世間という巷では、風土と人間という相互関係がいろいろな出来事を発展させる。
その風土とは、それぞれの思想が生み出したものが重なる場のようなものなのか、それとも伝統伝来したその地域に残った文明がそうさせるのか、それは言葉では語りようがない。
現在、私はオランダのアムステルダムに来ている。
これは日本の子どもたちやまたその大人たちがこれからどのように未来に見通しと見立てをもって歩んでいくのかを洞察するために直接自らの感覚で理解しようとする試みになる。
試みといっても、人生はすべて試みと真実の間にあるのだから世間の刷り込みでいう実験や体験などのレベルではなくそれはまさに一度きりの真剣勝負といってもいいのだろうと思う。
人は何をもって本気と定義するかはそれぞれ違う。
もちろん平和な社会では、本気ということをいちいち考えないといけないほど本気という言葉は遠い。
争いが絶えない、また天変地異で苦しんでいる人は生きることだけが本気であり、ただその限られたとても環境の狭い中にあるその結いつの命をどう繋いでいくかを思い、自然にありようのまま命の火を燃やしていくのだろう。
平和になるとそれこそボケてしまって、「いったい何なのか?」という本質を考えることもなく、ただ「どうしようどうしよう」と執着に揉まれて優柔不断に決断をしないまま無難になるべく人生を終わらせようとするのだろう。
そしてそれもまた人間のありようだ。
風土ということを思うとき、人は、その思想の強鞭さや志高さ、その系統の清廉高潔さ、そしてその地場が持つ聡明な共生の叡智などが働くのだろう。
そしてそこにももちろん栄枯盛衰、そして人間界での興隆衰退がある。
一つのモノサシとして、もし言語で明確に表出できるほどの風土が生まれた時、あとはそれは次第に衰退へ向かう。
そしてその衰退において、何を風土として守っていくのかというと、変わるものという流行にあわせて常に変化をしていくことと、変わらないものというむしろ変わらないもののためにヘンカをしていくという、つまりはコンピューターでいうところの「ゼロとイチ」の多元的考え方になるのだろう。
ゼロは、ゼロという無の概念とともに、ゼロという実数の概念を持つ。他にもゼロにはいろいろな意味がある。縁(布置)のようなものもその一つだ。
今の日本人は、どうも0か1かという数字の損得でしか物事をみなくなってきているけれど、本当はそこに、無か有かという尊徳でも物事を顧みないとこの先がどうなっていくのかなど考えようもない。それに今、その時代がどこに布置を持っているかでまた看取る場所も変わってくる。
次第に誰かに流されて、誰かの判断にいい加減にゆだねて、自分にしか与えられていない道すらも追わなくなれば後はただ諸行無常の真理にあわせて滅びるだけだろう。
この道理も、現代の刷り込み日本人に言わせるときっと「重たい」や「マイナス思考」だや、「変な人」や、「考えるのが好きな人」などと割り切られるだけだろうからもうそれ以上一々書いても仕方がない。
話は変わる。
今回オランダにて時間があったのでゴッホの美術館に立ち寄ることができた。
前からずっとあの黄金の「ひまわり」の絵が気になっていて、どうしても本物に触れて思索したいと思っていた。今回、その機会に恵まれたことを本当に感謝。
そのゴッホから、ひまわりを通して人の生き死にを超えた深い悲しみの色合いと深い喜びの色合いを感じ取ることができた。
人間と真理の狭間に生きて、生きて、その微細な情景をモノを遣って表現する。
芸術家というよりは、私にはとてもその絵もその人も人間くさく観えた。
ひまわりには、私が見守るほいくのソフトに没頭したころの気持ちを彷彿させるものも共感できた。
孤高というのは、ある意味誰もわかってくれないという深い孤独との葛藤であり、そしてそれは自然にあるがままであることを求めてやまない「已むに已まれぬ」その境地でこそ或るのだろう。
その深い悲しみ、喜びゆえに、人はその憧憬を重んじて表現者としてのあるべき姿を真摯に生き抜きそして死に抜き、後世に影響を遺していくのだろう。
私は、かりにも幼児期の素直な魂を持つ子どもたちに関わる職業を選択して此処にまで来ている。
まだまだ師匠のような不動の精神を磨き、そしてその中間にある真の揺らぎを見極め、この日本の未来をそれぞれの志の高い方々とともに相対融合しながら道筋を創っていきたいと願う。
一期一会の出会いに深い感謝。