仁の精神

昨日は、三戸岡道夫先生と致知出版の花坂様と編集の小森様と一緒にお食事をする機会をいただいた。以前、カグヤの社内研修会にてカグヤのクルーの皆で学びの邂逅をいただいたのはお二人の心づくしの御蔭であると、改めてこの一期一会のご縁に心から感謝しています。

そして昨日の会食でもたくさんのことを学ばせていただきました。

仁の精神というのが孔子の時代から古今と照らして一体どのようなもので、それを日常で実践するということが果たしてどういうことなのか。そして他者を思いやるというのが、どれだけ人間を人間として受容していくことに繋がっているということか。

私たち日本は、アジアをリードしこれからは仁や義などの本質をどんな場面であっても世界の人たちに理解してもらえないといけない時がくる。世界でその道徳を商売に組み込み理解されるようリテラシー能力なども今後身につけていかないといけないと先生は言う。

世界という遠くのことの話しのように思わなくても、世代が刻々と変化し、刷り込みが次第に蔓延している今の世の中に於いて、日々に流され大本を考えない人たちにだって通用する真理だと思う。

私たちは私も含め常に刷り込みに気づかない人たちともともに仕事をするし、その中で一緒に助け合い生きていくのだから、2500年以上前から見えずらいけれど身近にあった道徳精神である仁や義などの普遍的なものを中心に据えて理解しあっていくことをより求められるようになる。

たとえばそれは、他者へ強引に押し付けの道徳では理解されてはいけない。
先日も、ある園で保護者に強引に道徳を説いていた場面に出会う機会があった。

見守る保育も子どもを大切に仁の精神で取り組むのだから当然、目に見えないものがたくさんある。

しかしそれを言葉で押し付けのように保護者に伝えたところで本質が理解されるかというと全体としては本当の少数の方だけになってしまう。最近はモンスターペアレントなどと流行っているがああいう社会を創ったのはいったい誰なのかをもう一度考えた方が良いと思う。

だからといってまた悪を悪で排除するというやり方では、またなんとも言えない閉そく感で病気になってしまう人が増えてしまう社会になっていくだけだ。

大事なことは、相手を責めるのではなく自分自身が善を行い、仁を行うことでみんなが心地よくなるんだよということを丁寧に伝えて自然に感化していくことが大事なのだと思う。

そういう倫理道徳をいくらもっともらしく単なる言葉で語ってもやっぱり本質的には伝わらないし浸透していかないのが倫理道徳だと思う。

子どもたちへの道徳教育とは、大人たちが自らの実践により感化して伝わっていくのが最良のものだと私は思う。

何でも時間がかかるものは意味があるもので、感化しようとすると理念を固め実践していく必要がある。そして今の私もカグヤも途上でまずはやることから自分自身が自分自身の脚下の仁を実践して、それを相手が理解できる部分で受け止めて共感してくださるよう、ともにそこに幸せや豊かなものを共有できるような語りかけで受容しくことが最善だと思っている。

仁や義、礼、智、信など、日ごろあまり語り合うことがなく、実践でしか理解しえないものなのだから自分一人で悩み考えたり意識してたら無意識に視野が狭くなってしまうことがある。私が本当に有難いなと感謝できるのは、多くの師が本当に素晴らしいタイミングで現われてくださってその都度、色々な気付きや方向性などを示してくださること。

そしてそういう実践をたくさんの人たちが行っていることを感じるとき、再び感動があり、その人たちの御蔭で今のカグヤが存在できていると思うと感謝で満ちて手を合わせる。

そういう立派な人たちがみんな教育に熱心で、知識だけではなく実践からそれを語っていて、いつも子どもを大事にしていこうと自らモデルを示して実践をなさっている。

遠大で巨大なことのように見えてても、道を歩む先人の方々、またその仲間がまだまだたくさんいると思うともっとしっかりと歩んでみたいと心から勇気が籠ってくる。

三戸岡先生の著書、二宮金次郎の一生にもある「積小為大」(小さきを積んで大を為す)。

これからも日々、自らの理念を軸に信念と使命を持って一つ一つを意味を持ちながら良く積み上げていきたいと思います。

今回の有難い機会に心から感謝しています。
また次回お会いできるのを心から楽しみにしています。

子ども自身の声を聴く

先日、保育環境セミナー第17回を開催した。全国から数多くの子ども一人ひとりの主体性を保証する保育、「見守る保育」を目指し実践する方々が集まった。

毎年この時期に開催していてるけれど、いつも内容全てに感動するセミナーになっている。

子どものことが分からなければ子ども自身に聴いてみる。
子どもの環境が分からなければ子ども自身を観察する。

私もよく園で保育の相談を受けた時に、具体的なスキル論よりも子ども自身をよく観て、そして聴いて、どうしたいのかをよくよく深く洞察していけばいいのではないですかと伝えることが多い。

今のやっている保育が本当にあっているかどうかはマニュアルではわからないし、それを安易に答えている人がいるとしたら本当に怪しいものだ。

藤森先生も園内研修をよく行っているけれど、コーナーや環境だけ言われても子どもがいないとはっきりは答えない。それを不満がる人がたまにいるけれど、それこそが刷り込みの世界で保育を捉えていることがよく分かる。

大事なことは、子ども自身の声や子ども自身の行動に尋ねて自分がそれをよく内省観察して、その子がどうやったらより良いたった一つの自らの人生を生きていけるか、発展させれるか、幸せになれるか、それを自問する。そしてそういう人間として豊かにみんなと共生していける力を自らの力として身につけてあげられるのが保育なのだと最近では私も少しだけ身に沁みてきているようにも感じる。

よくこの業界ではなぜか企業が保育のコンサルティングなんてや、企業のクセに偉そうに先生に研修するのかなど言われることがあるけれど、それも不思議なことを仰るなと思ってしまう。

高い問題意識と志で起業した方が、必死に学んで経験を積んで、その道のプロを目指して磨かれ本質を観れるようになり、自分にしかできないことで愛する方々に貢献したいと願えば自然にそのようにもなるだろう。

それを誰かの風潮や外側だけの偏見や、今までの古風な官僚主義で判断し、自分で見てもないのに、自分で体験してもないのに、決めつけてしまったらご本人が一番大きな損失になるのではなかと思うし、本当のご縁や一期一会なんてないのではないかと思ってしまう。

私は、どんな教育者でも保育者でも企業人でも保護者でも、子どもの前では平等であると思っている。

子どもを愛する気持ちに上下はなく、子どもの未来を思いやる気持ちに貧富の差もない。

子どもがどうしたいのかをよく観てあげて、それを保障してあげていくというのは私たち未来を先往くものたちの使命であり、義務であると思う。

毎回このセミナーでは、すでにこの保育を実践している園が数か所発表していただいている。

その中で、私自身がいつも嬉しく、そして幸せを感じて、勇気と励ましをいただけるのはそこで発表してくださる先生方から「この保育に出会えて本当に良かった。」「子どもたちのことを子どもたちの目線で考えていこうと思う。」というようなことをよくお聞きする時だ。

その発表する方々の傍にいる子どもの人権が本当に保障されていくのを実感し、深く感謝と感動とに心が沁み渡り感謝に満ちていく瞬間になる。

一人ひとりがこの世に生まれてきたのは、厳しさだけを教えられるためではない。その中にある様々な喜びや豊かさ、愛や感謝、穏やかさや静けさ、優しさや寛容さなど、多くのものをその人だけの真実で学んでいくために用意してくれたたった一つ掛け替えのないステージのような気がする。

そういうものを子どもの頃に保障されて、それを少しでも掴んで穏やかにその先の自分自身の人生の道しるべにして自立していければいいなと本当に願う。

これからもカグヤは、子どもの声を聴き世界を変える企業としてモデルを示し、受容や寛容さを身に纏い、この業界を温故知新しながら激励し、常に子どもたちの味方として歩んでいこうと念じる。

素晴らしい出会いと邂逅に心から感謝。

本当の貧しさとは

先日、ある仕事をしている中で様々なことを考える機会になった。

今の社会は物質的に豊かになり、食べ物がないという飢えという貧しさはこの国からほとんどなくなった。お金持ちも増え、みんな裕福になった。ニュースもトレンドも全部そういうものばかりで身の周りは包まれている。

しかし、それと同じくらい孤独な人たちが増えた。食べ物の飢えがなくなって、精神的な飢えを持つ人は大量に増えた。大人たちも自分たちの個性や価値を見出せず心を病み、疲れ、他人を羨み、また孤独になっていく。

貧しさというのは、決して一つではない。

世界には、食べ物という飢えに苦しむ人もいる。
そして、孤独という飢えに苦しむ人もいる。

時代は昔も今も特定の人間たちが自分だけの物質的裕福を求め続けて満たし続けたことが世界での食糧難を生み出してきた。

そして精神的裕福を求め続けて満たし続けたことが隣人への愛を与え続けて世界での平和という豊かさを生み出してきた。

人間は学んでいるようで学んでいないし、学んだことをすぐに忘れてしまうのだなとつくづく思う。

如何に教育が重要なのかということを本当に最近は思う。

心が満たされなければ、どんなに物質的に豊かになったってそれは貧しいことと何も変わっていないのではないかと思えるからだ。

今、洞爺湖サミットが北海道で開催されているがニュースを見ていると色々と経済主導の駆け引きが見られる、これも日本では本当の意味で価値を見出すことができるのかと私は静観している。

物質的豊かさを手に入れている私たちが持つ本当の使命は精神的豊かさを世界へ還元することだと思うし、今はそれこそ先進国の使命ではないかと真摯に思う。

いつまでも奪い合いのモデルを示せば示すほど、人々はこれからもずっと孤独になっていくのではないかと思えるからだ。

大人の欲望は尽きることがない。
私が伺う保育園の子どもたちは、純粋に素直に与えあうことの素晴らしさ、豊かさを自然に内包している。

それすらも保護者と大人、先生の刷り込みで大人社会の孤独を与えるのはどうかと思う。

個々のユニークさというのは、本当は精神的豊かさを持った大人の見守りの中でしかはぐくめるはずはないはずなのだ。

仕事をしていると、様々な批判、非難にもあう。
それぞれで正義があるからそれも仕方ないし、何せ私は商売道を歩みながら祈りを実践で捧げるのだからそんなものは当然だと思っている。

しかし、負けそうになるとき、挫けそうになるとき、支えてくれる偉大な人たちの言葉が心に突き刺さる。」

マザーテレサの詩のような言葉がある。

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人は不合理、非論理、利己的です。
気にすることなく、人を愛しなさい。

あなたが善を行うと、利己的な目的でそれをしたと言われるでしょう。
気にすることなく、善をおこないなさい。

目的を達しようとするとき、邪魔立てする人に出会うでしょう。
気にすることなく、やり遂げなさい。

善い行いをしても、おそらく次の日には忘れられるでしょう。
気にすることなく、し続けなさい。

あなたの正直さと誠実さとが、あなたを傷つけるでしょう。
気にすることなく正直で、誠実であり続けなさい。

あなたが作り上げたものが、壊されるでしょう。
気にすることなく、創り続けなさい。

助けた相手から、恩知らずの仕打ちを受けるでしょう。
気にすることなく、助け続けなさい。

あなたの中の最良のものを、世に与えなさい。
蹴り返されるかもしれません。
でも気にすることなく、最良のものを与え続けなさい。

「本当のクリスマス マザーテレサの収録の言葉より(ドン・ボスコ社)」

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どんなことがあっても大事なことは自分の持つ「最良の善を与え続けること」だと改めて思う。

誰が何と言おうが、自分が信じる自分の祈りこそ、もっとも子どもたちに届けられるプレゼントだと信じている。

今、様々な職場環境、教育環境で孤独は生まれている。

もうこれ以上、貧しい人をそのままにしておきたくない。
その思いが、見守る保育に自分の志を駆り立てる本当の理由になっている。

これからも日々の実践を怠らず、自分を傷つけるほどの本気の愛を多くの人たちに最期まで与え続けていくような仕事と生き方を貫いていきたい。

気づきの質量

本日は、私たちが毎朝素読をしている論語や二宮尊徳の解説の本の著者である三戸岡道夫先生にご来社いただき社内研修を行った。

もう一年半になるが、先生の著書にお会いでき「仁義礼智信」、特にその「仁の精神」の重要性に気づかせていただき、毎朝の至宝の気付きをいただけるのは先生との邂逅の御蔭だと本当に感謝しています。

本日は、本当に色々なことを三戸岡道夫先生から教えていただきました。

孔子や二宮尊徳がどんな人生を送ってきたのか?またその頃の時代背景、周りの人たちとの関係性からどんな人物像が観えてくるのかなど先生が著書を書き下ろす際に深く洞察した内容の濃いお話をいただきました。また、上杉鷹山や保科正之など仁を通して多くの人民を救った人物に共通するその日本人としての民族と伝統などのお話などもいただきました。

どんなに時代が変わっても、人が志を持って「人間としての本来の生き方」という本質的なものから考えていくということが、何よりもどんなことよりも大切なことなんだとその必然性を考える機会になりました。

それに政治というものがどういうもので、その清濁併せ持つ政治に如何に適材適所に人の力を総合的に借りてうまく活用していくことが大事なことなのかなど三戸岡道夫先生の体験からのその処世方法なども教わることができました。

齢80歳を越えても尚、謙虚にそして躍動のあるお話ぶりに本当に感動しました。そして、その経験から語られる一言一言が私たちの見通しの甘さなどを戒めることができました。

人生というのは、まだわかった気になっているわけではないけれど色々なことに気づくという観点では年齢は関係ないと思うときもあるけれど、加齢し多くの体験をしていくことでその味わいの深さやそのあるがままの境地のでの解釈もできるようになるんだなとつくづく感じた。

質と量というのは、本質を味わい深くするためにもずっと大切にしていく真理のひとつなんだなと改めて感じた。

人生の目的を明確に持っていると色々な人たちに出会える。
そして、謙虚に素直に生きていると素晴らしい人たちに出会える。

出会いというのは自分の心の置き所一つなんだなと感じます。

最後に、食事会場の席での三戸岡道夫先生の話に感動しました。

先生が昔、小学校の教員をしていた時、勉強ができない子がいてその子にも何か活かせるものがあるのではと掃除班長をさせてみると学校の歴史に残るほどの掃除をしてみんなを驚かせていたこと、ソロバンが苦手な子に、あなたはソロバンを「弾く」のが本当に上手だねと褒めると、一、二年で学校で群を抜いてソロバンも計算も成績も上がり、何でも自信を持ってできるようになったことなどのお話、そして一つができるようになった子が次第に他のことでもどんどんできるようになった話、どれも心に残りました。

人は、必ずどこかにその人が活かせる要素があり大人や教師がそういうものを「正しく素直に観る」ことができるかどうかが「人を育てる」の本質ではないかということ。

自分の刷り込まれた偏見や思いどおりにならないことばかりの感情でその大切な教育の機会や器をいっぱいにせずに、それぞれの人間が得意不得意などをよく謙虚に観察し、そのできない部分も能力としてないものを探すのではなく、できるものを探していき認めるということが如何に大事なことなのかをまた改めて自らに反省し気づけることができました。

本当に心から感謝しています。

私たちカグヤの根底理念や文化として「論語」にこんなに親しむことができたのも、三戸岡道夫先生の著書があったからです。私たちはこれからも先生の教えていただいたことを大事に守って、子どもたちにも何かそういう仁の心を伝えていけるような仕事にしていきたいと思います。

また次回、先生とお食事をしながらたくさんの人生の機智に富んだお話をお聴きできるのを心から楽しみにしています。