情報リテラシー8

幼児教育は通常は目に見えない教育だと言われている。

しかし教育はどれも目に見えない。

教育と言わず、本当は誰でも人間は生きていれば目や耳だけでは観えないもの、聴こえない世界が存在していることをちゃんと知っている。

しかし、心穏やかにして、心眼や心耳等で心を通して世の中を写し出さなければ理解できないもの分からないものがとても多いものだと思う。

本質を観るとは、そういう心を修養することではじめてできるのだ。

人は心が忙しくなり、余裕がなくなってくるとすぐにすべてが動作的になる。

意識的に内外の環境を静かにすることを怠れば、物事は目と耳だけの感覚で処理をしようとするものだ。

現在、私たちが伺う保育教育現場でも誰しもがやることがいっぱいで余裕とゆとりがなく、情緒が安定していない現場はやはりとても動作的になっている。

デイリープログラムなどもとにかく一日の流れをスケジュールどおりにこなそうとみんなで必死になっている。

そしてそういうとき、またそういう人に、目に見えないものや耳に聞こえてこないものをちゃんと理解してもらおうとしてもなかなか難しい。

日ごろどれだけ、現場が穏やかで落ち着いて入れるかはそれぞれがそれを大事にしていこうという気持ちがなければできるはずがない。

私たちがやっている一円対話というマネージメントもそういう刷り込みを一時的に取り除き、心で考えて心で学び、幼児教育や発達を観える可するためにやっている取組のひとつになる。

そもそも私の人生を振り返っての主観だけれども、教育はたくさんやればいいのではなく子どもたちの心に一つでも何かの種があることを知り、その種が芽を出しさえすればそれだけでもその子どもの人生にはとても大きな財産になることを知っている育てている側に余裕があるからそのものの輝きを楽しむことができるのだとも思う。

なぜ子どもにとって遊びや生活が大切なのかなどもそういうことなのだと私は思う。

何かを決めつけたり、思い込んだりしてもそれはその子のあるがままではない場合は、その子にとってのミスマッチを生み出し、短く貴重な寿命の中で様々な惑いを与えてしまうこともある。

その子の持つそのあるがままを如何に受容していくのかというのは、日頃我々が恩恵を受けている「大いなる思いやり=自然」であることなのだと思う。

そういう中で人は、いや、生き物はみんなで共生して自立し助け合い貢献してくからだ。

話を戻す。

そういう、日頃目に見えないものをきちんと今の時代の保護者や周囲の大人たちに理解してもらうには情報リテラシーが必要になる。

それは、目に見えないものをどれだけ可視化していくかの情報になる。
私たちがやっているサスティナコンサルティングとは、そういうものになる。

これからも社会がゆとりと豊かな余裕を持った自立に満ちた思いやりのある社会を創造するために情報リテラシーを極め、多くの園と子どもの未来への援助をしていきたいと願う。

ゆがみ

今、生きていればいろいろなゆがみの中に存在しているのはよく分かる。

環境に支配されれば、人間はなんでも宿命という言葉でかたずけてしまう。

環境に働きかけて、その環境に自分を及ぼし感化していければ環境を支配することでき、その命を正しい方へ立てることができる。

環境をどうとらえて、自らの決断にどのように実践していくかで様々なゆがみを取り除くことができる。

それを運命を乗り越えて「立命」するという。

日々ゆがみは、環境が悪いからと環境に支配され流されることで広がっていきより大きくなっていく。

子どもたちの環境もその周囲の大人の持っている刷り込みで、支配されるのを常として教え込めばきっとそういう子どもたちは環境に支配されるようになる。

夢や志や自分の命を輝かせるはずの子どもたちが、生活のためやお金のため、迷惑をかけないために生きていくということを信じさせられるのは本当に悲しいことだと私は思う。

自立は孤独や悲しいことばかりだと思いこみさせて、大事なものを我慢していくことを大人が刷り込んでいけば、子どもは何もしないことが、そして自分を出さずに一人で生きないことが正しいことなのだと勘違いされることもある。

人は自分を持って自律して、自立していこうという意欲と生きる力があるからこそ環境に支配されずに自らの命をきちんと立てていく力を持つことができるのだと私は思う。

今の社会はとても環境に支配されやすい依存型のゆがみに満ちている。
その依存の社会は、様々なルールの中にある。その意味やその求めている本質をとらえて自分を変化させていくことが、そのゆがみを矯正するには必要なのだと思う。

そしてそれも子どもたちに必要な確固たる「生きる力」でもある。

どんなことも日々起きるし、どんなことも向き合う時が来る。
逃げていても、必ず追ってくるし、避けていても必ず目に入る時が来る。

その時に、夢や希望を捨てずに自分を貫いていける本当の自分を助けることができるように、子どもたちに信じられる社会を創っていくのは我々大人の責任ではないかと私は思う。

誰も、本質的には教育者は悪い人はいない。

そのゆがみとワナに陥る人がいるだけだと思う。
そして、親でもそう、

環境が悪いのではなく、その環境のゆがみにさらされて流される人がいるだけ。

自分の子どものころを思い出し、その時に刷り込まれた仮初の真実と向き合い、今を生きる子どものことを真摯に考えて、今の大人社会が用意した様々な環境の中で子どもたちが自分の守りたいものがきちんと守れるようにしていくこと。そのために、ゆがみと向き合い受容して常に自修自反して今をよく省みることが大事なことだと思う。

子どもたちのたった一つの自分の命を輝かせて環境へ及ぼしていく力を信じて、刷り込まず、刷り込みを取り除き、そのものの持つ「命の光」を生涯その子が発揮できるような社会環境としてそれぞれが援助ができていければいいと願う。

もっと私は社業と事業を子ども第一主義に絞り込み、世の中へ対してその自立のメッセージをこれからも発信していきたい。

専門性

先日、ある園で理念に基づいた共通理解の研修を行った。

色々な仕事や行事などに追われて、気がつくと大切な意味のあったものが意味を忘れてしまいそのものの価値を下げてしまうことがある。

特に、何か大きな使命がある仕事は得てして地味なものだし時間がかかり丁寧に心をこめてやるものばかりだから、つい目に見える浅い処で認識した内容で取り組んでいるとそのうちにそのものの本質が分からなくなってしまうことがある。

人間は、現在の社会や過去の環境の刷り込みを受けているものなのだから常に自らを反省して自らのやるべきことを腹に修める努力を続けなければいけないのだと思う。

そしてそれは一人でできるものでもなく、たくさんの協力者と一緒に進めていくからできるのだと私は思う。

そのための共通理解であり、そのための協働なのだとも思う。

誰でも普段のことを覚えるまでは試行錯誤するけれど、覚えてしまうとそれを脳に任せて心でやろうとはしなくなる人が多い。

しかし、本来は脳が先か心が先かというと、もちろんその心意気があってからはじめるものが物事なのであるから「何のために」が明確にビジョンになりそれを共有していなければ本質的な目標にはなることはない。

保育でも子どもの環境をどうしたいのかなど、まずは園長のビジョンと理念が明確に共有されていなければ、それぞれの職員に任せているからとそこを任せていては本末転倒になる。そしてそれが伝わってもいないし、それを自らが実践してもなくモデルもみせていないのに何回も言ったから伝わっているなどと独りよがりに勘違いすると気がつくとそれぞれが意味を履き違えてそこにそれぞれの正義が生まれていたりするから気をつけないといけない。

人間は自律できていないのに、放っておくと好き勝手にするのは当然であるし、それぞれに考えているのだからそのままでは放任になる。

誰がどんな役割を担っているかを理解させずに、またどのような責任があるのかを知らないで自分がどうあるべきかが分からなければどうやって何を協力できるのかとも思う。

もっとも大事なのは、その起点になっている理念がどうやってできたものであり、そしてそれがどのような方向で進めていき、どのようになっていくのが理想なのかを定義できなければ一緒にいる人たちが正しく理解して進むことができなくなる。

共通理解とは、単なる話し合いを進めればいいのでもなく、そして職員に考えさせるというような上から目線でもなく、理念を共に学び合い助け合い、見守り育てていくものだとも思う。

余裕やゆとりがなければ、気がつかないこともある。
豊かさがなければ、観えないものもある。
そして周囲に感謝する気持ちがなければ聴こえないこともある。

そういうものは、自らの自らへ向かう反省によって得られるもの。

師匠の言葉にこのような省みるがある。

 子どもの存在を丸ごと信じただろうか。
(子ども自ら育とうとする力を持っていることを信じ、子どもといえども立派な人格を持った存在として受け入れることによって、見守ることができるのである)

 子どもに真心を持って、接しただろうか。
(子どもを見守るということは、人格が伝わっていくということを理解し、偽りのない心で、子どもを主体として接することである)

 子どものを見守ることが出来ただろうか。
(子どもを信じ、真心を持つことで、初めて子どもを見守れるのである)

どんなにマニュアルやスローガンにしても、どこを起点にそれを省みるかがなければそれはただのルーティンになることがある。

常に自分がいったいなぜこれをやるのかをしっかりと修めて、その道を目指す人間としての専門性がどこを起点にしているのかを理念を基に確認して、丁寧に歩んでいくことを心がけていきたい。

そして私自らは、その起点を預かる者として理念を浸透していくことが自らの役割であることを自覚しビジョンを醸成していくことを大事にカグヤのミッションを実現していこうと思う。

子どもたちにも、そういうところから感化し、安心して育っていけるように願いを込めて社業に努めていきたい。

成長の源

先日、もう10ヶ月以上経営改革に関わっているある私立保育園の園内研修を行った。

私たちがお手伝いに入る園は、まず子どもの主体性を保障するところを起点とする「世界子ども人権宣言」に則った考えをやっていこうとしているところになる。流行にあわせて大人の便利さや大人の都合を優先する人権無視したところでは本質的に子ども第一主義を通そうとする私たちのことがどうやっても理解してもらえないことが多いからそうなっている。

その中で、この日本という一昔前から画一化された教育のやり方やノウハウで特に子ども主体の保育を実施しようとするとき、どうしても今までの目標管理や大量生産のやり方の刷り込みを取り除けず、園長も現場もうまくいかずに大変苦しんでいることがある。そもそもそれは使えないやり方の一つだと私は思っている。

見守るというのは、相手をまず信じることが前提になっている。具体的には発達を援助するということなのだが、どこまで待てるかはその人の専門性と子どもを信じる受容力に左右されている。

人は、一人では生きていけないから支えあう。そして人が共生するために互いを信じる世界がそこにあれば人はものすごい力を自ら発見し、そして発揮していく。

そういうものが分からない人には、子どもや人間の持つ無限の可能性を引き出すことはできないのではないかと最近はつくづく感じる。

私は教師ではないし現場を持ってもいないのだが、きっと教育者というのは仁義礼智信の特に「信」を極めていることが大事なのではないかとさえ思う。

その信とは世間一般の信用や信頼などではなく、人間の持つ摩訶不思議な深遠絶妙な力があるのを知っていてそれを正しく信じるという宇宙創生の天人合一の理に長けていることがまず重要なのではないかと私は思う。

基本的には、すべての子どもも人間もこの世に生れたら様々な制限の中でできないことばかりで成り立っている。そして生きようとするとき、高い目標や夢を持てば、できないことはどんどん増える。

しかし、その目標や夢を持つ人たちがそれを叶えようとするとき大事なのはそういう本人の力を引き出す周囲の感化力でもある。社会が良い人間を創るという中にこの「摩訶不思議を信じる」という教育があることはもっとも世界を豊かにしていく最善の方法ではないかとさえ思う。だからこそ、そういうことをみんながもっと正しく学んでいく仕組みを準備していくことを本当は国家や省庁がリーダーシップをとって進めていくべきなのだと思う。

しかし、そうはいっても今までそういうことを体験する機会がなければそれを急に理解しようとしてもそれは無理ではないかとも思う。今まで長い年月忘れていたことをまた急にやれるのは本当に一握りの現場実践家になるし、そういう通常は観えないもの心眼で捉える事ができる現実者を維持できる人だけになるからだ。

現在、私のライフラークの一つにそういう「信じる和を創造する一円対話」という方法を研究している。一円の定義は、二宮尊徳の一円観・一円融合より引用している。

すべての物事を円に容れてそれを丸くフラットにして、そこにそれぞれの輪の中の信じる力を引き出し、その人間の持っている可能性にフォーカスして新しい共生の理と可能性を見出す仕組みだ。

これはオランダで拝見したイエナプランのサークル対話を参考にしている。

人間は、みんながその人を信じるとき、そして深く刷り込みを取り除き、そのままのあるがままの存在を真から認めて受け容れるとき、想像を超えるようなものすごい力を発揮する。

そのエネルギーは、常識を超えるほどの成長の環境を生み出していく。

今の日本の社会は、まるでこの逆で不信と欺瞞に満ちていてこの成長のエネルギーは日夜減退している。減退するからみんなも疲れる。子どもたちの発達に関わるすべてをこの「環境」と定義するとき、今の社会は子どもたちにとって発達を助長するような環境にはとてもなってはない。

しかしその環境に嘆くのではなく、その環境を再構築や新生させていくのもまたこの保育の世界に足を踏み入れている人たちの使命だとも感じる。

話を戻すと、その園で行った一円融合のあと現場の先生も園長もとても笑顔素晴らしく、やる気と成長の環境に満ち、発展的な方向性を向いて新たに自らの刷り込みを捨てて変わっていこうという勇気に満ちた環境ができていた。

子どもたちに健やかな成長を保障できるように、日夜呼吸のように私はつとめて已まずに、発達を助長し援助する人的環境を構成するためにマネージメントを磨きあげ、子ども主体の園の真のお手伝いができるように研究と実践を重ねていきたいと思う。

まだまだこれはこれからも真に練磨陶冶していく仕事だし、とてもわかった気になっているわけではないけれど、一期一会、たくさんの人たちのご縁とその方々の子どもたちへの深い愛情に改めて心から感謝。