専門性

先日、ある園で理念に基づいた共通理解の研修を行った。

色々な仕事や行事などに追われて、気がつくと大切な意味のあったものが意味を忘れてしまいそのものの価値を下げてしまうことがある。

特に、何か大きな使命がある仕事は得てして地味なものだし時間がかかり丁寧に心をこめてやるものばかりだから、つい目に見える浅い処で認識した内容で取り組んでいるとそのうちにそのものの本質が分からなくなってしまうことがある。

人間は、現在の社会や過去の環境の刷り込みを受けているものなのだから常に自らを反省して自らのやるべきことを腹に修める努力を続けなければいけないのだと思う。

そしてそれは一人でできるものでもなく、たくさんの協力者と一緒に進めていくからできるのだと私は思う。

そのための共通理解であり、そのための協働なのだとも思う。

誰でも普段のことを覚えるまでは試行錯誤するけれど、覚えてしまうとそれを脳に任せて心でやろうとはしなくなる人が多い。

しかし、本来は脳が先か心が先かというと、もちろんその心意気があってからはじめるものが物事なのであるから「何のために」が明確にビジョンになりそれを共有していなければ本質的な目標にはなることはない。

保育でも子どもの環境をどうしたいのかなど、まずは園長のビジョンと理念が明確に共有されていなければ、それぞれの職員に任せているからとそこを任せていては本末転倒になる。そしてそれが伝わってもいないし、それを自らが実践してもなくモデルもみせていないのに何回も言ったから伝わっているなどと独りよがりに勘違いすると気がつくとそれぞれが意味を履き違えてそこにそれぞれの正義が生まれていたりするから気をつけないといけない。

人間は自律できていないのに、放っておくと好き勝手にするのは当然であるし、それぞれに考えているのだからそのままでは放任になる。

誰がどんな役割を担っているかを理解させずに、またどのような責任があるのかを知らないで自分がどうあるべきかが分からなければどうやって何を協力できるのかとも思う。

もっとも大事なのは、その起点になっている理念がどうやってできたものであり、そしてそれがどのような方向で進めていき、どのようになっていくのが理想なのかを定義できなければ一緒にいる人たちが正しく理解して進むことができなくなる。

共通理解とは、単なる話し合いを進めればいいのでもなく、そして職員に考えさせるというような上から目線でもなく、理念を共に学び合い助け合い、見守り育てていくものだとも思う。

余裕やゆとりがなければ、気がつかないこともある。
豊かさがなければ、観えないものもある。
そして周囲に感謝する気持ちがなければ聴こえないこともある。

そういうものは、自らの自らへ向かう反省によって得られるもの。

師匠の言葉にこのような省みるがある。

 子どもの存在を丸ごと信じただろうか。
(子ども自ら育とうとする力を持っていることを信じ、子どもといえども立派な人格を持った存在として受け入れることによって、見守ることができるのである)

 子どもに真心を持って、接しただろうか。
(子どもを見守るということは、人格が伝わっていくということを理解し、偽りのない心で、子どもを主体として接することである)

 子どものを見守ることが出来ただろうか。
(子どもを信じ、真心を持つことで、初めて子どもを見守れるのである)

どんなにマニュアルやスローガンにしても、どこを起点にそれを省みるかがなければそれはただのルーティンになることがある。

常に自分がいったいなぜこれをやるのかをしっかりと修めて、その道を目指す人間としての専門性がどこを起点にしているのかを理念を基に確認して、丁寧に歩んでいくことを心がけていきたい。

そして私自らは、その起点を預かる者として理念を浸透していくことが自らの役割であることを自覚しビジョンを醸成していくことを大事にカグヤのミッションを実現していこうと思う。

子どもたちにも、そういうところから感化し、安心して育っていけるように願いを込めて社業に努めていきたい。