以前、ある園で伺った話で参考になる出来事があった。
その園に子どもを預けている保護者から幾度となく求められる要望にこたえられず悩んでいるのでどうすればいいのかという相談を園長からもらった時の話だ。
その中でも特に大きな要望や問題は、昔の園長が続けていた年中行事を止めて新しい行事にすることへの反発だった。
そこの園は、マーチングで有名な園で全国大会などにもいつも参加しているほどの園だ。しかしその行事を実施するためには、半年以上かけて毎日の保育時間を削りマーチングの練習を園児に強要させないといけない。
ここの園だけではないが、日本の保育園や幼稚園は年中行事があまりも多い。
先日、講演会でドイツのグレッチェ博士との対話の中でドイツでは運動会はどうなっているかと質問したらそんなものはドイツでは軍隊しかやっていないと答えていた。
会場のみんなも苦笑いしていたが、今の時代の幼稚園という施設の本質を捉えた答えだったように思う。
話を戻す。
この相談があった園でも子どものためにとはじめていたことが、時代の流れとともに先生と園児の負担の方が大きく見えたということで新園長がよくよく考え抜いた結果、マーチングをやめて負担の軽い和太鼓にしたというのだ。
しかし、そのことが気に入らないとのことだ。
保護者からは、「保護者の気持ちを大事にしていない」とか「相談もなく勝手に変えた」とか「そんな園だったなんて残念だ」とか、、そんな意見が蔓延していた。
もちろん、「園長が悩んで決めたものなので信じています」や「確かに先生が疲弊していると感じるので」とか、「和太鼓もすごくいい」という意見もあった。
しかし、こういうときは反対勢力がやはり勢いがあるので話は平行線をたどる一途。
園長は3年我慢すれば、落ち着くので・・・と仰っていたがそれは園の問題は時の流れで解決するけれど保護者にとっての根本的な問題解決はしないのでその方法は最善ではないと私は話した。先延ばしにしたり、時に任せていると必ずその原因は過酷な結果をつれて解決するまでカタチを変えて問題が発生し続けるものだと思えるからだ。
モノゴトは、根幹が解決しない限りいつまでも大きくなりながら螺旋のように戻ってくるものだ。どんな問題も逃げては必ず追ってくるものだ。だからこそ、それを感謝しチャンスだと思い立ち向かうことが大事なことだと私は思う。
そこで長い時間、相談に乗りながら分かってきたことがある。話を園長や保護者、双方からよくよく伺ってみるとお互いの共通の目的も見える。それは、お互いにお互いの尺度で「子どものことを思っている」ということだった。
ただやり方や方法やお互いの価値観が少しだけ違うのだ。
そこで、割り込むのはどうかと思ったが情報リテラシーの観点からアドバイスを行うことにした。
園長は、「子どものためにゆったりと保育をしてあげたい。そして音感教育は以前のように続けて大事にしていきたい。」とのこと。これをちゃんと分かるようにプレゼンテーションをすることをお伝えした。
そのためには、自分が分かった気にならずに保護者にも分かるように専門性を持ってなぜ行事を変えるのか、そしてその理由、将来への不安、子どもへの不安、自分の目指すところ、信じてほしいこと、お互いがWIN=WINになるためにお互いが譲歩するもの、を整理してコミュニケーションを段階に分けてやっていただくことにした。
そして、最後にはすべては子どものためにやっているのに、大人たちが協力できずに関係が悪化するならばどれが一番子どものためになっていないのだろうか?と投げかけてもらうようにした。それからすぐには解決したわけではないが、1年かけてじっくり忍耐強く話を続けていただくことにした。
うまくいきすぎかもしれないが、2年目にはその園は「お互いが何よりも大事に子どもを思っているから」とお互いが本当の目的にたどり着いてこの問題は解決に向かったそうだ。
もちろん、2〜3名の分かり合えない頑なに自分の主張を通す保護者もいたそうだ。しかし、周りの保護者を見ていて次第にその態度も姿勢も変わってきたそうだ。
驚いたことに、それからというものその園は父母会がとても協力的になり行事を全面的に参加して助けてくれるようになったそうだ。問題が根源から解決すると、今までにない新たな関係ができる良い例だと思う。
これは紛れもなく私が実際に自分の目と耳で見聞きしたものだ。
もちろん並々ならぬ忍耐と努力で解決したのだが、そういうことでしか園長の理念が醸成されないのだから素晴らしい邂逅だったのだろうとも私は思う。
私自身も多くの問題が起きるが後で振り返るとその困難や艱難に於いて、自らの至誠を正したときに理念が練られているように思う。自己陶冶というのは、やはり縁をどう解釈し、無二の邂逅としていくのかという自らの信念に拠るものだと改めて思う。
そういえば、先日のリヒテルズ直子様がオランダ社会での文化での話の時もコミュニケーションにおける本質に同じようなことを仰っていたことを思い出した。
オランダの国民は、WIN=WINを大事にするので一人勝ちはせずにきちんとした話し合いという「コミュニケーション」をとって、お互いが納得する着地点をお互いが分かり合うまで話し合うのだという。それを正義だということに定義しているそうだ。過去の争いの歴史の中で学んできたコミュニケーションの方法のひとつだそうだ。
そしてこのコミュニケーションは、先々を見通した互いの輝ける未来のための「いま、ここ」での話し合いになっていることが大前提だと私は思う。将来のどの時点のWIN=WINについて基点を置き話をするのかでお互いの譲り合いと歩みよりの成果はまったく違ってくると思えるからだ。
やはりコミュニケーションの本質とは、他を理解し、他を受容することができるかどうか、つまり分かった気にならずにどこまで話しつくすことができるのかということだろう。
そのためには、お互いが自分の襟を正すといった謙虚な姿勢を持ち続けることができるかどうかがまずは根源にないといけないのだろうと私は改めて思う。
今の時代は、分かりやすい言葉やしぐさ、制度などでモノゴトを深く掘り下げようともしないし、むしろそれをメンドクサイこことして人生でもっとも大事な互いに活かしあうということを御座なりにする。
本当は、今のような時代だからこそ、時間もかかるし、根気もいるコミュニケーションを大事にしていかないといけないのだと私は思う。
そのためにも、2つの大事なことがあると私は思う。
1つは、「自分はどうなのかという矢印を自分へ向けてもらうこと」
2つは、「相手のことを自分がまず信じること」
つい人間は、うまく行かない理由を他人のせいや自分の見ている外側の世界のせいにしてしまう。
本当は、自分が創っている世界なのだからすべての問題の根源的な解決は自分にこそあるのだ。
だからこそ、常に自分を改善し自助努力を怠らず、自分の質を高めていく姿勢を子どもたちにはみせていきたいと思う。