ちっちゃな坊やが始めて学校へ行った。
坊やは一枚の紙とクレヨンをもらった。
坊やはどんどん色を塗った。
だっていろんな色がとてもきれいだったから。
でも先生は言いました「キミキミ、そこで何をしているの」
「ちっちゃな花の絵を描いているんです、先生」
先生は言いました。
「ここは図画の時間じゃないんですよ。
花は赤くて空は青い。
そのことを考えておかなくっちゃ。
あなたはここでたった一人じゃないのよ。
みんながあなたのようにしたら、
どういうことになるかしら
だからあなたに言います。」
「お花は赤いのよ、坊や
葉っぱは緑。
他の色に見えても意味がないわ。
だから、どうしてほかの色にしてしまうの。
それでも坊やは言いました。
「でもね先生、こんなにたくさんの色の花があるんだよ。
こんなにたくさんの色の葉っぱも、ほらいっぱい。
あまりにもたくさんで名前がつけられないくらい
僕にはそれがみんな見えるのにな。」
でも先生は言いました。
「キミはあまのじゃくな子ね。
あたりは汚すし、オランダ語はひどい。
どっちも直していかなくては
私が言うのを繰り返しなさい。
お花は赤よ、葉っぱは緑。
ほかの色に見えても何の意味もないの。
だからどうしてほかの事を考えたりするの?」
それでも坊やは言いました。
「でもね先生、こんなにたくさんの色の花、
こんなにたくさんの色の葉っぱ
こんなにたくさんの色があたりにいっぱい
とても名前がいえないくらい
みんな僕には見えるんだ。」
でも先生は言いました。
「もう待ちきれないわ、
どうしなくてはならないかよおく見ておきなさい。」
そうして先生は坊やを廊下に出して
「あなたのためなのよ」と何とか言いました。
坊やはしばらくして怖くなって
こっそりドアをたたいていいました。
「先生 ごめんなさい」
そうして坊やがこういうと
色クレヨンをもらいました。
「お花は赤で 葉っぱは緑。
他の色にする意味はまるでありません。
どうして他のことをする意味があるというのでしょう。」
でもつまらなくてつまらなくて仕方がなかった。
そうして2年生になりました。
すると先生は前と変わりました。
彼女は新しくていい先生。
そうして彼女は優しく言いました。
「あなたの好きに絵を描きなさい
紙もクレヨンもいくらでも使って
好きなだけお絵描きしなさい。」と
でも坊やは花を描いて
緑と赤で、、、一列に並べて
そして先生が「どうして」と尋ねると
坊やはまたクレヨンを取ってこういいました。
「お花は赤で葉っぱは緑。
他の色にする意味はまるでありません。
どうして他のことをする意味があるというのでしょう、、、」
以上の文章は、オランダの「お花は赤い」という歌の歌詞です。
これは、先日法政大学で開催されたイエナプラン研修会にていただいた資料にあったものです。
日本の保育界や教育界がなぜかいつまでも大事にしている画一的一斉教育は過去はそれでも良かった時代があったのかもしれませんが、この今の時代では人間としての「たった一つの存在」であることを無視し完全に人権を蔑ろにしているように思います。
何を守ることが先人が譲ったものなのかを世界標準の視点からもう一度考え直す必要があると私は思います。
先人が私たちに残したものを安易に安直に何の努力も改善も工夫もせずにタダで受け取りテキトーに使う。こんなことをいつまでも続けているから質が下がり続ける。
「時代は変わる、怠らず努めよ」
お釈迦様の遺訓。
誰もなぜこの普遍的な真実に気づかないのかと自らの死を想うときそれがもっとも子孫へ遺していく大事なことだと私は思った。
私は、個性が強く自分の体験という真実を唯一大事に、天地自然の理を指針や育ての親とし、常に自分には禅であり、かんながらであることを実践の道として生きていこうとして歩んでいます。
その中には、一切同じように扱うやまとめて処理するなどのくくりはありません。
集団や画一の刷り込みなどに対してしっかりその意味を考えなくなると、無意識に人間力が下がりそれが個としての魂の弱さが割り切ることになり、そこからの逃避の連続ががモノゴトを平均で善しとする歪んだ人間観になってカオスの社会を生み出しだしてしまうのだとも私は思います。
子ども達が本当に心豊かで美しい犠牲の精神があるこの日本の伝統を正しく背負って立つ立派な大人になれるように、そして世界でたった一つの存在として善悪なくユニークに人生を謳歌し活躍するために、今、カグヤが社業を通して身近でもできることを命を懸けて取り組んで次世代と未来のために一燈を灯じていきたいと改めて誓う。
これからも実践の道のみで言葉を語る。
それが全てだと定義する会社でカグヤは在り続ける。