子どもの頃、いろいろな体験をする。
それがどんなものであっても大人になって今に繋がっていると考えるとき、子どもの頃の体験はそれがどれだけ大事なことであったかが後になって分かってくる。
諦めないこと、やり続けること、誰かが見てくれていること、ドキドキしながら向き合うこと、わくわくしながら恐怖を乗り越えること、、等々、日常の様々な体験からそれを発展していく方法を学んだ。
特に幼児期は、最初の自立へ向けて自分ができるようになることをたくさん体験する時期だった。
私は、小さい頃からみんなで一緒にやることが良い事だとは思わない天邪鬼な子どもだったように思う。
子どもの頃、園庭に大きな滑り台があるからといわれて楽しみにしてもみんながそれで遊ぶから自分の順番がまわってこない。
だから幼心に、何でみんなと同じに一緒の場所でみんなで同じ事をやらないといけないのだろうと思い、それをやるのがとても嫌いだった。
だから、一人で誰も考えないような何かオモシロそうな遊びを見つけて盛り上がっていた。そしてその遊びを広げたらまた違う遊びを開発していた。
先生からは、皆と同じ事をしなさいといわれれば言われるほど隠れて自分の遊びに熱中していた子ども時代を送った。
どうも私は、自分は自分、他人は他人という考えが強いように思う。
今でも、みんなと同じにしなさいという大人の強烈な決めつけ押し付けにはどうも生理的に受け付けることができないのも私のアイデンティティからなのかもしれない。
だから、昔は学校でみんなと遊ぶのだって大変だったような思い出がある。
もちろん、だからといって天涯孤独だったのではなくその時期があったから中学校に上がるころには全校生徒と仲良くなるくらい多くの人に関心を持ち、みんなで遊ぶことの悦びを感じながら遊びこむことができた。
幼児期に自分の個性が認められることはとても大事なことのように思う。
私の場合は、押さえつけられることから反発しながらも反面教師として、そのままうまくすり抜けて素直に社会に適応するように育ったのだから今の時代で言えば個性に特徴がある業界で言う「気になる子」の一人であったはずだ。
でも、当時の子どもの頃の思い出は今の自分を在るがままに見守ってくれている。
子どもは本当に素晴らしい。
なぜなら子どもは、自分の力で自分を信じて自分でできるようになるから「子ども」なのだ。私の子どもの定義とは、自分を信じて自立しようと一生懸命になっている人が子どもなのだ。
世間で言う、自分勝手に周りの迷惑を考えず好き勝手やっているのは子どもような人という意味ではなくあまり良い言葉でないが「幼稚な人」というものだろうか。社会人でも年齢的には成人を越えて相当な年になっていてもそのような身勝手な人をたまに周りに見かけるので本当に困ったものだなと思ってしまう。
それはさておき、自身の幼児期を振り返る。
誰からかやらされたりさせられたりではなく、誰に言われなくても自分の意志で伸びていこうとしていた時期、そしてそのために無我夢中で自分に生きている時期だったように今は思う。
つい、大人は集団のルールや将来の大人社会での適応などを気にして躾やマナーなどを教えたがるが、それはその時期に本当に必要なことだろうかと私は思ってしまう。
まず人は本当は豊かに自分にしかできないこと、たった一度のたった一人の自分の人生の中で自分のやりたいことを見つける大事な期間が必要なのではと思う。
幼児期にそういう自分が自分を学ぶ期間になっているから大人になって、その豊かに生きるためにルールが必要なのだと後々自覚し理解することができるのではないかと私は思う。
時間は途切れることがなく、ずっと繋がっているのだから今分からなくたって後でわかるときがくるから人生絶妙にできているのだと思う。
私はその時に「分かってしまう」ことに一体何の意味があるのだと思ってしまう。
人は、分からないことが多いほうが人生を豊かに探求できるのではないかと思えるからだ。
だからこそ人は、時間が経つとともに他人の優しさの有難さに気づき、多くの人たちとの邂逅に感謝し、恵まれた環境に幸せを感じることができるのだとも私は思う。
ずっと後になって気づいたとき、その時見えなかったその人の深い優しさが今の自分をどれだけ救ってくれているのかを思うと、教師や親や大人は子ども達にとってどれだけかけがえのない存在なのだったかと思える。
いつの日か、その子が大きくなって自分の命を懸けて挑むものを見つけたとき、必ずこの言葉を思い出して乗り越えてくれると信じることができないのならば、人生いったいなんのために子孫へ譲っていくのかが分からないではないかと私は思う。
この先どんなことが起ころうとも、かけがえのない出会いが遺した言葉を胸に刻み大切にしながら滔滔と歩んで生きたいと思う。
これから生きる子ども達に、実践から生み出された言葉を一つでも多く遺していきたいと強く願う。