カグヤでは毎朝の論語の素読と共に、毎月全体ミッション会議を行っている。長いときは3日以上かけてミッションの確認のために全員で時間を取る。
こだわりや価値を重んじる会社だからこそ、お互いが価値についてとことんこだわっていくのが私たちの信条だと思っている。
人にはそれぞれ自己を実現するための自立への発達過程があって、カグヤでは個人のそういう心身の発達に対してM(マスターの略)と勝手に決めたM1「指導」M2「コーチング」M3「援助」M4「委任」のプロセスで見守っていくように決めた。(全部でM0〜M4まで)
これはカグヤで提供する個々の子ども達の自己創造と自己実現を助ける「見守るほいく」ソフトと同じ思想で考えられている。
私たちの目指しているものは子どものモデルとしての企業であるから、まずは自分たちが実践することでしか相手に語らないと決めているからとても大事なこだわりのひとつだ。
M0は私の主観ではあるが、無条件の愛情で相手を深く受け容れる時期なのだとしている。新入社員や羽が生えたてのクルーには特にみんなで理念に対して過保護に優しく接していこうとしている時期になっている。
ここでの発達の専門性の本質というのは、どれだけ相手のことが正しく視得ているか、そして自分のことが正しく観得ているか、それを同じ意味で別の言い方で定義すると私は『見通し力』だと思っている。
何を持って「見通す」のかというと、自分の我侭尺度、自欲尺度ではなく志尺度、理念尺度のようなもので「自分が何をやっていることが一番その人と組織や世界のためのなるのか」を考え抜いたものでなければそれはちゃんと見通しているとは言えないのだとしている。
人間は、その人が持つ正しい尺度の偉大さで幾世代も乗り越えて真の社会貢献と進化と創造をして何かを遺していくことができるのだと思う。
自分にしかできないこととは、自分が何をやっていることがいいことかを考え抜くことにもある。そして、それを知って実践し様々なご縁と邂逅により自立して「自分の成すべきことを成し遂げる栄光のかんながらの道」に繋がっていくのと私は思う。
今の日本の社会では、誰かのために自分を犠牲にすることが最も社会奉仕や貢献になると勘違いされているが、本来は自分の持っている天分(ユニークなアイデンティティ)をどれだけ尽くしきったかが真の奉仕や貢献の意味なのだと果たしてどれだけの多数の人が理解しているのだろうか?
私はこれを理解していることが国威豊穣と民度成長の本義であるべきだと思う。
それなのに身を粉にして、家庭を顧みず、心が疲弊し、自分を痛めつけ蔑ろにし、そういう人が世界へ貢献しているなんて定義はそれはまったくの奉仕や貢献の本質からずれていると思う。
貢献や奉仕の正しい理解は、ちゃんとした個性を持ち、それを尽くして最期には自分の天真を発揮しているからそれが廻りまわって最終的に貢献や奉仕というものになるのだと思う。
師匠のブログにもあるが、人は道が違えどもその人の目指している道を究めていけばみんな同じようなところに辿り着くのだと思う。ただ、そのプロセスが違うというだけの差なのだ。
それなのに、誰かを羨み、誰かと競い、誰かを貶めるのは教育という世界に於いては絶対にやってはいけないことなのだと幼児教育の現場を廻りながら本当に肌身に深い危機感を感じる。
もっとゆったり穏やかに静かに毎日の光り輝く木漏れ日や爽やかな朝陽のように心豊かに真心を持って自らが自らを大事に生きていくことが子どものモデルとしてはいいのだろうな・・・
そのためにもまずは自分がこの今の日本の不条理な拝金主義や利己主義的な制度や環境の中でも芯や軸がぶれないよう、とかく自身もっともっと心を練り上げ学び磨き上げていくことを優先していきたい。