本当の障害

昨日、障害児の保育に真摯に取り組んでいる保育園に伺った。

統合保育と別に逆統合保育という、世間で言う健常児と障害児とをしっかりと相互理解できるように独自のやり方を研究しながら職員皆で取り組んでいる。

この障害児保育には、関わる人たち全員の理解が必要で、誰か一人でも分かっていなければそれが発端になり様々な違う障害を起こしてしまう。

その障害は大体「大人」が一番問題になってくる。

ある話を聴いた。

ある自閉症等の障害を持つ子どもが、他の子どもに噛み付いて怪我を少しさせたそうだ。

そうすると、噛み付かれたその子どもの保護者と祖母が園にクレームを言ってきたそうだ。きっとその子をどうにかしろだの話しをしてくる感じだ。

その際、その事態の収拾をしてくれたのは噛まれた方の子どもだったそうだ。

噛まれた方の子どもは「○○ちゃんは、分からなくて噛み付くんだから良いんだよ。私がよけなかったのがいけなかっただけだから。」と必死に両親と祖母を説得してくれたそうだ。

園でよく見かける大人同士ではまったくかみ合わないドンパチも、子ども同士ではあっという間に解決してしまう。おかしな話だが本当のことだ。

それに似たことで続けてこんな話も聴いた。

その園では園庭にあるブランコを最近は取り除いたそうだ。

危機管理か何かの理由かなと伺ったら、保護者がブランコの順番待ちで喧嘩になるからだそうだ。なぜ保護者なのかと伺うと子どもの送迎時間に園庭で遊んで待っている際に子どもは他の子がブランコで遊んでいてもちゃんと並んで待つのもまったく平気なのに、大人が早くしろだの、どきなさいだのブランコを取り合いしたり横取りするので困ったことが起きたのだそうだ。

まったく、大人の方がよほどある意味でオトナになっていないものだなと観察しているとここでも現代社会の縮図がやはり園ではつぶさに観得る。

教育とは、いったい何のためにあるのかを分からないならやってはいけないのにマンネリ化して続けたからこんな感じになる。意味があるものを意味がなくすると常にしっぺ返しがやってくるものなのだ。

話を戻す。

子ども同士では、体がうまくいかない子ども、よく理解できずに困っている子ども、なかなか自然に集団に溶け込めない子ども、そういう子がいることはみんな自然にわかっている。

しかし、大人はそうはいかない。

世の中を知りすぎてしまい、大いなる刷り込みの渦中の中でそれがよほどイケナイことだと思い込み、自分の正しいという意識でその子にとっての幸せを勝手に決め付けていく。

そして、その決め付けが傲慢や驕りになりその連鎖が多くの大人たちに伝播して間違った社会の援助を行ってしまうことは往々にしてよくあることだ。

たとえば、世界では飢餓でたくさんの方々が亡くなっている。

そして、そういう世界を自然淘汰であり必要悪だと仰る方々もいる。

相手の立場でモノゴトを考えるのを止めた瞬間に人は恐ろしいほどに驕り、その中に自分勝手な正義を確立していく。

そしてそういう安易な考え方は、楽であるが故にどんどん集団や組織に伝播していきあっという間に刷り込み社会を形成する。

きっと裕福になり人間は富に満たされるとモノサシが自分中心にしていなければ、自分の中にある矛盾をどうしても受け容れることができないのだろうと思う。

子どもではできていたものも、与えすぎているとそういう「あるがまま」の気持ちがなくなってくることで「大人」になっていくのだから現実は本当に驚くばかりだ。

人間は、なぜだか分からない大いなる理不尽はきっと観たくないのだと思う。

『本当の障害とはいったい何のことだろうか?』

本当の障害とは、その人たちの意識ではないだろうか?
そして、そうしてしまいたい社会構造ではないだろうか?

「何も好きで障害を持っていたいという人はいない。」

みんなどんな生物も生きるという意味では平等であるのが当然だと思う。
それがどんな理由であれ、自分勝手に良し悪しを定めることはどうだろうかと思う。

できるならば、この幼児期の子ども達には大人の刷り込みはあまり与えたくないと願う。

子どもは、ちゃんと相手のことを思えるほど純粋にあるがままにこの世を観ている。そちらにもっとあわせてあげて、子ども達がこれから創ってく未来の世の中を楽しみにはぐくむ援助をしていければと心から願う。