和の学び

昨日、第15回保育環境セミナーがあった。

定員100名のセミナーが126名の参加者があり、年々増えていくのが目に見えるほど分かりこのセミナーの重要性と必要性を改めて感じ身が引き締まる思いがした。

思えば、最初は手探りでスタートしたものだったけれど藤森先生の明確なビジョンとそれを支えるコアメンバーの協同的学びの実践に於いて実行することができた。リーダーを深く信じることができて本当に仕事がやりやすかったことにいつも心から感謝しています。

今では同じような価値観で世界標準の保育を実践する園も増え、実践園報告では常に順番待ちの状態にもなった。実践園報告についても、実践に裏づけされた取り組みの行間からまず自分がオープンにしていくことでより皆のアドバイスを引き出し自園をはじめ業界の発展と子ども達の未来のために尽くしていく。

協同的学びの本質は、まず自分から主体的に包み隠さず高い問題意識と危機感でオープンにしていくことなのだなと最近はつくづく思う。

私は、古来の我が国の根本思想にある「和」ということを思うときそれは「違い・チガイ」を認め合う本質的な関係を思う。

通常の世間で言われるモノゴトの「違い」というのは、よく表面上で使われることが多い。表面上の違いなんて見た目の違いなので誰でも分かる。キリンとゾウが違うのだって一目見れば分かる。しかしキリンとゾウと同じにしてチガイを見出すのは難しいだろう。

たとえば、これを人間で言えばあなたと私は見た目も違うからや個性が違うのでや、もしくは住んでいる環境も性別も違うからといった目にすぐ見える違いのことをよく言う。これを分かり合えば和になるかというと、それは関係をただ割り切った「仲良しクラブ」のような村的依存組織を超えずお互いに距離を置いて付かず離れず喧嘩や言い争わない事なかれ主義でそれぞれ「私達は仲間だよね」と暗黙的に自己満足しあっているだけの関係を構築しているだけだと思う。

私が思う本質的な「チガイ」とは、同じような行動をしながらも似ていてまったく異なるようなものをそれぞれでキチンと見出したり、性格に同じ部分を見出しそれでもチガイを分かち合ったり、考えが一緒であるところを見出し、その中でもチガイを明確にして認め合っていく。つまり、チガイを見るとは単に目に見える安易な違いをただ共感しようとするのではなく、同じであるところからそのチガイを「認め合う」という相手を尊重する本当の関係を創りだすことなのだと私は思う。

共同的と協同的とでは、同じ響きの言葉であってもまったく同じではない。
我慢と尊重とはまったく意味合いが違うと思えるからだ。

我慢して仲良くなるのにいったい何の意味があるのかなと思ってしまう。
それは集団生活の中でのルールとして、理解しておけばいいのにそれを人間関係で構築するのに使うとはいったい何たることかと思う。

もちろんどちらが良くてどちらが悪いかなんて言わないが、ちゃんと両方深く理解して使い分けが正しくできることが本来のあるべきようだと私は思う。

保育の意見交換だってそう、同年齢保育や異年齢保育だって別に年齢のことを言っているわけではない。すぐに人は、年齢構成が違うからと思って分けようとするがいるが本当はそうではない。

それは、上記に話したチガイの考え方から再考すればきっと分かるはずだ。
その中での同じ部分を見とるには、相当な議論が必要になる。同じような保育観を様々な実践から見出し、その中でもやり方、考え方が似て非なるものがありそれをお互いに認め合うまで議論する必要があるのだ。

ただ単に同年齢を異年齢にすればいいというものではないのだ。

先日会社でスタッフから「社長が言う「侃侃諤諤の会議」とはいったいなんですか?」と聞かれたことがある。

その時、「まさに今これがそうだ」と言ったのだが改めてここでその本質を語ればお互いが違う意見だから言いたいことをただ言えということではなく、日本の本来の「和」の精神にのっとり同じものの中からチガイを見出すために協同的に相手を深く尊重し創造的に議論を本気でやっていくという意味で私は考えているのだ。

私は聖徳太子から出された根本ビジョンにある日本の和の心とは、みんな仲良くではなく「和して同ぜず」の方がより意味が近いのではないかと常に思っている。

単に仲良くなることは我慢をすればきっとある程度は誰でもできると思う。

しかし、仲良くというのがある目的や目標のために使われるということは必ず「協同的学び」を行う必要があり、そのためには本質的な同じものを認め合うという相手とのチガイを深く「尊重」し認めることができなければ誰でもではできない。

やはり和の心の本質は謙虚さや至誠、素直さなど、仁、義、礼、智、信などの力が常にその真剣な場や本気の環境に求められていると私は思う。

切磋琢磨、好敵手などの関係が互いを本質的に認め合い高めていくのが本来の姿であるだろうと思う。企業だって、本当はそんな関係を構築していくべきだ。寄り合って霞を分けようとすることが仲良くではないだろう。

学校の先生が以前クラスの皆に「仲良くしなさい」と教えた意味合いが、事なかれ主義的な関係性をつくるものになったから今の人たちがその刷り込みで仲良くなる本質のことを間違って解釈していると思う。

子ども達には、変に仲良くしようとする操作主義的な共同的な学びではなく、本来の我が国が重んじる協同的な学びである「和」を伝えていきたい。そのためには私がそれを恐れず大心を持って本気で語り合い実践しそのモデルを仕事で示していきたいと思う。

積んできた実践が形を成すまで続けていくことを誓う。