働くということ

私たちは社会福祉施設に関わることが多い。

特に保育園は、幼稚園と違って教育という括りだけではなく養護も含む福祉という括りで今の世の中に定義されている施設になっている。

一日中子どもと生活を共にし、四六時中その家族や本人の主体的な生活のすべてに深くかかわっているのが福祉なのだと思う。

福祉の本懐とはどのようなものであろうか?

人間にはいろいろな人たちがいる。

たくさんの人から貰うことが好きで、貰ってばかりの人。
たくさんの人から奪うことが好きで、奪ってばかりの人。

また反対に

たくさんの人へ無償で与えるのが好きで、少しも貰おうとしない人。
たくさんの人へ尽くすのが好きで、見返りなどを少しも求めてない人。

福祉の本懐のようなものを思うとそれはやっぱり「たくさんの人を助けその感謝を他のたくさんの人たちへ与えてもらうことが好きな人。」なのではないかと思う。自立できる人々を自立へリードする喜びを感じられるのがこの福祉の喜びではないかとも私は思う。

そういうたくさんの人間がいる社会の中で、いろいろな調和を保ちながらそれぞれの生きるという役割の中にそれぞれの幸せを感じて生きている。

生きるとは、その人がこの社会において自らにどれだけの価値を見出してその価値を尽くしているかで語られる叙事詩のようなものなのではないかとも私は思う。

ひごろから子どもたちのあるがままを観ているとよく思う。

子どもは、それぞれの成長の過程の中でもっとも生きることにおいてそれぞれに異なる自分の生きることの大切な意味や生きる価値をぐんぐん見出していく。

ぐんぐん伸びて自然であるというのは、そういう身の回りの社会や関係性の中で自分の使命や役割を見出しその命を満天の星空のように輝かせているようなものであるのだろう。

教育や保育というのは、子どもが自らそういう生きる力を養うためにあるのだと思う。

人は、誰しも働くことで自分にしかできないことに出会う。
人は、誰しも働くことで自分の命の役割を実感してそこに尽くしていくことで喜びを感じる。

『働く』というのは、本当に素晴らしいことだと最近よく思う。

もっと働くということを崇高にしていくこと。そしてもっと働くということに畏敬の心で日々尽くしていくこと。そういう私たち大人の実践こそが子どもたちへ大切な生きる意味や価値、命の蝋燭を輝かせながら広く自らが光を照らす喜びにつながっているのだと思う。

そして子どもに大人や時代の刷り込みを与えそれを強いるのではなく、普遍的なあるべきよう、つまりは子ども一人ひとりのプライドを持てるように「自分らしく」そういう生き方ができるようになることが、世界にとって「偉大なその人」を生み出す原点になっているのではないかと私は思う。

「なぜ働くのか?」

そう聞かれたら、私はどうこたえるだろうか。

私は、尊敬する「世界子ども人権宣言の理念の体現者」、ヤヌシュコルチャックに好きな言葉がある。これは彼が日ごろからよく言っていた言葉だそうだ。

【未来の社会に希望が持てるとしたら、それは政治がよくなることではなく、人間がよくなることだから。世界を改革するのは教育を改革することなのです。子どもたちに無理に教えるのではなく、一人ひとりの個性を壊さないように、その子どもが向上していくことだと思います。教育学者が理論を上から押し付けるのがいちばんよくないのです。もちろん誰にでも必要最低限の道徳的な規律は欠かせません。それがなければ生きていけないはずですから】 (コルチャック先生 近藤康子著 岩波ジュニア新書より抜粋)

私が常日頃から自分の大ミッションにしている部分もまったくここにある。

未来を創る、未来を引き継ぐ、未来を遺すなどというのは、それはただ経済が良くなるのではなく、目の前の政治が良くなるのではなく、理論上の教育が良くなるのことではない。

それはやはり最後は「人間がよくなる」ことだと思う。

人間が良くなるということは、私にしてみれば「しっかりと丁寧に働く」ということだ。

最近、この日本の世間や若者の間では働くことがまったく誤解されてしまい、消費や消耗、また切り取られた一部や仕方ない現実のような感じになっているが、これは本当になによりも悲しいことだと思う。

子どもたちにはそんな無意味で無機質な「働く」後姿は実践したくはない。

もっともっと私は、そしてこのカグヤは、この世界の未来のために、人間が良くなるためにも自分たちが人間として良くなることを切に誓い、私自身この世界のために尽くし仕事を喜び、この仕事を通して命の限り最期の瞬間まで働いていきたいと思う。

働くということがどれだけ大事なことなのかをもっと子どもたちへ手本を見せていきたい。

私たちが働くのは、人生のよりよいものを発見することでもあり、働くことこそが生きているものがみんなで支えあい助け合い穏やかに神を感じて歩んでいくかんながらになるのと信じて。

さあ、本日も良い働きができることを祈り歩んでいこう。
黎明の繰り返される朝日に深い感謝。

共創と共進

昨日と本日とダイヤモンド社が主催する、ケン・ブランチャード博士が開発した研修プログラムSLⅡに参加してきた。

もともと現場の先生方の育成方法や子どもの発達段階におけるアプローチ方法を悩んでいた時に世界で大ベストセラーになった「一分間マネージャー」の著書と出会いとても共感してその本質と真相を知りたいと予てから思っていた。

ただ渡米して参加するには等々と迷っていたけれど、そのファシリテーターに国際メンターシップ大学院大学学長でハワイ大学名誉教授の吉川宗男学長が務めると書いてあったので関心が倍増しすぐに申し込んだセミナーだ。

セミナーは本当に素晴らしい内容で本当にさまざまな気付きを得ることができた。

最初は来月オランダの研修センターの視察に入る前にグローバルな海外の研修モデルの視点観点についての参考にしようなどと感じていたけれど、それを通り越えてファシリテーターの吉川学長の熱意、誠意、知識、共感の姿勢、すべてに深く感動した2日間といっても過言ではなかった。

吉川学長のメンターとしてのリーダーシップの後ろ姿そのものを深く学ばせていただきました。

本当に、有難い貴重な出逢いをありがとうございました。

吉川学長の話ではリーダーシップマネジメントは、バブルを通過してつい昨今までの日本ではそんなに現場で必要とされていないマネジメントだったそうだ。

しかし今の時代は、ITが急速に進化しボーダーが引きなおされてコミュニケーションの質も量も変化し、今まで当然にあった年功序列や階段式、派閥式などの集団をひとつのまとまりとして創り上げてきた空気を読んでなんとなくあわせるルールが崩壊しだしてきているというようなことを仰っていた。

これからは多様化した社会の中で、縦社会が崩壊してフラット化しそれぞれの個が自立してパートナーシップを結んでいかなければ知恵や知識の創発もまた共存共栄も自己実現なども定義しにくい時代に入っている。

それは私自身、日々、仕事を通して園の現場に入っていてもよく分かる。

個人面談などをすれば、職員も保護者も関係者も今までになかったような不安や不満をみんなたくさん抱えているからだ。

そういう私たちも、今までの園に入る「出入り業者」という定義をどう越え、どれだけ園と螺旋的に共創できるようなパートナーシップが結べるかどうかを日夜考え続けている。

今までのように企業だって教育や福祉の組織や集団、行政や制度、もしくは何かの伝統に依存して無理やり子どもの環境を守ろうとしたってその先にある子どもの社会がきっと今までのようなものが続けられるはずがない。

だからこそ自分たちの仕事を通してちゃんと子どもの未来を見通し見立て、今からまず「自分たちが変わってみせ模範を示す」ことをやっていくことで大人としての専門性を示していく必要があるのではないかと私は思う。

この例で言えばカグヤは例えば現在「発達段階」ですべての社内マネジメントを構築している。

顧客についてそれぞれの状況をスキルと意欲を見立て週末にそれぞれの園の中からもっとも私たちが貢献できるところを設定しみんなで話し合いを深めている。

どうしたらその園がもっと良くなるか?そしてどうしたら、その園のやりたいことをやりながら自己実現をしていくことができるだろうか?等々を特別な発達段階に分けて話し合っている。

そういう意味でも今回のケンブランチャード博士の考え方も、今の園の職員の育成には必須ではないかとも思うし本当に参考になった。

園でよく見かける職員育成方法はあまり良い方法だとは思えず、いきなり現場体験少しさせたらいきなりクラスにつけてそのまま任せて放置する。もちろん会議もあるけれどほとんどが段取り系ばかりで内容についてはフィードバックがほとんどない。

これをケンブランチャード博士の著書では「放ったらかしのバッサリマネジメント」と言うそうだ。

そしてそれをそのまま続けていたら文字通り「職人芸」というものになって共通理解が取りにくくなっていくのだろうと思う。発達段階で相手の状況にあわせていくことこそ大事なことだ。

これは園だけではなくよく日本の企業や組織では起きているのではないかと思う。

やはり私たちは教育に携わる人間として子どもの近い将来を鑑みるとき、この今もそれに気付かずそれを続けていくのはいけないと私は思う。

会社でもそうだがまずは園でも先生がひとりの人間としての個の幸福や成長をしっかりと保障されていないのにどうやって子どもたちの個々の成長が保障されるのかと思う。

このまま今のままを先延ばししていたら将来少子化によってより個が重視される世の中になり、ますます自立していくことが困難になればより子どもに大変な思いをさせてしまうかもしれない。

教育とは社会そのものである本質である以上は当然の因果だと思う。

最後に、

私が今回の2日間の研修を通して吉川宗男先生から学んだこと。

それは

「相手を目上目下、肩書き、組織からではなく刷り込みを取り除き、人間としての存在をまるごと認めて、共感、傾聴、受容、自立ということを尊敬しながら接し、よく相手の行動意欲を洞察観察して、十人十色、一人十色と自分を相手の状況にあわせて変えていく、そして最善のマッチングを目指すこと」

というようなこと。

そして人と人とは、お互いに育ちあうこと、共に進むパートナーであること。

相手を学び、自分を知ることはその人が本当に真に求めているものを与えることにつながっているということ。

人間を知るということは、相手の求めていることが分かることだと。

簡単なことのようでこれは本当に難しい。

子どもたちの使っている「言語」を知り、その言語が求めてるいるもの提供すること。

これも私たちが探究している「見守る」ことにつながっている。

つい大人主導になりがちなマネジメントを、そうならないようにするにはいろいろな理論をデジタルで学び、保育の実践でアナログで覚えることにあると思う。

この貴重な体験も、子どもにとっての最適なマッチングができるようにカグヤで実践しながら自らのものにしていこうと思う。

そうして多くの人たちに同じような姿勢で歩んでいけるように啓蒙していきたいと思う。

2日間、本当にありがとうございました。

出逢い

人は生きていると多くの人たちに出会う。

どんなに離れていても常に心にいる人も在る。
そして、必ず何かある時に方向性を示してくれる人も在る。
何かピンチの時に現れて颯爽と救ってくれる人も在る。

人の出逢いとは、自分の中にいるその人の存在が今の世界に現れるのだろう。

そしてそれは志やその人へ引き継がれた思いの連鎖であるものではないかとも私は思う。

だからこそ、日々どれだけの精神で今を生き切っているかが自分へ問われる。

今、英語で書かれたヤヌシュ・コルチャック「Loving Every Child: Wisdom for Parents」の本を読んでいる。

世界子ども人権宣言の理念になったといわれる方だ。

コルチャック先生の文章を抜粋しているものを紹介する。

・・・・

=子どもは愛される権利をもっている。自分の子だけでなく、他人の子どもも愛しなさい。「愛」は 必ずや返ってくる。
=子どもを一人の人間として尊重しなさい。子どもは「所有物」ではない。
=子どもは未来ではなく、今現在を生きている人間である。十分に遊ばせなさい。
=子どもは宝くじではない。一人ひとりが彼自身であればよい。
=子どもも過ちを犯す。それは、子どもが大人より愚かだからではなく、人間だからだ。完全な子どもなどいない。
=子どもにも秘密を持つ権利がある。大切な、自分だけの世界を。
=子どもの持ち物や、お金を大切に。大人にとってつまらぬ物でも、持ち主にとっては大切な宝。
=子どもには、自分の教育を選ぶ権利がある。よく話を聞こう。
=子どもの悲しみを尊重しなさい。たとえそれが失ったオハジキ一つであっても、また死んだ小鳥のことであっても。
=子どもは不正に抗議する権利を持っている。圧制で苦しみ、戦争で苦しむのは子どもたちだから。
=子どもが自分たちの裁判所を持ち、お互いに裁き裁かれるべきである。大人もここで裁かれよう。
=子どもは幸福になる権利を持っている。子どもの幸福無しに、大人の幸福はあり得ない。

・・・・

子どもを思う気持ちがどこまで貫徹できるかということを思うと、世界にはまだまだ凄い人たちがたくさんいる。

そういう人たちも引き寄せて、自分にしかできないことを求道する。

出逢いというご縁とは、何ものにも代え難い真理のようにも思える。

これからももっと自分を高めて修養することを忘れず、日々を律して怠らず、自分にしかできないことでよりたくさんの子ども達をこれからも自分らしく自分らしい人たちとともに理念を体現しながら実践し見守って生きたいと思う。

私の今、在るのは過去の人たち、そして未来の人たちが繋いでくれている「掛け替えのない命の思い」だということを座右に置きながら大事にしていき出逢いを念じて歩んでいきたい。