決してただの遊具や教材など短絡的な物品と関わりという関係性だけのものを言うのではないのではないかと私は思う。
「子どもが育つ」というものに於いての人間が語る保育環境とは、別のモノサシで考えれば環境によってつくられるのではなく、環境をつくる人がいるから育つのだと思えるからだ。
環境を創る人が環境なのだと思うこと、そこには天への畏れや縁への感謝、謙虚に粛々と自省しながら地に足をつけて歩む道を目指す生きかた、即ち天地人のようなものがあるように見える。
そしてそこから「保育という仕事の原点」、つまりは子どもたちが育つ環境として自らが「見守る」ということに繋がるっていくと私は思えるからだ。
「見守る」というのは、以前このブログでも書いたが人間が自立して他と生かしあう生命の持つ「共生の理念」に於いて、地球に在り生きているものとしての「普遍の役割」であると私は思っている。だからこそ、子どもを見守るためには環境を究める自身の姿勢は必ずついてくるイコールのものであり、保育をする人たちが保育の道を究めるために通るべき生きる力の扉のひとつだと思う。
保育園、幼稚園では、教材をはじめ、カリキュラム作成や、行事、コーナー作りなどいろいろな眼前の課題に取り組んでいる。もちろん、環境構築のために日夜努力精進は怠らず、その子どもたちの自立に向けてこの国と世界の未来を見通しながら子どもたちの保育環境づくりを続けていると思う。
しかし、先生といわれる自分がその保育環境をどう捉えているかでその環境づくりは子どもの育ちに於いて大きな意味を違えることになると私は思う。
ひょっとすると、安易にどこかの環境を切り取ってそれをやって安心していると大変慄然とするような結果に繋がったり、自己満足しているという環境構築の誤解に陥っていることもあるから普段から省み、気をつけないといけないと私は思う。
故安岡正篤先生の遺した言葉にこんなものがある。
「環境を人が作るという言葉に囚われてしまえば、人は単なる物、単なる機械になってしまう。人は環境を作るからして、そこに人間の人間たる所以がある。自由がある。即ち、主体性、創造性がある。だから、人物が偉大であればある程、立派な環境を作る。人間が出来ないと環境に支配される」
とても心に突き刺さる言葉だと私は思う。
現在、世の中の園では安易に誰かが開発したマニュアルやその場処置ツールなどだけを使って、経営の求める道や保育が求める道から目をそらし、なんともならない現実から逃げる。そしてトップである経営者が自分の理念をちゃんと確立したりせず、そこで働く人たちの自己練磨の機会や環境を用意もせずにしてどうして子どもたちの育つ保育環境づくりをしていくことができるのだろうかと思うと私は非常に危機感を感じる。
私は、子どもたちのための本当の「保育環境」とは企業をもってしてもまずは子どもに関わる企業人、社会人である自分自身が子どもたちにとって良い環境の一部になろうと徹底して努力精進することだと思う。会社経営のリーダーはまず、自身の理念を通して共に働く人たちの未来に向けた彼らの成長と自立と共生を祈る気持ちを忘れずに、日々魂を高める機会と練磨する場、そして彼らが最大限活きる環境を用意していきたいと自問自答、自省自戒の運営することが環境づくりの本懐であると思う。
そういう理念をまず確立しなければ、保育業者や幼児教育に関わる会社として子どものための保育環境の構築の一部を本質的に担っていることにはまったくならないと私は思える。
安易に売上や利益、自分の都合だけに執着する保育理念なき経営者は子どもたちの保育環境において無意味であり、空虚であり欺瞞であり、それは育てているという本質とは無縁であり、ひょっとすると自分自身が自分の幸福や成長をも邪魔をしているし、子々孫々への負債をつくりそれを無意識に引継ぐような本末転倒になってしまうかもしれない。
だからこそ、まずは自らが律し、子どもたちのためにも、そのようなただ環境に支配されているだけの会社にはカグヤは絶対になるわけにはいかないと私は思う。
まずは私から、そしてこの「イマ」もまずは自分自身へ、私とカグヤは自分へ自分へと厳正なる矢印を自らへ向けてまずは自分自身が立派な大人のモデルを示し、子どもたちの育つ保育環境づくりの一部になることを深く信じて、社業に透徹邁進していく。
この世界と未来の子どもたちの平和と共生を心から願い・・・保育環境を共に価値を分かち合えるご縁ある方々とともに創ってみせる。