異文明の共感

今日はオランダの学校教育のコンサルティング会社、JAS(イエナプラン)の本部に来ている。本日ここでは、ピースフルエデュケーションなど平和を考えたさまざまな最新の授業などをイエナプランの専門家コンサルタントが集まって終日議論をしていた。

時代の変化に伴い、新しい教育方法が次々世界から入ってきて導入されている。それをどのようにしてイエナプランの理念に沿って融合統合していくかなどについて話をしていた。

これは日本では、保育環境研究所ギビングツリーが「子ども中心の見守る保育」の理念に沿って様々なものを検証したり生み出したりしているのと同じようなことをやっていた。

やはり教育の研究というのは、実際現場に伴ってどのようにしたら現場の先生が難しいことを理解できるようにシンプルにしていくかなど丁寧に考えて提供していかないと理論だけでは広がらないし伝わらないし、何より使えないのだろうと思う。

GTでの日頃のそういった話し合いが如何に大事な時間であるのかとうことを改めて感じることができた。

会議の場に参加するというのは、言葉はわからなくてもその雰囲気でどのように進めてそれぞれがどの方向を向いて歩んでいるのかなどは理解することができる。

人はそれぞれ生まれた環境も違えば、その状況や本人の隠れた本意など文明や文化に伴い異なっているのは当然だ。

その中で如何に人間として同じだというところから物事を洞察できるかと思うとあまり目に頼っていては難しい。

そして耳に頼ろうとしてもそもそも言語が違っているのだからよりそれを理解するにはかなりの時間を要してしまう。

ある人は一瞬でそのものの本質を理解する。
ある人は、ずっと見ても聞いても話してもわからない人がいる。

気づきというのは、感性や感覚が左右する。
その感性や感覚は日ごろから主体性をもって興味関心をどの時点に透徹させて物事を鑑みてきたかという訓練や問題意識が大事になるのだと私は思う。

理解するというのは、その背景に知る由もない大きなことがあることは前提でそれがわかった気になったのでは本当に共感しようとする心構えでもない。

やはりどこかわかった気にならずに、深く相手の立場で物事を感じ尽くしてそれをどうやったら一緒に解決していけるかを思うとき、次第に本質が同化していくのだと思う。

日本人はつい、深く相手を知ろうとすると「余計な御世話」だという風に距離をおかれることが多いけれど、共通の理念さえあればいくらでも相手と本気で遠慮なく議論したり、徹底的に分かち合ったりは怖いものでもなく辛いものでもない。

コミュニケーションの本質は、まずは自分からどうするのかが明確でなければお互いの本懐が得られるという道理はないと思う。

国も育ちも違えども、子どもを前に思うことはきっと同じ。

その理念を深く信じて、いちいち一挙一動に左右されない不動の至誠を持って真実の狭間にある本物を見つめる心眼を持って挑みたい。

世界の子どもたちが自立と平和を維持し、創造的で成熟した豊かな社会のモデルになっていけることを念じて。今日は、小さいながらも子どもたちが素晴らしい教育を受けている学校を訪問視察することになる。

感謝。

風土と人間

世間という巷では、風土と人間という相互関係がいろいろな出来事を発展させる。

その風土とは、それぞれの思想が生み出したものが重なる場のようなものなのか、それとも伝統伝来したその地域に残った文明がそうさせるのか、それは言葉では語りようがない。

現在、私はオランダのアムステルダムに来ている。

これは日本の子どもたちやまたその大人たちがこれからどのように未来に見通しと見立てをもって歩んでいくのかを洞察するために直接自らの感覚で理解しようとする試みになる。

試みといっても、人生はすべて試みと真実の間にあるのだから世間の刷り込みでいう実験や体験などのレベルではなくそれはまさに一度きりの真剣勝負といってもいいのだろうと思う。

人は何をもって本気と定義するかはそれぞれ違う。

もちろん平和な社会では、本気ということをいちいち考えないといけないほど本気という言葉は遠い。

争いが絶えない、また天変地異で苦しんでいる人は生きることだけが本気であり、ただその限られたとても環境の狭い中にあるその結いつの命をどう繋いでいくかを思い、自然にありようのまま命の火を燃やしていくのだろう。

平和になるとそれこそボケてしまって、「いったい何なのか?」という本質を考えることもなく、ただ「どうしようどうしよう」と執着に揉まれて優柔不断に決断をしないまま無難になるべく人生を終わらせようとするのだろう。

そしてそれもまた人間のありようだ。

風土ということを思うとき、人は、その思想の強鞭さや志高さ、その系統の清廉高潔さ、そしてその地場が持つ聡明な共生の叡智などが働くのだろう。

そしてそこにももちろん栄枯盛衰、そして人間界での興隆衰退がある。

一つのモノサシとして、もし言語で明確に表出できるほどの風土が生まれた時、あとはそれは次第に衰退へ向かう。

そしてその衰退において、何を風土として守っていくのかというと、変わるものという流行にあわせて常に変化をしていくことと、変わらないものというむしろ変わらないもののためにヘンカをしていくという、つまりはコンピューターでいうところの「ゼロとイチ」の多元的考え方になるのだろう。

ゼロは、ゼロという無の概念とともに、ゼロという実数の概念を持つ。他にもゼロにはいろいろな意味がある。縁(布置)のようなものもその一つだ。

今の日本人は、どうも0か1かという数字の損得でしか物事をみなくなってきているけれど、本当はそこに、無か有かという尊徳でも物事を顧みないとこの先がどうなっていくのかなど考えようもない。それに今、その時代がどこに布置を持っているかでまた看取る場所も変わってくる。

次第に誰かに流されて、誰かの判断にいい加減にゆだねて、自分にしか与えられていない道すらも追わなくなれば後はただ諸行無常の真理にあわせて滅びるだけだろう。

この道理も、現代の刷り込み日本人に言わせるときっと「重たい」や「マイナス思考」だや、「変な人」や、「考えるのが好きな人」などと割り切られるだけだろうからもうそれ以上一々書いても仕方がない。

話は変わる。

今回オランダにて時間があったのでゴッホの美術館に立ち寄ることができた。

前からずっとあの黄金の「ひまわり」の絵が気になっていて、どうしても本物に触れて思索したいと思っていた。今回、その機会に恵まれたことを本当に感謝。

そのゴッホから、ひまわりを通して人の生き死にを超えた深い悲しみの色合いと深い喜びの色合いを感じ取ることができた。

人間と真理の狭間に生きて、生きて、その微細な情景をモノを遣って表現する。

芸術家というよりは、私にはとてもその絵もその人も人間くさく観えた。

ひまわりには、私が見守るほいくのソフトに没頭したころの気持ちを彷彿させるものも共感できた。

孤高というのは、ある意味誰もわかってくれないという深い孤独との葛藤であり、そしてそれは自然にあるがままであることを求めてやまない「已むに已まれぬ」その境地でこそ或るのだろう。

その深い悲しみ、喜びゆえに、人はその憧憬を重んじて表現者としてのあるべき姿を真摯に生き抜きそして死に抜き、後世に影響を遺していくのだろう。

私は、かりにも幼児期の素直な魂を持つ子どもたちに関わる職業を選択して此処にまで来ている。

まだまだ師匠のような不動の精神を磨き、そしてその中間にある真の揺らぎを見極め、この日本の未来をそれぞれの志の高い方々とともに相対融合しながら道筋を創っていきたいと願う。

一期一会の出会いに深い感謝。

衰退と興隆

私はいつも世界のニュースに目を向けるようにしている。

そうしていると如何に大国が次第に衰退しているか、新興国が急成長しているかなど歴史が変化していることがよく観える。

歴史を思うとき、歴史からみえてくるのは人間が歴史を生み出しているという真実。

そしてその歴史は、ある一定の普遍性をもって左右前後が繰り返され、そして流行により変化し続けるというという真理が書き記されていくことがわかる。

いかに国家が衰退するかについて歴史哲学家で社会福祉事業の先駆者であるアーノルド・トインビーがその著書「歴史の研究」の中でこう述べている。

【「歴史における最大の要因として自己決定能力の喪失」、つまり自らの運命を自ら決定していく能力を失うことが、文明の衰退や大国の滅亡の根本原因だということです。すなわちそれは、たとえ力においていかに小さな存在であったとしても、「自らの選択」によって未来を切り開こうとする意志の力こそ、生存の究極の条件だと意味している。】

つまりこれは、自らの意志で自らの将来を決定していくという自立する精神が備わっていることが歴史を人間の力で正しい方向へ生み出すためのプロセスだとしているのだと私は思う。

人間が、より衰退に向かうとき、「心や精神」よりも「モノや物質」に価値観を奪われ、そして「自立」という自分の意志で立つよりも、「依存」という誰かに自らの運命を委ねて依るというものになっていくのだろう。

そうしているうちに、取り返しのつかない負のスパイラルに入り、気がつくと国民や国家が衰退の一途を辿ることになるのだろうと思う。

不思議に歴史には書かれていること以上に、その事実にウソはなく、人間というものを中心に鑑みるとやはりそういうことなのだという史実の真理に気づくことができる。

今、この国は、本当に危険な状況だと私は思う。

なぜなら、私が自らの足で見廻って、直接現場を見聞きしている現在の幼児教育の環境を鑑みているからそれが理解できる。

子どもたちが主体で子ども自ら自立や自律をしながら、自らの選択や意志の力をはぐくむというよりも、保護者をはじめ多くの大人から一斉に他者に依存して、大人の言うことをただただ聞くだけで未来は安心だという虚妄のシンジツを押し付け強いられる。

そして、子どもが自らが自らの意志で未来を良くしよう、人間を良くしようとするのではなく、大人誘導のクレームや他者への批難、または自分勝手に都合を優先する社会を当然として歪んだシンジツを子どもへ刷り込んでいく。

これでどうして、人間が本当に自分の意志で世界をよくしようとする内面からの本質的な生きる力(活力)を無限に創造することができるのだろうかと思う。

人間が、自立するというのは、運命という名の生きる力を否定した内面の虚ろな妄想に常に打ち勝ち、共に支えあいながら調和をしていくことにつながっている。

万物の霊長として、私たちは自分の尊厳を見失ってはいけないと思う。

最後に、私の尊敬するヤヌシュ・コルチャック先生が仰っていた言葉を思い出す。

 「世界を改革するということは、教育を改革するということだ。」
 「子どものことをいちばんよく知っているのは子どもなのだ。」

コルチャックは悲惨な時代にあっても、子どもを信じ、子どもを認め、人間を愛し、それを子どもの自治を通して、そうやって未来と国の治すことを実践した。

子どもたちが自らで自立や自律をするために、子どもの存在を深く信じたのだ。

私は幼児教育に、子どものたちの自立や自律を促し、生きる力をはぐくむことは世の中をより素晴らしい社会に発展させていくためには必ず通る道だと信じている。そしてそれが国を救い、世界を共生の理念を基に平和な社会を築いていく礎となることになると確信を持っている。

だからこそ私の師匠もそこから逃げないし、明確な理念と実践がある。

私たちは使命感を持って、常に日々自らの仕事の崇高さに気付きながら「自らの意志で自らの運命を切り開く」ことを子どもたちのモデルとして実践していきたいと思う。

世界と歴史は、常に激動と無常を内包する。

ミッションと初心に帰る、感謝。