透明な命

一昨日、カグヤのスタッフ皆で「森のイスキア」代表の佐藤初女さんの講演を拝聴してきた。佐藤初女さんは、地球交響曲ガイアシンフォニーの第2番に出演していた方でおむすびで心を癒していく奇蹟の人ということで一躍世界へその存在を知られた方だ。

世間には一流といわれる本質が視得ている本物がいる。通常本物は、あまり目立った世間での流行や潮流などは気にもとめず自らの天命や使命を全うすることにだけに今を尽くしているためなかなか世の中に出てきてみつけることは難しい。

私が今まで関わった方々の中でも、飛びぬけている方は自然にその存在を天が照らすような様々な必然の縁を創りだして世の中の在るがままを変えていく。

本当に信念を以て、切に念じて祈るように全てを尽くしていけば必ず天がその人に機会を与えるのだと改めて感じた。

講演では、素晴らしい言葉の連続に魂が震えた。

「命を移し変えるとき、命が透き通る瞬間がある。そこをどれだけ見逃さないかが大事であること。」

「そこにないものは探さない、あるものに何を補えばそれがおいしく活かされるかを考えぬくのが本当の創作料理」

「いくら忙しくても忙しい中でも何ができるかを考えるとそこに必ずできるものがある。」

「家の中ではお母さんは「明るく良い姿」を子どもには見せてあげることがもっとも大事。「許しがたきを許し、耐えがたきを耐えること」それを母性といいます。」

特に第二部のアンケートの質問の回答のやり取りには言葉にならないほどの感動があった。

それはある人の質問で、「子どもが添加物のお菓子ばかりを買って私が作ったごはんを食べません、どうやったらごはんをちゃんと食べてくれるでしょうか?」という。

佐藤初女さんは静かに凛として「その添加物のお菓子よりも『おいしく』創ればいいのです」と一言だけ仰った。

会場は皆それを聴いて笑っていたけれども私にはまったく笑えなかった。
この言葉には、佐藤初女さんの人生観のその全ての答えがあるような気がしたからだ。

きっと『おいしく』できるかどうかが本当に全てなのだと私は心底感じた。

以前、松下幸之助さんの講演である経営者が質問をしたことがあったそうだ。それは、「どうやったら松下電器のような大企業になりますか?」との質問に松下幸之助さんが「それは想う事ですわ」と仰った。会場はそれだけですかと皆笑っていたけれども一人だけ最前列に震えながら感動していた人がいたそうだ、その人はまだ若かりし日の稲盛一夫氏(KDDIの会長、京セラの創業者)だったそうだ。

本質を語る人の言葉はすべて真実、それは使っている言葉がまったく違うからだと私は思っている。よく私はトンボの世界とヤゴの世界と揶揄して語るがそれくらい生きている場所が違うのだと思う。

私が佐藤初女さんにお会いして邂逅を感じたこと。
それを要約すると、

何でも『美味しい』と思えることが基準になる、その美味しいというのは世間の料理の味がうまいのではなく、本当にその人にとってそれが魂から「おいしい」かどうかが基準になる。それはまさに相手の心を本気で通じ合うまで受け止めて深く共感し、自らの透徹した至誠を尽くした料理を食べさせてあげることで相手の心を癒しそして補い自立へ向けて活かしてあげること。

まさに私はそう全てを感じた。
こんな感動する講演は永遠の一期一会、本当にありがとうございました。
本物の一流人と通じ合えた心の出会いに深く感謝しています。

最後に、他人が良いからやろうとかではなく自分で判断したものをやってみてその体験を重ねる中で自分で確信を持ったものを唯やるようにする。自信を以て脚下の実践を行い自立していくことが何よりも大事だということ。

これは私もまったく同感だと思える信条のひとつ。
気が付いたことはとにかく、今、勇気をもって全力で行動に移すこと。

私たちは、子ども達に何を遺せるかを使命にしている会社。
今は分からなくても、気づきと実践には徹底して妥協せずに歩みを強めたい。

私が切り開く孤高の棘の道を、同志とともに次々と踏み倒しながら次世代の子どもの輝ける黄金の大道になっていくことを改めて決意した。

ルールという豊かさモノサシの定義

私たちの会社には、私たちのルール(約束)が存在する。今の時代ではルールは法律だけで倫理や道徳などのものは特殊なものになっているが、私たちは社会の風潮とは関係なく次世代に繋がる当然のことだけは会社でルールにして守るようにしている。

その中にはたとえば、こんなものがある。

@歩道は点滅信号などでも渡らない、また赤信号を横切らないなど。

当たり前だよとあるのですが、実行してみるとなかなか難しい。都会の朝は通勤などで足早に横断歩道を駆け抜けようとする大人たちにつられて無意識に渡ってしまいそうになる。

周囲を見渡すと子ども達が居る。新一年生や幼稚園に通う子ども達はまだ分からないので周囲の大人たちと一緒に行動しようとするからとても危険なことだと感じる。

昨日も、ボランティアの方が旗を持って立ってくださっていたが反対側では子どもが無理に渡ろうとする大人につられて赤信号を無意識に渡ろうとしていたのですぐに引き止めた。

最近は、なるべく出張がないときは朝その子ども達が気になるので同じ時間に自宅を出てその子ども達がちゃんと横断歩道を渡るのを見守りながら出社するようになってしまった。だいぶ最近は気づいてくれているように思う。気づかないのは相変わらず足早な大人たちと危ない車の運転をする大人たちだ。

他にもルールがある。

食事をするときには、必ず「いただきます」「ごちそうさま」をすること。タバコは吸わないこと、合成洗剤は使わないこと、等々色々とある。

全部、カグヤでは守らないといけないこだわりになっている。

私はこれをこう考える。

ルール(約束)とは、一人で生きているのではないのだから存在する。

自我が生まれて境界線を引いたのが人間なのだから、その代償に自己と他者のためのルールを創った。しかしなんだか今のこの国の自由の定義は、自分勝手だと思っている人が多いと感じる。これも教育や社会、国家の衰退を示すのかもしれない。

自由の定義は、幼い頃から教わっていくことがなければこんな風になるのだろう。個の自立などは、この国の一斉画一思想の中では揉み消されてしまうのだろう。

しかしこんなに身近でもルール(約束)が定義されないのは子ども達には危険だ。

私が思う自由というのは、豊かさのようなものだ。

スローやロハスなども私たちの会社では柱にして講演や研修をしていることが多いのも自由を学ぶためにやっているのだと私は思う。

改めて説明するまでもないがスローやゆったりなどは、何も時間がゆったりや遅いなどの意味ではなく「心が豊かであること」を定義しているのだ。

自由とルールの必要性とは、この自我や他者がある境界に於いて「お互いを思いやる真の豊かさ」のために約束という共通定義を設けたのだと私は思っている。別に競い合うためでもなければ奪い合うためのものではないのだ。それはやはり「思いやり分かち合い寄り添い生きていく」ための無形の財産であり無形の文化であるのだ。

だからこそ「ルール」を正しく認識し、それが制限して縛るものではなく本当は豊かになろうよと皆でそれぞれの生きるものが共生し地球の未来が永続するよう素晴らしい社会を創造しながら夢に向かって自己実現しようとする大事なモノサシにしていければいいと思う。

ルールが世間で厳しいもの、なんとなく権威主義や管理主義に感じるのは学校教育からの刷り込みなのだ。学校では皆と同じという平均が平等だという間違った平等を教え込まれ、個性が落ちこぼれや変なやつ扱いされ無意識に押さえ込まれてきた。変な正義を振りかざすための大人が勝手に作った管理用のルールだったからどうしても嫌な感じがするのだろう。

だいぶ話がそれたがカグヤでは他にもこうやってどんどん自分達の豊かなルールがたくさん生まれている。

その御蔭で豊かさが保たれ、そしてその御蔭で他者を思いやるロハスを実現できることがとても幸せなことだと皆で話し合えている。

これからも私たちの社業を通して本当の意味での自由とルールといううものを保育園、幼稚園の大人たちには理解してもらえるように信念を通していきたい。

私たちの定義するコンサルティングは、常に『自分に矢印』

矢印を自分に向けながらどこまでこのカグヤ自身の実践にそれぞれが真面目に取り組めるかが私たちの生命線なのだと今の習慣と覚悟を日々新たに深めようと思う。

経営のかんながら

色々な方とビジネスをすることは社会貢献の尺度を自分へ試される。
自らの何を持って社会へ還元して共生していくかは、よくよく自らの分と度を弁えないと話がおかしくなって取り返しがつかなくなることがある。

儲け話とよく世間で言われるものは、誰が儲けるかで話の筋道が変わっていく。

世間では、正しく使う、正しく用いるなどあまり問われないが私はこれが一番重要なことだと思う。

よく私は、カグヤがいただいているお金は一銭たりとも泡銭は使わない、意味のないものには一円たりとも投資しないと話している。

これは別にセコイからやケチだからという世間の定義ではなく、園が補助金をいただき子どもが学ぶために両親や先祖からいただいた大切な徳を粗末には絶対にしないという覚悟からそう思っている。

だから私はある意味で合理的なのだと思う。
無駄が嫌いだからだ。

その無駄も、価値のある無駄はロハスやスローなどで会社の柱にしているのだが他の誰でもできるような仕事は価値観の優先順位の低いのであまりやりたくないと思っている。

「わがままですね」と他人に言われることがあるけれど、私は「わがままではなく「在るがまま」と言ってほしいと話しています。

在るがままを受け容れて、自分の中にある徳と才を命ある限り最大限活かしてその生を終えるというのは、なぜ生まれてきたのかの問いに繋がっている気がする。

そこに社長だからとか、先生だからとか、何それとは関係ない。
人間は、限り在る命の前では平等だと思う。

「自分にしかできないことをやる」とは人生のテーマだと私は心底思う。

私は目下、二宮尊徳先生を尊敬している。
知るのが遅すぎたが今からでも学びつくそうと思う。

脚下にある実践にはまさにこの方の生き様が人生の模範だとも思える。

尊徳先生の正しくモノゴトをジャッジして経済を計るに良い言葉がある。

「徳は本なり、財は末なり。
 本を外にし末を内にすれば、民を争はしめ奪ふことを施す。」

その子孫が書き記したもののなかにある徳を以て徳を活かす「万象具徳」というのは本当に深みのある良い言葉だと思う。世の中には本質で生きる素晴らしい方々がいるから勇気がもらえ、まだまだと背中を押してくれる。

本当に有難いことだ。

そして、もうひとつ。
これは日々の実践で、とかく自らを省みる言葉としては真玉のものだと思う。

「 遠くをはかる者は富み、近くをはかる者は貧す

 それ遠きをはかる者は百年のために杉苗を植う

 まして春をまきて秋実る物においておや、故に富有なり

 近くをはかる者は、春植えて秋実る物をも尚遠しとして植えず

 ただ眼前の利に迷うて、まかずして取り、

 植えずして刈り取ることのみ眼につく

 故に貧窮す 」      (二宮尊徳先生)

私たちは、子ども達の次世代に貢献していくと誓った企業。

自分にしかできないことで、次世代に何を遺せるかを日々の実践を通して未来の想念を実現していきたい。

感謝。

資質と素養

カグヤでは毎月月刊誌「致知」を使って社内木鶏クラブというのをやっている。

これはご縁いただいた致知のご担当者からこの智恵の集積である本誌から実学へ結びつけるための学問の本質に触れる場と機会というテーマで続けていってほしいとことから共感して始めた社内行事のひとつだ。

やり方は、社業やビジョンに共感する他の偉人や経営者の記事などから私がどの範囲を話し合うのかを決め、じっくりそれぞれで読んでもらう機会を作りそれを交代で音読しその後に一人ひとりからそれぞれの考えや感想を発表するというものだ。

昨日もその社内木鶏クラブを行った。

今回のテーマは、巷ではリゾート再生請負人と評される観光カリスマの星野リゾート社長の星野佳路氏の記事で行った。

もちろん業種が違っているけれど、目指している高みや社内の考え方はとても似ている気がしている。

それぞれの社内発表も、とても面白かった。
一部を紹介すると、

 「ビジョンから決して社長がブレないということがとても印象的だった。」
 「社員を主人公にして現場に楽しいという観点を与えることが素晴らしい。」
 「究極のフラット組織というのがビジョンに対して平等なんだって思った。」
 「現在カグヤがやっている仕事と被っていて目先でなく長期的視点がいいと思った。」

・・・

それぞれの気づきを共通理解にし、何を共感して仕事を行っているか?
そしてその気づきからの実践こそ、自らの資質を高め素養を磨く。

それを社内で毎月行えることは本当に素晴らしいことだと私は思う。

組織はある目的のために集まった人たちで出来上がっているもの。

その目的を日々の喧騒の中でも皆で忘れないようにし、そしてその目的に対して真っ直ぐに自己実現をするために自らの資質の向上の意味を理解する。
これはきっと呼吸のように当たり前で重要なことだと私は思う。

カグヤのスタッフが目指している立派な大人とは、裏表なく目指しているビジョンへ向けて清廉な素養を身につけ人間を磨き続ける姿勢を保ち続けるともいえる。

環境の構成とは、人、物、空間(場)にあるご縁が紡ぎだす奇蹟。

まずは、繰り返しの中で意味のないことは已め、繰り返しの中から初心と本質という意味のあるものに勤め励み、日々新たに自分自身を磨くことで子どもへ関わる人たちへ示していければと思う。

私自身、変な刷り込みに持っていかれないように素直なままの私でしっかりと歩みを強めていこうと思う。