見通し

最近、一法人で複数園を持つグループ型の園のコンサルティングが続いている。

全国的に公立保育所の民間委託や公設民営化、それに無認可託児所などのニーズが高まっていることもあり一法人で園を2つ以上持つことになるところが増えてきている。

もともと園は施設が増えるからといっても企業とは違って本質的には福祉なのだからあまり増やすということについてはその分、社会的責任が増えるのだから子どものことを思うとそうは増やしてはいられないのではないかと私は思う。

しかし、そうはいってもそれぞれの園長にいろいろと正論や考えがあり良い条件で入札できればと手を上げている。人は色々なタイプがあり考えがあるからどれも大局的に観れば時代の必然なのかもしれない。カグヤは世相に惑わず本質を静観しながら根源を捉えてゆっくりとあわせていこうと思っている。

その複数施設を持っている法人も、気がつくと民営化や委託や地域のニーズに応えているうちに施設の数がかなり多くなっていて、それぞれの職員間の意志の疎通や価値観の共有や統一、その他組織や保育が主観に任せてバラバラになっている。

そして今後を見通すとこのままではいけないということになり、子どもを中心に今の状況を真摯に省みて園をもう一度、創始理念に立ち返り本質的に園を理念を軸に一本建ててから園を増やしていこうということでお互いが納得しスタートすることになった。

見通しというのはとても専門力が必要になる。

業界の知識、保育の知識、数々の事例からの洞察や、人間を見取る力、それに時代観や情報リテラシー、また自己管理や倫理観など、総合力が左右するのが見通しだ。

佐藤一斎の遺した一文にこういうものがある

「一物の是非を見て、大体の是非を問わず。
  一時の利害に拘わりて、久遠の利害を察せず。」

これはひとつのモノゴトが道理に適っているかどうかを観て、全体の良し悪しを問わない。一時的な利害にこだわって、長い先の利害を考えないということ。

それに以前にも紹介したが、常にモノゴトの判断や決断は自分との精神力や胆力との正対が求められるもの。

二宮尊徳にある、「遠くをはかる者は富み、近くをはかる者は貧す・・」の道理が分からなくなっては何のために子どもを育てるのかの本義が違ってくるから常に私たち責任がある大人は判断を常に反省していくことが大事だと思う。

分度を保つや節度を保つというのは、私心をどれだけ見つめたかという自分自身へ問い続ける誠意と真心あってこそだと私には思える。

保育園は幼稚園と違って、第三者評価などを受けたりすることで園での様々な問題は見つけたりそれを総合的に判断したりする機会がある。しかし問題がいくら見つかっても根源的にそのものを解決するとなるとやはり数年〜数十年以上の歳月がかかることは仕方がないと私は思う。

部分をいくら変えたってまた違う問題に代わるものが出てくる。やはりその園のすべての問題は元を正せば園長自身が変わるかどうかの問題になっているからそれに気づかせてくれる人に出会えるかどうか重要な鍵なのだと思う。

そして一度気づき変わると決めたら早晩はあるが今の時代はきっと2年くらいがちょうどいいように思う。人は急には変わらず、そして急に育つよりじっくり変わる方が人の道理に適っているからだ。

そしてその園では中期計画を立てて経営状況の把握などもあわせて行うことになった。

複数施設を持つというのは、ある意味では家業から企業への体制に変わる要素もなければ運営していくのが難しい。

一施設ではできないことを複数でやるのだからよほど力が必要になる。

ただ施設が大きくなるのと、理念が大きくなるのとでは意味がまったく異なる。

私の持つ施設観は施設をたくさん持っているから凄いのではなく、その創業者の理念や志が絶えず弛まず後人に推譲されながら発展し確立されていて、そしてそれが世の中に滲み出るほどの基盤があるかどうかが見事かどうかで判断するようにしている。

どんなモノゴトもまずは、その立志如何によるものだなと改めて自分自身のあり方を正さないといけないと心に誓った一日になった。

子どもがいる現場に私は関わっている。

その私たちの交わす一言一言がたくさんの子ども達に影響を与えてしまう大きな責任と使命を背負っている。

だからこそ、まず自分自身がとことん内省を繰り返し、見通し力を持って自らの至誠を持って感化していけるようになるようとことん上に立つ人間としての自らを粛々と厳正に練磨していこうと思う。

そしてその練磨が、子ども達の未来へと繋ぐ理念の具現化に貢献できるように常に真摯に自律して志を正しく戒めていこうと思う。

情報リテラシー7

日々のニュースを拝見していると様々な分野でIT技術は凄まじい速度で進化し続けている。ついIT技術というとなんだか技術面だけが騒がれるが、「情報」というカタチにならないものも確実に同じ速度で進化しているから気をつけて観ていないといけない。

その技術の活用でも、その生み出した道具を人間側が使いこなせないほど進化が早くなってきている。同じく情報の活用についても人間側がついていけないほど質も量もぐんぐん増え続け加速している。

情報活用を分かりやすく言えば、今までの情報の使い方は長い情報や短い情報、重い情報から軽い情報、早い情報から遅い情報、また一度きりのものと継続するものなど、きりがないがその情報を活かす両端からどのようにその行間を捉えて活かすかというその用途内容にあわせて使い分けていく方法を取る。

そして、一番大事なことはそれが人から人へ伝播するときにその価値観をキチンと見える化して正しく表現して伝達していくことが価値を維持するために必要になる。だからこそ、情報を扱うという仕事に携わる人たちは日々最新の技術とコミュニケーション方法を工夫して情報を象っていくスキルを身につけるために努力と学習を続けている。

先日、ある保育団体でカグヤが価値を可視化して表現し双方が情報を観て内外へ「一本建たせる」サービス「サスティナコンサルティング」を受けることになった。

これは私たちが今まで行ってきた従来のe園サービスというパッケージの進化型であり理念を中心にそのものの姿形を可視化できる本質的なサービスだ。

このコンサルティングは少し期間がかかるが、情報をカタチにするまでには忍耐と継続した努力、揺るがない価値の維持、そして見通したコミュニケーション能力が求められる実践型サービスになっている。

情報は常に時差があるからその時差を楽しみながらこの仕事も成功させていこうと思う。

話は、園の現場へ移す。

これからの園では子どもを守るためにも世間の喧騒に巻き込まれずに価値を正しく維持しながら時代の誘惑にかられた一過性の情報に断固として惑わされない「理念の防御壁」のようなものが必要になる。

たとえば、当然ある一定以上の量の価値観が多様化した混沌社会ではある意味なんでもありが通用する世の中であり、在園児の保護者からも時折色々な種類の意見があがってくるようになる。それが本質的に必要なものであればいいが、明らかに自分の欲望や世間からの刷り込みよる煽動、相手を顧みない自論を通そうとする勝手な意見であればそれを柔軟に受け流したりかわしたり受容して飲み込んだりする力も必要に成る。

私も仕事でよくやるのだが、明らかに自分の理念や使命(ミッション)とあわないような仕事の時はいくらお金がたくさん貰えても絶対に受けないようにしている。

私たちの仕事は単純で、これからの子どもにあわなければ受けない、子ども目線でいいと思わなければ一切やらないという感じだ。

それは、当然カグヤにとってそういう仕事は良い仕事にはならずお互いに不幸になることも予測しているからだ。こちらが本気であればあるほど公正な決断を迫られるのがコンサルティングの仕事。だからこそ、相手がどうであれまずは自分達自身がどれだけ本気で命を使えるかどうかが結果の意味の成否を決めることを知っている。

だからこそ、サムライ魂ではないが武士道のような最後は抜差しの世界でモノゴトを判断していくしかなくなってしまう。子ども第一主義がサムライ魂というのはカグヤでしか通用しない共通理解だと思っている。

しかし、それも相手があってのことなので色々な意見をキチンと説明できて全ての問題を受容するためにもそういう情報リテラシー能力は自らの価値を守っていくための防御壁でもあるのだからは私たちが園に支援するためにもまず身につけていかないといけない。

業界に流されずに凛とした判断で対応するのだって本当は大変なリテラシー能力の研鑽に繋がっているのだ。

園は今とても大変な情報過渡期を迎えている。
それは、全国各地の園を廻って話を聴いていればすぐに分かる。

事なかれ主義で逃げ続けても、必ず乗り越えないといけない時期がくる。ここで目に見えない情報というものを真摯に捉えて向き合わなければこの先の未来、子どもたちを色々な情報から守っていくことが難しくなってくるのだ。

そしてそれには、まずその組織や集団を持つトップがキチンと学び変わっていくか、変わろうとしていなければ何もはじまらない。

だからこそこれからのトップは、しっかりと自らの理念や価値を情報として可視化していく専門力が必要であると私は思う。

そしてそれは、日々高い問題意識で様々なことに危機感を持ちあらゆる情報に対応していく力を醸成していくためにもまずは自分の中にある外に一度も出していない情報を自らがどんどん発信していくような勇気がまず入り口として必要になるとコンサルティング現場から観得て来る。

内在している情報を、内観と外観によってどう他者に理解できるようにキチンと伝達していけばいいか。

それこそ私の定義するカグヤにしかできない情報リテラシー力を駆使した理念の具現化であり、それを正しく継続していくことでその目に映るものとし周囲に感化浸透させていくというものだ。

そのスキルの分野を刷り込みのない子どもの目線で身につけることが情報リテラシーであり、そこに理念を据え置けば求心力も遠心力も働きみんなを包み込んでいくことも園では可能になる。

きっと近い将来の子ども達には、情報が過度に氾濫するこれからの未来において自らの力でそれを取捨選択したり融合してカタチにしたりとこれからは本当に苦労することになると自分の現在の実体験から鑑みれる。

まずは私たちがモデルと実践を通して、目に観えない「価値」を表現するモデルを実践していきたいと思う。

子ども達が、将来自分らしく自分にしかできないことが認められるような社会を創造する力が身に着くことができるようにまずは責任ある大人たちにその模範を示して生きたいと強く誓う。

肩書きの定義

先日、保育所園長の資格の取得が厚労省により検討されているのを知った。

改定される新保育所保育指針の第7章にも、園長の責務として「法令等を順守し、保育所を取り巻く社会情勢などを踏まえ、その専門性等の向上に努めること」と明記されることになる。

告示となる指針がこのように責任と役割を明確化することは本当は意味があることだと思う。ここからも時代の背景や現場からの危機感が鑑みれる。早ければ、この4月から実施になる。

ただそれをどう捉えてどうするかはどちらにしても、誰かがやらすや誰からかやらされるでは本質的には実現し難いことは自分の体験を省みてもすぐに分かる。

モノゴトはどんなものでも、自分からどれだけ真剣に正対しそれに取り組むかでその中身はまったく違ったカタチのものに成る。そのカタチとは簡単に言うと自立か依存に分かれる感じになる。キチンとモノゴトに対して自立しなければ実現したとはいえないからやはり常に人間は自立することが求められる。

ここでの自立するというのは、それぞれが受身ではなく自ら主体的にその問題や危機を取りにいくということ。

そのために人間は、色々な体験を通して自立のプロセスを経る。

自立のプロセスを経るとは、まず相手に自立を求めるとき、そして自立を受け容れるとき、その人間観の中にある「信じる」ということが試される。「信じる」ことがもし、ここからは自分のせいではないや、ここからは相手次第などと割り切られるのは本当に「信じている」というわけではないのだ。

相手を信じるというのは、自分を信じることにイコールだし、それは人生そのものをどれだけ肯定的に志高く信じるかに寄るのだから本来の意味での『自立』とは生物の持つこの上ないもっとも崇高な共生の理念だと改めて思う。

国家で影響力のある人は民衆や集団、人間に対し「どれだけ信じるということを心底尽くしたか」でその政策の実現にもかかってくるのだと私は思う。

信じるというのは実行する前、実行する中、実行した後、すべてを念で突き抜けているのだ。

話を戻す。

ただ、現場から洞察して観ると気をつけておくことがあるようにも思う。

幼稚園園長にはすでに資格がある、私は現場でそれもよく観ている。

もし資格というイメージだけが先行すると資格があるからその肩書きどおりの人間なのだと思い込むことがあるということも気をつけないといけない要素だと思う。

安易に、解決方法を提示することは場合によっては大変危険な歪みを生じさせることもある。どれだけ、受け手側に力が備わっているかをちゃんと見極めどれだけの見通しを立てた上での「模範」を用意するかで集団の行く末が変わることもある。

なので現場を鑑みての資格とは、あくまで相手を塊や集団で捉えて最低限「通過」してもらうフィルターのようなものだと定義するとして、ではそれ以前に、責任と役割の本質にある『肩書き』というのはいったいどうなのだろうか?

私自身の体験から、私はその「肩書き」の御蔭で色々と学ぶことができた。

つい肩書きがつけばすぐにそれになろうとする、またはなった気になってしまう。

周囲もそのように私を扱うし、何よりも責任感から必死にそれを演じようとしてしまうものも肩書きの怖さだ。

肩書きから立場を与えられモノゴトに向き合って謙虚の振りしてトップの振りして演技がうまくなってくるともう他人の話をちゃんとその肩書きから降りて聴くことができなくなっていく。

そうなると、どこかで必ず積み重ねの小さなゆがみが大きくなり周囲を信じることができなくなっていく。事があれば、すぐに社員やパートナーの文句を言ったり不信になったり自分が一番努力しているだのという相手に矢印を向けた曲がった自己犠牲精神が生まれだす。

冷静に観ればすぐに理解できるが人はイキナリ偉くなることはないのだ。

たとえば社長は、お客様や社員から学んで社長になっていく。社長になるために本を読んだり他所の社長の話を聴いてそれをとってはそれを真似したって本当の社長になったわけではない。思い切って肩書きを捨て去って、あまり固定概念に縛られずに、真摯にそれを学んで自然体に社長になったほうが良い。

それを修正するのに私は大変苦労した。

私もそういうことから、肩書きが如何に自分自身の等身大ではないものだと気づくことができ、「謙虚」であることの本質の入り口を理解し学ぶ覚悟ができた。

そして「謙虚」とは、人生を架けて学ぶものであるのだということにも気づくことができた。

だからこそ、どんなときもまず安易に肩書きはつけてはいけないと私は思っている。つけたとしても心がそれに囚われてはいけないのだと私は思う。そして肩書きから仕事を覚えてはいけないと常に戒めている。

最も大事なことは『現場から学び上げその肩書きの人になること』と私は思う。

コンサルタントならば、現場から真摯に学び求められコンサルタントになること。

保育士ならば、園児から学んで保育士になっていくこと。
主任なら保育士や園児、園長から学んで主任になること。

まずは変な形だけの組織図や組織、経営陣などという、ツマンナイ固定概念を捨てることが大事なのだと思う。

現場で相手から学びながら求められるようになってきたときがそれ相応になってきたというふうにすれば一つの肩書きの基準だと定義するといい。

子ども達にも、年長だから年少だからなど肩書きからではなく自然に相手からそれ相応の子どもとして学んでいけるような環境の園を広げていきたいと心から思う。

年齢という肩書きの刷り込みで異年齢や一斉などを判断するのではなく、その人間そのものの素晴らしさをちゃんと観て自然に立派な人になってくれるようになるような環境に気づけ変われるように私たちカグヤは安易に「肩書き」という刷り込みが業界に広がらないように自戒しながら歩みを強めていこうと改めて誓う。